顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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歴然の差

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 一週間ぶりの登校、学校が嫌いではないハロルドにとってこれほど苦痛に感じた日はない。
 昨日、酔っ払いのクリフォードによって和女を婚約者として迎えたことが暴露されてしまった。
 あの場に自分と同じ学校に通う生徒の兄や姉がいたら完全に知れ渡ってしまっている。
 もし学校中にバレていたら、と考えると今日は朝から憂鬱で、本当はベッドから出るのも嫌だった。
 頭まで布団をかぶって丸まったまま、使用人に学校の様子を覗いてきてほしいと頼みたいぐらいだったのだが、祖父が許すはずがない。
 親はきっと息子を庇わないだろうし、そうなれば祖父がやってきて『ユズリハが婚約者だと言うのが恥ずかしいのか?』と聞いてくる。それに頷こうものなら布団ごと身体を祖父のコレクションの一つである刀で貫かれるかもしれない。頷かずとも無言でいるだけでも問題になる。
 その証拠に今朝、朝食後に呼び出され祖父からかけられた言葉は『何があろうと胸を張っていればいい』だった。
 しかし、だからといって兄が怒られなかったわけではない。結婚式を終えたあと、呼び出されてしっかりとお叱りを受けていた。

『弟の婚約者が和女であることをなぜ笑いながら言いふらした? なぜお前は友人たちを交えて自分の晴れ舞台で弟を笑い者にしようとしたんだ? 主役なら何を言っても許されると思っての愚行か?』

 普段からなんでも上手くこなし、祖父に対しても一番フランクな対応ができる男がその瞬間だけはヘラつきさえ見せず、酔いも一瞬で冷めたようだった。
 それは祖父に注意されたからではなく、祖父が異常なまでに怒りを見せていたから。
 怒りの理由が弟をからかったから、であればハロルドにとっても嬉しいことだが、そうではない。ユズリハを婚約者として迎えたことが馬鹿にされて当然であるかのように笑い者にしていたから怒ったのだ。
 その祖父の怒りたるや、ロマンチックな星月夜さえ雷鳴轟く黒雲に変えてしまいそうなほど。
 顔を真っ青に染めながら言い訳をする孫に『言い訳か?』と聞く凄みに両親も庇うことができず、顔を背けて時が過ぎるのを待っていた。
 ハロルドだけがその様子を見ながらざまあみろと祖父の背後で舌を出すことで少しスッキリしたのだが、寝る前に押し寄せた不安によってスッキリはなかったことになった。
 その不安を抱えたまま登校したのだが、到着してから十分が経った今もまだ馬車から降りられないでいる。カーテンさえ開けられない。
 外に出れば大勢の生徒が待ち構えていて、昨日の兄の友人たちのようにニヤつきながら指をさされるのではないかと想像が先走ってしまう。

「ハロルド様?」

 御者がしたノックの音に大袈裟なほど跳ね上がったせいで天井に頭をぶつけた。

「だ、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。それより、外の様子はどうなってる?」
「どうなってる、とは?」
「人が集まってるとか、そういう変な感じはないか?」

 ないと言え、言ってくれと願うハロルドの耳に届いたのは「いつもどおりですけど……」の戸惑った声。
 頭の痛みも吹き飛ぶほどの喜びに乱れた髪を整えてゆっくりと馬車を降りた。

「ハロルド、おはよう」

 考えすぎて眠れなかったのが馬鹿らしく思えるほど誰も婚約者について聞いてくることはなく、誰かが笑っている様子もなかった。
 バレていない。それがわかるとハロルドの鬱々としていた胸が昨日の兄を見ていたときのようにスッキリと晴れて気分が良かった。
 いつもより頭が周り、勉強内容がスムーズに頭に入る。

「ハロルドさん、おはようございます」
「おはよう、アーリーン嬢」

 アーリーン・コールマン伯爵令嬢。ハロルドの初恋の相手で片想い進行中の相手。
 滑らかな金髪に空の色を吸い込んだような碧眼。控えめな性格で我は強くない。一つ一つの仕草が小さめで愛らしい印象を持ち、大口を開けて笑う姿は一度だって見たことはない。いつも口に手を当てて微笑むだけ。

(やっぱりこうでなきゃ)

 改めて見る片想いの相手の愛らしさに表情が緩む。ユズリハとは何もかもが違う。
 アーリーンが婚約者になれば兄にだって自慢できる。馬鹿にされることもなく誰にだって自慢できるのに、アーリーンを正妻として迎える選択は駆け落ちでもしない限りはありえない話。
 よほど運命的な出会いや感情でもない限り、そんな愚かな選択をする者はいないだろう。自分が持つ地位も、何不自由ない生活をも捨てて新たな土地で無一文からやっていくなど、贅沢の中で生きてきた貴族にできるはずがないのだ。
 一緒にいるためにはユズリハが提案した“愛人”として迎えるしかないのだが、自ら愛人を望む令嬢はいない。ましてや伯爵家の次男なんかに。
 ハロルドも今、アーリーンに惚れているだけであって、自分の人生の伴侶はアーリーンだけだと思っているわけではない。だから焦って「愛人に」と話をするつもりもなく、今はまだ出会ったばかりの相手のことを知る期間だと思っている。

「今日もいい天気ですね」
「そうだね」
「昨日はクリフォード様の結婚式だったのでしょう?」
「あ、ああ、そうだよ。知り合いが招待されたりしてたかい?」
「いいえ、誰からもそのようなお話は聞いておりません」

 一瞬で身体が冷えそうなほどの冷や汗をかいたハロルドは笑顔で冷静を心がけた。結婚式という祝福の日を過ごした男が笑顔以外を浮かべると怪しまれる。もしここでアーリーンが怪訝に思い、同級生に「ハロルドさん、何かあったのかしら?」と先ほど感じた違和感を話して万が一にでも詮索が行われでもしたら──考えたくもないと身震いを起こす。

「結婚式はいかがでした?」
「素晴らしかったよ。美しい青空の下、愛を誓った男女が結ばれた。感動だったね」
「素敵ですよね。結婚式の日が雲一つない晴れになると神が祝福してくださっているのだと感動します」
「僕もそう思うよ。兄さんたちは愛し合って結ばれたから、神もそれを祝福してくださったんだと思う」

 嘘だ。本当は神なんて信じちゃいない。兄が祝福を受けようが受けまいがどうだっていい。むしろ地獄に落ちろとさえ思っているぐらいだ。
 雨でも良かったのにと思ったが、それは妻であるエルザが気の毒になるため晴れて良かったと思った。
 兄のことは嫌いだが、エルザは良い人であるため嫌いではない。
 複雑な心境だった。

「恋愛結婚ですか?」
「政略結婚だけど、二人は顔合わせの日から惹かれ合ったらしい。兄さんはいつ義姉さんのことを自慢していたから」
「羨ましいです」

 政略結婚が当たり前の貴族令嬢でも恋愛結婚に憧れる。
 どこかで運命的な出会いを果たして、それからあっという間に惹かれ合い、それこそ駆け落ちしてもいいと思えるほど燃え上がる恋愛がしたいと夢を見るのだ。
 だからパーティーでは家柄ではなく素敵な男性を探す。色っぽくて、大人で、魅力に溢れた男。地位や名誉を持っていても魅力的でなければお断り。パーティーで権力を持っているのは男性ではなく女性だからこそ、女たちはそれを望む。
 実際は夢を見るだけで終わってしまうことがほとんどだが。

「アーリーンは婚約者はまだいないんだっけ?」
「ええ、そうなんです。お父様が少し過保護で、私の婚約者を決めるのはまだ早いと。最近はそれでお母様と言い合いばかり」
「自分で選ぶことは許されてるのかい?」
「んー……どうでしょう? そういう話はしたことがありませんし……。でも、自分で選べたらどんなにいいか」

 アーリーンとこういう話をすることがなかったハロルドにとってこれは運命的に巡ってきたチャンスではないかと確信する。
 これからまだ続く学園生活。ここで一気に親しくなれば婚約も夢ではないと、さりげなく前髪をほんの少し横に流して整えれば気取った笑顔でアーリーンを見つめてほんの少し顔を近付けた。

「僕も同じだ。好きになった人が婚約者になってくれたらどんなにいいだろう。好きな人と結ばれて、好きな人と素晴らしい家庭を作る。僕は兄さんが憧れなんだ。仕事ができて、慕われて、周りに自慢しまわるほど好きになった相手と結婚した。羨ましいよ」
「私もそう思います」

 数秒間、見つめ合う時間が続く。

(これはアーリーンも僕のことが好きってことじゃないのか?)

 その気のない相手と見つめ合ったりはしない。誰かに誤解されるような真似をする趣味はない。噂が大好きな貴族なら余計にそんな迂闊な真似はしないはず。
 ハロルドはアーリーンとなら噂が広まってもいいと思っている。むしろ噂が広まればアーリーンは更に自分を意識するようになるのではないかとすら考えていた。

「アーリーンは美人だね」
「え!? そ、そんなことありません! び、美人だなんて言われたことは一度も……!」

 落としたい女に効果的なのは目を見つめて囁くことだと言った酔っ払いの兄の戯言を実践するのは癪だったが、効果はあった。
 真っ赤になって頬を両手で包むアーリーンのなんとも言えない愛らしさにハロルドは今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られる。
 こういう初々しさと愛らしさが女性には必要なのにユズリハにはそれがないと、あの態度を思い出しては嘲笑が込み上げるがアーリーンに誤解されては困ると寸前で飲み込んだ。
 ハロルドは我の強い女性は好きではなく、奥ゆかしさを持つ女性が好き。アーリーンはまさにそれに当てはまる完璧な女性。こんな女性が婚約者だったらどんなにいいだろうと見つめる目が逸せない。
 だが、現実は残酷なもの。
  
「おや、おかえり」

 気まぐれで足を運んでみると“ユズリハ邸”には当たり前にユズリハがいる。
 縁側に腰を下ろして和柄の扇子で涼をとりながら片手を上げた。

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