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思い出と執着
二年前のこと
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「君だよ」
屈めていた背を戻し、一歩後ずさったニックの手には、いつかの匂い袋があった。
窓から差し込む午後の光は柔らかいはずなのに、暖かさを感じない。
リシャの香りだけが、ここが現実であることを伝えていた。
サーシャは返事をしなかった。
何と返せばいいのだろう。過去を思い出させるものがそろっていても、今は二年前とは違う。
ニックはその沈黙を拒絶とは受け取らなかったらしい。むしろ確信を深めたように、穏やかに微笑んだ。
「やっと言えた。……ずっと昔から変わらないよ」
彼の声は落ち着いていて、少しも揺れない。
まるで、すべてが予定通りに進んでいるかのようだった。
サーシャはゆっくりと息を吸う。
「……メリンダのこと、どういう意味?」
「彼女? ああ、あれは君が思うようなことじゃない。たまたまふらついたところだったんだ」
軽い声音。それはまるで、サーシャが見間違いをしたかのような何でもない口調だった。
「私、話し声も聞こえたわ。二人の合意の上だった。違う?」
「合意だったかもしれないが、本意ではない。いずれにしろ些細な行き違いだし、もう終わったことだよ」
その一言で、サーシャは理解した。
この人は、自分のことなど思ってはいない。あの日見た衝撃を、その後のつらさを、些末なことだと切り捨てた。
だからといって、メリンダを思っているわけでもない。あの時その場にいた人、それだけの存在だと言ったも同然だった。
言葉が出ないサーシャに構うことなく、ニックは続ける。
「結果的に遠回りになったけれど、問題はない。今こうして君に伝えられたんだから」
静かな廊下に人影はない。
いつもは賑やかな喧騒が、今は遠くに聞こえる。
苦い気持ちを押し殺し、サーシャは口を開く。
「……私は、もう二年前と同じ気持ちではないわ」
声は思ったより落ち着いていた。
「貴族と平民。立場も、生き方も違う。私は商会に戻る。あなたもあなたの道を進むべきよ」
はっきりと言い切る。
胸はただ静かに凪いでいる。
サーシャの答えにニックは一瞬だけ目を細め、だがすぐに笑みを戻して頷いた。
「ああ、なるほど。身分差を気にしているんだね」
違う。そうサーシャが否定するより先に、ニックが続けた。
「心配しなくていい。僕は婚約者と政略結婚をして貴族としての立場は維持するよ。だから君との関係に問題はない。むしろ理想的だ。僕が後ろ盾になれば、君の商会は安定する。君も安心だろう?」
微笑み。善意そのものの表情。
理解が追いつかない。
何を言われているのか、一瞬わからなかった。
「……後ろ盾?」
「もちろん。僕は君を守りたいんだ。君が大切にしている商会ごとね。いわゆるパトロン、商売を続けていきたい君には必要だろう?」
淀むことのない言葉。彼の中では、すべてが整然と並んでいるのだろう。
自分の結婚も、地位も、善意も。サーシャの人生さえ。
きっとそこに、サーシャの『芯』はない。
息が浅くなる。
廊下の空気が、急に薄くなったような気がした。
「……そんなこと、受け入れられるわけがないわ」
絞り出すように答えると、ニックはきょとんとした。
「今は少し混乱しているようだね。それじゃあ、今日はひとつだけ、君に判断材料を提示しよう」
優しく小さな子どもに諭すように語られた内容に、サーシャは今度こそ声を失った。
「二年前に商会が信用を落とした際、少なからず回復に貢献したのはバルケス家だよ」
返事はまた次に会った時にでも──立ち尽くすサーシャを残しニックは悠然と去った。
何も考えられない頭に、不意にさっきの出来事がよみがえる。
──時間を作ってくれないか。
ぎこちなく視線を逸らしたあの人の横顔。
言葉を飲み込む不器用さ。
胸の奥に感じていた小さな余熱が、冷えていくようだった。
◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございます。
お気に入り、しおり、いいね、感想、エール等々、とても励みになっております。
次からは本編最終章になります。
屈めていた背を戻し、一歩後ずさったニックの手には、いつかの匂い袋があった。
窓から差し込む午後の光は柔らかいはずなのに、暖かさを感じない。
リシャの香りだけが、ここが現実であることを伝えていた。
サーシャは返事をしなかった。
何と返せばいいのだろう。過去を思い出させるものがそろっていても、今は二年前とは違う。
ニックはその沈黙を拒絶とは受け取らなかったらしい。むしろ確信を深めたように、穏やかに微笑んだ。
「やっと言えた。……ずっと昔から変わらないよ」
彼の声は落ち着いていて、少しも揺れない。
まるで、すべてが予定通りに進んでいるかのようだった。
サーシャはゆっくりと息を吸う。
「……メリンダのこと、どういう意味?」
「彼女? ああ、あれは君が思うようなことじゃない。たまたまふらついたところだったんだ」
軽い声音。それはまるで、サーシャが見間違いをしたかのような何でもない口調だった。
「私、話し声も聞こえたわ。二人の合意の上だった。違う?」
「合意だったかもしれないが、本意ではない。いずれにしろ些細な行き違いだし、もう終わったことだよ」
その一言で、サーシャは理解した。
この人は、自分のことなど思ってはいない。あの日見た衝撃を、その後のつらさを、些末なことだと切り捨てた。
だからといって、メリンダを思っているわけでもない。あの時その場にいた人、それだけの存在だと言ったも同然だった。
言葉が出ないサーシャに構うことなく、ニックは続ける。
「結果的に遠回りになったけれど、問題はない。今こうして君に伝えられたんだから」
静かな廊下に人影はない。
いつもは賑やかな喧騒が、今は遠くに聞こえる。
苦い気持ちを押し殺し、サーシャは口を開く。
「……私は、もう二年前と同じ気持ちではないわ」
声は思ったより落ち着いていた。
「貴族と平民。立場も、生き方も違う。私は商会に戻る。あなたもあなたの道を進むべきよ」
はっきりと言い切る。
胸はただ静かに凪いでいる。
サーシャの答えにニックは一瞬だけ目を細め、だがすぐに笑みを戻して頷いた。
「ああ、なるほど。身分差を気にしているんだね」
違う。そうサーシャが否定するより先に、ニックが続けた。
「心配しなくていい。僕は婚約者と政略結婚をして貴族としての立場は維持するよ。だから君との関係に問題はない。むしろ理想的だ。僕が後ろ盾になれば、君の商会は安定する。君も安心だろう?」
微笑み。善意そのものの表情。
理解が追いつかない。
何を言われているのか、一瞬わからなかった。
「……後ろ盾?」
「もちろん。僕は君を守りたいんだ。君が大切にしている商会ごとね。いわゆるパトロン、商売を続けていきたい君には必要だろう?」
淀むことのない言葉。彼の中では、すべてが整然と並んでいるのだろう。
自分の結婚も、地位も、善意も。サーシャの人生さえ。
きっとそこに、サーシャの『芯』はない。
息が浅くなる。
廊下の空気が、急に薄くなったような気がした。
「……そんなこと、受け入れられるわけがないわ」
絞り出すように答えると、ニックはきょとんとした。
「今は少し混乱しているようだね。それじゃあ、今日はひとつだけ、君に判断材料を提示しよう」
優しく小さな子どもに諭すように語られた内容に、サーシャは今度こそ声を失った。
「二年前に商会が信用を落とした際、少なからず回復に貢献したのはバルケス家だよ」
返事はまた次に会った時にでも──立ち尽くすサーシャを残しニックは悠然と去った。
何も考えられない頭に、不意にさっきの出来事がよみがえる。
──時間を作ってくれないか。
ぎこちなく視線を逸らしたあの人の横顔。
言葉を飲み込む不器用さ。
胸の奥に感じていた小さな余熱が、冷えていくようだった。
◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございます。
お気に入り、しおり、いいね、感想、エール等々、とても励みになっております。
次からは本編最終章になります。
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