顔も知らない婚約者 海を越えて夫婦になる

永江寧々

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手紙

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「手紙だぜ、浮かれたお嬢さん」
「浮かれたは余計じゃ。父上から返事が……兄上?」

 デートの帰り、馬車が着くまで何度も何度も重ねた唇は今も感触が残っている。
 最近のハロルドは一段と男らしく見え、胸が高鳴ることが増えた。
 浮かれすぎて地に足が浮いていない状態。それを微笑ましく見守っていたのだが、届いた手紙の差出人が父親ではなく兄であることにシキも嫌な予感がしていた。
 ユズリハが二週間前に出した手紙にはまだ返事が来ていない。いつも最短で返事が来るのに今回は返事がない。そこに兄からの手紙。
 嫌な予感に手紙を開ける手が焦る。
 なぜ父親から返事がなく、兄から手紙が送られてくるのか。
 ヘインズ家に嫁いでから一度だって兄は手紙をくれたことはない。筆無精な兄がなぜ手紙を寄越したのかがわからず、破いた封筒から手紙を取り出して開いた。

「父上が……」

 兄はいつも要件から話す。周りくどいことを好まず、遠回しに言われることを嫌う。だから兄らしい文章だと思った。

【親父が倒れた】

 読み進める必要のない文章に一瞬、心臓が止まった気がした。
 離れて暮らす以上、こういうことを手紙で知ることになるのは覚悟の上だった。
 それでも、実際に手紙で知らされると心臓が変な動きになる。呼吸ができているようなできていないような感覚。心臓にぽっかり穴が空いて、そこから空気が抜けているような感覚にさえ陥っている。

【お前には言うなと親父は言っていたが、そういうわけにもいかない。異国の地に嫁いだお前が駆けつける術がない以上、知らせておかなければならない。回復するか、このままかはわからん。だからお前も覚悟だけはしておけ。女は一度家を出たら帰るべきではない。お前はもう、うちの人間ではなくヘインズ家の人間だ。父親の訃報は手紙で知ることになる。全て覚悟の上だろうとは思うが、今一度言っておく。帰ってくるな】

 読み終えた手紙をグシャリと握り潰して床に投げつける。

「わかっておるわ……!」

 父親も同じことを言っていた。自分たちに何かあっても帰ってくるなと。家族であることに変わりはないが、新しい家族を大事にしろと言われた。
 ユズリハもそれに対し理解を示したが、こんなにも早く手紙が送られてくるとは思っていなかっただけに動揺が隠せない。ハロルドが学校に行っていることだけが幸いだった。

「どうする?」

 後ろに立って一緒に読んでいたシキが潰れた手紙を拾って差し出す。
 こんな問いかけになんの意味もないことはわかっている。ユズリハの答えはいつだって一つだ。

「どうするとはどういう意味じゃ。父上が倒れたと報告を受けただけのこと。死んだわけではない」

 受け取った手紙を引き出しの中にしまって壁を見つめたまま大きく息を吐き出した。

「いいのか?」

 強がっているのはわかっている。だからシキは最終確認として声をかけたが、振り返ったユズリハは笑顔を浮かべていた。

「父上は己が事で娘を帰国させることなど望んではおらぬ。帰国すれば何を言われるかわからぬぞ。口うるさく言われたいか?」
「後悔しないか?」
「せぬ」

 ハッキリと答えたユズリハの瞳に宿る強い意思にシキは全て受け入れることにした。
 後悔しないわけがない。帰らなかったことを後悔する。異国に嫁いだことさえも後悔するかもしれない。それでもユズリハは帰らないと決めた。兄が言うからではなく、父親が望んでいないからではなく、それが一番正しいことだと思ったから。
  
「さて、腹が減った。何か食べたいな」
「んじゃ、ニックのとこでも行くかね」
「賛成じゃ」

 立ち上がって向かうはニックの屋台。
 すっかりお気に入りになった店に向かう間、ユズリハは不気味なほど笑顔を崩さなかった。


 それから三日後、ハロルドが学校から帰るとユズリハとシキが不在にしていた。ヘインズ家の敷地内だからか、鍵もかけずにどこもかしこも開けっぱなし。
 名前を呼びながら家の中を歩き回ったが見つからない。

「まーた食べ歩きか?」

 ユズリハはよく食べる。こっちの食べ物が好きじゃないと断ったのが嘘であるとわかるぐらいにはあちこちで好きな食べ物を見つけてはハロルドに土産として買ってくる。
 いつもはハロルドが帰る前には帰っているのだが、今日はいない。
 シキが一緒であるため心配はしてないが、出迎えが当たり前だった毎日。おかえりの一言がないだけで寂しく感じる。

「ま、そのほうが都合がいいか」

 ユズリハが手紙を書く際に使用する机に寄って座布団の上に腰掛ける。

「手紙なんて柄じゃないけど、たまにはいいよな。見返しても恥ずかしくない文章にすれば何十年か経った頃にも微笑ましく見れるわけ……」

 便箋が入っているから勝手に使えと許可は以前にもらっていたため引き出しを開けると一瞬、動きが止まった。
 ユズリハは意外にも几帳面で散らかすことはほとんどない。だからこそ整った引き出しの中に握り潰されたような紙がそのまま入っていることに違和感を抱いた。
 間違えて握ってしまったのだとしたら伸ばすはず。それもせず潰れたまま入れているのはなぜだと疑問を感じながら手を伸ばす。
 人の手紙を勝手に見るべきではないと思いながらもこのまま気付かないフリでいるわけにはいかないと思った。あとで聞いてみてもきっと誤魔化される。そして自分が聞いたことで真相を知らないままその手紙は燃やされてしまう──容易に想像がつくことだ。
 怒られてもいい。だからこの手紙は確認するとそれを掴んで開いた。

「ッ!?」

 差出人はダイゴロウではなく兄。名前も顔も知らないが、兄と姉がいると言っていた。親父と書いてあることから兄で間違いないだろう。
 倒れたとハッキリ書いてある。連絡するなと言われたが、そういうわけにもいかないと。経過が良ければ笑い話として書いてくるはず。平気だから心配するなと。でもそうは書いていない。
 帰ってくるな。非道にもそう書いてある。
 兄はどんな気持ちでそう書いたのだろう。冷酷な人間なのだろうか。自分の兄のようなクズなのだろうか。文面からも厳しさが伺える。
 優秀な兄と姉がいると言っていた。その言葉から感じ取れるのは劣等感。
 母親が嫌がっているとわかっていながらも嫁いだのは兄が理由だろうか?
 和の国一の豪商であれば貴族一人を切ったところで取引相手ではないのだから商売に影響はないはず。ダイゴロウのことはよく知らないが、娘に無理強いするような人間には見えなかった。
 一刻も早く家を出たかった。そう考えると合点がいく。後継である兄と共にいるのが辛いからとシキと共に海を渡ることを決めたのだと。

「消印は……二週間前」

 いつ届いていたのだろう。いつから隠していたのだろう。昨日も一昨日も今朝だってユズリハはいつもと変わらなかった。
 食欲が落ちたり何かに動揺している様子も見られなかった。

「荷物!!」

 帰ったのかと今いない理由の可能性に慌ててユズリハの部屋に駆け込んで荷物を確認するも大事な物は全て置いてある。
 何日もかかる船に着替えを持って行かないはずがない。髪を結う道具も鏡台の前に置いたまま。
 だが、飛び出したのかもしれないと祖父に言った可能性を考えて玄関へ向かうと帰ってきた二人と出くわした。

「おお、来ておったのか。ニックとの話が長引いて……」

 握ったままだった手紙を見たユズリハの表情が変わる。

「なぜそれをお前様が手にしておるのじゃ! 勝手に引き出しを開けたのか!?」

 珍しく感情を露わにするユズリハがこれを知ったのは今日ではないと確信した。
 今日届いたばかりならきっと「昼に届いてな。いや、驚いた」とでも言って笑うはず。怒りと焦りが混ざった感情のままに声を荒げるユズリハがそれに手を伸ばすもハロルドは渡さない。

「返せ!」
「なんで隠してた?」
「勝手に見るな! 何故あの場所を開けた! 無礼ではないか!」
「便箋を借りようと思ったんだ」

 自分が勝手に取っていいと許可を出したことを思い出して口を閉じるも感情を必死に抑えこんでいるのだろう、拳が震えている。
 何があっても笑顔でいるユズリハが感情を抑えきれていない。きっと、自分がこれを見つけなければ一生隠しているつもりだったのだとハロルドも拳を握る。

「ユズリハ」
「わらわは帰らぬ!」

 ハロルドが何を言うかわかっていたかのように声を上げたユズリハにハロルドがカッとなって両肩を掴む。

「父親が倒れたんだぞ!」

 手紙は二週間前に出された物で、ダイゴロウが倒れてから二週間は経っているということ。
 和の国からここまで手紙が届くのに何日かかるのかハロルドは知らない。
 もし悪化していたら大変なことになっているはず。回復したと手紙が来ればいい。だが、あの文面から察するに回復した場合は律儀に手紙など書かないだろう。兄から手紙が来たとユズリハから聞いたことは一度もない。
 父親から言うなと言われたことを無視してこうして手紙を送ってきたということは、この手紙は内緒で送られた物。
 手紙が届かなければユズリハは今日か明日かと不安に怯えながら最悪の手紙が来ることを恐れ続けることになる。それでもその日まで彼女は笑顔を浮かべ続けるだろうから、それだけは避けなければならないとハロルドも感情的になってしまう。

「意地を張ってる場合じゃないだろ!」
「帰らぬ! わらわは家を出た身! 父上が倒れたぐらいで帰るわけにはいかぬのじゃ!」
「ぐらいで、じゃないだろ! だったらいつなら帰るんだ!? 彼が死んだと知らせを受けたときか!?」

 唇を噛み締めたのが見えたが、すぐに俯いたユズリハは抑えこんだ感情のまま静かに頷いた。
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