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同居生活2
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朝、ザファルが階段を下りると、キッチンから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「アストリッド様、それは少し多すぎます」
「でも、これくらい入れないと味が薄くない?」
「まずは少しずつ加える。濃いから薄めるより薄いから足したほうが丁度良い味に調節できるんですよ」
気になって覗いてみると、アストリッドとイヴァが並んでスープを作っているところだった。
アストリッドが味付けをし、イヴァがスプーンで味見をしている。
花壇に水をやるよりずっと慎重に調味料を加えるアストリッドの表情にザファルの目が細くなる。
「あ、おはようございます、陛下!」
ザファルに気付いたイヴァが今朝も元気良く挨拶をしてくれたことに頷くとアストリッドも振り返って軽く頭を下げた。
「おはようございます」
エプロン姿のアストリッドを見るのは初めてではないが、ザファルの目には新鮮に映る。
「おはよう。あなたもついに料理をするようになったのか」
「まだまだ練習中です。イヴァに新しいレシピを教えてもらっているんですが、注意されてばかりで」
包丁も握ったことがないと言っていたアストリッドの練習はまだ続いているらしく、まな板の上には不揃いな野菜の残骸が残っている。
「急ぐことはない。時間をかけて丁寧にやることも大切だ」
「時間をかけても上手くならなくて」
「そんなことありません! 上手になりましたよ! 野菜なんてガタガタでもボロボロでも元が何か分からなくても火を通してしまえば美味しく食べられるんですから!」
イヴァの必死のフォローに二人は苦笑する。
「私も手伝っていいだろうか?」
思わず口に出していた言葉に二人が驚いたように目を見張る。
「皇帝陛下が料理できるんですか!?」
「おかしいか?」
「いえ、そうではないのですが──」
「だって皇帝陛下ですよ!?」
言葉を濁そうとしたアストリッドにかぶせたイヴァにザファルが小さく笑う。
「皇帝だからといって何もできないわけではない。戦場では自分で食事を作ることもあったからな」
その言葉に、二人の表情が変わった。
アミーラから、ザファルは皇子として軍を率いていたことがあると聞いたのを思い出したのだ。
戦場に料理人はいない。ある物で簡易的に作って食べるしかないことも多々あったのだろう。
「食べたいです!」
「では、場を借りる」
二人は邪魔にならないように移動し、まな板の前に立ったザファルは手に取った包丁で野菜を刻んでいく。
その手つきは毎日料理をしているイヴァよりも見事なもので、均等な大きさに切り揃えられた野菜がまな板の上に並んでいく。
「す、すごい……」
無駄のない動きにイヴァが感嘆の声を上げ、プロの料理人顔負けの様子を瞬きも忘れて見つめる。
切れば目にしみる野菜も涙一つ流さずに、あっという間にみじん切りにしてしまった。
「陛下って意外な一面をお持ちなんですね」
イヴァの言葉にフッと笑う。
「意外か」
「あ、良い意味です! とても素敵だという意味ですよ! アストリッド様もそう思いますよね!?」
「ええ、そうね」
その言葉を大袈裟に受け取ったザファルの頬がかすかに赤くなった。
出来上がった料理が並ぶ食卓は朝だというのに色鮮やかで少し豪華に見えた。
「美味しそう」
「待たせてすまないな」
ずっと腹の虫が大合唱し続けていたイヴァの頭をくしゃりと撫でると表情が嬉しそうに変化する。
食べよう、と声をかけて三人はそれぞれのペースで食事を始めた。
「んんっ!? んー! 何これ美味しい! シェフじゃないですか! また陛下の気が向いたときのために材料を買い込んでおかないと!」
買い込むという言葉に反応したザファルが二人を見た。
「市場にはよく買い物に行くのか?」
「少し距離があるので頻繁には行きませんが、慣れるぐらいには行っています」
「あ、今日は皆でお買い物に行くっていうのはどうですか!?」
イヴァの提案は魅力的だが、ザファルは即答できなかった。
皇帝が街を歩くとなると護衛が必要となる。そうなるとアストリッドが気を使うかもしれない。
しかし、今回を逃せばアストリッドと市場を歩くことはできないかもしれない。
ザファルの中で天秤が大きく揺れ動く。どちらもアストリッドについてであることに気付かないまま頭を悩ませていた。
「フィルング陛下もよく街に出て、買い食いされてましたよ?」
「え? それは初耳よ」
「あ……!」
慌てて口を押さえるイヴァにアストリッドは微笑むだけ。
しっかりと耳にした言葉だが、今更知ったところで咎める相手はもういない。
シェフからの差し入れだと言って持ってきた物は全て街で買った物だったのだろう。
キッチンで皿に移し替え、偽装する夫を想像するのは容易で笑ってしまう。
「行こう」
アストリッドのその表情を見た瞬間、決意したザファルの言葉で決まり、三人は昼前に市場へと向かった。
「わあっ! 今日も賑やかですねぇ! この賑やかさが大好きなんですよ!」
「人気の市場だからな。どの地区よりも観光客も店も多い」
商人たちの掛け声、子供たちの笑い声、食べ物、香料、花、日常の匂いがここには揃っている。
子供の頃から変わっていない雰囲気だが、久しぶりに足を運んだザファルには新鮮だった。
散歩のようにゆっくりと市場を回りながら三人は必要な食材を購入していく。
「ファティラだー!」
イヴァが突然嬉しそうに声を上げた。涎を垂らしそうな表情で見つめるその視線の先にあるのは香ばしい匂いを漂わせる揚げパンの屋台。
「知ってるの?」
「知ってるも何も、最近すごく流行ってるんですよ! 中にチーズとかジャムが入ってるのもあったりして、すっごくすっごーく美味しいんです! 甘いのもしょっぱいのも辛いのもあってですね……迷います」
怖い話でも始めかねない顔で見つめてくるイヴァは真剣だった。
流行っていると断言できるぐらいには市場の食べ物について詳しくなっているイヴァに笑いながら問いかける。
「買う?」
「もちろんです! これを買わずには帰れません!」
屋台に駆け寄って店主と笑顔で話すイヴァは三人しかいないのに明らかに三個以上持って戻ってきた。
「陛下もどうぞ! すっごく美味しいですから!」
「すまない。私は遠慮しておく」
驚いた顔をするイヴァがハッとして慌てる。
「あ、もしかして揚げパンは嫌いですか? すみません、一言お伺いするべきでした」
好き嫌いを聞かずに買ってしまったと反省する。
「いや、そうではない」
ザファルの表情にアストリッドは悟った。
この数ヶ月で、アミーラから聞いたことはたくさんある。毒殺という言葉がここら辺では耳慣れないものではないこと。ザファルも先日のような出来事も初めてではないと言っていた。
彼は皇帝だ。屋台の食べ物は彼にとって脅威でしかないのだろう。
ましてや毒殺未遂があったばかり。用心するのは当然だ。
だが、せっかくだからとアストリッドがひとつ手に取った。
「でしたら……」
アストリッドは揚げパンをまず自分で一口食べてみせた。ジッと見つめてくるザファルと視線を合わせないままごくんと飲み込んだあと、少し時間をおいてから、もう一口。
「うん、大丈夫そうです」
問題はないと揚げパンをちぎって、ザファルの口元に持っていくアストリッドの優しい微笑みをザファルはまだ見つめている。
「あ……」
アストリッドの指が唇に近くなるとザファルは無意識に口を開けていた。
「いかがですか?」
アストリッドに食べさせてもらった事実がザファルの心臓を早鐘のように鳴らす。
「ああ、美味い……」
ごくりと飲み込んでから掠れた声で答え、ザファルは自分の頬が熱くなるのを感じていた。
アストリッド自ら毒味役のようなことをして食べさせる行為は同情か母性のようなものだろうが、それでも、その行為はザファルの心を更に深く惹きつける。
「私も食べさせてほしいです!」
イヴァの無邪気な声にザファルがはっと我に返る。
「はい、どうぞ」
大口を開けて食べるイヴァが美味しいと幸せそうに表情を蕩けさせながら食べる姿を見て、ザファルは自分がどんな顔をして食べたか不安になった。だらしない顔をしていたらどうしようと。
しかし、不安を感じている表情は不思議と柔らかいことにザファルは気付いていない。
その日の夜、三人は市場で買ってきた食材で食事の準備を始めた。
急ぐことはなく、二人でアストリッドに教えながら料理をしていく。
ザファルはこれほどまでに穏やかな雰囲気は経験したことがない。心地良くて、暖かくて、甘く胸を締め付けられる幸せを感じていた。
時間をかけて作った食事を食べながら三人は今日も他愛のない話をする。
市場で見つけた珍しい野菜と果物、面白い商人との会話、美しい工芸品。
(何か自然な理由がある物……)
市場には相変わらず色々な物が売っていた。アストリッドが貪欲な女性であれば贈り物に悩むことはなかっただろうが、そういう性格ではないから、理由もなしに贈れば拒否されることは想像に難くない。
珍しくザファルは頭を悩ませる。国政のことではなく、アストリッドへの贈り物をするための理由で。
(なんでも似合うだろうからな)
確かな想いが、彼の心の中でゆっくりと育っていく。
穏やかな一日が今日もまたあっという間に過ぎていく。
特別なことは何もない、でも特別な日。
ザファルにとって、人生で最も幸せな時間の一つになっていた。
「アストリッド様、それは少し多すぎます」
「でも、これくらい入れないと味が薄くない?」
「まずは少しずつ加える。濃いから薄めるより薄いから足したほうが丁度良い味に調節できるんですよ」
気になって覗いてみると、アストリッドとイヴァが並んでスープを作っているところだった。
アストリッドが味付けをし、イヴァがスプーンで味見をしている。
花壇に水をやるよりずっと慎重に調味料を加えるアストリッドの表情にザファルの目が細くなる。
「あ、おはようございます、陛下!」
ザファルに気付いたイヴァが今朝も元気良く挨拶をしてくれたことに頷くとアストリッドも振り返って軽く頭を下げた。
「おはようございます」
エプロン姿のアストリッドを見るのは初めてではないが、ザファルの目には新鮮に映る。
「おはよう。あなたもついに料理をするようになったのか」
「まだまだ練習中です。イヴァに新しいレシピを教えてもらっているんですが、注意されてばかりで」
包丁も握ったことがないと言っていたアストリッドの練習はまだ続いているらしく、まな板の上には不揃いな野菜の残骸が残っている。
「急ぐことはない。時間をかけて丁寧にやることも大切だ」
「時間をかけても上手くならなくて」
「そんなことありません! 上手になりましたよ! 野菜なんてガタガタでもボロボロでも元が何か分からなくても火を通してしまえば美味しく食べられるんですから!」
イヴァの必死のフォローに二人は苦笑する。
「私も手伝っていいだろうか?」
思わず口に出していた言葉に二人が驚いたように目を見張る。
「皇帝陛下が料理できるんですか!?」
「おかしいか?」
「いえ、そうではないのですが──」
「だって皇帝陛下ですよ!?」
言葉を濁そうとしたアストリッドにかぶせたイヴァにザファルが小さく笑う。
「皇帝だからといって何もできないわけではない。戦場では自分で食事を作ることもあったからな」
その言葉に、二人の表情が変わった。
アミーラから、ザファルは皇子として軍を率いていたことがあると聞いたのを思い出したのだ。
戦場に料理人はいない。ある物で簡易的に作って食べるしかないことも多々あったのだろう。
「食べたいです!」
「では、場を借りる」
二人は邪魔にならないように移動し、まな板の前に立ったザファルは手に取った包丁で野菜を刻んでいく。
その手つきは毎日料理をしているイヴァよりも見事なもので、均等な大きさに切り揃えられた野菜がまな板の上に並んでいく。
「す、すごい……」
無駄のない動きにイヴァが感嘆の声を上げ、プロの料理人顔負けの様子を瞬きも忘れて見つめる。
切れば目にしみる野菜も涙一つ流さずに、あっという間にみじん切りにしてしまった。
「陛下って意外な一面をお持ちなんですね」
イヴァの言葉にフッと笑う。
「意外か」
「あ、良い意味です! とても素敵だという意味ですよ! アストリッド様もそう思いますよね!?」
「ええ、そうね」
その言葉を大袈裟に受け取ったザファルの頬がかすかに赤くなった。
出来上がった料理が並ぶ食卓は朝だというのに色鮮やかで少し豪華に見えた。
「美味しそう」
「待たせてすまないな」
ずっと腹の虫が大合唱し続けていたイヴァの頭をくしゃりと撫でると表情が嬉しそうに変化する。
食べよう、と声をかけて三人はそれぞれのペースで食事を始めた。
「んんっ!? んー! 何これ美味しい! シェフじゃないですか! また陛下の気が向いたときのために材料を買い込んでおかないと!」
買い込むという言葉に反応したザファルが二人を見た。
「市場にはよく買い物に行くのか?」
「少し距離があるので頻繁には行きませんが、慣れるぐらいには行っています」
「あ、今日は皆でお買い物に行くっていうのはどうですか!?」
イヴァの提案は魅力的だが、ザファルは即答できなかった。
皇帝が街を歩くとなると護衛が必要となる。そうなるとアストリッドが気を使うかもしれない。
しかし、今回を逃せばアストリッドと市場を歩くことはできないかもしれない。
ザファルの中で天秤が大きく揺れ動く。どちらもアストリッドについてであることに気付かないまま頭を悩ませていた。
「フィルング陛下もよく街に出て、買い食いされてましたよ?」
「え? それは初耳よ」
「あ……!」
慌てて口を押さえるイヴァにアストリッドは微笑むだけ。
しっかりと耳にした言葉だが、今更知ったところで咎める相手はもういない。
シェフからの差し入れだと言って持ってきた物は全て街で買った物だったのだろう。
キッチンで皿に移し替え、偽装する夫を想像するのは容易で笑ってしまう。
「行こう」
アストリッドのその表情を見た瞬間、決意したザファルの言葉で決まり、三人は昼前に市場へと向かった。
「わあっ! 今日も賑やかですねぇ! この賑やかさが大好きなんですよ!」
「人気の市場だからな。どの地区よりも観光客も店も多い」
商人たちの掛け声、子供たちの笑い声、食べ物、香料、花、日常の匂いがここには揃っている。
子供の頃から変わっていない雰囲気だが、久しぶりに足を運んだザファルには新鮮だった。
散歩のようにゆっくりと市場を回りながら三人は必要な食材を購入していく。
「ファティラだー!」
イヴァが突然嬉しそうに声を上げた。涎を垂らしそうな表情で見つめるその視線の先にあるのは香ばしい匂いを漂わせる揚げパンの屋台。
「知ってるの?」
「知ってるも何も、最近すごく流行ってるんですよ! 中にチーズとかジャムが入ってるのもあったりして、すっごくすっごーく美味しいんです! 甘いのもしょっぱいのも辛いのもあってですね……迷います」
怖い話でも始めかねない顔で見つめてくるイヴァは真剣だった。
流行っていると断言できるぐらいには市場の食べ物について詳しくなっているイヴァに笑いながら問いかける。
「買う?」
「もちろんです! これを買わずには帰れません!」
屋台に駆け寄って店主と笑顔で話すイヴァは三人しかいないのに明らかに三個以上持って戻ってきた。
「陛下もどうぞ! すっごく美味しいですから!」
「すまない。私は遠慮しておく」
驚いた顔をするイヴァがハッとして慌てる。
「あ、もしかして揚げパンは嫌いですか? すみません、一言お伺いするべきでした」
好き嫌いを聞かずに買ってしまったと反省する。
「いや、そうではない」
ザファルの表情にアストリッドは悟った。
この数ヶ月で、アミーラから聞いたことはたくさんある。毒殺という言葉がここら辺では耳慣れないものではないこと。ザファルも先日のような出来事も初めてではないと言っていた。
彼は皇帝だ。屋台の食べ物は彼にとって脅威でしかないのだろう。
ましてや毒殺未遂があったばかり。用心するのは当然だ。
だが、せっかくだからとアストリッドがひとつ手に取った。
「でしたら……」
アストリッドは揚げパンをまず自分で一口食べてみせた。ジッと見つめてくるザファルと視線を合わせないままごくんと飲み込んだあと、少し時間をおいてから、もう一口。
「うん、大丈夫そうです」
問題はないと揚げパンをちぎって、ザファルの口元に持っていくアストリッドの優しい微笑みをザファルはまだ見つめている。
「あ……」
アストリッドの指が唇に近くなるとザファルは無意識に口を開けていた。
「いかがですか?」
アストリッドに食べさせてもらった事実がザファルの心臓を早鐘のように鳴らす。
「ああ、美味い……」
ごくりと飲み込んでから掠れた声で答え、ザファルは自分の頬が熱くなるのを感じていた。
アストリッド自ら毒味役のようなことをして食べさせる行為は同情か母性のようなものだろうが、それでも、その行為はザファルの心を更に深く惹きつける。
「私も食べさせてほしいです!」
イヴァの無邪気な声にザファルがはっと我に返る。
「はい、どうぞ」
大口を開けて食べるイヴァが美味しいと幸せそうに表情を蕩けさせながら食べる姿を見て、ザファルは自分がどんな顔をして食べたか不安になった。だらしない顔をしていたらどうしようと。
しかし、不安を感じている表情は不思議と柔らかいことにザファルは気付いていない。
その日の夜、三人は市場で買ってきた食材で食事の準備を始めた。
急ぐことはなく、二人でアストリッドに教えながら料理をしていく。
ザファルはこれほどまでに穏やかな雰囲気は経験したことがない。心地良くて、暖かくて、甘く胸を締め付けられる幸せを感じていた。
時間をかけて作った食事を食べながら三人は今日も他愛のない話をする。
市場で見つけた珍しい野菜と果物、面白い商人との会話、美しい工芸品。
(何か自然な理由がある物……)
市場には相変わらず色々な物が売っていた。アストリッドが貪欲な女性であれば贈り物に悩むことはなかっただろうが、そういう性格ではないから、理由もなしに贈れば拒否されることは想像に難くない。
珍しくザファルは頭を悩ませる。国政のことではなく、アストリッドへの贈り物をするための理由で。
(なんでも似合うだろうからな)
確かな想いが、彼の心の中でゆっくりと育っていく。
穏やかな一日が今日もまたあっという間に過ぎていく。
特別なことは何もない、でも特別な日。
ザファルにとって、人生で最も幸せな時間の一つになっていた。
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