のんびり知臣さんとしっかり烈くんの日日是好日

やらぎはら響

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6話 ドキドキする

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 カフェの閉店準備で片づけと簡単な掃除をしながら烈は窓の外を見た。
 どんよりと重たい雲が広がっていて、雨が降っている。
 朝は晴れていたのに。
 スマホのプリでも今日は一日晴れとなっていたのに、どうやら外れたらしい。
 生憎先日のにわか雨で置き傘を家に持ち帰ってから、持ってきていない。
 帰るまでに止むといいなと独り言ちながら、烈は掃除と片付けを続けた。
 そして一通り終わって、帰るかという時間。

「無理だったか」

 ため息ひとつ。
 さっきよりも雨はドシャ降りになっていた。
 しばらく止みそうにない。
 店を出て鍵を閉めると、軒先から空を見上げて眉をキュッと寄せる。

「ええい行くか!」

 覚悟を決めて走り出る。
 一瞬で頭も体も濡れていったことに、もう少し小雨になるまで待つべきだったかと後悔したけれど、あとの祭りだ。
 商店街の方が走りやすいと思って、そちらへ進路をとった。
 靴の中も水が染み始めている。
 雨が凄いせいか、道行く人はいない。
 傘をさしても濡れそうだからだろう。
 賢明な判断だ。
 角を勢いよく曲がろうとしたところで、ズルリと足をとられた。

「わっ」

 その勢いのまま転んでしまう。
 手をついたので怪我はないけれど、ズボンの膝から下は水たまりの泥が跳ねてしまっていた。

「あー……嘘だろ」

 うなだれるしかない。
 着ていた上着も薄いベージュだったので見事に汚れていた。
 クリーニングに出しても無駄かもしれない。

「ああもう」

 ここまでなったらいっそ歩いて帰ろうかとすら思ってしまう。
 でも風邪をひくことは必至だ。
 大人しく烈は再び走り出した。
 自宅アパートが見えてほっとする。
 軒先に駆け込むと、ポタポタとしっとりとしてしまった癖毛から雫が落ちた。
二階建ての古いアパート。
その一階奥が烈の家だ。
前髪をかき上げながらドアの前に行き、ジャケットのポケットに手を突っ込む。
そこにはスマートフォンと財布、そして鍵があるはずだった。

「え!?嘘だろ」

 何度さぐっても硬質な鍵の感触がない。
 濡れている手で触るのは躊躇したけれど、スマートフォンと財布を取り出して確かめてもなかった。

「最悪だ……」

 スマートフォンと財布をポケットになおして肩を落とす。
 後ろを振り返って空を見上げると、さっきの豪雨はなんだったのかと言いたくなるくらい小雨になっていた。
 烈の帰宅時間が一番酷かったらしい。
 こんなことなら店でもう少し待てばよかった。
 濡れそぼった体が冷えた外気にぶるりと震える。

「さむっ」

 腕をさするけれど温かくなるわけがない。

「さっき転んだときかなあ」

 力なく呟く。
 おそらくそうだろう。
 はあーと長い溜息をついてから、烈は顔を上げた。
 気合を入れるようにピシャリと頬を叩く。

「よし!」

 さっきより小降りなだけマシだろう。
 烈はさきほど転んだ場所まで走った。
 街灯だけの暗い道は雨のせいで視界も悪い。
さきほど転んだ場所まで戻ると、うろうろと目を凝らして地面を見るけれど、わかりやすく落ちてはいなかった。
どうしようと眉を下げると。

「烈君?」

 聞きなれた声。
 まさかと思って振り返ると、ビニール傘をさした知臣がいた。
 ぱちりとまばたきすると、知臣が速足で目前まで来て烈を傘の中へと入れた。
 途端、頭上に降り注いでいた雨がさえぎられる。

「何してるの!」

 ぐいと肩を抱かれて、濡れないようにとより傘のなかへと入れられる。

「知臣さん濡れますよ」

 何故ここにいるのだろうと思い、烈はぽかんとしながらも一歩離れようとした。
 けれど肩にまわった手が力強くて許してくれない。

「そんなこといいから。傘は?忘れたの?」

 矢継ぎ早に質問する知臣が服の袖で、水の滴る額や前髪を拭いてくるのに烈は慌てた。

「わっ駄目ですって」
「お店帰り?それにその恰好……」

知臣がサッと烈の全身に視線を流す。
色の薄い服を着ているせいでなかなかに酷い恰好になっているだろうことに、烈は苦笑いを浮かべた。

「あー……走って帰ってたら転んじゃって、その時に家の鍵落としたみたいで」

 改めて口にすると、なんともまぬけな感じだ。

「この辺で?」
「そうです」

 頷くと、知臣はなにか考えるように黙ってしまった。
 とりあえず雨の中立ち止まっていたら濡れてしまう。

「知臣さんは行ってください。冷えちゃいますよ」

 ふにゃりと笑うと、知臣が眉を寄せた。
 はじめて見る表情だ。
 綺麗な顔に皺が寄せられるのは、整っている分なんだか勿体なく思ってしまう。

「それは烈君もだろ、震えてるし」

 雨と寒風にさらされて体温は下がるところまで下がりきっている。
 けれど鍵を見つけないと家にはどうせ入れない。
 ついでに言えば知臣を引き留めるのも心苦しい。

「平気ですよ」

 唇が寒さで震えないように力を入れた。

「行くよ」

すると、掴まれていた肩をさらに引き寄せられて、知臣が歩き出した。
 烈も思わず足が動いてしまう。
 しっかりと肩を抱かれているので立ち止まるのが難しい。

「え、どこに?ちょっ」
「僕の家、この暗さと雨じゃ見つけるのに時間がかかるよ。明日探そう」

 知臣の言葉に烈は目を見張った。
 なんとか足を踏ん張って立ち止まると、知臣も立ち止まってくれた。

「知臣さんの家にお邪魔なんて、行けません!」
「鍵ないんでしょ」

 それを言われると、ぐうの音も出ない。

「でも」
「このまま抱えて行ってもいいんだよ。冷えてるし、その方が早いかな?」

 そんなことをされるわけにはいかない。

「う……」

 決断を迷っていると、知臣が有限実行するとばかりに手を膝裏にまわそうとしたので、烈は慌てた。

「わ、わかりました!行く!行きます!」
「そんなに嫌がらなくてもいいのに」

 少し拗ねたような顔を知臣がするけれど、ほだされてはいけない。
 うっかり言いなりになってしまいそうになるのを、目線を無理やりそらすことで事なきを得た。

「というか、腕を離してください。俺ずぶ濡れだから知臣さんも濡れます」
「大丈夫だよ、はいこっち」

 距離を置こうとしたけれど、肩にまわった手を離れず歩くように誘導されてしまった。
 仕方がないので諦めて知臣と一緒に歩き出した。
 そしてふと思い当たる。

「知臣さんどこか行く用事あったんじゃないですか?」

 でないと雨のなか歩いてはいないだろう。

「用事はもう終わったよ。昼に烈君が教えてくれた肉屋のコロッケ買いにきたんだ。ついでに商店街をちょっと見てた」

 そう言う知臣の傘を持つ腕にはビニール袋が下げられている。
 これの中身がコロッケらしい。

「雨の中?」
「コロッケが気になっちゃったからね。烈君のおススメだし」

 思わず小さく噴き出してしまった。
 我慢できずに雨のなか買いに行ったのかと思うと、微笑ましい。

「それは……仕方ないですね?」
「うん、仕方ないね」

 顔を見合わせて笑いあう。
 しばらくひとつの傘の下で並んで歩き、知臣のマンションへとたどり着いた。
 あまり高くはない建物だけれど、その分広いのだろうと思わせる横幅がある。
 思わず気遅れしたけれど、こっちと傘を畳んだ知臣にうながされて、おそるおそる烈はマンションへ足を踏み入れた。
 一階のエントランスホールには黒い滑らかなカウンターがあり、そこにピシリとスーツを纏った男がいた。
 知臣に丁寧に頭を下げる。

「あの人は管理人さん……じゃないですよね?」
「まさか。あの人はコンシェルジュだよ。住人の御用聞き」
「御用聞き……」
「タクシー呼んでくれたり、荷物受け取ってくれたり」

 知臣はなんてことないように言うけれど、普通のマンションにそんなものがいないことは、いくら烈でも知っている。

「あの……もしかしなくても、ここって高級ですよね」
「さあ?友人に丸投げしたから、わからないかな」

 恐ろしい発言だ。
 烈は自分が泥だらけの濡れネズミなことを思い出し、いきなりソワソワと挙動不審になった。
 目は忙しなくエントランスホールを見回している。

「俺こんな格好で歩くの怖いんですけど」

悲鳴めいた声が出てしまった。
けれどオドオドする烈に、知臣は気にしたそぶりもない。

「エレベーター来たよ」

 エレベーターの前にさっさと知臣が行ってしまう。
 ここまで来て踵を返すことも出来ず、ピカピカの床に口の中で小さく「ひええ」と悲鳴を上げながら足を踏み出した。
 エレベーターに乗ると、広い上に何故か椅子が置いてあった。
 何故だ。
 知臣がカードキーをパネルに翳すと、グンとエレベーターが上へと動き出す。
 止まったのは最上階だった。
 エレベーターを降りると、廊下の先には扉がひとつだけだ。
 あれ、と首を傾げる。

「扉がひとつだけ?」
「うちの部屋しかこの階にはないからね」
「ひえ」

 もう何回小さな悲鳴を上げただろう。
 扉でもカードキーを翳して開くと、背を柔く押されて玄関へと入った。
 玄関からして広いし、白い床は光が反射するほどピカピカだ。
 思わず床を見下ろして、烈は自分の靴元が泥で汚れ切っていることに顔色を変えた。

「すみません、玄関汚してしまって」
「僕の靴だって汚れてるよ。遠慮せず上がって」

 知臣が優しく笑うけけれど、やはり躊躇してしまう。
 いまだに烈の髪からは雫が落ちているし、服は絞れそうなほど濡れている。
 まるで泳いだあとのようだ。

「でもこのままじゃ廊下も汚しちゃいますよ」
「わかった。靴脱いでくれる?」

 タオルでも持ってくるのかなと思いながら、烈は言われたとおり靴を脱いだ。
 そのまま濡れた靴下のまま靴の上に立っていると、ふわりと足が宙に浮く。

「わあ!」

 突然のことに烈は悲鳴を上げた。
 知臣が烈を横抱きに抱き上げたのだ。

「ひえっ知臣さん!」
「この方が早い。お風呂に連れて行くから。出かける前に設定しておいてよかった、すぐに入れるよ」

 知臣はさっさと自分も靴を脱いで、烈を抱えたまま歩き出した。
 揺れることに、咄嗟に知臣の胸元を掴むと、ふと上にある顔が吐息で笑う。

「待って、知臣さんが濡れる」
「もう遅いよ」

 降りようとしたけれど、しっかり抱えられてそれは叶わなかった。
 結局脱衣所までさっさと運ばれてしまう。
 その頃には冷え切った体は、濡れた服にも体温を奪われて、目に見えて大きく震えていた。

「震えてるけど大丈夫?手が動かないなら、脱ぐの手伝うよ」
「だ、大丈夫です!」

 そんなことさせられるかと、烈は慌てて首をブンブンと振った。
 そっと降ろされて、床に足をつけて気づいた。
 ずぶ濡れの烈を抱えたせいで、知臣の胸元がしっとりと濡れている。

「知臣さんも濡れちゃってるじゃないですか、お風呂入った方がいいですよ」
「それは一緒に入ろうってお誘い?」
「え!?」

 思わぬ言葉に声を上げると、そんなつもりはなかった烈はぱくぱくと何も言えずに口を動かすしかない。
 知臣はくすりと悪戯げに笑って、濡れて額に張り付いた烈の髪を指先でそっとわけた。

「冗談だよ。洗濯するから服は洗濯機に入れて。着替え出しておくから」

 一連の流れにどう反応したらいいかわからなくて、烈はぎこちなくも何度か頷いた。

「ゆっくりしてね」

 にこりと微笑んで、知臣が脱衣所を出ていく。
 扉が閉まったところで、抱き上げられたことがいたたまれず烈は思わずしゃがみ込んで深く息を吐いていた。
 もたもたと何とか濡れネズミと化した服を全部脱いで、浴室へと入った。
 さきほど知臣が言ったとおりに浴槽にはたっぷりのお湯が張られ、ほこほこと湯気を上げている。
 浴槽は大きくて、長身の知臣でも足が伸ばせそうな大きさだった。
 とりあえず体を洗おうとシャワーを浴びれば、温かいお湯に、寒さで強張っていた体から力が抜ける。
 ほっと息を吐いて手早く体を洗うと、湯舟へと体を沈ませた。
 肩まで浸かった体がゆるりとほどけていく感覚に、うあーと思わず声を上げてしまう。
 家ではシャワーで済ませてしまうことも多いから、湯舟は好きだけれどあまり入らないのだ。
せっかくだから堪能しよう。

「明日鍵見つかるといいけど……」

 心配だけれど、今考えても仕方がない。
 正直知臣と会えたのは本当に助かったと思う。

「迷惑かけるのは心苦しいけど」

 ぽつりと呟いたあとで、家に入ってからのことを思い出した。
 簡単に抱き上げられて運ばれてしまった。
 湯舟で温まっているせいだけでなく、頬がカッカッと熱くなる感じに慌ててぱしゃりと顔を洗う。
 意外と腕なんかがしっかりしていた。
 背は高いけれど、物腰が柔らかで優男な雰囲気なのに。
 知らなかった。
 ドキドキと早鐘を打ち出した心臓に動揺して、ざぱんと口元まで隠れるように湯に沈み込む。

(何ドキドキしてるんだ!)

 自分の体を叱咤しながら、烈はぶくぶくと湯舟に沈んだ口元から動揺で空気を吐き出していた。
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