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愛情
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それを見て「はいそうですか」と納得できるほどハロルドも物分かりの良い人間ではない。
「そういうわけにもいかない状態だって書いてある。今帰らないと絶対に後悔するぞ」
「そなたには関係ない」
そう言われるとは思っていなかった。
キスをした日から徐々に距離は近くなり、最近では笑い合うことばかりだった。
好意がなければ照れはしない。追い出されるのは困ると渋々受け入れてるようにも見えなかった。
馬車の中で長い時間キスをした日、ハロルドはユズリハの好意を確信さえしていた。
それなのに今、ユズリハは明確な拒絶を示した。
関係ない。
それがハロルドが感じていた一線だ。
全てを預けてほしいと願うのにユズリハは叶えてくれない。薄まったといえど一線は消えることなく存在し、こうしていざというときに踏み込ませない。
そこに入って許されるのはシキだけで、この手紙の存在も知っていただろうシキが帰れと背中を押さなかったことも腹が立っている。
「シキ、お前、どうして受け入れたんだ……」
「それがお嬢の意思だからだ」
「こいつが後悔することになってもいいのか!?」
「全て覚悟の上での判断だ。俺が言うことは何もないさね──ッ!」
シキに詰め寄って胸ぐらを掴み、そのまま壁に押し付けるもシキは抵抗しない。
自分の行為が正しいとは思っていない。だが、ユズリハは一度決めたことは曲げないことを知っているため背中は押さなかった。
帰って父親の姿を見るのと、手紙で訃報を知るのと悲しみはどちらが大きいだろうと何十回も考えたが、答えは出ない。
無理して笑い続けるのなら自分はそれに付き合うだけだとシキなりに覚悟を決めてのことだった。
「覚悟の上? 親が死ぬかもしれないってのに覚悟を決めるなんてできるわけないだろ! こいつがしてるのは覚悟じゃない! ただの我慢だ! 自分に言い聞かせてるだけで覚悟なんか決まってない!」
「決まっておる! わらわは帰らぬ!」
「ならなんで僕に言わなかった! 父親が倒れたけど帰るなと言われてるから帰らないとそう言えばよかっただろ!」
「それは……」
口ごもるユズリハだが、すぐに顔を上げて鋭い刃を放った。
「そなたには関係ないからじゃ」
心が冷静になるのを感じながらハロルドはユズリハに手を伸ばして抱きしめた。
「関係ないわけないだろ」
口調は強くハッキリとしているのに瞳はそうじゃなかった。
ハロルドにはその瞳が訴えているように見えたのだ。
“父上に会いたい”
そう言っているように。
「彼は僕にとって義理の父親だ。関係あるんだよ。だから関係ないなんて言うな」
背中に回された手が服を強く掴む。
父親も兄も帰ることを望んではいない。きっと帰れば「なぜ帰った」と言われるのは目に見えている。
泣き縋りたいほど心配でならない。でもできない。出港前にそう約束したから。指切りをしたから。
「関係ないじゃろう……」
震えた声で呟くユズリハを抱きしめたままハロルドは言葉を返さない。
覚悟を持って嫁いできたことは知っているし、理解していたつもりだったが、ここまでとは思っていなかった。
本当は今すぐにでも帰りたいはず。不安と心配で押し潰されそうな中、ずっと笑顔で過ごしてきた。
それに気付かなかった自分に猛烈に腹が立っていた。
「お前様?」
スッと身体を離して奥へ向かうハロルドのあとを追いかける。
「何をしておるのじゃ? 何を……」
ユズリハの部屋の押し入れを開けて旅行鞄を取り出し、中に適当に掴んだキモノや毎日使っている物を詰めている。
なんのつもりだと焦るユズリハが慌てて隣に座って手を掴むもハロルドはそれを強く振り払った。
「もうお前には何も聞かない」
行かないのかと聞けば行かないと返ってくる。きっと百回聞いても百回同じ言葉が返ってくる。だからハロルドは問いかけはやめた。
バンッと強く締めた鞄を手に立ち上がる。
「僕は義父に会いに和の国に行く。だからお前は妻として僕に同行しろ」
驚きに目を見開くユズリハの前に手を出したハロルドが笑う。
「和の国の女は何があろうと夫についていくんだろ?」
大きく震える唇を噛み締めながら差し出された手を強く握ってユズリハも立ち上がった。
「お祖父様を呼べ!!」
外に出ると先に馬車に行けとシキに荷物を渡すと聞こえるように大声を出したハロルドに使用人が焦る。普段から使用人に怒鳴ることのないハロルドが使用人に命令することはもはや一大事。それも当主を呼べと。
「随分と偉そうに俺を呼──」
「時間がありません」
出てきた祖父の胸に手紙を押し付けると言葉を遮った。
「僕たちは今から和の国に向かいます」
手紙を読んで目を見開いたウォルターにも選択肢は一つしかない。
「俺も行こう」
「お願いします」
祖父に言えばこうなることはわかっていた。普段のハロルドならそれを嫌がるが、今回だけは別。今すぐ和の国に向かうためにはウォルター・ヘインズの力が必要なのだ。
ハロルドがシキに言ったようにウォルターはハロルドに先に行けと言い、一度自室へと戻っていった。
時計を見てまだかと苛立つよりも向かったほうがいいと大急ぎで馬車へと戻り、港へ向かわせる。
「そ、そんな急に言われても困る! 和の国なんて行ったこともねぇのにどうやって行けってんだ!?」
港に着いて真っ先に動いたのはハロルドではなくウォルター。
この港で一番大きな船を所有する船長に話をしに向かったのだが、和の国と聞いて意気揚々と受ける者はいない。
「東に向かうだけだ。地図があれば行ける。お前たちは船乗りだろう」
「そ、それでも和の国なんて……!」
「俺は言ってくれと頼んでるんじゃない、行けと言ってるんだ」
「い、いくらアンタの命令でも和の国に行ったなんてことが知られたら──ッ!?」
和の国に行ったことが他の船乗りにバレたら笑い者になる。厄を持って帰ってきたと言われる可能性を危惧し、毅然とした態度で断ろうとした船長の頬をウォルターがぶった。
正しくは札束で。
「な、なん……!」
叩いた札束を船長の胸に押し付けたあと、胸元から取り出した札束を地面に落とした。一つ、二つ、三つと増えていく光景に目を疑い、固まっている。
「何が必要な物はなんだ? 金か? 命か? 俺の命でこいつらを和の国に届けられるなら俺は喜んで差し出すぞ。欲しい物を言え。くれてやる」
鋭い眼光に汗を掻くも船長は山になった札束を必死に拾い上げたあと、見守っていた船員たちに振り返って声を張り上げた。
「和の国に向かうぞ! 準備しろ!!」
戸惑いながらも「オーッ!」と声を上げた船員たちに大急ぎで指示を出し、船にブリッジをかけてハロルドを先頭に船に上がる。
「和の国まで何日で着けるかはわからない」
「とにかく大急ぎで向かってくれ。着けばいい」
「わかった」
数日で着けなどと無謀なことは言わない。船旅は長い時間揺れているだけで娯楽もない。ユズリハにとっては一秒でも早く到着してほしいとそれだけが願いであるため急いでくれと頼んだ。
これは豪華客船ではない。海の美しさを眺めながら次の目的地に心を躍らせる旅ではないのだ。
「ダイゴロウはなぜ俺に手紙を寄越さなかったんだ!」
「倒れたのに手紙は書けませんよ」
「書くなと言えるぐらいだぞ、書けるだろ!」
とんでもないことを言うなと苦笑するハロルドは延々と続くだろう文句を聞かされないようにユズリハと一緒に移動する。
長い道のり。和の国を出てから到着まで長すぎる日数を船の上で過ごした。今回は和の国に行ったことがない船員たちに任せて船を動かす。プロといえどあのときと同じように最短で到着できるかはわからない。
手紙が届くまでにかなりの日数がかかった。それから船に乗って帰る間に兄は既に妹に最悪の知らせを書いているかもしれないし、もう出されているかもしれない。
それでもハロルドはこの選択が誤りとは思わなかった。
向かっている最中に亡くなったのなら仕方ない。でも向かわずに死を待っていただけならきっと後悔に苛まれていただろうから。ユズリハならきっと後悔して自分を責める。約束だと言えど「薄情な娘」だと一生の傷を負っただろう。
だからこれでいいのだと握りっぱなしだった手を軽く揺らしてユズリハの顔を上げさせた。
「大丈夫だ。あの人がお前に何も言わずに消えるわけがない。きっと夫婦喧嘩した中で親父さんにも約束させてただろうからな」
「そうじゃな」
「だから心配するな。間に合うさ」
いつも笑うのはユズリハの役目だった。ハロルドは外で大変なことが多いから、その気持ちのまま過ごしてほしくなくて笑顔でいるよう心がけた。そうすればハロルドが笑顔でいてくれる日も増えたから。
でも今日はハロルドのほうが笑顔でいてくれる。必死に励ましの言葉をかけてくれる。その優しさにユズリハは手を離し、看板の上に座って深く頭を下げた。
「感謝する」
洋人ではありえない感謝の仕方に慌てて抱き起こす。
「やめろやめろ! 普通に言葉だけでいいんだよ!」
「これは感謝の──」
「いらない! そんな感謝の形は全然嬉しくないんだからな」
「そうか。でもわらわが心から感謝しておることは知っておいてくれ」
「わかってる」
ハロルドの唇が額に触れるとユズリハは素直に目を閉じて受け入れる。
それでも昨日のように幸せな笑みのままではなく、大きく息を吐き出す不安が混ざる。
「ジジ様にも感謝を伝えてくる。金を使わせてしもうた」
「あんなのはあの人からすれば端金だよ」
「端金だろうとわらわの問題で使わせて──」
唇に押し当てられた指に言葉が止まる。
「お前だけの問題じゃない。お前は娘、僕は義理の息子、あの人は親友だ。行く理由はあっても行かない理由はない。だからあの金を返そうなんて思うな。あの人は絶対に受け取らないからな」
なんと言っていいのかわからない。人から与えられる優しさにこれだけ胸が締め付けられるのは初めてで、涙が溢れそうになる。
幸せは大きすぎないほうがいい。でもユズリハはもう自覚している。失うのが怖いほどの幸せを手に入れてしまっているのだと。
「今行くと文句に付き合わされるぞ」
まだ文句を言っている祖父を見ながら呆れるハロルドを見てユズリハが笑う。
「わらわも混ざろうかのう」
地獄に向かっているような不安の中、ユズリハはこれが愛だと確信する。
人の優しさこそ愛なのだと、ウォルターがダイゴロウに見せる親愛も、ハロルドが向けてくれる愛情も、自分がハロルドに抱く愛も全てが大きな愛で出来ているのだと。
大金を使うことを惜しまず人を、船を動かしてくれたウォルターと強引にも連れてきてくれたハロルドに、呆れられるほど何度も何度も心からの感謝を伝えた。
「そういうわけにもいかない状態だって書いてある。今帰らないと絶対に後悔するぞ」
「そなたには関係ない」
そう言われるとは思っていなかった。
キスをした日から徐々に距離は近くなり、最近では笑い合うことばかりだった。
好意がなければ照れはしない。追い出されるのは困ると渋々受け入れてるようにも見えなかった。
馬車の中で長い時間キスをした日、ハロルドはユズリハの好意を確信さえしていた。
それなのに今、ユズリハは明確な拒絶を示した。
関係ない。
それがハロルドが感じていた一線だ。
全てを預けてほしいと願うのにユズリハは叶えてくれない。薄まったといえど一線は消えることなく存在し、こうしていざというときに踏み込ませない。
そこに入って許されるのはシキだけで、この手紙の存在も知っていただろうシキが帰れと背中を押さなかったことも腹が立っている。
「シキ、お前、どうして受け入れたんだ……」
「それがお嬢の意思だからだ」
「こいつが後悔することになってもいいのか!?」
「全て覚悟の上での判断だ。俺が言うことは何もないさね──ッ!」
シキに詰め寄って胸ぐらを掴み、そのまま壁に押し付けるもシキは抵抗しない。
自分の行為が正しいとは思っていない。だが、ユズリハは一度決めたことは曲げないことを知っているため背中は押さなかった。
帰って父親の姿を見るのと、手紙で訃報を知るのと悲しみはどちらが大きいだろうと何十回も考えたが、答えは出ない。
無理して笑い続けるのなら自分はそれに付き合うだけだとシキなりに覚悟を決めてのことだった。
「覚悟の上? 親が死ぬかもしれないってのに覚悟を決めるなんてできるわけないだろ! こいつがしてるのは覚悟じゃない! ただの我慢だ! 自分に言い聞かせてるだけで覚悟なんか決まってない!」
「決まっておる! わらわは帰らぬ!」
「ならなんで僕に言わなかった! 父親が倒れたけど帰るなと言われてるから帰らないとそう言えばよかっただろ!」
「それは……」
口ごもるユズリハだが、すぐに顔を上げて鋭い刃を放った。
「そなたには関係ないからじゃ」
心が冷静になるのを感じながらハロルドはユズリハに手を伸ばして抱きしめた。
「関係ないわけないだろ」
口調は強くハッキリとしているのに瞳はそうじゃなかった。
ハロルドにはその瞳が訴えているように見えたのだ。
“父上に会いたい”
そう言っているように。
「彼は僕にとって義理の父親だ。関係あるんだよ。だから関係ないなんて言うな」
背中に回された手が服を強く掴む。
父親も兄も帰ることを望んではいない。きっと帰れば「なぜ帰った」と言われるのは目に見えている。
泣き縋りたいほど心配でならない。でもできない。出港前にそう約束したから。指切りをしたから。
「関係ないじゃろう……」
震えた声で呟くユズリハを抱きしめたままハロルドは言葉を返さない。
覚悟を持って嫁いできたことは知っているし、理解していたつもりだったが、ここまでとは思っていなかった。
本当は今すぐにでも帰りたいはず。不安と心配で押し潰されそうな中、ずっと笑顔で過ごしてきた。
それに気付かなかった自分に猛烈に腹が立っていた。
「お前様?」
スッと身体を離して奥へ向かうハロルドのあとを追いかける。
「何をしておるのじゃ? 何を……」
ユズリハの部屋の押し入れを開けて旅行鞄を取り出し、中に適当に掴んだキモノや毎日使っている物を詰めている。
なんのつもりだと焦るユズリハが慌てて隣に座って手を掴むもハロルドはそれを強く振り払った。
「もうお前には何も聞かない」
行かないのかと聞けば行かないと返ってくる。きっと百回聞いても百回同じ言葉が返ってくる。だからハロルドは問いかけはやめた。
バンッと強く締めた鞄を手に立ち上がる。
「僕は義父に会いに和の国に行く。だからお前は妻として僕に同行しろ」
驚きに目を見開くユズリハの前に手を出したハロルドが笑う。
「和の国の女は何があろうと夫についていくんだろ?」
大きく震える唇を噛み締めながら差し出された手を強く握ってユズリハも立ち上がった。
「お祖父様を呼べ!!」
外に出ると先に馬車に行けとシキに荷物を渡すと聞こえるように大声を出したハロルドに使用人が焦る。普段から使用人に怒鳴ることのないハロルドが使用人に命令することはもはや一大事。それも当主を呼べと。
「随分と偉そうに俺を呼──」
「時間がありません」
出てきた祖父の胸に手紙を押し付けると言葉を遮った。
「僕たちは今から和の国に向かいます」
手紙を読んで目を見開いたウォルターにも選択肢は一つしかない。
「俺も行こう」
「お願いします」
祖父に言えばこうなることはわかっていた。普段のハロルドならそれを嫌がるが、今回だけは別。今すぐ和の国に向かうためにはウォルター・ヘインズの力が必要なのだ。
ハロルドがシキに言ったようにウォルターはハロルドに先に行けと言い、一度自室へと戻っていった。
時計を見てまだかと苛立つよりも向かったほうがいいと大急ぎで馬車へと戻り、港へ向かわせる。
「そ、そんな急に言われても困る! 和の国なんて行ったこともねぇのにどうやって行けってんだ!?」
港に着いて真っ先に動いたのはハロルドではなくウォルター。
この港で一番大きな船を所有する船長に話をしに向かったのだが、和の国と聞いて意気揚々と受ける者はいない。
「東に向かうだけだ。地図があれば行ける。お前たちは船乗りだろう」
「そ、それでも和の国なんて……!」
「俺は言ってくれと頼んでるんじゃない、行けと言ってるんだ」
「い、いくらアンタの命令でも和の国に行ったなんてことが知られたら──ッ!?」
和の国に行ったことが他の船乗りにバレたら笑い者になる。厄を持って帰ってきたと言われる可能性を危惧し、毅然とした態度で断ろうとした船長の頬をウォルターがぶった。
正しくは札束で。
「な、なん……!」
叩いた札束を船長の胸に押し付けたあと、胸元から取り出した札束を地面に落とした。一つ、二つ、三つと増えていく光景に目を疑い、固まっている。
「何が必要な物はなんだ? 金か? 命か? 俺の命でこいつらを和の国に届けられるなら俺は喜んで差し出すぞ。欲しい物を言え。くれてやる」
鋭い眼光に汗を掻くも船長は山になった札束を必死に拾い上げたあと、見守っていた船員たちに振り返って声を張り上げた。
「和の国に向かうぞ! 準備しろ!!」
戸惑いながらも「オーッ!」と声を上げた船員たちに大急ぎで指示を出し、船にブリッジをかけてハロルドを先頭に船に上がる。
「和の国まで何日で着けるかはわからない」
「とにかく大急ぎで向かってくれ。着けばいい」
「わかった」
数日で着けなどと無謀なことは言わない。船旅は長い時間揺れているだけで娯楽もない。ユズリハにとっては一秒でも早く到着してほしいとそれだけが願いであるため急いでくれと頼んだ。
これは豪華客船ではない。海の美しさを眺めながら次の目的地に心を躍らせる旅ではないのだ。
「ダイゴロウはなぜ俺に手紙を寄越さなかったんだ!」
「倒れたのに手紙は書けませんよ」
「書くなと言えるぐらいだぞ、書けるだろ!」
とんでもないことを言うなと苦笑するハロルドは延々と続くだろう文句を聞かされないようにユズリハと一緒に移動する。
長い道のり。和の国を出てから到着まで長すぎる日数を船の上で過ごした。今回は和の国に行ったことがない船員たちに任せて船を動かす。プロといえどあのときと同じように最短で到着できるかはわからない。
手紙が届くまでにかなりの日数がかかった。それから船に乗って帰る間に兄は既に妹に最悪の知らせを書いているかもしれないし、もう出されているかもしれない。
それでもハロルドはこの選択が誤りとは思わなかった。
向かっている最中に亡くなったのなら仕方ない。でも向かわずに死を待っていただけならきっと後悔に苛まれていただろうから。ユズリハならきっと後悔して自分を責める。約束だと言えど「薄情な娘」だと一生の傷を負っただろう。
だからこれでいいのだと握りっぱなしだった手を軽く揺らしてユズリハの顔を上げさせた。
「大丈夫だ。あの人がお前に何も言わずに消えるわけがない。きっと夫婦喧嘩した中で親父さんにも約束させてただろうからな」
「そうじゃな」
「だから心配するな。間に合うさ」
いつも笑うのはユズリハの役目だった。ハロルドは外で大変なことが多いから、その気持ちのまま過ごしてほしくなくて笑顔でいるよう心がけた。そうすればハロルドが笑顔でいてくれる日も増えたから。
でも今日はハロルドのほうが笑顔でいてくれる。必死に励ましの言葉をかけてくれる。その優しさにユズリハは手を離し、看板の上に座って深く頭を下げた。
「感謝する」
洋人ではありえない感謝の仕方に慌てて抱き起こす。
「やめろやめろ! 普通に言葉だけでいいんだよ!」
「これは感謝の──」
「いらない! そんな感謝の形は全然嬉しくないんだからな」
「そうか。でもわらわが心から感謝しておることは知っておいてくれ」
「わかってる」
ハロルドの唇が額に触れるとユズリハは素直に目を閉じて受け入れる。
それでも昨日のように幸せな笑みのままではなく、大きく息を吐き出す不安が混ざる。
「ジジ様にも感謝を伝えてくる。金を使わせてしもうた」
「あんなのはあの人からすれば端金だよ」
「端金だろうとわらわの問題で使わせて──」
唇に押し当てられた指に言葉が止まる。
「お前だけの問題じゃない。お前は娘、僕は義理の息子、あの人は親友だ。行く理由はあっても行かない理由はない。だからあの金を返そうなんて思うな。あの人は絶対に受け取らないからな」
なんと言っていいのかわからない。人から与えられる優しさにこれだけ胸が締め付けられるのは初めてで、涙が溢れそうになる。
幸せは大きすぎないほうがいい。でもユズリハはもう自覚している。失うのが怖いほどの幸せを手に入れてしまっているのだと。
「今行くと文句に付き合わされるぞ」
まだ文句を言っている祖父を見ながら呆れるハロルドを見てユズリハが笑う。
「わらわも混ざろうかのう」
地獄に向かっているような不安の中、ユズリハはこれが愛だと確信する。
人の優しさこそ愛なのだと、ウォルターがダイゴロウに見せる親愛も、ハロルドが向けてくれる愛情も、自分がハロルドに抱く愛も全てが大きな愛で出来ているのだと。
大金を使うことを惜しまず人を、船を動かしてくれたウォルターと強引にも連れてきてくれたハロルドに、呆れられるほど何度も何度も心からの感謝を伝えた。
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