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「やってしまったー!!」
自室ではなく“ユズリハ邸”に帰ったハロルドは学校であれだけハッキリと物を言う男を演じたのに家に帰った途端に押し寄せる感情に声を上げて畳の上を転がり回っていた。
「黄昏時になってもそなたは元気じゃのう」
空は目覚めた青から夜へと変わる前の橙に染まっている。夕日が庭を照らし、また違う美しさを演出する中で騒がしいのはハロルドだけ。
「言ってしまった! 言ってしまったんだよ!」
「何をじゃ?」
「お前が言えと言った言葉だ!」
「おお、素晴らしいな! あの紳士と名高いハロルド・ヘインズが啖呵を切ったか!」
ユズリハに対してハロルドが紳士だったことは一度もない。一緒に外に出歩いたこともなければ、敷地内を一緒に散歩してエスコートしたことだってないのだ。それなのにユズリハはハロルドを紳士と言った。
大笑いはしているため、からかいかと微妙な判断をしながらも少し落ち着いたのか転がり回る身体を止めて畳の上で正座をする。
「笑い事じゃないんだぞ」
「笑えばよい。言いたかったから言ったのじゃろう?」
「まあ、そうだけど……」
「なら後悔するな。そなたは聡明な男。その判断はきっと間違ってはおらぬよ」
ユズリハはいつも笑顔で人を褒める。信じていると言わんばかりに背中を押してくれる。それは家族の誰もしてくれなかったことで、ハロルドの努力も当たり前のように考え、その優秀さを保っていることを褒めず、少しでも落ちると心配と叱責があるだけ。それがハロルドの人生だった。
でも此処に来るようになってそれが変わり始めた。
相変わらず家族は褒めてはくれないが、ユズリハは違う。テストを見せれば大袈裟すぎるほど褒めるし、何かあれば祝いだと言う。
「しかし、何があった? あのような言葉、父上でもなかなか吐かぬぞ」
「いや……その……」
言いづらい。自分でもなぜそこまで怒ってしまったのかと今でも思う。
少し前までは自分もクラスメイトと同じ考えで、同じ反応をユズリハに向けていた。クラスメイトよりもひどかったかもしれない。
それがユズリハとちゃんと話をするようになって、ユズリハという少女を知ると偏見にまみれていた自分が情けなく恥ずかしいと思うほど見方が変わった。
ユズリハにだけかもしれない。ユズリハでなければそうは思わなかったかもしれない。でも、だからこそハロルドは見たこともない相手を醜悪だと馬鹿にするクラスメイトが許せなかった。
自分たちのほうが上だと理由のない自信を持って笑い者にしようとするクラスメイトも、話したこともない相手を和女というだけで可哀想と言ったアーリーンも嫌だと思ってしまった。
自分だってそうだったはずなのに。
話せばきっとわかってもらえる。だって自分もそうだったから。
そう思えど、その前にきっとユズリハを不快な目に遭わせることになるのは想像せずともわかる。だから会わせるつもりはなかった。
「ん?」
不思議そうな顔で言葉を待つユズリハに苦い顔を見せるハロルドの表情は情けなさに溢れている。
「わらわに関することなら無理に言わずともよい。言えぬこともあるじゃろう」
婚約者が和女であると知れ渡ってしまったことを知っているだけに毎日色々言われていることは容易に想像がつく。放っておけばいいものをそれができず怒りを爆発させてしまったのだろうとハロルドの優しさを喜ぶべきか、苦境に立たされることになってしまったことを詫びるべきか。複雑な心境だった。
ユズリハの望みは自分が婚約者として嫁いで来たとしてもハロルドの生活が何も変わらないこと。顔も名前さえ知らなかった婚約者のせいで順調に進んできた人生を曲げてほしくない。
だから婚約者が和女のせいで笑い者になったと言われたときは申し訳なかった。きっといつかそうなるだろうと想像できていただけに、返す言葉もなかった。
このままシキと二人でこの国で生きていく覚悟を決めた中でハロルドが変わりつつあり、ユズリハにとっても楽しい一日を送れている今、新たな問題の火種となってしまったのではないかと心配になるが無理に聞き出すことはしたくない。
だが、ハロルドが告げた真実にユズリハは目を瞬かせる。
「お前のことを知りもしないくせに和女ってだけで笑い者にする奴らに我慢できなかったんだ」
「それは……」
ユズリハが口を開くとバッと目の前に手のひらを向けて待ったをかける。
「わかってる! お前の言いたいことはわかってる! 僕も少し前まではそうだった! 和女ってだけで嫌悪して、お前のことを知ろうともしなかった! 祖父に逆らえなくて渋々と嫌な態度ばかり。挙げ句の果てにお前を暴言で殴りつけた。わかってる。僕も自分でそう思ってる」
「いや、そうではなく……」
「でも僕はお前を見習いたいと思った。お前の寛容さを見習って、お前のことを知りたいと思ったんだ」
意外すぎる言葉に目を見開いたユズリハが今、何を考えているのだろうと不安になる。調子の良いことを言うなと思っているのだろうか。だとしてもハロルドにとってはこれが本音。
大きく見開かれた目を真っ直ぐ見つめながら再び口を開いた。
「知りもしない相手を見下す人間は最低だ。僕は自分が優秀であることを鼻にかけて和人を見下す最低な人間になっていた。でもお前は僕なんかよりもずっと大人で寛大だ。お前が許してくれたから、僕は変わろうと思った。都合の良い話だけど……」
ユズリハから目を逸らすことなく告げるも返事はない。ただハロルドの目を真っ直ぐ見つめ返しているだけ。
「お前は誰かに馬鹿にされていい人間じゃない。だから許せなくて……言ってしまった。でも後悔はしてないんだ」
言葉だけではなく晴れやかな表情からもそれが嘘ではないことは伝わってくる。
「やってしまったと言ったのは後悔ではないのか?」
「あれは怒鳴ったことで猫かぶりがバレてしまったことと紳士が怒鳴るなんてやってはならないことをしてしまったからだ。僕はあの瞬間、紳士という枠から外れて教室で大声を上げた。それも人を黙らせるために。誰かを助けるためではなく自分の苛立ち、自分の感情を爆発させてやってしまったんだ」
「でもそれは……」
わらわのため、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
自惚れたくはない。自分が認めている相手を馬鹿にされるのが嫌だっただけで、それは婚約者の名誉のためではない。期待するなと自分に言い聞かせて口を閉じた。
「これでアーリーンとの関係も終わったしな」
「何故か!?」
途端に表情を怪訝なものへと変えるユズリハに苦笑する。
婚約者でありながらユズリハはハロルドがアーリーンと結ばれるのを認め、応援までしていた。
ダンスを踊った、プレゼントを贈ったと嬉々として報告してきたのはつい先日のこと。それがなぜだと戸惑いを隠せないユズリハに落ち着けと手で促す。
「アーリーンのことが好きだったのじゃろう?」
「ああ。だけど、そこまで強い想いではなかったみたいだ」
「本命の愛人にする予定だったのにか?」
「それはあくまでも頭の中でのことだ。実際は、たった一つの言葉で冷めてしまうような軽いものだったらしい」
自分のせいだと思っていることが明確に伝わってくる表情を見せるユズリハにハロルドは「お前のせいじゃない」と言った。
「お前が婚約者であることが周知されて、からかわれるようになった。でもアーリーンだけは僕をからかわなかったんだ」
「優しいおなごじゃ」
「僕もそう思ってた」
過去形を口にすることで実際は違ったのだとわかってしまう。
「彼女は同情してただけなんだ。和女が婚約者であることを可哀想だと言った。自分の父親はウォルター・ヘインズと懇意にしているから婚約破棄するように進言してもらう、って。そしたらもう笑い者にならずに済むからもう少しだけ我慢してくれと……そう言われて、僕の中で何かが切れた。ああ、でもこれは僕が悪いんだ。婚約者がいるってバレた日、僕が嘘をついたからアーリーンはそれを信じてただけだと思う。だから僕が悪いんだけど……」
あの目とあの声が自分の中で耐えられない物になっていた。
からかいこそしなかったが、アーリーンもクラスの連中と同じで和女を見下していたのだと思うと心が冷めてしまったのだと苦笑するハロルドにユズリハは頭を下げる。
「は? なんでお前が頭を下げるんだ?」
頭を下げなければならないのは自分のほう。今までひどい態度をとり、今はそれを謝ったことで清算した気になってまるで友人のように普通に接している。
もっとちゃんと深く頭を下げて相手を傷つけたことを謝らなければならないはずの自分が頭を下げるより前にユズリハが下げている理由がわからず戸惑ってしまう。
「わらわが来たことでそなたの人生が変わってしもうた。アーリーンもきっと悪い奴ではないのだろう。国が違えば、相手を知らねば情報だけで判断するのは当然のこと。無論、感情を口や態度に出すべきではないが、それも詮なきこと。そなたが和女と関わらなければアーリーンもそのようなことは言わなんだろうに、わらわが婚約者となったことでそなたは己が努力で積み上げてきたものを全て失うこととなってしまった。すまぬ」
正座のまま少し後ろ下がって畳の上に両手をつくとさっきよりも深く頭を下げた。
男は女に頭を下げさせてはならない。それは紳士として当然のことだ。
今の状況は自分が教室で怒鳴ったことよりも猫かぶりがバレてしまったことよりもずっとあってはならないことだと立ち上がって歩み寄り、ユズリハの肩に手を添えて上半身を起き上がらせた。
「僕のことはこれから一生こう思ってくれ。調子の良い男だと。そしてその上で聞いてくれ」
姿勢を正したユズリハにハロルドが微笑む。
「あの瞬間、僕の中にはアーリーンに同情されたショックよりも和女を婚約者なら笑い者になって当然と思っていることに腹が立ったんだ。それはお前が言うように外国人と関わらなければなかった発言かもしれないが、関わった以上は許せる発言じゃなかったんだ」
「すまぬ」
「頭を下げるのをやめろ。僕はお前に謝ってほしくて話してるんじゃない」
すぐに頭を下げようとするユズリハの肩から手が離せず、険しい表情を見せるハロルドはこれほど情けない顔をするユズリハを見たのは初めてで貴重だと冷静な感情で見つめていた。
女が男に簡単に頭を下げるのも和の国では普通なのだろう。文化の違いが生む戸惑いはあれど、それを当たり前だと受け取りたくはない。そうすることでユズリハの気が済むのだとしても謝るために女が頭を下げるなど見ていて気持ちの良いものではないのだから。
「明日にでも謝ればどうにかなるのではないか?」
「謝るつもりはない」
「じゃが……」
いつもあれだけ自信満々に笑って発言する女が珍しいと少し可愛くさえ見えてしまう。
「ユズリハは君よりずっとイイ女だよ」
ハロルドの口から出てきた言葉にユズリハは目を見開いて固まる。
「少し前まで自分を褒めてた男に見下してる女のほうがイイ女だって告げられて、その翌日に謝られて誰が許す?」
「そ、そなた……ま、誠……そのようなことを……?」
「もう猫をかぶってるのも馬鹿馬鹿しいと思ったらつい。いや、お前には本当に悪かったと思ってるよ。あんなこと言っておいて、それこそ本当に調子の良い……」
本人にイイ女だと言ったことはないのにクラスメイトには言った。それを伝えるのは相手にイイ女だとさりげなく伝えるよりも気まずいと頬を掻いていたが、ユズリハの顔を見ると手の動きも口の動きも止まった。
合わせた唇を内側に引っ込めている。まるでニヤついてしまうのを我慢しているように。
「どうした?」
ハロルドの先読みでは「わらわをイイ女と思うておるとは意外じゃ。ま、わらわの魅力を以ってすれば当然のこと」と、ニヤつき混じりにまたからかってくるのではないかと少し警戒しながら問いかけると堪えきれなくなったのかユズリハが唇を解いて笑顔を見せる。
「そなたにそう言ってもらえるのは嘘でも嬉しい」
見たことのない笑顔だった。いつもの屈託のない笑顔とは違う、微笑みとも違う、はにかみに近い笑み。その笑みを崩すつもりはなかったのに、ユズリハはまたすぐに目を見開いた。
なぜそうしたのかはわからない。気がつけば身体が前に動き、唇を重ねていた。
それほど長い時間ではない。触れて、三秒か五秒か……。
唇を離したあと、見開いたユズリハの目を見てハッとした。
畳の上に尻もちをついて勢いよく縁側まで後ずさったハロルドが手を前に出して「ち、違う! 今のは! 違うんだ!」と声を上げる。
「違うからな!」
負け犬の遠吠えのような言葉を発してそのまま縁側を走って屋敷を飛び出したハロルドは自分の部屋に入るまでずっと同じ言葉を連呼し続けた。
「キスしといて違うはないだろ」
どこから見ていたのか、ハロルドが帰ったあと、部屋に現れたシキの言葉に何も言わないユズリハを不思議に思い、顔を覗き込むとその姿に驚いた。
「大丈夫か?」
「いやはや……困った……」
顔を真っ赤にしながら笑うユズリハがとても幸せそうに見えたのだ。
自室ではなく“ユズリハ邸”に帰ったハロルドは学校であれだけハッキリと物を言う男を演じたのに家に帰った途端に押し寄せる感情に声を上げて畳の上を転がり回っていた。
「黄昏時になってもそなたは元気じゃのう」
空は目覚めた青から夜へと変わる前の橙に染まっている。夕日が庭を照らし、また違う美しさを演出する中で騒がしいのはハロルドだけ。
「言ってしまった! 言ってしまったんだよ!」
「何をじゃ?」
「お前が言えと言った言葉だ!」
「おお、素晴らしいな! あの紳士と名高いハロルド・ヘインズが啖呵を切ったか!」
ユズリハに対してハロルドが紳士だったことは一度もない。一緒に外に出歩いたこともなければ、敷地内を一緒に散歩してエスコートしたことだってないのだ。それなのにユズリハはハロルドを紳士と言った。
大笑いはしているため、からかいかと微妙な判断をしながらも少し落ち着いたのか転がり回る身体を止めて畳の上で正座をする。
「笑い事じゃないんだぞ」
「笑えばよい。言いたかったから言ったのじゃろう?」
「まあ、そうだけど……」
「なら後悔するな。そなたは聡明な男。その判断はきっと間違ってはおらぬよ」
ユズリハはいつも笑顔で人を褒める。信じていると言わんばかりに背中を押してくれる。それは家族の誰もしてくれなかったことで、ハロルドの努力も当たり前のように考え、その優秀さを保っていることを褒めず、少しでも落ちると心配と叱責があるだけ。それがハロルドの人生だった。
でも此処に来るようになってそれが変わり始めた。
相変わらず家族は褒めてはくれないが、ユズリハは違う。テストを見せれば大袈裟すぎるほど褒めるし、何かあれば祝いだと言う。
「しかし、何があった? あのような言葉、父上でもなかなか吐かぬぞ」
「いや……その……」
言いづらい。自分でもなぜそこまで怒ってしまったのかと今でも思う。
少し前までは自分もクラスメイトと同じ考えで、同じ反応をユズリハに向けていた。クラスメイトよりもひどかったかもしれない。
それがユズリハとちゃんと話をするようになって、ユズリハという少女を知ると偏見にまみれていた自分が情けなく恥ずかしいと思うほど見方が変わった。
ユズリハにだけかもしれない。ユズリハでなければそうは思わなかったかもしれない。でも、だからこそハロルドは見たこともない相手を醜悪だと馬鹿にするクラスメイトが許せなかった。
自分たちのほうが上だと理由のない自信を持って笑い者にしようとするクラスメイトも、話したこともない相手を和女というだけで可哀想と言ったアーリーンも嫌だと思ってしまった。
自分だってそうだったはずなのに。
話せばきっとわかってもらえる。だって自分もそうだったから。
そう思えど、その前にきっとユズリハを不快な目に遭わせることになるのは想像せずともわかる。だから会わせるつもりはなかった。
「ん?」
不思議そうな顔で言葉を待つユズリハに苦い顔を見せるハロルドの表情は情けなさに溢れている。
「わらわに関することなら無理に言わずともよい。言えぬこともあるじゃろう」
婚約者が和女であると知れ渡ってしまったことを知っているだけに毎日色々言われていることは容易に想像がつく。放っておけばいいものをそれができず怒りを爆発させてしまったのだろうとハロルドの優しさを喜ぶべきか、苦境に立たされることになってしまったことを詫びるべきか。複雑な心境だった。
ユズリハの望みは自分が婚約者として嫁いで来たとしてもハロルドの生活が何も変わらないこと。顔も名前さえ知らなかった婚約者のせいで順調に進んできた人生を曲げてほしくない。
だから婚約者が和女のせいで笑い者になったと言われたときは申し訳なかった。きっといつかそうなるだろうと想像できていただけに、返す言葉もなかった。
このままシキと二人でこの国で生きていく覚悟を決めた中でハロルドが変わりつつあり、ユズリハにとっても楽しい一日を送れている今、新たな問題の火種となってしまったのではないかと心配になるが無理に聞き出すことはしたくない。
だが、ハロルドが告げた真実にユズリハは目を瞬かせる。
「お前のことを知りもしないくせに和女ってだけで笑い者にする奴らに我慢できなかったんだ」
「それは……」
ユズリハが口を開くとバッと目の前に手のひらを向けて待ったをかける。
「わかってる! お前の言いたいことはわかってる! 僕も少し前まではそうだった! 和女ってだけで嫌悪して、お前のことを知ろうともしなかった! 祖父に逆らえなくて渋々と嫌な態度ばかり。挙げ句の果てにお前を暴言で殴りつけた。わかってる。僕も自分でそう思ってる」
「いや、そうではなく……」
「でも僕はお前を見習いたいと思った。お前の寛容さを見習って、お前のことを知りたいと思ったんだ」
意外すぎる言葉に目を見開いたユズリハが今、何を考えているのだろうと不安になる。調子の良いことを言うなと思っているのだろうか。だとしてもハロルドにとってはこれが本音。
大きく見開かれた目を真っ直ぐ見つめながら再び口を開いた。
「知りもしない相手を見下す人間は最低だ。僕は自分が優秀であることを鼻にかけて和人を見下す最低な人間になっていた。でもお前は僕なんかよりもずっと大人で寛大だ。お前が許してくれたから、僕は変わろうと思った。都合の良い話だけど……」
ユズリハから目を逸らすことなく告げるも返事はない。ただハロルドの目を真っ直ぐ見つめ返しているだけ。
「お前は誰かに馬鹿にされていい人間じゃない。だから許せなくて……言ってしまった。でも後悔はしてないんだ」
言葉だけではなく晴れやかな表情からもそれが嘘ではないことは伝わってくる。
「やってしまったと言ったのは後悔ではないのか?」
「あれは怒鳴ったことで猫かぶりがバレてしまったことと紳士が怒鳴るなんてやってはならないことをしてしまったからだ。僕はあの瞬間、紳士という枠から外れて教室で大声を上げた。それも人を黙らせるために。誰かを助けるためではなく自分の苛立ち、自分の感情を爆発させてやってしまったんだ」
「でもそれは……」
わらわのため、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
自惚れたくはない。自分が認めている相手を馬鹿にされるのが嫌だっただけで、それは婚約者の名誉のためではない。期待するなと自分に言い聞かせて口を閉じた。
「これでアーリーンとの関係も終わったしな」
「何故か!?」
途端に表情を怪訝なものへと変えるユズリハに苦笑する。
婚約者でありながらユズリハはハロルドがアーリーンと結ばれるのを認め、応援までしていた。
ダンスを踊った、プレゼントを贈ったと嬉々として報告してきたのはつい先日のこと。それがなぜだと戸惑いを隠せないユズリハに落ち着けと手で促す。
「アーリーンのことが好きだったのじゃろう?」
「ああ。だけど、そこまで強い想いではなかったみたいだ」
「本命の愛人にする予定だったのにか?」
「それはあくまでも頭の中でのことだ。実際は、たった一つの言葉で冷めてしまうような軽いものだったらしい」
自分のせいだと思っていることが明確に伝わってくる表情を見せるユズリハにハロルドは「お前のせいじゃない」と言った。
「お前が婚約者であることが周知されて、からかわれるようになった。でもアーリーンだけは僕をからかわなかったんだ」
「優しいおなごじゃ」
「僕もそう思ってた」
過去形を口にすることで実際は違ったのだとわかってしまう。
「彼女は同情してただけなんだ。和女が婚約者であることを可哀想だと言った。自分の父親はウォルター・ヘインズと懇意にしているから婚約破棄するように進言してもらう、って。そしたらもう笑い者にならずに済むからもう少しだけ我慢してくれと……そう言われて、僕の中で何かが切れた。ああ、でもこれは僕が悪いんだ。婚約者がいるってバレた日、僕が嘘をついたからアーリーンはそれを信じてただけだと思う。だから僕が悪いんだけど……」
あの目とあの声が自分の中で耐えられない物になっていた。
からかいこそしなかったが、アーリーンもクラスの連中と同じで和女を見下していたのだと思うと心が冷めてしまったのだと苦笑するハロルドにユズリハは頭を下げる。
「は? なんでお前が頭を下げるんだ?」
頭を下げなければならないのは自分のほう。今までひどい態度をとり、今はそれを謝ったことで清算した気になってまるで友人のように普通に接している。
もっとちゃんと深く頭を下げて相手を傷つけたことを謝らなければならないはずの自分が頭を下げるより前にユズリハが下げている理由がわからず戸惑ってしまう。
「わらわが来たことでそなたの人生が変わってしもうた。アーリーンもきっと悪い奴ではないのだろう。国が違えば、相手を知らねば情報だけで判断するのは当然のこと。無論、感情を口や態度に出すべきではないが、それも詮なきこと。そなたが和女と関わらなければアーリーンもそのようなことは言わなんだろうに、わらわが婚約者となったことでそなたは己が努力で積み上げてきたものを全て失うこととなってしまった。すまぬ」
正座のまま少し後ろ下がって畳の上に両手をつくとさっきよりも深く頭を下げた。
男は女に頭を下げさせてはならない。それは紳士として当然のことだ。
今の状況は自分が教室で怒鳴ったことよりも猫かぶりがバレてしまったことよりもずっとあってはならないことだと立ち上がって歩み寄り、ユズリハの肩に手を添えて上半身を起き上がらせた。
「僕のことはこれから一生こう思ってくれ。調子の良い男だと。そしてその上で聞いてくれ」
姿勢を正したユズリハにハロルドが微笑む。
「あの瞬間、僕の中にはアーリーンに同情されたショックよりも和女を婚約者なら笑い者になって当然と思っていることに腹が立ったんだ。それはお前が言うように外国人と関わらなければなかった発言かもしれないが、関わった以上は許せる発言じゃなかったんだ」
「すまぬ」
「頭を下げるのをやめろ。僕はお前に謝ってほしくて話してるんじゃない」
すぐに頭を下げようとするユズリハの肩から手が離せず、険しい表情を見せるハロルドはこれほど情けない顔をするユズリハを見たのは初めてで貴重だと冷静な感情で見つめていた。
女が男に簡単に頭を下げるのも和の国では普通なのだろう。文化の違いが生む戸惑いはあれど、それを当たり前だと受け取りたくはない。そうすることでユズリハの気が済むのだとしても謝るために女が頭を下げるなど見ていて気持ちの良いものではないのだから。
「明日にでも謝ればどうにかなるのではないか?」
「謝るつもりはない」
「じゃが……」
いつもあれだけ自信満々に笑って発言する女が珍しいと少し可愛くさえ見えてしまう。
「ユズリハは君よりずっとイイ女だよ」
ハロルドの口から出てきた言葉にユズリハは目を見開いて固まる。
「少し前まで自分を褒めてた男に見下してる女のほうがイイ女だって告げられて、その翌日に謝られて誰が許す?」
「そ、そなた……ま、誠……そのようなことを……?」
「もう猫をかぶってるのも馬鹿馬鹿しいと思ったらつい。いや、お前には本当に悪かったと思ってるよ。あんなこと言っておいて、それこそ本当に調子の良い……」
本人にイイ女だと言ったことはないのにクラスメイトには言った。それを伝えるのは相手にイイ女だとさりげなく伝えるよりも気まずいと頬を掻いていたが、ユズリハの顔を見ると手の動きも口の動きも止まった。
合わせた唇を内側に引っ込めている。まるでニヤついてしまうのを我慢しているように。
「どうした?」
ハロルドの先読みでは「わらわをイイ女と思うておるとは意外じゃ。ま、わらわの魅力を以ってすれば当然のこと」と、ニヤつき混じりにまたからかってくるのではないかと少し警戒しながら問いかけると堪えきれなくなったのかユズリハが唇を解いて笑顔を見せる。
「そなたにそう言ってもらえるのは嘘でも嬉しい」
見たことのない笑顔だった。いつもの屈託のない笑顔とは違う、微笑みとも違う、はにかみに近い笑み。その笑みを崩すつもりはなかったのに、ユズリハはまたすぐに目を見開いた。
なぜそうしたのかはわからない。気がつけば身体が前に動き、唇を重ねていた。
それほど長い時間ではない。触れて、三秒か五秒か……。
唇を離したあと、見開いたユズリハの目を見てハッとした。
畳の上に尻もちをついて勢いよく縁側まで後ずさったハロルドが手を前に出して「ち、違う! 今のは! 違うんだ!」と声を上げる。
「違うからな!」
負け犬の遠吠えのような言葉を発してそのまま縁側を走って屋敷を飛び出したハロルドは自分の部屋に入るまでずっと同じ言葉を連呼し続けた。
「キスしといて違うはないだろ」
どこから見ていたのか、ハロルドが帰ったあと、部屋に現れたシキの言葉に何も言わないユズリハを不思議に思い、顔を覗き込むとその姿に驚いた。
「大丈夫か?」
「いやはや……困った……」
顔を真っ赤にしながら笑うユズリハがとても幸せそうに見えたのだ。
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どうやら彼はエリザ一筋だったらしく。あれ? あなたの恋人アンネはどうしたの?
※小説家になろう様でも掲載しています
※表紙イラスト:あさぎかな先生にコラージュアートをいただきました
※毎朝7時に更新していく予定です
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