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和の国
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長い長い船旅を終えて辿り着いた和の国。
到着に一番の安堵を覚えたのはユズリハではなく船長だろう。
ウォルターは地図片手に何度も操舵室に入っては進路を確認していた。
ほとんどを船の中で過ごしていたユズリハたちは知らないが、船員たちはもし和の国に着かなければ殺されると恐怖を抱いていた。
だから今日、こうして無事に和の国に辿り着けたことで全員が床に倒れるほどの安堵を得ていた。
「ここが和の国……」
「ほんの一部じゃ」
長い時間がかかった。兄からヘインズ家に手紙が届いているかすらわからない。返事がないことに怒っているかもしれない。なぜ帰ってきたと怒るだろうか。
様々な心配がよぎる中、ユズリハはできるだけ笑顔を心がけていた。気を抜けば顔が恐怖に染まる。それだけは避けたい。
「ユズリハ!? お前さん、ダイゴロウさんとこのユズリハだろ!?」
声をかけてきた車夫にユズリハが駆け寄る。
「そうじゃ。すまぬが、家まで乗せてってくれ」
「あ、ああ、それは構わねぇが……親父さんのこと聞いて帰ってきたのか?」
「うむ」
「そうか。ダイゴロウさん、残念だったな」
ドクンと心臓が鳴り、一瞬で呼吸が乱れる。嘘だと言ってほしい。誰か今すぐに嘘だと言ってくれと顔が歪む。溢れる涙を堪えきれず、馬車の前でしゃがみ込んでしまう。
口を押さえ、嫌だとみっともない声が漏れないようにすることで精一杯で嗚咽を止めることができない。
「ユズリハ、大丈夫か!?」
「乗せてやれ」
ウォルターの指示に頷いてユズリハを抱え上げ、人力車に乗せる。隣に座る際、車夫と目が合ったがすぐに逸らされた。
船を降りてから誰と目が合ってもずっとそんな感じで、和人たちはすぐに隣の者とヒソヒソと何かを話している。
笑い者というよりは異端者を見るような目を向けられる。居心地が悪く、歓迎されていないことがわかる。
ユズリハはずっとこんな気持ちの中にいたのだ。それを気にならないと笑顔を振り撒いて自分にさえ嘘をつき続けていた。
自分もユズリハのためにそうしなければならない。ここで偉ぶれば嫁いだユズリハが悪く言われ、その親であるダイゴロウまで被害が及ぶ。そして和の国を愛している洋人たちの印象も悪くなってしまう。
(ああ、だからユズリハはずっと我慢してるんだ)
ここに来なければ絶対に理解できなかったユズリハの感情。
隣で泣き震えるユズリハを抱きしめたまま景色に感動する暇もなく、早く着いてくれと願った。
後ろの人力車に乗っている祖父はどんな顔をしているのだろう。絶望しているだろうか。
一番恐れていた結果になったのだ。当然だ。
だが、彼は紳士。一番悲しんでいる娘よりも泣いて取り乱すはずがない。きっといつもどおりの平常を装っているだろう。
「ユズリハ、降りるぞ」
和の国一の豪商と言われるだけのことはあって、門構えから立派なものでヘインズ家とは違って迫力がある。
到着した人力車から降りてユズリハを抱き上げるとそのまま降ろさず開いている門から中へと入っていく。
駆け入ることはせず、ハロルドにしがみついたままのユズリハが震えている。
自分がこのまま中に入れば警戒させてしまうのではないかと迷っているとウォルターが前に出た。
「ダイゴロウはいるか?」
声にも身体にも震えは見せず、まるで遊びに来たかのような軽い声で戸を引いたウォルターが声をかける。中からは「ウォルター様!」と歓迎する声が聞こえてくる。
「旦那様! ウォルター様がお見えですよ! 旦那様!」
兄がそう呼ばれる日はもっと遠いはずだった。まだ何十年とあっただろう父親がそう呼ばれる時代。旦那様と呼ばれる兄を見たくないとギュッと目を瞑るユズリハの耳に届いた大きな声。
「ウォルター!?」
聞き慣れた声。忘れようにも忘れられない大きな声。
目を見開いたユズリハがハロルドから離れ、中へと駆け入った。
兄ではない。兄ではない。
「ちち、うえ……」
「ユズリハ……どうして、お前が……」
いるはずのない娘がいる。父親がこんなに驚いた顔を見せたのはいつぶりだろう。
「父上ぇッ!!」
そんなことを考える暇もなく顔をくしゃくしゃにしながら駆け寄り抱きついた。
大きな身体が娘を受け止める。
なぜ泣いているのかわからない。なぜここに娘がいるのかわからない。
戸惑いながらウォルターを見れば頷かれ、その後ろにハロルドがいることに気付いた。
一体どういうことだと困惑するダイゴロウだが、今はただ、泣いている愛娘をしっかりと抱きしめた。
一時間ほどしてようやく落ち着いたユズリハを交えて奥の部屋にウォルターとハロルドも呼んで四人が集まった。
「な、なななななななな……なんじゃとー!?」
何があったのか説明するとダイゴロウから返ってきた言葉にユズリハが声を上げる。
「か、過労!? 過労と言うたか!?」
「そうだ。だからお前に手紙を書くなとユウゴロウに言っておいたってのにあのバカは……」
ウォルターが持ったままだった兄からの手紙を読んだダイゴロウが周りの障子さえも吹き飛ばしそうなほど大きな溜息を吐き出した。
あまりにも大袈裟に書いてあり、そこに込められた意図に頭が痛くなる。
「じゃ、じゃが、車夫が父上は残念じゃったと……!」
なんのことだと首を傾げるダイゴロウが「ああ!」と声を上げて手を叩く。
「娘が二人とも嫁に出ちまったことだろう。娘が嫁に行くのは嬉しいが、家が寂しくなっちまうから残念だと言い合っててな」
だっはっはっはっはっはっはっ!と大声で笑う父親に拳を振り上げるが、それを見つめるだけで止めようとはしない。
振り下ろせるはずがない。父親が悪いのではなく、悪いのは兄。大袈裟な書き方をして混乱させた兄を殴ると決めて拳を下ろしたユズリハはまた床の上で丸くなる。
「父上が死んでしもうたらどうしようと……それが怖くて……。兄上が手紙を書いてもわらわは船の上で、確認もできぬ。着いても葬式も終わっていたらと思うたら……怖かった……」
誰にも吐露できなかった感情が堰を切って溢れ出す。両手で顔を覆いながら吐き出される恐怖の感情に眉を下げて笑うダイゴロウが丸まった娘を抱き上げた。
「勝手に殺すな。俺はお前が幸せだー!って海の向こうから叫ぶまで死なんと言っただろうが」
「わからぬではないか! 父上はいつも働きすぎなのじゃ! 母上がいつも心配しておったじゃろう! 今回とて過労だったから良かったとは言えぬのじゃぞ! そのまま死んでしまうこともあるやもしれぬ! 今回は運が良かっただけじゃ!」
「そうだな。笑い事じゃあねぇな」
「気をつけよ! わらわに心配かけてくれるな!! 兄上からの連絡は父上の葬儀を済ませたと、それだけでよい!!」
悪かったと何度も謝りながら娘の背中を叩く父親を何度も突き飛ばすように叩くユズリハは幼い子供のようで、ハロルドが知っているユズリハとは別人のように見えた。
本来はこういう子供なのだろう。まだ幼さ残る少女で、しっかりしているように見えて実はそうではない。父親が恋しい少女なのだ。
そんな姿を見ていると無性に抱きしめたくなった。
「お前が嫁に行っても大丈夫だと思ってたんだがな、家に帰ってみるとどうにも寂しくてなぁ。お前のやかましい声も言葉もない、足音もない、笑い声もない家が俺の家じゃ無くなっちまったみてぇで……働いてねぇとおかしくなっちまいそうだったんだわ」
「倒れるまで働く馬鹿がどこにおる……」
「お前の父親だ」
「馬鹿者が……」
ドンッと突き飛ばして父親から離れたユズリハが部屋の隅に行って膝を抱える。恨みがましげに睨む姿が野良猫に似ている。
警戒させないようにとゆっくり近付くハロルドにさえ背中を向けるユズリハは完全に拗ねていた。
「反省してる。もう二度と倒れるようなことにはならねぇから顔上げろ」
ユズリハは振り向かない。
「父上にまでいなくなられたら……」
「……悪かった」
「約束したではないか……」
母親が死んだとき、ダイゴロウは娘に約束した。
『母ちゃんの分まで父ちゃんが長生きするからな』と。
忘れたわけではない。いつだってその約束は胸の中にあって、健康には気を配っていたつもりだった。
それが娘がいなくなった寂しさを隠すために破ってしまったのだ。
「お前と母ちゃんとの約束だからな」
グスッと鼻を啜る音が聞こえ、フンッと鼻を鳴らすのが聞こえた。
これは暫く放っておかなければ話もしてくれない状態だと苦笑しながらウォルターを見ては「すまん」と一度謝るもウォルターは微笑みながら首を振る。
「長旅で疲れた。俺は暫くここに泊まらせてもらうぞ」
「大歓迎だ! ユズリハ、いつまでもガキみてぇに隅っこで拗ねてないでハロルドを案内してやれ! シキ!」
部屋に入ってこなかったシキを呼ぶと面倒そうな顔ですぐに入ってきた。
「俺も長旅で疲れてるんだがねぇ」
「仕事だ仕事」
「暗殺かい?」
「案内、だ」
「ははっ、冗談さね」
シキはいつだっていつもどおりで調子が崩れることがない。
化粧をしていないため顔がドロドロになることはなかったが、誰が見ても泣いたとわかる顔をしている。
こんな顔で出たくないと膝を抱えたままのユズリハを強制的に立たせたダイゴロウが廊下へと放り出した。
「父上! そなたよくもこのような真似が! 誰のために帰ってきたと思うておるのじゃ!」
「俺は頼んでないぞ。お前が勝手に帰ってきたんだ。俺の無事を確認したんだからいつまでも拗ねるな。女々しいぞ」
「女々しゅうない! この馬鹿者!」
「おまッ!」
爪を立てたことでバリッと音を立てて破られた障子に目を見開くもダイゴロウは怒りはしなかった。これをこのまま置いておけばユズリハを思い出せる。
まだ幼かったユズリハが同じことをしていたと思い出しては笑ってしまう。
何を笑っているのかわからないユズリハがフンッと鼻を鳴らして廊下を進んでいく。
「ユズリハ、あの場所は?」
玄関へと向かう途中、ハロルドが気になった庭の一角。不自然に空間が広がっている場所があった。
「あそこにモミジがあったのじゃ」
周りには他にも木や植物や花があるのに、そこだけ抜かれたように草も生えてはいない。
この家の象徴として植えてあったのがわかるほど大きな空間。
母親だと思って眺めていた物がなくなり、向こうに到着するまでの間、どんな気持ちで庭を眺めていたのだろう。
モミジがあった場所を眺めるユズリハの横顔は“ユズリハ邸”で見るものとは違っている。どこか寂しげで、どこか切なげ。
「ど、どうした?」
急に抱きしめられたことに戸惑うユズリハの頭上から「ごめんな」と謝罪が降る。
それが何を意味しているのか、会話の流れから察したユズリハが背中に腕を回して微笑む。
「お前様が気に入ってくれただけでわらわは嬉しい」
庭を好きだと言ってくれた。何度も何度も。庭を歩き、魚に餌をやり、モミジを見上げた。
渋々ではなくハロルドの意思でそうしてくれた。
ユズリハの心はそれだけで満たされる。幸せだと感じるのだ。
謝罪など必要ない。そんなものは欲しくもない。
だから身体を離してハロルドを見上げる。
「この国を好きになってくれるともっと嬉しい」
「そうだな」
約束できるかはわからない。自分が好きなのは和の国ではなく、和人でもなく、ユズリハという女であって和女だから好きになったわけじゃない。
それでもこの目で見て、触れて、祖父が昔から言っていた『知ればきっと好きになる』を理解したいと思っていた。
「もういいかい?」
「ッ! あ、ああ、もちろんじゃ!」
「イチャつくのはいいが、俺のいないとこでやってくれるかい? 寂しい独り身には毒さね」
イチャついてはいないと言いたいが、抱き合っている状態で言ったところで説得力はない。
「シキ、兄上はおったか?」
「いや、姿はなかったな」
「見つけたらタダではおかぬ」
懲らしめると意気込むユズリハの背中を軽く叩いて落ち着けと宥めるハロルドはそうすることで緊張を逸らしている。
港に降り立ったときに集中した奇異の目が案内中はずっと向けられるのだろう。気にしないようにと心掛けていても気になってしまう。
クスクスと不愉快な笑い声が聞こえる中で歩くのと、怪訝な顔をされ続けるのとではどちらがマシか。考えたところで答えは出ない。それは外に出て、視線を浴びてようやくわかることだ。
玄関で靴を履き、先に出るユズリハを追いかけて門を出た瞬間、わかった。
到着に一番の安堵を覚えたのはユズリハではなく船長だろう。
ウォルターは地図片手に何度も操舵室に入っては進路を確認していた。
ほとんどを船の中で過ごしていたユズリハたちは知らないが、船員たちはもし和の国に着かなければ殺されると恐怖を抱いていた。
だから今日、こうして無事に和の国に辿り着けたことで全員が床に倒れるほどの安堵を得ていた。
「ここが和の国……」
「ほんの一部じゃ」
長い時間がかかった。兄からヘインズ家に手紙が届いているかすらわからない。返事がないことに怒っているかもしれない。なぜ帰ってきたと怒るだろうか。
様々な心配がよぎる中、ユズリハはできるだけ笑顔を心がけていた。気を抜けば顔が恐怖に染まる。それだけは避けたい。
「ユズリハ!? お前さん、ダイゴロウさんとこのユズリハだろ!?」
声をかけてきた車夫にユズリハが駆け寄る。
「そうじゃ。すまぬが、家まで乗せてってくれ」
「あ、ああ、それは構わねぇが……親父さんのこと聞いて帰ってきたのか?」
「うむ」
「そうか。ダイゴロウさん、残念だったな」
ドクンと心臓が鳴り、一瞬で呼吸が乱れる。嘘だと言ってほしい。誰か今すぐに嘘だと言ってくれと顔が歪む。溢れる涙を堪えきれず、馬車の前でしゃがみ込んでしまう。
口を押さえ、嫌だとみっともない声が漏れないようにすることで精一杯で嗚咽を止めることができない。
「ユズリハ、大丈夫か!?」
「乗せてやれ」
ウォルターの指示に頷いてユズリハを抱え上げ、人力車に乗せる。隣に座る際、車夫と目が合ったがすぐに逸らされた。
船を降りてから誰と目が合ってもずっとそんな感じで、和人たちはすぐに隣の者とヒソヒソと何かを話している。
笑い者というよりは異端者を見るような目を向けられる。居心地が悪く、歓迎されていないことがわかる。
ユズリハはずっとこんな気持ちの中にいたのだ。それを気にならないと笑顔を振り撒いて自分にさえ嘘をつき続けていた。
自分もユズリハのためにそうしなければならない。ここで偉ぶれば嫁いだユズリハが悪く言われ、その親であるダイゴロウまで被害が及ぶ。そして和の国を愛している洋人たちの印象も悪くなってしまう。
(ああ、だからユズリハはずっと我慢してるんだ)
ここに来なければ絶対に理解できなかったユズリハの感情。
隣で泣き震えるユズリハを抱きしめたまま景色に感動する暇もなく、早く着いてくれと願った。
後ろの人力車に乗っている祖父はどんな顔をしているのだろう。絶望しているだろうか。
一番恐れていた結果になったのだ。当然だ。
だが、彼は紳士。一番悲しんでいる娘よりも泣いて取り乱すはずがない。きっといつもどおりの平常を装っているだろう。
「ユズリハ、降りるぞ」
和の国一の豪商と言われるだけのことはあって、門構えから立派なものでヘインズ家とは違って迫力がある。
到着した人力車から降りてユズリハを抱き上げるとそのまま降ろさず開いている門から中へと入っていく。
駆け入ることはせず、ハロルドにしがみついたままのユズリハが震えている。
自分がこのまま中に入れば警戒させてしまうのではないかと迷っているとウォルターが前に出た。
「ダイゴロウはいるか?」
声にも身体にも震えは見せず、まるで遊びに来たかのような軽い声で戸を引いたウォルターが声をかける。中からは「ウォルター様!」と歓迎する声が聞こえてくる。
「旦那様! ウォルター様がお見えですよ! 旦那様!」
兄がそう呼ばれる日はもっと遠いはずだった。まだ何十年とあっただろう父親がそう呼ばれる時代。旦那様と呼ばれる兄を見たくないとギュッと目を瞑るユズリハの耳に届いた大きな声。
「ウォルター!?」
聞き慣れた声。忘れようにも忘れられない大きな声。
目を見開いたユズリハがハロルドから離れ、中へと駆け入った。
兄ではない。兄ではない。
「ちち、うえ……」
「ユズリハ……どうして、お前が……」
いるはずのない娘がいる。父親がこんなに驚いた顔を見せたのはいつぶりだろう。
「父上ぇッ!!」
そんなことを考える暇もなく顔をくしゃくしゃにしながら駆け寄り抱きついた。
大きな身体が娘を受け止める。
なぜ泣いているのかわからない。なぜここに娘がいるのかわからない。
戸惑いながらウォルターを見れば頷かれ、その後ろにハロルドがいることに気付いた。
一体どういうことだと困惑するダイゴロウだが、今はただ、泣いている愛娘をしっかりと抱きしめた。
一時間ほどしてようやく落ち着いたユズリハを交えて奥の部屋にウォルターとハロルドも呼んで四人が集まった。
「な、なななななななな……なんじゃとー!?」
何があったのか説明するとダイゴロウから返ってきた言葉にユズリハが声を上げる。
「か、過労!? 過労と言うたか!?」
「そうだ。だからお前に手紙を書くなとユウゴロウに言っておいたってのにあのバカは……」
ウォルターが持ったままだった兄からの手紙を読んだダイゴロウが周りの障子さえも吹き飛ばしそうなほど大きな溜息を吐き出した。
あまりにも大袈裟に書いてあり、そこに込められた意図に頭が痛くなる。
「じゃ、じゃが、車夫が父上は残念じゃったと……!」
なんのことだと首を傾げるダイゴロウが「ああ!」と声を上げて手を叩く。
「娘が二人とも嫁に出ちまったことだろう。娘が嫁に行くのは嬉しいが、家が寂しくなっちまうから残念だと言い合っててな」
だっはっはっはっはっはっはっ!と大声で笑う父親に拳を振り上げるが、それを見つめるだけで止めようとはしない。
振り下ろせるはずがない。父親が悪いのではなく、悪いのは兄。大袈裟な書き方をして混乱させた兄を殴ると決めて拳を下ろしたユズリハはまた床の上で丸くなる。
「父上が死んでしもうたらどうしようと……それが怖くて……。兄上が手紙を書いてもわらわは船の上で、確認もできぬ。着いても葬式も終わっていたらと思うたら……怖かった……」
誰にも吐露できなかった感情が堰を切って溢れ出す。両手で顔を覆いながら吐き出される恐怖の感情に眉を下げて笑うダイゴロウが丸まった娘を抱き上げた。
「勝手に殺すな。俺はお前が幸せだー!って海の向こうから叫ぶまで死なんと言っただろうが」
「わからぬではないか! 父上はいつも働きすぎなのじゃ! 母上がいつも心配しておったじゃろう! 今回とて過労だったから良かったとは言えぬのじゃぞ! そのまま死んでしまうこともあるやもしれぬ! 今回は運が良かっただけじゃ!」
「そうだな。笑い事じゃあねぇな」
「気をつけよ! わらわに心配かけてくれるな!! 兄上からの連絡は父上の葬儀を済ませたと、それだけでよい!!」
悪かったと何度も謝りながら娘の背中を叩く父親を何度も突き飛ばすように叩くユズリハは幼い子供のようで、ハロルドが知っているユズリハとは別人のように見えた。
本来はこういう子供なのだろう。まだ幼さ残る少女で、しっかりしているように見えて実はそうではない。父親が恋しい少女なのだ。
そんな姿を見ていると無性に抱きしめたくなった。
「お前が嫁に行っても大丈夫だと思ってたんだがな、家に帰ってみるとどうにも寂しくてなぁ。お前のやかましい声も言葉もない、足音もない、笑い声もない家が俺の家じゃ無くなっちまったみてぇで……働いてねぇとおかしくなっちまいそうだったんだわ」
「倒れるまで働く馬鹿がどこにおる……」
「お前の父親だ」
「馬鹿者が……」
ドンッと突き飛ばして父親から離れたユズリハが部屋の隅に行って膝を抱える。恨みがましげに睨む姿が野良猫に似ている。
警戒させないようにとゆっくり近付くハロルドにさえ背中を向けるユズリハは完全に拗ねていた。
「反省してる。もう二度と倒れるようなことにはならねぇから顔上げろ」
ユズリハは振り向かない。
「父上にまでいなくなられたら……」
「……悪かった」
「約束したではないか……」
母親が死んだとき、ダイゴロウは娘に約束した。
『母ちゃんの分まで父ちゃんが長生きするからな』と。
忘れたわけではない。いつだってその約束は胸の中にあって、健康には気を配っていたつもりだった。
それが娘がいなくなった寂しさを隠すために破ってしまったのだ。
「お前と母ちゃんとの約束だからな」
グスッと鼻を啜る音が聞こえ、フンッと鼻を鳴らすのが聞こえた。
これは暫く放っておかなければ話もしてくれない状態だと苦笑しながらウォルターを見ては「すまん」と一度謝るもウォルターは微笑みながら首を振る。
「長旅で疲れた。俺は暫くここに泊まらせてもらうぞ」
「大歓迎だ! ユズリハ、いつまでもガキみてぇに隅っこで拗ねてないでハロルドを案内してやれ! シキ!」
部屋に入ってこなかったシキを呼ぶと面倒そうな顔ですぐに入ってきた。
「俺も長旅で疲れてるんだがねぇ」
「仕事だ仕事」
「暗殺かい?」
「案内、だ」
「ははっ、冗談さね」
シキはいつだっていつもどおりで調子が崩れることがない。
化粧をしていないため顔がドロドロになることはなかったが、誰が見ても泣いたとわかる顔をしている。
こんな顔で出たくないと膝を抱えたままのユズリハを強制的に立たせたダイゴロウが廊下へと放り出した。
「父上! そなたよくもこのような真似が! 誰のために帰ってきたと思うておるのじゃ!」
「俺は頼んでないぞ。お前が勝手に帰ってきたんだ。俺の無事を確認したんだからいつまでも拗ねるな。女々しいぞ」
「女々しゅうない! この馬鹿者!」
「おまッ!」
爪を立てたことでバリッと音を立てて破られた障子に目を見開くもダイゴロウは怒りはしなかった。これをこのまま置いておけばユズリハを思い出せる。
まだ幼かったユズリハが同じことをしていたと思い出しては笑ってしまう。
何を笑っているのかわからないユズリハがフンッと鼻を鳴らして廊下を進んでいく。
「ユズリハ、あの場所は?」
玄関へと向かう途中、ハロルドが気になった庭の一角。不自然に空間が広がっている場所があった。
「あそこにモミジがあったのじゃ」
周りには他にも木や植物や花があるのに、そこだけ抜かれたように草も生えてはいない。
この家の象徴として植えてあったのがわかるほど大きな空間。
母親だと思って眺めていた物がなくなり、向こうに到着するまでの間、どんな気持ちで庭を眺めていたのだろう。
モミジがあった場所を眺めるユズリハの横顔は“ユズリハ邸”で見るものとは違っている。どこか寂しげで、どこか切なげ。
「ど、どうした?」
急に抱きしめられたことに戸惑うユズリハの頭上から「ごめんな」と謝罪が降る。
それが何を意味しているのか、会話の流れから察したユズリハが背中に腕を回して微笑む。
「お前様が気に入ってくれただけでわらわは嬉しい」
庭を好きだと言ってくれた。何度も何度も。庭を歩き、魚に餌をやり、モミジを見上げた。
渋々ではなくハロルドの意思でそうしてくれた。
ユズリハの心はそれだけで満たされる。幸せだと感じるのだ。
謝罪など必要ない。そんなものは欲しくもない。
だから身体を離してハロルドを見上げる。
「この国を好きになってくれるともっと嬉しい」
「そうだな」
約束できるかはわからない。自分が好きなのは和の国ではなく、和人でもなく、ユズリハという女であって和女だから好きになったわけじゃない。
それでもこの目で見て、触れて、祖父が昔から言っていた『知ればきっと好きになる』を理解したいと思っていた。
「もういいかい?」
「ッ! あ、ああ、もちろんじゃ!」
「イチャつくのはいいが、俺のいないとこでやってくれるかい? 寂しい独り身には毒さね」
イチャついてはいないと言いたいが、抱き合っている状態で言ったところで説得力はない。
「シキ、兄上はおったか?」
「いや、姿はなかったな」
「見つけたらタダではおかぬ」
懲らしめると意気込むユズリハの背中を軽く叩いて落ち着けと宥めるハロルドはそうすることで緊張を逸らしている。
港に降り立ったときに集中した奇異の目が案内中はずっと向けられるのだろう。気にしないようにと心掛けていても気になってしまう。
クスクスと不愉快な笑い声が聞こえる中で歩くのと、怪訝な顔をされ続けるのとではどちらがマシか。考えたところで答えは出ない。それは外に出て、視線を浴びてようやくわかることだ。
玄関で靴を履き、先に出るユズリハを追いかけて門を出た瞬間、わかった。
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(これは"愛することのない"の亜種?)
前世を思い出したばかりの彼女は、ここが小説『冷酷皇帝の最愛妃』の中だと気づき、冷静に状況を分析していた。
エリザの役どころは、公爵家が皇帝に押し付けた花嫁で、彼の恋路の邪魔をするモブ皇妃。小説のシュテファンは、最終的には運命の恋人アンネと結ばれる。
それは確かに、子どもが出来たら困るだろう。
速やかな"円満離婚"を前提にシュテファンと契約を結んだエリザだったが、とあるキッカケで彼の子を身ごもることになってしまい──?
シュテファンとの契約違反におののき、思わず逃走したエリザに「やっと見つけた」と追いすがる夫。
どうやら彼はエリザ一筋だったらしく。あれ? あなたの恋人アンネはどうしたの?
※小説家になろう様でも掲載しています
※表紙イラスト:あさぎかな先生にコラージュアートをいただきました
※毎朝7時に更新していく予定です
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