たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

文字の大きさ
54 / 105

素顔

しおりを挟む
「あなたはいつも迷惑をかけることを気にしていたが、迷惑をかけてしまったのは私のほうだ」
「迷惑だなんてとんでもない。しっかりと休むことは大切なんですよ」
「フィルングもそうしていたのだろうか?」

 彼にとってフィルングという男がどれほど指針であったかよくわかる問いかけにアストリッドが小さく笑った。

「あの人は何かと理由をつけては散歩に出かけていました。ルィムが外に出ろと押してくるから少し歩いてくると言ったり、閉塞感があるから執務室の壁を壊すか息抜きに外に出る許可を出すかの二択を執事長に迫ったり、十分だけ一人にしてくれと迫真の演技で監視役を追い出してはそのまま鍵をかけて一時間ほど昼寝をしたり──彼は息抜きに関しては天才と呼べるほどでした」
「意外だな。もっと真面目だと思っていた」

 ザファルが驚いた顔をするのも無理はない。フィルングは明るいが不真面目という印象は与えない男だ。世界会議でどういう一面を見せていたのかは知らないが、この真面目な男に慕われるぐらいだから真面目な発言も多かったのだろうと推測する。

「真面目は真面目なんです。国政に関することには特に頭を悩ませ、寝食も忘れて考え込むこともありました。彼は息抜きをすることで頭の中をいっぱいにすることを避けていたんです」
「何故だ?」
「こう言っていました。『脳は無限の倉庫じゃない。パンパンに詰まった状態の倉庫に新しい物を持ってきたところで入れることはできない。パンパンな状態では良いアイデアは浮かんでこない。だから常に脳に余裕を持たせておくんだ。疲れていては動きたくないのは身体だけでなく脳も同じだから、脳を休ませることを優先するべきだ』と。執事長は素晴らしい言い訳だと褒めていましたが」

 素晴らしい嫌味をありがとう、と返したフィルングとともに笑ったのもアストリッドには昨日のことのように思い出せる。
 愛しい思い出を語るアストリッドの瞳に涙が滲んでいないことがザファルに安心感を与えながらも、その笑顔はフィルングだけのものだと思うと少し胸が締め付けられた。

「休めということか」
「喜べるものではないでしょうが、休む大切さを知る良い機会になるかもしれませんよ」

 休むということがどういうことなのかザファルにはわからない。
 皇帝に指名されてから休暇と名のつくものはなかった。毎日毎日同じことの繰り返し。面白みのない人生だと一人で考えることもあったが、すぐに考えることをやめた。考えたところで今日も明日も皇帝であり、山積みの仕事を変えることはできないのだからと思い至るのだ。
 だから、今日、こうしてハキームから与えられた休みは神からの贈り物のような気がしていた。
 ザファルにとってはラッキーこの上ない。自室ではなく、アストリッドの宮で休めと言われたのだから。

「ですが、夫人方が不満を抱えるのではないでしょうか?」
「ハキームが言ったことだ。説明も上手くやるだろう。私が言うよりもずっと効果があるんだ」
「そうなのですか?」
「ハキームは強い発言力を持っている。先代である父にも意見できるほどにな。マルダーン・アレイファーンを子供扱いできるのはハキームだけだ。だから納得せずとも夫人たちは文句を言いに来ることはないだろう」

 ハキームのこともマルダーンのこともよく知らないが、何故か容易に想像できてしまう。

「今度は私が命を助けられたな」

 ふっと小さな笑みを浮かべるザファルにアストリッドは緩くかぶりを振った。

「私のは応急処置です。あなたがしてくださったこととは比べ物になりません」
「命を救ったということに変わりはない」

 アストリッドはもう一度かぶりを振る。
 神経毒の対処はそれほど難しいことではないとフィルングが言っていた。
 イフラーシュが船の中で暗殺という言葉を出したときからそういう文化が根付いているのだろうと推測していただけに、庭にハーブを植える際に毒に効果的な植物も一緒に植えておいたのだ。何があってもいいように。役に立たなければいいと願っていたのに、こうも早く使う日が来るとは思っていなかったアストリッドにはショックでもあった。

「誰が犯人か考えているのか?」
「……そういうわけでは……」
「わかりやすいと言われたことは?」

 ある。フィルングはいつもそう言っていたし、黙っていても、いつも考えを読んでは妻の機嫌を上手くとっていた。
 顔に出ていたかと苦笑するアストリッドにザファルはテーブルの上でガラス玉に乗って前後に揺れるルィムに視線を移す。

「考えたところで意味はない」

 どういう意味だと顔に書いているアストリッドの頬を親指でそっと撫でた。

「心当たりが多すぎからな」
「犯人探しはしないのですか?」
「時間の無駄だ」
「兄か、夫人か、それとも使用人か──あなたなら探すか?」

 夫が毒を飲まされたのであれば血眼になって探しただろうが、自分が──となると、考えてしまう。
 誰が、と考えてから動機ある人物を探し、理由を推測し、何かしらの証拠を見つけなければならない。時間の無駄とまでは言いきらないが、途方もない時間がかかるだろうと考え、億劫になる気がして苦笑が滲む。

「ですが、犯人を見つけなければまた同じことがあるかもしれないとは考えないのですか?」
「皇帝の息子として生まれてからずっとそういう危険と隣り合わせで生きてきた。誘拐未遂もあれば、毒殺未遂もあった。毒を飲んだのはこれが初めてではない」
「それは……」
「だから七星にはセラフィスがいるのだ」

 アミーラの力があれば大抵の毒は治療できる。どの国にも欠かせない貴重な存在だ。

「アミーラさんを私の護衛から外してください」
「ダメだ」

 少し食い気味になった拒否にアストリッドが眉を寄せる。

「あなたに万が一のことがあったとき、アミーラでなければ対処できない」

 ないとは言いきれない国であること、環境であることは誰よりも理解しているからこそアミーラを側に置いている。
 しかし、アストリッドの考えもまた、ザファルと同じだった。

「私の命よりも皇帝であるあなたの命のほうが重いのです」
「命の重さは平等だ。乗せて揺れる天秤など存在しない」

 重さを感じる言葉にアストリッドがザファルを見るとその強い瞳と目が合った。

「今日生まれたばかりの赤子の命と私の命は同等に重い。私はそう思っている」

 彼は立派な男だと、羨んでしまうほどフィルングがベタ褒めしていた理由がわかった。
 水の精霊の加護を受けたことだけが皇帝として指名された理由ではないだろう。彼の兄と弟のことはよく知らないが、皇帝としてラフナディールの未来を考えたとき、彼が相応しいと思ったから選んだのだ。

「顔を洗ってくる」
「あ、陛下! お風呂の準備ができていますよ!」

 部屋を整えているのだと思っていたザファルはいつの間にか一階に降りてきていたイヴァの言葉に驚いた顔でアストリッドを見た。

「誰よりも優秀なんですよ、彼女」
「そうらしい」
「わーい! 褒められちゃった!」

 二人からの褒め言葉に両手を上げて全身で喜ぶイヴァに感謝を伝えてから浴室に向かったザファルはドアを閉めたあと、鏡で自分の姿を見て固まった。
 自分の驚いた顔を見たことがないからでも、こんなに目を見開いたことがないからではない。

「……いつ……」

 ベールをしていなかったのだ。どこで落としたのか。
 アリアを振り払うようにして出てきた際、あの気持ち悪さから逃げることで頭がいっぱいになっていた。息ができないことで無意識に外してしまったのだろうか。
 何も考えていなかった。目覚めてからもベールがない違和感に気付かなかった。

「全てが狂うんだ……」

 アストリッドといると心地良さにミスのない行動に小さなミスが生まれる。
 顔を見られてしまったと片手で顔を覆ったザファルは大きな溜め息を吐き出し、思わずその場にしゃがみ込んだ。
しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』

鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」 華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。 王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。 そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。 レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。 「お願いだ……戻ってきてくれ……」 王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。 「もう遅いわ」 愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。 裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。 これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。

婚約破棄されたので、自由に生きたら王太子が失脚しましたあ

鍛高譚
恋愛
名門アーデン公爵家の令嬢 ロザリー・フォン・アーデン は、王太子 エドワード・カミル・レグノード の婚約者として誰もが認める完璧な貴族令嬢だった。 しかしある日、王太子は突如 “聖女” を名乗る平民の少女 セシリア・ブランシュ に夢中になり、ロザリーに無情な婚約破棄を言い渡す。 「これは神の導きだ! 私の本当の運命の相手はセシリアなんだ!」 「ロザリー様、あなたは王太子妃にふさわしくありませんわ」 ──ふたりの言葉を前に、ロザリーは静かに微笑んだ。 「……そうですか。では、私も自由に生きさせていただきますわね?」 だが、これがロザリーの “ざまぁ” 逆転劇の幕開けだった! 神託と称して王太子を操る “聖女” の正体は、なんと偽者!? さらに王室財政を私物化する 汚職貴族との黒い繋がり も発覚!? 次々と暴かれる陰謀の数々に、王宮は大混乱。 そして、すべての証拠が王の手に渡ったとき──王太子 エドワードは王太子の地位を剥奪され、偽の聖女と共に国外追放 となる! 「ロザリー様を捨てた王太子は大馬鹿者だ!」 「やっぱり王妃にふさわしかったのはロザリー様だったのよ!」 社交界ではロザリーへの称賛が止まらない。 そしてそんな彼女のもとに、なんと隣国の 若き王クラウス・アレクサンドル から正式な求婚が──!? 「私はあなたの聡明さと誇り高き心に惹かれました。私の王妃になっていただけませんか?」 かつての婚約破棄が嘘のように、今度は 本物の愛と自由を手にするチャンス が巡ってくる。 しかし、ロザリーはすぐに頷かない。 「私はもう、誰かに振り回されるだけの人生は選びません」 王妃となる道を選ぶのか、それとも公爵家の令嬢として新たな未来を切り開くのか──?

引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾
恋愛
内容紹介 聖女ポーラ・スターは、引きこもっていた。 人と話すことができず、部屋から出ることもできず、 彼女の意思表示は、扉に貼られる小さなメモだけだった。 「西の街道でがけ崩れが起きます」 「今日は、クラムチャウダーが食べたいです」 祈らず、姿も見せず、奇跡を誇示することもない聖女。 その存在は次第に「役立たず」と見なされ、 王太子リチャードから一方的に婚約を破棄され、聖女の地位も解かれる。 ──だが、その日を境に、王国は壊れ始めた。 天候不順、嵐、洪水、冷害。 新たに任命された聖女は奇跡を演じるが、世界は救われない。 誰もが気づかぬまま、 「何もしない聖女」が、実はすべてを支えていた事実だけが残されていた。 扉の向こうで静かに生きる少女と、 毎日声をかけ続ける精神科医フォージャー。 失われていく王国と、取り戻されていく一人の人生。 これは、 祈らない聖女が選んだ、 誰にも支配されない静かな結末の物語。 『引きこもり聖女は祈らない』 ざまぁは声高でなく、 救いは奇跡ではなく、 その扉の向こうに、確かにあった。

夫が運命の番と出会いました

重田いの
恋愛
幼馴染のいいなづけとして育ってきた銀狼族の族長エーリヒと、妻ローゼマリー。 だがエーリヒに運命の番が現れたことにより、二人は離別する。 しかし二年後、修道院に暮らすローゼマリーの元へエーリヒが現れ――!?

婚約破棄されました(効率の悪い労働でした) ― 働いてない? 舞踏会は、充分重労働ですわ! ―

ふわふわ
恋愛
「働いていない?――いいえ、舞踏会も社交も重労働ですわ!」 前世で“働きすぎて壊れた”記憶を持ったまま、 異世界の公爵令嬢ルナ・ルクスとして転生したヒロイン。 生まれながらにして働く必要のない身分。 理想のスローライフが始まる――はずだった。 しかし現実は、 舞踏会、社交、芸術鑑賞、気配り、微笑み、評価、期待。 貴族社会は、想像以上の超・ブラック企業だった。 「ノブレス・オブリージュ?  それ、長時間無償労働の言い換えですわよね?」 働かないために、あえて“何もしない”を選ぶルナ。 倹約を拒み、金を回し、 孤児院さえも「未来への投資」と割り切って運営する。 やがて王都は混乱し、 なぜか彼女の領地だけが安定していく――。 称賛され、基準にされ、 善意を押し付けられ、 正義を振りかざされ、 人格まで語られる。 それでもルナは、動かない。 「期待されなくなった瞬間が、いちばん自由ですわ」 誰とも戦わず、誰も論破せず、 ただ“巻き込まれない”ことを貫いた先に待つのは、 何も起きない、静かで満たされた日常。 これは―― 世界を救わない。 誰かに尽くさない。 それでも確かに幸せな、 働かない公爵令嬢の勝利の物語。 「何も起きない毎日こそ、私が選び取った結末ですわ」

「幼馴染は、安心できる人で――独占する人でした」

だって、これも愛なの。
恋愛
幼い頃の無邪気な一言。 「お兄様みたいな人が好き」――その言葉を信じ続け、彼はずっと優しく隣にいてくれた。 エリナにとってレオンは、安心できる幼馴染。 いつも柔らかく笑い、困ったときには「無理しなくていい」と支えてくれる存在だった。 けれど、他の誰かの影が差し込んだ瞬間、彼の奥に潜む本音が溢れ出す。 「俺は譲らないよ。誰にも渡さない」 優しいだけじゃない。 安心と独占欲――その落差に揺さぶられて、エリナの胸は恋に気づいていく。 安心できる人が、唯一の人になるまで。 甘く切ない幼馴染ラブストーリー。

【完結】これは紛うことなき政略結婚である

七瀬菜々
恋愛
 没落寸前の貧乏侯爵家の令嬢アンリエッタ・ペリゴールは、スラム街出身の豪商クロード・ウェルズリーと結婚した。  金はないが血筋だけは立派な女と、金はあるが賤しい血筋の男。  互いに金と爵位のためだけに結婚した二人はきっと、恋も愛も介在しない冷めきった結婚生活を送ることになるのだろう。  アンリエッタはそう思っていた。  けれど、いざ新婚生活を始めてみると、何だか想像していたよりもずっと甘い気がして……!?   *この物語は、今まで顔を合わせれば喧嘩ばかりだった二人が夫婦となり、紆余曲折ありながらも愛と絆を深めていくただのハイテンションラブコメ………になる予定です。   ーーーーーーーーーー *主要な登場人物* ○アンリエッタ・ペリゴール いろんな不幸が重なり落ちぶれた、貧乏侯爵家の一人娘。意地っ張りでプライドの高いツンデレヒロイン。 ○クロード・ウェルズリー 一代で莫大な富を築き上げた豪商。生まれは卑しいが、顔がよく金持ち。恋愛に関しては不器用な男。 ○ニコル アンリエッタの侍女。 アンリエッタにとっては母であり、姉であり、友である大切な存在。 ○ミゲル クロードの秘書。 優しそうに見えて辛辣で容赦がない性格。常にひと言多い。

伯爵令嬢の前途多難な婚活──王太子殿下を突き飛ばしたら、なぜか仲良くなりました

森島菫
恋愛
シャーロット・フォード伯爵令嬢。 社交界に滅多に姿を見せず、性格も趣味も交遊関係も謎に包まれた人物──と言えばミステリアスな女性に聞こえるが、そんな彼女が社交界に出ない理由はただ一つ。 男性恐怖症である。 「そのままだと、何かと困るでしょう?」 「それはそうなんだけどおおおお」 伯爵家で今日も繰り返される、母と娘の掛け合い。いつもなら適当な理由をつけて参席を断るのだが、今回ばかりはそうもいかない。なぜなら「未婚の男女は全員出席必須」のパーティーがあるからだ。 両親は、愛娘シャーロットの結婚を非常に心配していた。そんな中で届いたこのパーティーの招待状。伯爵家の存続の危機を救ってもらうべく、彼らは気乗りしない娘を何とか説得してパーティーに向かわせた。 しかし当日、シャーロットはとんでもない事態を引き起こすことになる。 「王太子殿下を、突き飛ばしてしまったのよ」 「「はぁっ!?」」 男性恐怖症のシャーロットが限界になると発動する行動──相手を突き飛ばしてしまうこと──が、よりにもよってこの国の王太子に降りかかったのである。 不敬罪必死のこの事態に、誰もが覚悟を決めた。 ところが、事態は思わぬ方向へ転がっていき──。 これは、社交を避けてきた伯爵令嬢が腹を括り、結婚を目指して試行錯誤する話。 恋愛あり、改革あり、試練あり!内容盛りだくさんな伯爵令嬢の婚活を、お楽しみあれ。

処理中です...