46 / 48
46 番外編① その後の二人
しおりを挟む
「「はあ!?」」
「ちょっと、声がでかいっ」
冬も本番を迎え、営業先で分厚いコートを手に掛ける回数が増えたころ。
久々に一日内勤オンリーだった私は、同期の美香とその彼氏兼先輩の森さんと食堂の隅で優雅にランチライム――とはいかず、何とも気まずい心持ちで尋問めいたものを受けていた。
「何それ! あんた達が付き合い始めたって聞いたの一ヵ月くらい前のはずなんだけどっ」
「有り得ん! 良い歳をした大人のカップルだろお前ら!」
「まぁ、そうなんですかどぉ」
興奮状態の二人に捲し立てられるように言われたところで事実なのだからしょうがない。
というのも、一ヵ月程前に晴れてお付き合いすることになった『我らが一課の鬼』こと榊課長と私だったのだが、今の今までカップルらしいお出掛けをしたのはたった一回。
しかも、お世話になっている近所の居酒屋『酒のみや』に赴き、飲み食いするついでに付き合いを報告するという至って淡白もの。
デートと言って良いのかちょっと疑問に思う様なお出掛けをしただけだった。
個人的には別に付き合いを焦ることはないと思っていた。
何たって互いに忙しいのは嫌という程分かっている。
真面目に働いている課長の姿を仕事中に見てしまうと、邪魔をしたくないという気持ちが一番に湧く。
さらに、そんな頑張っている姿を見るのも結構好きだったり、あの人が自分の恋人だと思うだけで嬉しかったり――
「どこの高校生よっ」
照れる気持ちをどうにか我慢しながらも、現在の心境を語っていたところを思いっきり遮られる。
目の前に座っている美香は狐うどんに箸を突っ込んだままもの凄く不満顔だ。
「イイコト陸、良く聞きなさい」
どこのお嬢様だ、という突っ込みは心の中だけに留めて、逆らえない空気に食べかけの定食から箸を離して背筋を伸ばす。
「マイペースなお付き合いをすることに文句はないわ。その辺は人それぞれだって事は私も分かってる。だ・け・ど、あんた達みたいなのは駄目よ! 二人で会うチャンスが無いわけでもないのに、仕事の忙しさにかまけて恋愛を疎かにするにも限度があんのよ。てか、仕事辞めたり部署変わったりしない限り二人の忙しさなんて変わりっこないんだから、今からそんなんじゃいつまで経っても恋人としての関係なんて進展しないわよ!」
「うっ」
ぐうの音も出ないご高説に私はのけぞり気味になり、そこに森さんが追い打ちを掛けてきた。
「てかさ、どんなに忙しくても土日くらいは時間作れんだろ。何でそこでデートって話にならないんだよ」
「ううっ」
痛いところを突かれて、私は完全に追い込まれてしまった。
実は二人には言ってないことがある。
「出かけるお誘いがない訳じゃないんです……」
私は柄にもなくモジモジしながらどう伝えようか思い悩む。
出来れば話したくない。
けれども、森さんはともかく美香は絶対に自分が納得出来るまで話を畳んではくれないであろうことは容易に想像できた。
仕方なく、私は包み隠さず困った現状を恐る恐る口にした。
「ただ、私が馬鹿みたいに色々意識しちゃって……。二人きりになるのが恥ずかしいというか緊張するというか……」
「「はあ?」」
うじうじと話す私の前で二人は同時に首を傾げた。
その視線に耐えきれなくなった私は両手で顔を覆って情けない己の心境を暴露した
「今までただの上司だった課長に恋人としてどう接して良いのかが分からなくて、誘いを適当にはぐらかしておりましたぁあ!!」
「「…………」」
そう私はまたもや課長を避けていた。
何故か?
だって課長ですよ。
我らが一課の鬼課長の榊恭介様ですよ。
鬼のように仕事が出来て、人に厳しくそれ以上に自分に厳しく、責任感も抜群の出世頭で、社内きっての女子が群がるようなイケメンさんで――。
そんな人が私の恋人!?
付き合う前までは変な意地があり自意識過剰なナルシスト男などと心の中で罵っていたからまだよかった。
けれど今となっては、なんて人が恋人になってしまったのだろうとこっちが戸惑うばかり。
勿論、嬉しい。
とっても幸せだ。
でもでも、どうしても落ち着かない。
上司と部下以外の新しい関係になってどうやって接してよいのかさっぱりわからない!
「どこの中学……いや小学生よ」
「哀れ榊……。頑張れ榊……」
顔を覆った指の間から覗き見た二人は心底呆れた表情と憐れむような表情を浮かべている。
森さんが溜息を吐きながらさらに聞き捨てられない事を呟く。
「どおりで最近のアイツ、また機嫌が悪いはずだよ」
「……やっぱりそうですよね」
それには私も気がついていた。
自分が原因だとは敢えて考えないようにしていた、けれども、ここ最近の課長はいつもにも増して眉間の皺が多い。
社員に対する接し方もいつも以上にピリリとしたものになっているし、何より仕事中でも私が接するときの視線が恐い……。
公私混同するタイプの人ではないとわかっているけれど、その視線がどうにも仕事以外の不満を表しているような気がしてならない今日この頃だった。
どうにかしなくてはとは思っている。
たかがデートだと。
だーけーれーどーもー。
そこまで考えて私は頭を抱えた。
そんな感じに私が自分の世界に入って悶々と思い悩んでいる間、目の前のカップルが荒療治を実行しようともくろみ始めていた。
勿論私はそんなことには微塵も気がつかない。
「おーい川瀬。お前去年のこの会社の資料持ってるか?」
その日の残業中、森さんが唐突に私のデスクまでやってきた。
どうやら、去年私が担当していた企業に関する営業データをご所望のようだった。
「すいません。去年のデータは資料にまとめて全部資料室です」
「マジかー。すぐに必要ってわけじゃないんだけどさ、今ちょっと余裕なくて、川瀬がデータ持ってたら借りときたかったんだけど」
心底困った表情を浮かべた森さん。
手元の自らの仕事の進み具合を確認する。
うん、大丈夫だ。
「もしよかったら私が代わりに資料室からデータ持ってきますよ。自分でまとめたデータなので少しは早く見つけられると思いますし」
「えっ、ほんとに!? 超助かる!」
なんだか大げさに感じられるほど喜んだ森さんにほんの少し違和感を覚えたが、気にするほどのものではなかったので、私はすぐに立ち上がった。
「じゃあすぐ取ってきますね」
「あっ、いや、ゆっくりでいいから。とにかくよろしく」
背中を押すように促され手を振って見送ってくる森さん。やっぱり変だとは思いつつもキーボックスをチェックする。
第一資料室の鍵がない。
どうやら先客がいるようだ。
それが誰だがなんて全く考えもせずに私はなんの気構えもなく資料室に向かい、何の躊躇もなくそのドアを開けた。
「失礼しま――」
「使用中だとわかってるんなら、ノックくらいして入れ」
「すいません!」
部屋に一歩踏み入れると同時に飛んできた注意に条件反射で謝罪する。
あれっ?
この威厳のおありになる聞き慣れたお声は……。
恐る恐る首だけ動かして声が聞こえた方向を見やる。
「なんだ、川瀬か」
「かっ課長」
突然訪れた二人きりの時間に私はこれ見よがしに固まった。
課長は資料棚の前で資料を開いて仕事モードだったので、手元を見ながら淡々と声を掛けてきた。
「資料探しか?」
「はっ、はい。ちょっとN社のデータを……」
「N社?」
私の答えに課長は何故か首を傾げて訝し気な顔をする。
「もしかして、森に頼まれたか?」
「へっ? そうですけど」
ずばり言い当てられて緊張も忘れて驚く私の前で課長はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「なるほどな」
言うなり手元に持っていた資料をパタンと閉じて棚にしまう。
どういうことだろうかと首を傾げることしか出来ない私に課長は説明してくれた。
「N社の資料を森のところに持っていく必要はない。何故なら、アイツはその資料を一昨日確認して、昨日もう一度見ようと思ったら資料室からなくなっていたと俺に報告してきたからだ」
えっ? もう確認済み? でもってなくなっている?
説明されたところで意味がわからなかった。
「どういうことですか?」
課長は私の質問には答えず、訳の分からないことを言う。
「因みに今俺が棚にしまったのがN社の資料だ」
増々疑問しか浮かばなくて体ごと傾げそうになったとき、課長が再び大きな溜息を吐いた。
「アイツはさっき、 俺のところにわざわざ来て、あるはずの資料が見当たらなかったと相談してきた。一課の責任者として俺が取るべき行動は何だと思う?」
突然の問いに面食らったが、一応真面目に考える。
「他の誰かが借りてるっていう可能性もなくはないですけど、そんなに頻繁に見られるような資料でもないですし。無くなっているとなると大問題になりますから、責任者だったらその所在を確認するべき、でしょうか?」
私の回答は合っていたらしく、課長は頷く。
「だから俺はここに居る。そしてN社の資料はあっさり見つかった。そしたら川瀬が森に頼まれてその資料を探しに来たと言っている」
「おかしな話ですね」
純粋にそう思ったから出た台詞だったが、このタイミングで室内の空気が一変した。
何故そう思ったか。
目の前で課長の表情がガラリとかわったからだ。
「仕事に関することで嘘を吐いたことについては森に厳罰が必要。でも、まあ今回は特別に許してやることにする」
普段だったら絶対に有り得ない譲歩発言をした課長は何だか腹黒い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
思わず一歩後ずさる。
すると退いた分以上に大きな一歩で課長に距離を詰められる。
「で、では私は仕事に戻り――」
「まあ、そんなに慌てることないだろう。折角森が気を使って俺達のために時間を作ってくれたんだから」
「どっどういうことでございましょうか?」
課長はにっこり微笑んでいるというのに、背中に寒気しか感じない。
そして、このとき私はやっと森さんの思惑に気がついた。
ああ、やばい。
そう思ったときには完全に互いの間にあった距離を詰められてしまっていた。
「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」
「あはははは」
乾いた笑いでは何も誤魔化せなかった。
その後、私は残業の途中だったにも関わらず映像資料室に連れ込まれ、あろうことかソファの上で課長の膝の上横抱きに座らされた状態で散々誘いを断ってきたことに関して説教された。
挙句の果てに――
「お前どうせ週末暇だろう。四の五の言わずに俺のマンションに来い。一泊な」
「そっそんな急に無理です!!」
二回目の、しかも初めての二人きりのデートが泊まりなんて有り得ない!!
私はそんなに恋愛偏差値も経験値も高くない!!
なのに課長は自分のペースで話を進める。
「夜はお前が飯作れよ。この際和食でもイタリアンでもどっちでもいいから」
「ごっご飯を作るのはいいですけど、いっいきなりお泊まりはっ」
「別にいいじゃねーか。散々俺を避けてきた罰だ」
あまりの言いように思わず、言わなくてもいい本音が出てしまった。
「だっダメです! きっキスだってほとんどしたことないのに!!」
「――ほう」
あっ、墓穴。
そう思ったときには時すでに遅し。
私は終業後の会社の一角で普段は恐ろしいくらい真面目ははずの上司から獣のようなキスを何度も繰り返された。
「二人で考えた作戦上手くいってると良いですね和臣さん!」
「そうだなぁ。でも、あいつ仕事中じゃお堅いまんまかもしれないし。前途多難かもなぁ」
「あら、そうですか? 榊課長はそりゃ真面目な人ですけど、男としても隙がなさそうだし、大丈夫なんじゃないですかね」
「そうだといいなー」
「もしかしたら、たった今資料室でめちゃくちゃイチャイチャしてるかもですよー」
「阿保か美香! そんなのうちの課長様がするわけないだろう」
「えー、そうかなぁ」
とあるカップルの帰り道。
この会話が勝負場合、軍配はあなたに上がります、美香さん。
「ちょっと、声がでかいっ」
冬も本番を迎え、営業先で分厚いコートを手に掛ける回数が増えたころ。
久々に一日内勤オンリーだった私は、同期の美香とその彼氏兼先輩の森さんと食堂の隅で優雅にランチライム――とはいかず、何とも気まずい心持ちで尋問めいたものを受けていた。
「何それ! あんた達が付き合い始めたって聞いたの一ヵ月くらい前のはずなんだけどっ」
「有り得ん! 良い歳をした大人のカップルだろお前ら!」
「まぁ、そうなんですかどぉ」
興奮状態の二人に捲し立てられるように言われたところで事実なのだからしょうがない。
というのも、一ヵ月程前に晴れてお付き合いすることになった『我らが一課の鬼』こと榊課長と私だったのだが、今の今までカップルらしいお出掛けをしたのはたった一回。
しかも、お世話になっている近所の居酒屋『酒のみや』に赴き、飲み食いするついでに付き合いを報告するという至って淡白もの。
デートと言って良いのかちょっと疑問に思う様なお出掛けをしただけだった。
個人的には別に付き合いを焦ることはないと思っていた。
何たって互いに忙しいのは嫌という程分かっている。
真面目に働いている課長の姿を仕事中に見てしまうと、邪魔をしたくないという気持ちが一番に湧く。
さらに、そんな頑張っている姿を見るのも結構好きだったり、あの人が自分の恋人だと思うだけで嬉しかったり――
「どこの高校生よっ」
照れる気持ちをどうにか我慢しながらも、現在の心境を語っていたところを思いっきり遮られる。
目の前に座っている美香は狐うどんに箸を突っ込んだままもの凄く不満顔だ。
「イイコト陸、良く聞きなさい」
どこのお嬢様だ、という突っ込みは心の中だけに留めて、逆らえない空気に食べかけの定食から箸を離して背筋を伸ばす。
「マイペースなお付き合いをすることに文句はないわ。その辺は人それぞれだって事は私も分かってる。だ・け・ど、あんた達みたいなのは駄目よ! 二人で会うチャンスが無いわけでもないのに、仕事の忙しさにかまけて恋愛を疎かにするにも限度があんのよ。てか、仕事辞めたり部署変わったりしない限り二人の忙しさなんて変わりっこないんだから、今からそんなんじゃいつまで経っても恋人としての関係なんて進展しないわよ!」
「うっ」
ぐうの音も出ないご高説に私はのけぞり気味になり、そこに森さんが追い打ちを掛けてきた。
「てかさ、どんなに忙しくても土日くらいは時間作れんだろ。何でそこでデートって話にならないんだよ」
「ううっ」
痛いところを突かれて、私は完全に追い込まれてしまった。
実は二人には言ってないことがある。
「出かけるお誘いがない訳じゃないんです……」
私は柄にもなくモジモジしながらどう伝えようか思い悩む。
出来れば話したくない。
けれども、森さんはともかく美香は絶対に自分が納得出来るまで話を畳んではくれないであろうことは容易に想像できた。
仕方なく、私は包み隠さず困った現状を恐る恐る口にした。
「ただ、私が馬鹿みたいに色々意識しちゃって……。二人きりになるのが恥ずかしいというか緊張するというか……」
「「はあ?」」
うじうじと話す私の前で二人は同時に首を傾げた。
その視線に耐えきれなくなった私は両手で顔を覆って情けない己の心境を暴露した
「今までただの上司だった課長に恋人としてどう接して良いのかが分からなくて、誘いを適当にはぐらかしておりましたぁあ!!」
「「…………」」
そう私はまたもや課長を避けていた。
何故か?
だって課長ですよ。
我らが一課の鬼課長の榊恭介様ですよ。
鬼のように仕事が出来て、人に厳しくそれ以上に自分に厳しく、責任感も抜群の出世頭で、社内きっての女子が群がるようなイケメンさんで――。
そんな人が私の恋人!?
付き合う前までは変な意地があり自意識過剰なナルシスト男などと心の中で罵っていたからまだよかった。
けれど今となっては、なんて人が恋人になってしまったのだろうとこっちが戸惑うばかり。
勿論、嬉しい。
とっても幸せだ。
でもでも、どうしても落ち着かない。
上司と部下以外の新しい関係になってどうやって接してよいのかさっぱりわからない!
「どこの中学……いや小学生よ」
「哀れ榊……。頑張れ榊……」
顔を覆った指の間から覗き見た二人は心底呆れた表情と憐れむような表情を浮かべている。
森さんが溜息を吐きながらさらに聞き捨てられない事を呟く。
「どおりで最近のアイツ、また機嫌が悪いはずだよ」
「……やっぱりそうですよね」
それには私も気がついていた。
自分が原因だとは敢えて考えないようにしていた、けれども、ここ最近の課長はいつもにも増して眉間の皺が多い。
社員に対する接し方もいつも以上にピリリとしたものになっているし、何より仕事中でも私が接するときの視線が恐い……。
公私混同するタイプの人ではないとわかっているけれど、その視線がどうにも仕事以外の不満を表しているような気がしてならない今日この頃だった。
どうにかしなくてはとは思っている。
たかがデートだと。
だーけーれーどーもー。
そこまで考えて私は頭を抱えた。
そんな感じに私が自分の世界に入って悶々と思い悩んでいる間、目の前のカップルが荒療治を実行しようともくろみ始めていた。
勿論私はそんなことには微塵も気がつかない。
「おーい川瀬。お前去年のこの会社の資料持ってるか?」
その日の残業中、森さんが唐突に私のデスクまでやってきた。
どうやら、去年私が担当していた企業に関する営業データをご所望のようだった。
「すいません。去年のデータは資料にまとめて全部資料室です」
「マジかー。すぐに必要ってわけじゃないんだけどさ、今ちょっと余裕なくて、川瀬がデータ持ってたら借りときたかったんだけど」
心底困った表情を浮かべた森さん。
手元の自らの仕事の進み具合を確認する。
うん、大丈夫だ。
「もしよかったら私が代わりに資料室からデータ持ってきますよ。自分でまとめたデータなので少しは早く見つけられると思いますし」
「えっ、ほんとに!? 超助かる!」
なんだか大げさに感じられるほど喜んだ森さんにほんの少し違和感を覚えたが、気にするほどのものではなかったので、私はすぐに立ち上がった。
「じゃあすぐ取ってきますね」
「あっ、いや、ゆっくりでいいから。とにかくよろしく」
背中を押すように促され手を振って見送ってくる森さん。やっぱり変だとは思いつつもキーボックスをチェックする。
第一資料室の鍵がない。
どうやら先客がいるようだ。
それが誰だがなんて全く考えもせずに私はなんの気構えもなく資料室に向かい、何の躊躇もなくそのドアを開けた。
「失礼しま――」
「使用中だとわかってるんなら、ノックくらいして入れ」
「すいません!」
部屋に一歩踏み入れると同時に飛んできた注意に条件反射で謝罪する。
あれっ?
この威厳のおありになる聞き慣れたお声は……。
恐る恐る首だけ動かして声が聞こえた方向を見やる。
「なんだ、川瀬か」
「かっ課長」
突然訪れた二人きりの時間に私はこれ見よがしに固まった。
課長は資料棚の前で資料を開いて仕事モードだったので、手元を見ながら淡々と声を掛けてきた。
「資料探しか?」
「はっ、はい。ちょっとN社のデータを……」
「N社?」
私の答えに課長は何故か首を傾げて訝し気な顔をする。
「もしかして、森に頼まれたか?」
「へっ? そうですけど」
ずばり言い当てられて緊張も忘れて驚く私の前で課長はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「なるほどな」
言うなり手元に持っていた資料をパタンと閉じて棚にしまう。
どういうことだろうかと首を傾げることしか出来ない私に課長は説明してくれた。
「N社の資料を森のところに持っていく必要はない。何故なら、アイツはその資料を一昨日確認して、昨日もう一度見ようと思ったら資料室からなくなっていたと俺に報告してきたからだ」
えっ? もう確認済み? でもってなくなっている?
説明されたところで意味がわからなかった。
「どういうことですか?」
課長は私の質問には答えず、訳の分からないことを言う。
「因みに今俺が棚にしまったのがN社の資料だ」
増々疑問しか浮かばなくて体ごと傾げそうになったとき、課長が再び大きな溜息を吐いた。
「アイツはさっき、 俺のところにわざわざ来て、あるはずの資料が見当たらなかったと相談してきた。一課の責任者として俺が取るべき行動は何だと思う?」
突然の問いに面食らったが、一応真面目に考える。
「他の誰かが借りてるっていう可能性もなくはないですけど、そんなに頻繁に見られるような資料でもないですし。無くなっているとなると大問題になりますから、責任者だったらその所在を確認するべき、でしょうか?」
私の回答は合っていたらしく、課長は頷く。
「だから俺はここに居る。そしてN社の資料はあっさり見つかった。そしたら川瀬が森に頼まれてその資料を探しに来たと言っている」
「おかしな話ですね」
純粋にそう思ったから出た台詞だったが、このタイミングで室内の空気が一変した。
何故そう思ったか。
目の前で課長の表情がガラリとかわったからだ。
「仕事に関することで嘘を吐いたことについては森に厳罰が必要。でも、まあ今回は特別に許してやることにする」
普段だったら絶対に有り得ない譲歩発言をした課長は何だか腹黒い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
思わず一歩後ずさる。
すると退いた分以上に大きな一歩で課長に距離を詰められる。
「で、では私は仕事に戻り――」
「まあ、そんなに慌てることないだろう。折角森が気を使って俺達のために時間を作ってくれたんだから」
「どっどういうことでございましょうか?」
課長はにっこり微笑んでいるというのに、背中に寒気しか感じない。
そして、このとき私はやっと森さんの思惑に気がついた。
ああ、やばい。
そう思ったときには完全に互いの間にあった距離を詰められてしまっていた。
「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」
「あはははは」
乾いた笑いでは何も誤魔化せなかった。
その後、私は残業の途中だったにも関わらず映像資料室に連れ込まれ、あろうことかソファの上で課長の膝の上横抱きに座らされた状態で散々誘いを断ってきたことに関して説教された。
挙句の果てに――
「お前どうせ週末暇だろう。四の五の言わずに俺のマンションに来い。一泊な」
「そっそんな急に無理です!!」
二回目の、しかも初めての二人きりのデートが泊まりなんて有り得ない!!
私はそんなに恋愛偏差値も経験値も高くない!!
なのに課長は自分のペースで話を進める。
「夜はお前が飯作れよ。この際和食でもイタリアンでもどっちでもいいから」
「ごっご飯を作るのはいいですけど、いっいきなりお泊まりはっ」
「別にいいじゃねーか。散々俺を避けてきた罰だ」
あまりの言いように思わず、言わなくてもいい本音が出てしまった。
「だっダメです! きっキスだってほとんどしたことないのに!!」
「――ほう」
あっ、墓穴。
そう思ったときには時すでに遅し。
私は終業後の会社の一角で普段は恐ろしいくらい真面目ははずの上司から獣のようなキスを何度も繰り返された。
「二人で考えた作戦上手くいってると良いですね和臣さん!」
「そうだなぁ。でも、あいつ仕事中じゃお堅いまんまかもしれないし。前途多難かもなぁ」
「あら、そうですか? 榊課長はそりゃ真面目な人ですけど、男としても隙がなさそうだし、大丈夫なんじゃないですかね」
「そうだといいなー」
「もしかしたら、たった今資料室でめちゃくちゃイチャイチャしてるかもですよー」
「阿保か美香! そんなのうちの課長様がするわけないだろう」
「えー、そうかなぁ」
とあるカップルの帰り道。
この会話が勝負場合、軍配はあなたに上がります、美香さん。
0
あなたにおすすめの小説
高嶺の花の高嶺さんに好かれまして。
桜庭かなめ
恋愛
高校1年生の低田悠真のクラスには『高嶺の花』と呼ばれるほどの人気がある高嶺結衣という女子生徒がいる。容姿端麗、頭脳明晰、品行方正な高嶺さんは男女問わずに告白されているが全て振っていた。彼女には好きな人がいるらしい。
ゴールデンウィーク明け。放課後にハンカチを落としたことに気付いた悠真は教室に戻ると、自分のハンカチの匂いを嗅いで悶える高嶺さんを見つける。その場で、悠真は高嶺さんに好きだと告白されるが、付き合いたいと思うほど好きではないという理由で振る。
しかし、高嶺さんも諦めない。悠真に恋人も好きな人もいないと知り、
「絶対、私に惚れさせてみせるからね!」
と高らかに宣言したのだ。この告白をきっかけに、悠真は高嶺さんと友達になり、高校生活が変化し始めていく。
大好きなおかずを作ってきてくれたり、バイト先に来てくれたり、放課後デートをしたり、朝起きたら笑顔で見つめられていたり。高嶺の花の高嶺さんとの甘くてドキドキな青春学園ラブコメディ!
※2学期編4が完結しました!(2025.8.4)
※お気に入り登録や感想、いいねなどお待ちしております。
その卵焼き俺にも食わせろ!―ワンナイトラブから逃げたはずなのに、契約で縛られてました!?―
鷹槻れん
恋愛
新沼 晴永(にいぬま はるなが/36)は俺様上司として恐れられる鬼課長。
そんな彼に毎日のように振り回されるのが、犬猿の仲(だと彼女が勝手に思っている)部下の小笹 瑠璃香(こざさ るりか/28)だ。
飲み会の夜、酔ってふにゃふにゃになった瑠璃香を晴永がまんまと持ち帰り――翌朝待っていたのはワンナイトの証拠と契約結婚の書類!?
晴永には逃げようとする瑠璃香を逃がすつもりはないらしい!?
笑いと誤解と契約の、ドタバタラブコメディ!
○表紙絵は市瀬雪さんに依頼しました♥(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?
akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。
今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。
家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。
だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?
それは、ホントに不可抗力で。
樹沙都
恋愛
これ以上他人に振り回されるのはまっぴらごめんと一大決意。人生における全ての無駄を排除し、おひとりさまを謳歌する歩夢の前に、ひとりの男が立ちはだかった。
「まさか、夫の顔……を、忘れたとは言わないだろうな? 奥さん」
その婚姻は、天の啓示か、はたまた……ついうっかり、か。
恋に仕事に人間関係にと翻弄されるお人好しオンナ関口歩夢と腹黒大魔王小林尊の攻防戦。
まさにいま、開始のゴングが鳴った。
まあね、所詮、人生は不可抗力でできている。わけよ。とほほっ。
Marry Me?
美凪ましろ
恋愛
――あの日、王子様があたしの目の前に現れた。
仕事が忙しいアパレル店員の彼女と、王子系美青年の恋物語。
不定期更新。たぶん、全年齢でいけるはず。
※ダイレクトな性描写はありませんが、ややそっち系のトークをする場面があります。
※彼の過去だけ、ダークな描写があります。
■画像は、イトノコさまの作品です。
https://www.pixiv.net/artworks/85809405
2月31日 ~少しずれている世界~
希花 紀歩
恋愛
プロポーズ予定日に彼氏と親友に裏切られた・・・はずだった
4年に一度やってくる2月29日の誕生日。
日付が変わる瞬間大好きな王子様系彼氏にプロポーズされるはずだった私。
でも彼に告げられたのは結婚の申し込みではなく、別れの言葉だった。
私の親友と結婚するという彼を泊まっていた高級ホテルに置いて自宅に帰り、お酒を浴びるように飲んだ最悪の誕生日。
翌朝。仕事に行こうと目を覚ました私の隣に寝ていたのは別れたはずの彼氏だった。
距離感ゼロ〜副社長と私の恋の攻防戦〜
葉月 まい
恋愛
「どうするつもりだ?」
そう言ってグッと肩を抱いてくる
「人肌が心地良くてよく眠れた」
いやいや、私は抱き枕ですか!?
近い、とにかく近いんですって!
グイグイ迫ってくる副社長と
仕事一筋の秘書の
恋の攻防戦、スタート!
✼••┈•• ♡ 登場人物 ♡••┈••✼
里見 芹奈(27歳) …神蔵不動産 社長秘書
神蔵 翔(32歳) …神蔵不動産 副社長
社長秘書の芹奈は、パーティーで社長をかばい
ドレスにワインをかけられる。
それに気づいた副社長の翔は
芹奈の肩を抱き寄せてホテルの部屋へ。
海外から帰国したばかりの翔は
何をするにもとにかく近い!
仕事一筋の芹奈は
そんな翔に戸惑うばかりで……
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる