おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~

天岸 あおい

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二章 『好き』は一日一回まで

ライナスの宣言

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 俺は風呂ばかりが並ぶ隣の部屋へ行き、下地を塗って乾いた椀をひとつ手にする。

 作業場へ戻ってライナスに手渡せば、一瞬で体を硬直させる。急にどうした? と首を傾げていると、ぎこちない動きでライナスが俺を見上げた。

「カ、カツミさん……しても、いいのですか?」

「ああ。最悪、駄目にしても構わない。漆が縮んで失敗する分を計算に入れて、余分に作っているからな」

 最初から使い物にならなくなるだろうと見越しての提供。ひとつくらいなら痛くも痒くもない。だがライナスはそう割り切れないようで、何度も深呼吸したり、大きく息を呑んだりを繰り返す。

「ムダにしませんっ! ガンバります」

 異様に力んで大丈夫か? と心配しながら下地の研ぎを教えてやる。

 一回目は荒い下地を塗っている。だから研ぐ時も同じくらい荒さのある砥石。消しゴムぐらいの砥石を貸してやり、湯につけてから下地の椀を研いでいく。下地がたちが剥げないように気をつけつつ、全体を研いで表面を平らにする。

 最初こそライナスはおっかなびっくりで生地を研ぐ。力を入れなければ、いつまで経っても終わらない。俺が促そうと手に力を入れるよう告げたのだが、ライナスは確かめるように力を制し、黙々と作業に向き合っていく。

 そして無事にひとつ研ぎ終えたところで、ライナスは大きなため息をともに肩を落とした。

「これ、毎度されるのですか?」

「ああ。地域や技法によって違うが、こっちだと下地と下地研ぎは三回やる」

「塗りに入るまで、遠いです」

「そうだな。しかも塗りも下塗りやって研いで、中塗りやって研いで、やっと上塗りだからな。そこまでやったのに上塗りで失敗して、全部無駄になる時もある。理不尽なもんだ」

 これは脅しじゃない。事実だ。どれだけ作り手が苦慮しても、季節や気候、その時の材料の質など、人の思い通りにならないことを受け入れて、俺たちは漆器を作り上げていく。

 特に失敗した時は、自然を相手にしていることを痛感する。千尋の谷から元の場所まで這い上がりかけた瞬間、無残にも突き落とされるごとくの理不尽。それを理解して受け入れていけるかどうかは、漆芸と向き合っていくためには重要なことだ。

 ライナスはどうなのだろうかと注視していると――顔を脱力させて微笑んだ。

「漆、面白いです。初めてできたら、スゴく嬉しくて倒れそうです」

 ……強がり、じゃなさそうだな。少なくとも心の見込みはある。思わず俺が口元を綻ばせていると、ライナスがまじまじと見てくる。慌ててゴホンと咳込み、俺はふすまを指さした。

「今日は終わりだ。少し休んでからやりたいことをすればいい。俺は仕事する」

「あの、しばらく見学、良いですか?」

「……好きにしろ」

 俺は自分の作業台へ戻り、下地の椀を持つ。
 台の上に漆を出し、刷毛で椀に塗っていく。幾度となくこなしてきた工程。ライナスの視線があっても、手は自然といつも通りに動く。

 ……近づいてきたな。顔を上げずとも、ライナスの気配がこちらへ寄ってくるのが分かる。

 隣に来て、ライナスが静かに座る。そこからしばらく無音が続く。
 塗ったものを板に置き、また別の椀を取って塗り――板に乗せていたものすべてを塗り終えたら、風呂へ入れて新たに取り出して塗っていく。黙々と俺が日常をこなしている最中――。

「好きです、カツミさん」
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