セイレーンの家

まへばらよし

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第三章 松井柊子

第五話 セイレーンの家

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「柊子?」

 美晴に呼ばれ、柊子ははっとして頭を上げた。
「あなた具合が悪いんじゃないの?」
 柊子は、ペンタブを握ったまま居眠りをしていた。
 ここは美晴の家だ。叔母の仕事でここに来ていた。いつものように。だが柊子は眠さに勝てず、3DCAD操作の途中で椅子に座って眠ってしまっていた。
「休んできなさい。その仕事はまだ余裕があるから。ソファの上で寝るんじゃなくて、ちゃんと布団を敷きなさいよ」
「うん」
 柊子は美晴の提案に従い、布団を敷いて横になり息を吐いた。

 今朝、目覚めたときには卓朗はもういなかった。布団の上に一人、横になっていた──ただし卓朗の敷布団の上で。正直、彼が隣にいなかったのはありがたいと思っていた。どんな顔をすればいいのか分からなかった。
 ダイニングで顔を合わせても、卓朗とほとんど会話をしなかった。辛うじて聞き取れる声で大丈夫かと尋ねられたが、柊子は無言で縦に首を動かしただけだ。照れくさかったからだ。彼と目が合うと、夜の出来事がもたげてしまいすぐ目を逸らせた。
 卓朗は朝ご飯の用意をしてくれていたが、大丈夫かと聞いたあとはずっと無言だった。彼特有の、仕事に集中しているときの神経質さはない。視線が向けられている気はしていた。
 卓朗も、おそらくだが柊子同様に照れているのではないかと感じていた。

 昨晩の自分は確実に酔っていた。狂っていたとも言っていい。そうして今になって寝不足がたたり、仕事にならないでいる。
 叔母の顔を見るのさえ恥ずかしい。
 そして、我ながら驚くことにもう帰りたいとも思っていた。
 昨日と違って、どこになど曖昧なものではなく、確実に、ひとつの場所が思い出された。
 その場所を思い浮かべながら柊子は滾々と眠った。

「あ、起きた」
 聞き違いかと思ったが、廊下から姉の毬菜が顔を覗かせていた。
「姉さん……、どうして?」
「柊子の具合が悪いみたいだから、美晴叔母さんが来てほしいって。ほんと、さっきまで全然起きなくてびっくりした。大丈夫?」
 なんてことだ。昨晩にほとんど睡眠を取らなかった故の、単なる寝不足であるのに。
「病院にいく?」
 毬菜に心配そうに聞かれてしまい、柊子は慌てて手を振った。
「大丈夫。ごめんね。昨日、あまり眠れなかっただけなの」
 柊子はそのまま目を逸らせ時計を見た。夕方の六時だった。
「え、私、そんなに眠っていたの?」
「そうよ。起きてこないから叔母さんが心配したんじゃないの」
 そういうことだったのか。叔母は車の運転ができない。それで別の姪を呼びつけたらしい。
「柊子、送っていくわ」
「大丈夫だって。一人で帰られるから」
 柊子は慌てて布団を上げた。毬菜は黙ったままで柊子をじっと見ていた。
「あの日の数日前ね」
 唐突に、姉から厳しい声で話しかけられ、柊子は戸惑い手を止めた。
「なに?」
「あなたが中学校で倒れて、救急車で運ばれたあの日の、二日前だった。あなた、あのときの日曜の朝、ベッドの上でうずくまってた」
 柊子は目を見開いた。
「私が柊子に、どうしたの、お腹いたいのって聞いたら、あなた、大丈夫、何もって言ったの。……私はそれを真に受けたことを、まだ後悔してる」
 息が詰まった。
「あのときなら、まだあなたの子宮は、無事だったのかもって」
「姉さん、そんなことない」
「でもまだ夢に見るのよ。それが柊子のときもあれば、いちかのときもあるの。汗びっしょりになって目が覚めるのよ」
 毬菜は息を吐いた。
「父さんもね、何も言わないけど、後悔してるの。前に美晴叔母さんが教えてくれた。叔母さんも後悔してるって」
「でも、あのとき、私が怖くて、わざと黙っていたから、……皆は悪くない」
「周りはね、そんな簡単に割り切れないのよ」
「そんな」
 愕然とした柊子に、姉は痛ましい目を向けてきた。
「柊子。逆の立場で考えたら分かるでしょ。私はあなたの何でもないって言葉が怖い。普段は甘えただから余計に……信用もされていないのかって、キツい」
「……そういうわけじゃ、ないの、本当に」
「ならもう、しなくてもいい我慢はしないで」
 柊子はあのときのことを思い出そうとしていた。毬菜の言ったやりとりは全く思い出せなかった。二日前であれば、腹痛はあった。姉にそう尋ねられたときも、痛みと恐怖で上の空だった可能性もある。
 それとこの既視感は何なのか。昨日、卓朗が見せたあの苦しそうな顔にも覚えがあった。
 顔でなく、感情かもしれない。不甲斐ないから頼ってもらえない、あの歯がゆさ。好きなのに、その相手に何も返せない切なさ。
 卓朗の看病をさせてもらえない辛さ。
 卓朗からかまうなと厳しく言われた翌日から数日、柊子はここ、叔母の家でじりじりと過ごしていた。卓朗からいつ帰ってこいと言われるかずっと待っていた。田所から連絡があり、卓朗の具合がよくないのかもと教えられ、湧いたのは羞恥と、自分に対しての失望だった。
 頼られ、傍にいてほしい、助けてほしいと言われたいのに、必要ないと言われたようだった。
「ごめんなさい。……もう、必要のない我慢はしない」
 自慢の姉は、なんでもこなせる人だと思っていた。自信をなくすなどありえないと思っていた。卓朗も。
「柊子、何があったの」
 なお厳しい顔をしている姉へ、柊子はそうではないと手を振った。
「単に寝不足なだけなの。その、昨晩、卓朗さんとその……は、はなし、……話し込ん、で、しまって」
 毬菜はぱっと目を開き、意外そうに「ああそういう」と言葉を濁した。
 そのとき、柊子の携帯電話が鳴った。手に取り画面を確認する。待ち受けに出ていた文字は「松井マイダーリン卓朗」だった。
「は?」
 頭が白くなってしまったのだが、電話は鳴り続けている。柊子は画面をスライドした。
「はい」
『電話出るのに時間かかったけど、大丈夫だったか?』
 心配そうな夫の声だったが、柊子はまだ「松井マイダーリン卓朗」の衝撃から立ち直れていない。
『柊子?』
「大丈夫……、卓朗さん、私の携帯の登録名、変えたりしてないわよね?」
『え?』
「いや、卓朗さんの登録名が前のと代わってて……あ」
 昨日に卓朗に電話をしたとき、柊子は途中で梓に代わった。そのあと彼女は柊子の携帯で、卓朗の番号にメッセージを送っていたが、おそらくそのときだ。
 梓は、弟の妻が彼を「松井卓朗先生」と登録していたのを見て、何かしら思うところがあったのだろうか。
『何かあったのか?』
 柊子は携帯の登録の件を考察も含め全て卓朗に話した。卓朗は黙って聞いていたのだが
『そんなことをする人だったのか』
 やけに感慨深く呟いた。
『今、家にいる?』
「いや、まだ叔母の家なの」
『柊子か、桐島先生かが、どうかしたのか?』
「違うの。……仕事中に居眠りしちゃって、叔母に寝てきなさいって言われたら、今まで寝ちゃってたの。私もびっくりした」
 卓朗は電話の向こうで納得したような照れたような声を出した。
『迎えにいく。そこにいてくれ。それからよければ行きたいところがあるんだ。いいかな』
「え」
『とりあえず迎えに行くから』
 電話が切れて、柊子は姉を見た。
「聞こえてた。松井さんが迎えに来るのね」
「うん。ごめん」
 毬菜は気にするなと言いたげに手を振った。優しい笑顔が、亡くなった母に似てきたような気がする。
「いいわねえ新婚。名前呼びで。でもさすがに、配偶者の登録名を先生にしておくのはどうかと思うわよ」
 卓朗との会話を横で聞いていたから当たり前だが、全て毬菜に筒抜けになっていた。柊子は何も言い返せなかった。

 それから小一時間後、卓朗は美晴の住まいまで自家用車でやってきた。今朝出たままの格好をしていて、マンションに戻らなかったのだと分かる。
 朝、無性に照れくさくて顔を満足に合わせられなかったのに、今、顔を合わせて、とても会いたかったのだと実感してしまった。すでに美晴に挨拶をしていた柊子は玄関で待っていたが、卓朗が来たときには美晴も見送りに出てきた。
「先日は大変失礼しました」
 卓朗はわざわざ車から出て美晴に頭を下げた。美晴は何も言わずにうなずいて手を振った。
 卓朗は助手席のドアを開け、柊子を車に迎えてくれた。
 乗り込んだ柊子の顔を、まるで、何日も会っていなかったかのように、彼は懐かしそうに見た。安堵の顔。少し頼りなさげで、長い時間待たされたこどもに似た顔。
 それなのに、柊子にとっては最も頼りがいがあって、安心できる顔だった。
「おかえり」
 お帰り。
 実感した。帰りたかった場所。
 ここだったのだと。

「今から行きたいところがあるんだ、いいかな」
 車を発進させながら卓朗は、電話でさきほど伝えてきたことを繰り返した。
「大丈夫よ」
 卓朗はちらと柊子に視線を寄越し、また運転に集中した。二人は黙っていたが、特に気詰まりということはない。
 車で二十分ほど走らせたところだった。卓朗は有料駐車場に車を駐めた。そこから歩くこと五分もしないうち、二人は空き地へやってきた。
 住宅街のなか、ぽつりと空いた場所だ。
 柊子は卓朗が考えていることに気が付いた。
「ここを買って、俺たちの家を建てたい」
 卓朗は、空き地を指さした。
「想像してくれ。アースカラーがベース、シラス壁の外壁と内装。広葉樹のある玄関を入って右にダイニングキッチン。南東はリビング。窓の手前にフィン・ユールの椅子を二脚置くんだ。窓の外の緑が見られるように、大きな窓にする」
 腕を動かしながら、卓朗は彼の頭の中にある図案を柊子に説明し始めた。
「奥北向きはお手洗い、洗面所、風呂。一階の中心に二階への階段。奥の南には和室で、誰かが来たら泊まってもらえるようにしたい」
 口など挟めず、ただ呆然と、柊子は卓朗の構想を聞いていた。
 しかも、びっくりして気圧されているにも関わらず、卓朗の叙述していく光景が脳に鮮明に描けてしまう。
 窓から見える庭の木はナツハゼか、モミジがいい。ヤマボウシも捨てがたい。夏は白の花がいい。冬は赤い実。ナンテンかそれとも。
「玄関に植える木はヒイラギ」
 卓朗は柊子に向かって快活に笑った。興奮しているようにも見えた。子供が楽しいことを、秘密を打ち明けるように。
 それから彼は、指さした手を斜め上に挙げた。
「二階の、東側は俺の部屋、西は柊子、君の領域だ。南にバルコニーを設置して、俺の部屋と君の部屋は中からも外からでも行き来ができるようにする。階段から廊下の途中でクロゼットを設置しよう。俺の部屋は、書斎の机は今も使っているものを持って行くつもりだけど、柊子はどうする?」
 お互い顔を見合わせた。
「わたし」
「今、君はノートパソコンをダイニングのテーブルに持ってきて作業をしているだろう。でも俺の構想だと一階と二階に分かれるから、君の部屋にもう備え付けの机を作ることもできる」
 卓朗は、それから微笑んだ。
「もちろん、柊子が気に入ったものを買って使ってもいい。机だけじゃない。椅子も、ワードローブも、ベッドも」
「……ベッドは、いらないかも」
 卓朗は優しい顔をして柊子の次の言葉を待った。
「布団にした方が、あなたが私の部屋に来たときに、二つ敷けて広いと思うの」
「じゃあ、畳の部屋にするか?」
「……どうしよう、畳の部屋にワードローブっておかしいかしら」
「置き方にもよるかな。柊子が納得できるように俺がデザインする。いろいろ考えたらいい」
 卓朗は手を下ろした。柊子は、彼の手に自分のそれを伸ばして触れた。すぐに手が覆われ握られる。
「柊子、君の家を俺に作らせてくれ。絶対に、君の宝物にしてみせる」
 視界が滲んだ。まばたきして涙を堪え、柊子はぎこちなく顔を動かした。ゆっくりと表情を笑顔に変えていく。
「卓朗さん」
「君がもうどこにもいきたくなくなる家にする。一生、俺とずっと暮らしていきたいと思える家にする」
「ありがとう」
 柊子が微笑んだとき、卓朗は肩で大きく息をした。大きな仕事を終えたあとのように。
 ならば、こちらも大きな仕事をする。柊子は大きく息を吸った。
「住みたいわ。あなたと一緒に。ずっと」
 まだなにもない更地の上に、確かに家を見た。緑に囲まれ、静かで穏やかな佇まいの家。
 愛している人が造った、愛すべき家が。
 なくならない、帰る場所が。
「まだ怖くて、怖じ気づくこともあると思うけど」
 万が一、なくなったとしても、この人と超える。それができる、もう。
 手が強く握られた。
「だから俺が一緒にいる」
 柊子の目に再び涙が滲んだ。
「うれしい。心強い」
「多分、柊子の思ってることは逆だと思う」
 卓朗はにやりと笑った。
「俺がこどもみたいにだだをこねる。君と離れたくないって。多分熱も出す。柊子は俺の面倒をみなければならないだろ。どこにも行けない。俺のデザインした家に籠もって俺を看病して」
 声を出して笑い、それから夫の肩にもたれた。手が離されて、卓朗の空いた手は柊子の肩に回って引き寄せられた。
「卓朗さんは仙人だと思う」
「俺みたいな世俗にまみれた仙人はないだろう」
 卓朗は苦笑いしている。
「じゃあ超能力者なんだわ。私のことをなんでも分かってるから」
 卓朗は柊子を促し、車の中に入った。スターターに手を伸ばしながら卓朗はちらと柊子を見た。
「俺は船乗り」
 柊子は目をぱちくりとさせた。
「船乗り? どうして?」
 彼は別段、船が好きだとも海が好きだとも言ったこともなければ、柊子がそう感じたこともない。
 卓朗は笑っただけで答えなかった。

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