セイレーンの家

まへばらよし

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第三章 松井柊子

第四話 我慢

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「俺と逆だな」
「ぎゃく……?」
「俺は肉親には恵まれなかったけど、そうでない人に沢山助けてもらった。でも柊子は、俺とは逆だと」
 卓朗は、あぐらをかいた膝の上に両肘を置いていて、正面で両手を握っていた。苛立ちのようなものを紛らわしたいのか、指がせわしなく動いている。
 口調にも柊子に対してではない、怒りを見せている。自分に共感なのか、自分のために怒りを覚えてくれているのか、どちらにしろ有難い感情だった。
 柊子は目を伏せ、ふふと笑ったような息を吐いた。
「そうでもないのよ。……噂になってるって知って、……もう家にもいたくなくなって。夏休みに叔母さんのところに行ったの。そこで三柴さんの仕事を見せてもらった。いいなって、素敵な仕事だって思って、三柴さんに弟子にして下さいって頼んだの。叔母さんが、だったら高校は叔母さんの家から通ったらいいって言ってくれて。三柴さんも、いつでもおいでって言ってくれて。……だから、二学期からは保健室で勉強した。クラスの中に入るのは辛いけど、卒業して高校には行きたいってお願いしたら、中学校の先生が手配してくれた」
「柊子の周りに、君を助けてくれる人がいてよかった」
「そうね」
 時計と、空調の静かな音がしている。聞き慣れた音、その機械音も、柊子の癒やしになっていた。
 昔では考えられないことだ。家にまつわる普遍のものが安心するなど。
「高校の三年間は叔母の家から通ったの。大学生になってからは、実習で遅くなることがあるって聞いたから、近くに下宿を借りることになって、……何故かほっとして」
「ほっとした?」
「そうなの。寂しいって気分もあったけど、ほっとしたの。でも次の下宿も、二年くらい経ったらなんだか居心地が悪くなって。また引っ越して、居心地が悪くなる。いろんな家に住んだけど、最初はほっとするのに、しばらく住むと怖くなるの。近所の人が怖くなるの。そうして、ここじゃなかったって思うようになる」
 引っ越しすると安心した。そして次こそは安定の住処になればいいと思っていた。だがそんなことは一度もなかった。結局、何度も引っ越すうちに、自分の住処を住みやすい場所にしようという気持ちすら失せた。
「……君が本当に欲しかった家は、実家だったんだろう?」
「その通りよ」
 柊子は笑った。自虐の笑みだ。こんなにも早く卓朗は柊子の傷に気が付いた。自分は、何度も何度も引っ越してようやく悟った事実に、彼はすぐに。
「捨てたことを後悔しているの」
 柊子は息を吐き、卓朗の声のあたたかさを噛みしめた。辛い過去を思い出すのに、心を壊さないようにするための命綱として。
「大好きな家だった。家も、姉と共有だった自分の部屋も、ベッドも、机も、全部大好きだった。でもここに帰ってきたくもなかった。全部消したかった。自分がここに帰ってこれないなら、なくなったほうがマシだと思った。お父さんも姉さんも反対したけど、全部捨ててってお願いした。私のものは全部、中学のアルバムも、鞄も、全部」
「何故だ。どうして捨てたりした」
 卓朗が傷付いたような物言いをした。
「君は、あんなにも物を大事にするのに。それこそ、半身を捥がれる思いだったはずだ。なのにどうして……捨てたりせず、時々でも帰ればよかったのに。康治さん、柊子のお父さんはそれを望んでいたはずだ」
「私のせいで母の名誉が傷付いたから、帰ったらだめだって思ってた」
 そう思い込んでいた。いや、今も思っている。
 卓朗は眉をひそめた。
「どういう……?」
「母が病気で、私のことを放置していたから、私は身を落としたって言われたの。……母は、あんなにも苦しんでいたのに。私が馬鹿だったから、怖くてすぐにお腹が痛かったことを言わなかったから、私のせいで母が悪く言われた」
 闘病で疲れ果てていた母は、それでもこどもたちにその苦しさを見せないように努力していた。だが病の影が消えるわけではない。日に日に弱る母に不安がもたげてくる。もう、母に辛いことを何もさせたくないと思っていたのに。
「だからもう、実家にいてはいけないと思った。いなくなって、私のことを皆に忘れてもらいたかった。大好きだった家に帰りたいって思わないように捨てた」
 柊子は長い長いため息をついた。
「ばかみたい」
「柊子」
「だって、噂は、全然消えていないどころか、酷くなってた。大切なものを捨てた意味がなかった」
「柊子は何も悪くなかった」
 顔を両手で覆い涙を堪え、両手を下ろしても、顔を上げることができない。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだ」
「嫌な噂を持ってる妻なんて、卓朗さんのキャリアの邪魔でしかない」
「だから離婚したいとか言おうとしたのか、ふざけるな」
 震えた声を聞き柊子は顔を上げた。卓朗は左手で顔を覆っていた。
「卓朗さん?」
「俺はそんなに頼りないか」
 柊子は瞬いた。何を言っているのか理解できなかった。それをそのまま卓朗に問うと、彼も目を隠した状態で、さっきの柊子のように自虐に満ちた笑みを浮かべていた。
「柊子の、そんな事実無根の噂でキャリアが台無しになってしまうのを怖がるような、そんな男に君には映るんだな」
 柊子は首を振った。
「そんなことを言っているんじゃない」
「そう言っているんだ。柊子は」
 なお柊子は首を振り続け、聞いてと卓朗に訴える。
「卓朗さんの負担になりたくない」
「君が俺と一緒に暮らしてくれないほうが俺には負担なんだ」
 卓朗は手を下ろした。どこか憮然とした、それでいて傷付いたような顔をされ柊子は戸惑った。
「どうして、分からないわ」
「……どうして?」
「だって、卓朗さんは具合が悪くても私に帰ってきてほしいとも言わなかった」
「そうだ。やせ我慢をしてああして具合が悪くなった。あれで嫌というほど実感した。俺は君がいないと生きていけない。さっき実家に帰ってみるかと言ったのも、本心では心底嫌だった。俺の隣が、君の帰る場所でないことが腹立たしくてしょうがなかった。自分の不甲斐なさに嫌気がさしてた」
「うそ」
「嘘?」
「だって、卓朗さん、……なにも」
「何も?」
 怪訝そうにしている卓朗は、本当に柊子の言いたいことに気が付いていないようだ。そんな馬鹿なと笑いたくなった。
「そんな素振りなんてなかった。私のことだって、一度しか」
 それ以上、すぐに言葉が出せない。詰まってしまった柊子の顔を見、卓朗は目を逸らさなかった。
「我慢していた」
 その言葉に、柊子の方が我慢できずかっとなる。
「誰がそんな我慢してほしいなんて言ったの。そんな、意味の分からない優しさなんていらない。はっきり私には魅力がないって言えばいい」
「俺は結婚する前から抱きたいと意思表示した。柊子を知った今は尚更だ。俺はあれからもずっと柊子を抱きたくてしょうがなかった。誤解から追い出したままにして、俺は勝手に病気になった。柊子が帰ってきてくれたことが嬉しかったのに意地を張った。それでも許してくれた柊子を抱きたかった。そんなこと、いくらなんでも図々しすぎる。だから全部我慢した」
 赤裸々な心情の吐露に、驚き言葉を返せなかった。目を見開いている柊子に、卓朗は顔をしかめて見せた。
「君はどうなんだ。柊子こそ、俺と離婚したいなんてさっき言ったけど、あれは我慢じゃないのか? 俺だって君に我慢してくれなんて一度も言ってない」
 びくりと、背筋が伸びた。
 共に暮らし始めてから分かっていたのに。さっきも認識したところだったのに。
 この人には、何も嘘をつけない。
「我慢、しようとしたわ」
 唇が震えた。
 同じくして、卓朗も微かに声を漏らしながら、大仰に息を吐いた。項垂れ、膝の上で肘をつき彼は脱力した。
「よかった……」
「なに?」
 卓朗は手で顔を覆った。
「我慢してないって言われたらどうしようかと」
 弱々しい言葉だった。
 信じられない。柊子だって、最初からずっと、卓朗に憧れていて、彼と結婚できるなんて夢のようだと彼に話したのに。伝わっていないなんて。
 だが、なんとなく彼らしいような気もしてしまった。
 そして、かわいいとも。場違いな感情のように思えた。だが拭えない。
 そんな彼への思いを、消したくなかった。
「柊子、我慢せずに、言いたいことを俺に言ってくれ。俺は君を失いたくない」
「あなたの傍にいたい」
 ほとんど反射で柊子はそう囁いた。剥き出しの本心だ。
 卓朗は、目を見開き、放心したように口をわずかに開けた。
「怖い。あなたの重荷になるかもしれないのが怖い。でも卓朗さんと一緒にいたい。もう、愛しているものをなにも捨てたくない……」
「柊子」
 指がぴくりと動いた。熱の籠もった囁きが、柊子の脊髄に直接響いたように、彼女の体が反応した。見つめられ、のぼせてしまいそうになる。
「あなたも我慢しないで」
 卓朗はゆっくりと、怖々とそうしているように唇を開く。
「いいのか? 俺は、君の言葉を自分のいいように解釈するぞ?」
 柊子は布団の上で膝立ちになり、卓朗の前へ進んだ。
 伸ばした手と、腰を引かれて卓朗の腕の中に収まる。薄い夜着を通し、彼の鼓動がはっきりと伝わってきた。
 引き寄せられ、体勢を崩し、互いに抱きしめあったまま横臥していく。
「柊子」
 耳に触れる吐息に加え、肩甲骨のあいだに手が巡り、体が震えた。
 あたたかさに震えることがあるなど知らなかった。
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