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二人きり2
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「彼は、花の蜜が好きでした」
「知っている。花の蜜を瓶に詰めて送ってくれたことがある」
「あら、そこまでの仲でしたか」
「毒はないと思うが、残っていたとしても私なら平気だろうと手紙が添えてあった」
「あの人ったら……」
フィルングの性格上、本当に書いたのだろうことが容易に想像がつくだけに呆れたように首を振るアストリッドを一瞥しては氷の上で踊る精霊に目を向ける。
「彼は少年の心を忘れない人だった。王であることに責任を感じながらも民に愛されることに純粋に喜びを感じ、純粋な心で民に愛を返していたように思う。私が知っているのは手紙上と数えるだけの対面での会話のみの彼だが、それでも彼の魅力は伝わってきた」
「ふふっ、彼が聞いたらとても喜ぶでしょうね」
『アストリッド、君の温室にある花を摘んでもいいかい?』
『押し花はもうたくさんあるからしおりにはしないでね』
『蜜を吸うんだ』
『蜜を?』
プチッと花を摘むとそこから雫が一滴落ちそうになっているのが見え、フィルングに促されるままに口を開けた。
『どうだい?』
『甘い……』
『ここにある花はどれも甘い蜜を出すものばかりだよ。甘い香りがして、甘い蜜を蓄えている。君のようにね』
『私は甘い蜜なんて──……』
ん?と挑発的な目を向けてくるフィルングの表情を見て口を閉じた。何を言ったところで返ってくる言葉は決まっている。
『昼間よ』
『夜に来たら君を抱く時間が減るじゃないか』
『あなたの頭にはそれしかないの?』
『君の身体が目当てで結婚したと言っただろう?』
優しく笑いながら重ねてきた唇の熱を今でも覚えている。
いつも、どんな場面でも笑わせてくれた優しい人。
会いたいと、心が喚きそうになる。
思い出すだけであたたかい気持ちになる思い出なのに、今はまだ涙が溢れてしまう。
両手で包んでいたグラスの中に涙が一滴落ちた。
「アストリッド」
名前を呼ばれて顔を上げるとザファルの指が頬に触れた。
流れる涙を無骨な指が拭い、金色の瞳と視線が絡む。
夜空に浮かぶ月を見ているような感覚に陥るほど静かな瞳を見つめ返していると触れていた指が開いた手へと変わり、添えられた。
「私は、あなたを守るとフィルングに約束した。彼が守りたくても守れなかったあなたの未来までもを守ると。どうか、それを果たさせてはくれないだろうか?」
驚きはない。あの装置に残されていたフィルングからの遺言は、生前、ザファルと交わした上での言葉だろうとわかっているから。
彼は皇帝で、彼に守られれば一生安泰だ。
わかっている。わかっているが──頷けなかった。
「迷惑をかけると思っているのなら、その考えを改めてくれ。あなたがここにいることはフィルングの望みだ」
ずるい言葉だとザファルもわかっている。フィルングの遺言が入った装置を渡し、その中にどういった言葉が残されているか予想できていながら引き止めるために使っている。
自覚した上で使うことがどれほど狡猾で愚かなことか自覚しながらも引き止める方法がそれしか思い浮かばないでいた。
アストリッドはそれに対し、ザファルから目を逸らした直後にかぶりを振った。
「私がここで暮らし続けることで不安を抱える方がいます。あなたはフィルングとの約束を果たすため、私に気を遣い続けるでしょうし、それが夫人方にとっては大きなストレスとなると思います」
「あなたが気にする必要はない」
「私がいることで問題が発生するのですから、気にするなというのは、できない話です」
ザファルはこの瞬間、手紙に書かれていたフィルングの言葉を思い出していた。
『妻は従順そうに見えるが、実際はとても頑固な一面がある。何度言葉でねじ伏せられているかわからない』
その言葉も結局は惚気に変わるのだが、納得した。
一見、とても大人しそうで、従順な女性という王妃向きな性格そうに見えるが、話してみると自分の意思を持っている女性だった。
ザファルは迷っていた。ここから自分がどう動くべきか。どういう言葉を使えば相手の意思を変えられるのか。
「皇帝陛下のお気持ちはとてもありがたいです。命を救っていただいただけでなく、このような配慮までしていただいて、感謝してもしきれません。この恩はいつか必ず──」
「ここに居てくれればいい」
驚いた顔をするアストリッドが見たザファルの目は真剣そのものだった。
『冗談が通じないほど真面目な青年だが、そこがいい。真面目すぎるが故に心配もあるが、彼のような男は世界に必要だ』
フィルングは笑いながらそう言っていた。手紙を読んでは声を上げて笑うこともあり、『冗談だったんだがなぁ』と言って頭を掻くこともあった。
だから、彼のこの言葉は冗談ではないとわかる。
「それが、あなたの命を救ったことへの恩返しになると思ってくれればそれでいい」
「皇帝陛下……」
「ザファルでいい」
「──ザファル陛下……」
エルヴァングで顔を合わせてから一度も名前を呼ばれたことがなかったことがずっと気になっていたザファルにとって、この展開は流れがやってきたと思えるもので、ここでは一瞬の空白も与えないつもりだった。
「だから、恩を返すというのであれば、そうしてくれ。それが私の願いだ」
アストリッドは答えなかった。自立すると決めた矢先に放たれたザファルからの言葉は、その道を阻むようなもので、受けてしまえば大きな壁となる。
フィルングの魂が見えるなら、きっと彼の後ろに立って何度も頷いているだろう。頬に触れて、優しい微笑みを浮かべながら「頼む」と甘い声で囁く──……
「……もし、ザファル陛下がお持ちの別荘があれば、そちらに移動したいです」
「ここにいてくれ。私の手が届く範囲に」
「……ここは、居心地が悪いです」
「あなたにとって最良の環境になるよう手配する」
そういうことではないと目を閉じてかぶりを振るが、開けたときに見えるザファルの瞳がどこか切実に見え、懇願しているようにも見えるだけにハッキリと断ることができないでいた。
あからさまなまでに困った顔をするアストリッドから視線は逸らさないが、鋭さが消えていく。
「……別荘は、遠い。ここから馬を全力で走らせても丸二日はかかる」
愛馬にそこまで酷使させることも、往復で四日──そこまで国を離れることもできない。
「それに、別荘の周りには何もない。市場もなければ泉もない。不自由だ。あなたもイヴァも馬には乗れないだろう。アミーラはあなたの傍を離れることはできない」
買い物に行く手段がないことを挙げて、別荘への移動を考え直させようとしているザファルにアストリッドは眉を下げながらも笑ってしまった。
『ザファル・アレイファーンという男はとてもわかりやすいんだ。真面目で正直で率直で素直。嘘が苦手な、信頼に値する人間だよ』
思い出したフィルングの言葉にアストリッドの表情に小さな微笑みが戻る。
(そのとおりね、フィルング)
目の前にいる男はとてもわかりやすくて、その熱意が逆にアストリッドを困らせる。
『ここから馬を全力で走らせても丸二日はかかる』
(それじゃあまるで……)
言葉にはできない。心の中でさえ。もし、それを意識してしまえば、もし、それが当たっていたら、何かが変わってしまう気がして──……
「ルー」
ふと聞こえた声にザファルが警戒するように周りを見るも何もない。
「大丈夫。ルィムです」
「ルィム?」
なんのことだと眉を寄せるザファルの目の前まで風の精霊が浮かび上がり、「ルー!」と今度はハッキリと声を聞かせる。甲高い、愛らしい声。
目の前で自分の顔を指す様子は、自分が「ルィム」であることを知らせているようだった。
「知っている。花の蜜を瓶に詰めて送ってくれたことがある」
「あら、そこまでの仲でしたか」
「毒はないと思うが、残っていたとしても私なら平気だろうと手紙が添えてあった」
「あの人ったら……」
フィルングの性格上、本当に書いたのだろうことが容易に想像がつくだけに呆れたように首を振るアストリッドを一瞥しては氷の上で踊る精霊に目を向ける。
「彼は少年の心を忘れない人だった。王であることに責任を感じながらも民に愛されることに純粋に喜びを感じ、純粋な心で民に愛を返していたように思う。私が知っているのは手紙上と数えるだけの対面での会話のみの彼だが、それでも彼の魅力は伝わってきた」
「ふふっ、彼が聞いたらとても喜ぶでしょうね」
『アストリッド、君の温室にある花を摘んでもいいかい?』
『押し花はもうたくさんあるからしおりにはしないでね』
『蜜を吸うんだ』
『蜜を?』
プチッと花を摘むとそこから雫が一滴落ちそうになっているのが見え、フィルングに促されるままに口を開けた。
『どうだい?』
『甘い……』
『ここにある花はどれも甘い蜜を出すものばかりだよ。甘い香りがして、甘い蜜を蓄えている。君のようにね』
『私は甘い蜜なんて──……』
ん?と挑発的な目を向けてくるフィルングの表情を見て口を閉じた。何を言ったところで返ってくる言葉は決まっている。
『昼間よ』
『夜に来たら君を抱く時間が減るじゃないか』
『あなたの頭にはそれしかないの?』
『君の身体が目当てで結婚したと言っただろう?』
優しく笑いながら重ねてきた唇の熱を今でも覚えている。
いつも、どんな場面でも笑わせてくれた優しい人。
会いたいと、心が喚きそうになる。
思い出すだけであたたかい気持ちになる思い出なのに、今はまだ涙が溢れてしまう。
両手で包んでいたグラスの中に涙が一滴落ちた。
「アストリッド」
名前を呼ばれて顔を上げるとザファルの指が頬に触れた。
流れる涙を無骨な指が拭い、金色の瞳と視線が絡む。
夜空に浮かぶ月を見ているような感覚に陥るほど静かな瞳を見つめ返していると触れていた指が開いた手へと変わり、添えられた。
「私は、あなたを守るとフィルングに約束した。彼が守りたくても守れなかったあなたの未来までもを守ると。どうか、それを果たさせてはくれないだろうか?」
驚きはない。あの装置に残されていたフィルングからの遺言は、生前、ザファルと交わした上での言葉だろうとわかっているから。
彼は皇帝で、彼に守られれば一生安泰だ。
わかっている。わかっているが──頷けなかった。
「迷惑をかけると思っているのなら、その考えを改めてくれ。あなたがここにいることはフィルングの望みだ」
ずるい言葉だとザファルもわかっている。フィルングの遺言が入った装置を渡し、その中にどういった言葉が残されているか予想できていながら引き止めるために使っている。
自覚した上で使うことがどれほど狡猾で愚かなことか自覚しながらも引き止める方法がそれしか思い浮かばないでいた。
アストリッドはそれに対し、ザファルから目を逸らした直後にかぶりを振った。
「私がここで暮らし続けることで不安を抱える方がいます。あなたはフィルングとの約束を果たすため、私に気を遣い続けるでしょうし、それが夫人方にとっては大きなストレスとなると思います」
「あなたが気にする必要はない」
「私がいることで問題が発生するのですから、気にするなというのは、できない話です」
ザファルはこの瞬間、手紙に書かれていたフィルングの言葉を思い出していた。
『妻は従順そうに見えるが、実際はとても頑固な一面がある。何度言葉でねじ伏せられているかわからない』
その言葉も結局は惚気に変わるのだが、納得した。
一見、とても大人しそうで、従順な女性という王妃向きな性格そうに見えるが、話してみると自分の意思を持っている女性だった。
ザファルは迷っていた。ここから自分がどう動くべきか。どういう言葉を使えば相手の意思を変えられるのか。
「皇帝陛下のお気持ちはとてもありがたいです。命を救っていただいただけでなく、このような配慮までしていただいて、感謝してもしきれません。この恩はいつか必ず──」
「ここに居てくれればいい」
驚いた顔をするアストリッドが見たザファルの目は真剣そのものだった。
『冗談が通じないほど真面目な青年だが、そこがいい。真面目すぎるが故に心配もあるが、彼のような男は世界に必要だ』
フィルングは笑いながらそう言っていた。手紙を読んでは声を上げて笑うこともあり、『冗談だったんだがなぁ』と言って頭を掻くこともあった。
だから、彼のこの言葉は冗談ではないとわかる。
「それが、あなたの命を救ったことへの恩返しになると思ってくれればそれでいい」
「皇帝陛下……」
「ザファルでいい」
「──ザファル陛下……」
エルヴァングで顔を合わせてから一度も名前を呼ばれたことがなかったことがずっと気になっていたザファルにとって、この展開は流れがやってきたと思えるもので、ここでは一瞬の空白も与えないつもりだった。
「だから、恩を返すというのであれば、そうしてくれ。それが私の願いだ」
アストリッドは答えなかった。自立すると決めた矢先に放たれたザファルからの言葉は、その道を阻むようなもので、受けてしまえば大きな壁となる。
フィルングの魂が見えるなら、きっと彼の後ろに立って何度も頷いているだろう。頬に触れて、優しい微笑みを浮かべながら「頼む」と甘い声で囁く──……
「……もし、ザファル陛下がお持ちの別荘があれば、そちらに移動したいです」
「ここにいてくれ。私の手が届く範囲に」
「……ここは、居心地が悪いです」
「あなたにとって最良の環境になるよう手配する」
そういうことではないと目を閉じてかぶりを振るが、開けたときに見えるザファルの瞳がどこか切実に見え、懇願しているようにも見えるだけにハッキリと断ることができないでいた。
あからさまなまでに困った顔をするアストリッドから視線は逸らさないが、鋭さが消えていく。
「……別荘は、遠い。ここから馬を全力で走らせても丸二日はかかる」
愛馬にそこまで酷使させることも、往復で四日──そこまで国を離れることもできない。
「それに、別荘の周りには何もない。市場もなければ泉もない。不自由だ。あなたもイヴァも馬には乗れないだろう。アミーラはあなたの傍を離れることはできない」
買い物に行く手段がないことを挙げて、別荘への移動を考え直させようとしているザファルにアストリッドは眉を下げながらも笑ってしまった。
『ザファル・アレイファーンという男はとてもわかりやすいんだ。真面目で正直で率直で素直。嘘が苦手な、信頼に値する人間だよ』
思い出したフィルングの言葉にアストリッドの表情に小さな微笑みが戻る。
(そのとおりね、フィルング)
目の前にいる男はとてもわかりやすくて、その熱意が逆にアストリッドを困らせる。
『ここから馬を全力で走らせても丸二日はかかる』
(それじゃあまるで……)
言葉にはできない。心の中でさえ。もし、それを意識してしまえば、もし、それが当たっていたら、何かが変わってしまう気がして──……
「ルー」
ふと聞こえた声にザファルが警戒するように周りを見るも何もない。
「大丈夫。ルィムです」
「ルィム?」
なんのことだと眉を寄せるザファルの目の前まで風の精霊が浮かび上がり、「ルー!」と今度はハッキリと声を聞かせる。甲高い、愛らしい声。
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