甘い温度でふれて満たして

春密まつり

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03.温度の高いキス

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「おはようございまーす」
「……」
 声を聴くだけで胸が痛くなるとは思わなかった。
 好きだという言葉は全部冗談だった。わかっていたことだけれど、ダメージが大きかったらしい。三ツ橋くんの顔を見ることができなかった。
 もう一つの理由としては、昨日抱きしめられたことを思い出してしまうからだ。
「おはよ」
 三ツ橋くんが自分に向けて挨拶をしているのがわかった。視線を感じる。ただの冗談に動揺したなんて悟られたくなくて思い切って顔を上げると、目が合う。
「お、はよう」
「ん」
 三ツ橋くんは満足そうに笑う。
「……っ」
 恥ずかしくなって、咄嵯に視線を落とした。顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
 これはまずい。
 顔を見ることができなくなっている。三ツ橋くんを見ると、昨日のこと全部思い出してしまう。肩に置かれた重さとか、抱きしめられた体温とか、好きだと言う甘い声とか、冗談だよと言った低い声までも。
 私の異変に気がついたのか、真奈美はまたこそこそと話しかけてくる。
「昨日なんかあったの?」
「…………なにも」
 なにもない。と言うしかない。
 いろいろあったけれど、結果的にはなんの収穫もないのだ。私がただ動揺して踊らされているだけ。
 それだけなのに、仕事に集中できないほど、彼の顔を見ることができないほど私の頭の中は昨日の夜からぐちゃぐちゃになっていた。
 仕事に集中できず、昨日あまり眠れなかったせいもあって小さなミスを繰り返してしまった。普段はしないミスばかりだ。慎重にやろうと思っても時間が経つばかりで結果は変わらない。頭を抱えた。



「深雪帰らないの?」
 定時になっても私が書類を仕舞う気配がないので、真奈美が声をかけてくれた。彼女はすでに帰り支度を終えていた。
「ミスやっちゃったから残業してく」
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。今日デートだったよね? 私のミスだし、すぐ終わるだろうから気にしないで」
 ありがとう、と付け足して手を振った。
 完全に自業自得のミスだ。救いなのは、上司に提出する前に自分で見つけられたことだ。今処理してしまえば問題のないこと。期日は先だけれど他の仕事も山積みなので、できれば今日中には終わらせておきたかった。真奈美は「ごめんね」と申し訳なさそうに言って、退勤した。
 時間はあるので、コーヒーを淹れて落ち着いて、確認しながら仕事を進める。
 次第に社内には人が少なくなっていった。残業は赤字に繋がるので基本的にするな、と上から言われているから仕事があったとしても帰るしかないのだ。
 人が少なくなってくると、寒さが増していく。暖房の温度を上げて、仕事を続けた。

「戻りましたーって誰もいないか。冷房冷房っと」
 オフィスの扉が開き、舞い込んできたのは三ツ橋くんの声だった。
 胸が跳ねた。
 外回りだと思っていたけれど、直帰のはずではなかったのか。スケジュールを確認しても直帰となっている。だからもう仕事に集中できると思っていたのに。
 三ツ橋くんはデスクに向かっている途中で私に気がついたのか、「あれ、安部まだいたの」と昨日のことなど気にしていない口調で声をかけてくる。正面の席なのだから自席に座ればいいのに、真奈美の椅子を引いて、わざわざ隣にどかりと座った。
「残業で……」
「めずらしいね。オレ手伝うことある?」
「ううん、私の仕事だから大丈夫……」
「そう?」
 視線が痛い。はやく帰ってほしい。願いとは裏腹に、彼はなぜか隣の席に座ったままだった。突然、ぶるりと震える。
「そ、それより、冷房をとめてほしい」
 先ほど彼は冷房に切り替えていたみたいだった。その冷たい風が、今私の身体を冷やしているのだ。三ツ橋くんが隣にいることで緊張の冷や汗が出て、冷房で冷え込んでいく。
 悪循環だ。
 冷房をとめて、と言えばきっと彼は立ち上がってくれるだろう。そう祈りを込めた言葉でもあった。
「寒い?」
「寒い……」
 両手で自分の身体を抱きしめた。
 はやく、離れて。
「またオレが暖めてやろうか」
「っ」
 三ツ橋くんは明らかに冗談っぽく、笑いながら言った。
 冗談だとわかっていても、わかっているからこそ、私には「バカ」と笑える余裕などなかった。黙り込んでうつむいて、手を1ミリ動かすことだって難しい。何も言えずにうつむいていると、三ツ橋くんは椅子を動かして私に近寄ってくる。
「…………ねえ、なんで顔赤くなってんの?」
 指摘されて、びくりと身体が反応した。
「そ、そんなことないよ」
「寒いって言ってるくせに暑いの?」
「違うってば」
 勢いで顔を上げ、三ツ橋くんを見た。彼の目は真剣なものだった。
「……安部」
「な、なに」
 心なしか、距離が妙に近い気がする。デスクの上に置いている私の手の、すぐ近くに彼の手がある。ふれそうでふれない距離。まっすぐ見つめてくる目。動けない。
「オレ興奮してる」
「え」
「今までだったらバカって言ってさ、呆れてるだけだったのにお前顔赤くしてるんだもん。……可愛い」
「だって、それは」
 昨日のことがあるから。
 昨日のことをいやでも思い出してしまうから。好きだという気持ちをもう消すことができないでいるから。
 その一つも言葉にできないでいると、三ツ橋くんの手が、私の手にそっと重なった。
「昨日みたいに抱きしめていい?」
 信じられない言葉に耳を疑う。また冗談を言って私をからかって、傷つけるつもりだろうか。彼の目からは、からかいなど感じられないところが、卑怯だ。
 三ツ橋くんの手が私の手の甲を撫でる。私よりも大きな手はすっぽりと包む。なんでそんなにやさしく撫でるの。熱い手のひらにさわられると、どうしたらいいかわからなくなる。また、身体は硬直している。
 そのうちに彼の手は離れて、私の腰に回る。椅子に座ったまま身体は煩き、彼の元へ向いていく。
「……ちょっと、待って」
「だめって言わないんだな」
「え、あ、だ、だめ!」
「もう遅い」
 くすりと口元を緩めた三ツ橋くんの力は強い。
 身体を引き寄せられて、座ったままの体勢で抱きしめられる。確かに寒さは紛れる。でもこんなことをしなくても、冷房を消してもらえればいいだけの話だ。
「だ、誰かに見られたら」
「もう誰もいない」
 三ツ橋くんが戻った頃にはまだ数名いた人も、もう誰もいないのだろうか。本当に? 周りを見渡したくても抱きしめられている状態ではそれすら叶わない。彼が嘘を言っていないと祈るしかない。
「……あったかい?」
 静かに、彼が言う。
「…………熱い、よ」
 正直に答えた。
 三ツ橋くんの身体はあたたかいというよりも熱く、熱があるんじゃないかと思うほどだった。これは冷房をつけたくなる気持ちもわかる。
「三ツ橋くん体温高すぎ」
 子供みたい、と笑ってしまった。
「お前は冷たいよ……はぁ……やわらかい」
 彼の手が背中をそっと撫でた。そのさわり方はあたためているというような感じではなくて、心の奥がざわついた。
「んっ、ちょ、なに」
 背中を撫でていた手は徐々に上がってきて、私の髪の毛をくしゃりと撫でた。手のひらが後頭部を包むようにして支える。
「興奮してるって言ったじゃん」
「だからって、んっ」
 変なさわり方をしないで。
 そう言おうとした時、身体が離れて後頭部にある手に力が加えられた。私はなにが起こったのかよくわからないまま、されるがままだった。
 くちびるに落とされたものは、熱だった。
「………え」
 キス、した?
 ぽかんと三ツ橋くんを見上げる。信じられなくてただ目をまるくして見つめることしかできなかった。
「……ごめん」
「え?」
 彼は苦しそうにそう言って、痛いほどに腕の力を強めた。
 正面を向かされて、腰を掴み、片方の手では後頭部を押さえる。不安定な体勢では彼に身を任せるしかなくなってしまう。今なにが起きているのか、さっぱり理解ができない。
「んっ、んう」
 キスをされている。
 最初は控えめなものだったのに、私が抵抗できないでいると激しいキスに変わっていく。角度を変えてくちびるを押しつけられる。
 私にあるのはただ驚きだけで、抵抗する気なんてない。
 ずっと好きだった彼のキスは想像以上に激しいものだった。何度か、前つき合っていた人のことを聞いたことがある。その人とどんなキスをしたんだろうと不毛なことを考えたりもした。
 なのに今私は、その人とキスをしているのだ。
「み、三ツ橋く」
 苦しさに一度距離を置くと、二人とも息を荒げなから見つめ合った。三ツ橋くんの目は濡れて光っていた。くちびるも濡れていて、自分も同じ状態なのではないかと、慌ててくちびるを拭った。
「はぁ……オフィスで、ってのが余計に興奮する」
 遠慮をなくした小さいキスが何度も何度も繰り返される。身体は寒さを忘れて、熱を持ち始めていた。
「んっ、バ……カ」
「その顔も興奮する。見せてやりてぇ」
 なにを。誰に。
 訊ねようとした言葉はまたキスに飲み込まれる。
 彼の指先が私の口の端にふれ、自然と口をひらいていた。どうして彼がこんなことをするんだとか理由なんてどうでもよくなってしまっていた。それほど彼とのキスが、うれしい。
「……っ、……あ」
 ひらいた口からもぐりこんできた彼の舌は驚くほど濡れて熱を持っていた。すぐに舌を絡めとられて吸い上げられる。ピリピリとした電流のような刺激が身体中をめぐる。座ったまま向き合っているので、彼の膝が私の膝にぶつかる。強引に足の間に入り込んできているのに、キスに翻弄されていてどうにもならない。
 キスをしながら彼の手が移動して、太腿を撫でた。ふるりと震える。
「なに、して」
 タイトスカートからのぞく太腿を撫でられて、その手が徐々に上がっていく。スカートの裾の中まで入り込もうとしている。私が慌てふためいてスカートを押さえると、彼はにやりと笑った。
「そんな弱い力じゃ抵抗できないよ」
 再びキスが落とされて、抵抗はできなくなる。彼の手が太腿のつけ根にまで伸びてくる。スカートはきっとめくれあがってしまっているだろう。
「や、やぁ」
「っ」
 彼の喉が鳴るのが聞こえた気がした。
 その時、ガチャ、と扉がひらく音がした。それから足音も。
「っ!」
 弾かれたように離れる。三ツ橋くんは立ち上がって音の先を真っ先に見ていた。私は誰かに見られることか怖くてうつむくことしかできなかった。
「見回りか……」
 ぼそりとつぶやいた声が聞こえて安堵した。見られていたとしても、周りに言いふらされることはなさそうな相手みたいだ。
「遅くまでお疲れ様でーす」
 遠くで声がした。扉が遠くでよかった。
 扉が閉まる音がして、再び沈黙が訪れる。三ツ橋くんの、長いため息が耳に入った。
「……」
「な、なんで」
「……ごめん。仕事手伝う」
 言いかけた言葉を遮り、三ツ橋くんは椅子を戻した。私のデスクにあった書類を手に取り「これ?」と平然と言った。私は混乱していて、なにをどうしたらいいのかもわからなくて、今すぐこの場所から逃げ出したくなった。
「い、いい! 明日やるから。帰る、ね」
 書類を適当にデスクの中にしまってパソコンを閉じる。カバンを持って立ち上がった。
「あ、おい!」
 制止する声も怖くて、無視して走り出していた。
 足とか腰とか、くちびるに彼の温度が残っている気がしてその場所が熱い。外を出ても、寒さなんて感じなかった。
 彼は、なんであんなことしたんだろう。
 好きだと言った言葉は冗談だった。可愛いと言われたのも冗談だったのだろうか。それならあのキスも? ただの気まぐれ?

 電車の中での帰宅しても、三ツ橋くんのことを考えているうちに時間は過ぎ、眠ったのは朝方になってしまった。


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