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同居生活3
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ザファルが療養を始めて四日目の夜。
夕食を終えた三人がリビングでくつろいでいると、ザファルが窓の外を見た。
雲一つない夜空に満月が浮かんでいる。
「今夜は満月か」
「ラフナディールの月はとても大きくて美しいですよね」
アストリッドの言葉にザファルの表情が少し変わった。
何かを決意したような、少し緊張したような表情を彼女に向ける。
「アストリッド」
「はい」
「あなたさえ良ければ、今夜また夜空を飛んでみないか?」
夜空を散歩したときに見上げた星空の美しさは今でも鮮明に覚えている。
だから頷きで返事をするもイヴァを見た。
「じゃあ、今回はイヴァも一緒に──」
「私は今日は疲れているので遠慮します」
果物を食べていたイヴァが皿ごと抱えて足取り軽く階段を上っていき、一番上で立ち止まってわざとらしい欠伸をして見せた。
絶対に嘘だと見抜くが、それが彼女なりの気遣いだとわかっているから手を振って見送った。
「ストールを持ったほうがいい。今夜はいつも以上に冷えると思う」
「はい」
準備を整えた二人は絨毯に乗って夜空へと舞い上がった。
ルィムが嬉しそうに先導し、カトラはザファルの肩に腰掛けて足を組んでいる。
前回よりも高く上がると、振り返って見るラフナディールの街並みは宝石箱のようで、アストリッドは感嘆の息を漏らした。
「美しいですね」
「ああ。だが、今夜見せたいものは別にある」
ザファルの言葉に振り返って首を傾げる。
彼の表情はいつもより真剣で、どこへ行くのか想像もつかない。
ベールで顔を隠さなくなった彼の表情はとてもわかりやすくなったが、今は読めない。
絨毯は街を離れ、砂漠の上空を滑るように進み、下を覗くと月光に照らされた砂丘が波のようにうねって見える。
風もほとんどなく、静寂に包まれた夜を二人は静かに感じていた。
「ここで降りよう」
「ここで……?」
ザファルの合図を見たルィムが絨毯を砂の上で停止する。
先に降りたザファルの手を握るも砂漠に降りるのは初めてで、緊張しながら足を砂につけた瞬間、アストリッドは小さく驚いた。
「わあ……」
日中の熱を失った砂は、驚くほどひんやりとしていた。
そして、足が沈む感触が想像以上に柔らかい。
「こんなにも柔らかいものなんですね」
アストリッドが裸足で砂を踏みしめると、細かな粒子が指の間をすり抜けていく。
その感触に、彼女は思わず目を細めた。
「シルクに触れているみたい」
ラフナディールで触る砂とは違う感覚が不思議だった。
「何百万年という時間をかけて岩や石が風に吹き削られ、その繰り返しで砂粒になっていく。あなたはよく知っているだろうが、風は攻防ともに優れていて、乾いた岩肌すら削る力があるから角がどんどん取れて丸くなる」
「それでシルクみたいな質感になるのですか?」
「雨が多い地域では岩が水で転がって砕けるから角があるままのものが多いが、この一帯は乾燥地帯だから風だけで磨かれた細かい砂になるんだ」
「独特の地帯にのみ存在する長い歴史のひとつなんですね」
「そういうことだ」
どこにでも起こり得るものではなく、その地域でのみ存在する特別なもの。
ラフナディールにはそういったものが多く、感動も多い。
二人の前には、果てしなく続く砂丘と、空に浮かぶ巨大な満月。
「今夜の月は特別に大きい」
ザファルが見上げる月は、手を伸ばせば触れられそうなほど大きく、明るい輝きを放つ。
その光が砂漠全体を銀世界に変えている。
「落ちてきそうなほど大きいですね」
同じように手を伸ばしてみるアストリッドの横顔を盗み見るように視線だけ動かす。
月光に照らされたその横顔は、いつもより柔らかく見えた。
「あなたに見せたいものがある」
そう言うと、ザファルは黒い上着に手をかけた。
アストリッドの視界の中で彼は躊躇うことなく脱いで上半身を露わにした。
月光がザファルの肌を照らす。
鍛え抜かれた美しい身体。だが、アストリッドの目を奪ったのはその引き締まった身体ではなく、その肌に浮かび上がった不思議な模様だった。
胸から二の腕にかけて描かれている白い模様。月光に照らされ、光っているようにすら見えるそれに目を奪われる。
「月を見ていてくれ」
ザファルが何をしようとしているのかわかっているようにカトラが月に向かってそっと手をかざす様子をルィムも不思議そうに見守る。
宙に浮かび上がった水がゆっくりと形を変えて月を枠取るように固定された。
その光景だけでもアストリッドは息を忘れたように魅入ってしまう。
手が届きそうなほど大きな月と水の融合が魅せる奇跡のような美しさ。
「両手を出してくれ」
言われるがままに両手を出すと月の枠となっていた水がまたゆっくりと形を変え始めた。
溶けるように上から枠が消え、下に水が集まっているように見える。このまま待っていればそこから、月から一滴の雫が落ちる──
「あ……」
月から落ちたわけではないと頭ではわかっていても、あまりの美しさに錯覚する。
手のひらに落ちたのはただの水なのに、それがとても神聖なものに感じた。
「ルー?」
それはルィムも同じように感じたのか、アストリッドの手の中にある水を覗き込んで指先で水に触れる。
「月の雫は気に入ってもらえたか?」
言葉にならない美しさに感動しているアストリッドは笑顔ではなかったが、まるで初めて宝石を見た子供のような表情を見せた。
イヴァがいればきっと大はしゃぎしていただろうが、アストリッドはそうじゃない。吐き出す息が震えていることで胸の内が震えているのがわかる。
その様子が抱きしめてしまいたいほどザファルにはとても愛おしく感じる。
「瓶に詰めて持って帰りたいぐらいです」
「次は瓶を持ってこよう」
アストリッドがいつまでも手をそうしているだろうことは想像に難くないため、カトラは手の中の水を花火を打ち上げるように空へと放ち、そして弾けさせた。
「わぁ……」
月の光が照らし、キラキラと微粒子のように輝きながらミストとなって落ちてくる。
「乗ってくれ。連れて行きたい場所がある」
先に絨毯に乗り、再び差し出された手を握って絨毯に乗った。
「その模様はラフナディールのものですか?」
近くで見るともっと繊細で、服の上からではわからなかった筋肉質の腕に顔を近付ける。
「いや、この印はカトラと契約した証だ。普段は見えないのだが、満月の夜にだけこうして姿を現す。本人曰く、おしゃれだから施してやったんだと。迷惑な話だ」
目の前で挑発するように舌を出して顔を揺らすカトラにアストリッドが笑う。
「だが、満月になると精霊の力が増している気がする。あんなふうに繊細なコントロールができるのもそのせいだと」
「とても神秘的でした。あんなに美しい物を見たのは初めてです」
アストリッドの言葉でザファルの表情が和らいだ。
月光の下で微笑む彼の顔は、今まで見た中で最も美しかった。
「どこへ向かっているのですか?」
「歴史の中だ」
今度は砂漠の奥へ、低空飛行で進んでいく。
砂丘の間を縫うように飛ぶ絨毯から、アストリッドは砂漠の地形を間近に見ることができた。
手を伸ばせば砂に触れられそう気がして少し身を乗り出すもすぐにザファルによって止められる。
「砂の中には多くの生物がいる。容易に手を突っ込むのはやめておいたほうがいい」
止めるために抱かれた肩が熱い。ひんやりとした空気の中でも彼の手の熱さを感じながら身を引っ込める。
しばらく飛ぶと、前方に青が見えてきた。
「湖?」
「オアシスだ」
アストリッドが息を呑む。
砂漠の中にぽつんと現れた小さな湖のような場所。
椰子の木々に囲まれた小さな湖が、月光を反射してきらめいている。
絨毯がオアシスの縁に降り立つと、二人は再び砂の上に足をつけた。
今度は湖のほとりの柔らかな草の上。
「深いのに底が見えそうなほど透き通ってて、キレイ」
湖面に映る満月を見つめながらアストリッドが呟いた。
青と緑が混ざったような水の底は黒であり、深い深いその底まで見えそうな透明感にまた手を伸ばしたくなる。
「昔、この国の人々にとってオアシスは命そのものだった」
ザファルが湖を見つめながら語り始める。
「俺が水の精霊の加護を授かる前、ラフナディールは常に水不足に悩まされていた。人々はこのオアシスまで、何日もかけて水を汲みに来ていたんだ」
「何日も……」
「砂漠には様々な危険が存在し、時には命がけの旅になることもあった。砂嵐に遭えば道に迷い、蠍や蛇に噛まれることは死を意味した。それでも彼らは家族のために足を止めることはしなかった」
ザファルの声には先祖たちへの敬意が込められているように感じた。
「だからこそ、ラフナディールでは水は神聖なものとされている。命を繋ぐもの、希望を与えるものとして、彼らはその重みを知っているんだ」
彼の言葉を聞きながらアストリッドは湖面に手を浸した。
ひんやりとした水が月光の下で輝いている。
「今では街に水道が通り、蛇口をひねれば水が出てくる。人々は簡単に水を得られるようになったが、この場所の神聖さは変わらない。ここには今も多くの民が訪れている」
それを証明するのは供えるように置かれた花々。その花が意味することをアストリッドはすぐに察した。
(弔い……)
ザファルが皇帝になったのはここ数年の話で、それまでは多くの人々が犠牲になっていたということ。
ラフナディールの民にとって、オアシスの水が命だった頃は遠い昔の話ではないのだ。
「あなたがこの国を愛しているのがよくわかります」
「……何故そう思う?」
「国のことを語るときのあなたはとても真剣だから」
その指摘にザファルは少し驚いたような顔をする。
「……そうかもしれない。皇帝になることは望んでいなかったが……この国と民のことは大切に思っている」
素直な告白にアストリッドはフィルングの言葉を思い出していた。
『王になるのは簡単だ。ただ継げばいいのだから。大変なのは王として認められること。王を引退するまで私は王で居続けなければならない。国民の期待を裏切らず、応え続け、そして愛される王でいること。それこそが最も難しく、やり甲斐があることだ』
湖に映る自分の顔を見つめ、それを消すように水面を撫でた。
笑っている。苦笑ではない。彼を失って一年も経っていないのに、自分はもう笑えるようになっているのだ。その顔がとても薄情に見えた。
その行動を見たザファルはアストリッドから夜空へと顔を向ける。
「俺はこの時間がとても好きだ」
アストリッドが顔を上げる。
「夜にこうしてあなたといると、自分が皇帝であることを忘れることがある。ただの男として生きていけるような気がしてしまうんだ」
彼の気持ちはわかっている。
熱を持った言葉。熱を送る視線。
気付かないはずがない。ただ、アストリッドは返す言葉を持っていないのだ。
「俺は周囲から無欲な人間だと言われてきたが、存外欲張りなようだ。あなたの近くにいるだけでは物足りないと欲が出てしまう。それがあなたを困らせてしまうことだとわかっていても……」
そっと伸ばされた手がアストリッドの頬に触れた。彼の手は熱があるかのように熱くて、熱を持った瞳が心の奥底に溜め込んでいた想いを伝えてくる。
ハッキリと断るべきだろう。その愛は受け入れられないと。そうしなければ、また失ったとき、きっともう耐えられないだろうから。
だが、アストリッドの中にある恐怖がそれを拒むこともできなくさせている。
(卑怯な女……)
醜い自分を飲み込みながらただ見つめるだけ。
「ルー?」
ルィムの小さな声に二人は同時に顔を向けた。
少し離れた場所でルィムとカトラが寄り添うように浮いている。
まるで二人を見守っているかのように。
「……そろそろ戻ろう」
「はい」
ザファルの提案に頷き、絨毯に乗った。
帰り道、絨毯の上で二人は静かに並んで座っていた。
おしゃべりな時間は終わり、夜に溶けるように黙っている。
「……忘れてくれと言わないのは、卑怯か?」
宮の前で降りたザファルの問いかけにアストリッドは驚きはしなかった。少し考えたように間を空けたあと、「いいえ」とだけ返事をした。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ……アストリッド」
二人は並んで宮に入るも何も言わないまま階段を上がり、部屋の前で挨拶を交わしたあと、ベッドに潜ったものの──眠れぬ夜を過ごした。
夕食を終えた三人がリビングでくつろいでいると、ザファルが窓の外を見た。
雲一つない夜空に満月が浮かんでいる。
「今夜は満月か」
「ラフナディールの月はとても大きくて美しいですよね」
アストリッドの言葉にザファルの表情が少し変わった。
何かを決意したような、少し緊張したような表情を彼女に向ける。
「アストリッド」
「はい」
「あなたさえ良ければ、今夜また夜空を飛んでみないか?」
夜空を散歩したときに見上げた星空の美しさは今でも鮮明に覚えている。
だから頷きで返事をするもイヴァを見た。
「じゃあ、今回はイヴァも一緒に──」
「私は今日は疲れているので遠慮します」
果物を食べていたイヴァが皿ごと抱えて足取り軽く階段を上っていき、一番上で立ち止まってわざとらしい欠伸をして見せた。
絶対に嘘だと見抜くが、それが彼女なりの気遣いだとわかっているから手を振って見送った。
「ストールを持ったほうがいい。今夜はいつも以上に冷えると思う」
「はい」
準備を整えた二人は絨毯に乗って夜空へと舞い上がった。
ルィムが嬉しそうに先導し、カトラはザファルの肩に腰掛けて足を組んでいる。
前回よりも高く上がると、振り返って見るラフナディールの街並みは宝石箱のようで、アストリッドは感嘆の息を漏らした。
「美しいですね」
「ああ。だが、今夜見せたいものは別にある」
ザファルの言葉に振り返って首を傾げる。
彼の表情はいつもより真剣で、どこへ行くのか想像もつかない。
ベールで顔を隠さなくなった彼の表情はとてもわかりやすくなったが、今は読めない。
絨毯は街を離れ、砂漠の上空を滑るように進み、下を覗くと月光に照らされた砂丘が波のようにうねって見える。
風もほとんどなく、静寂に包まれた夜を二人は静かに感じていた。
「ここで降りよう」
「ここで……?」
ザファルの合図を見たルィムが絨毯を砂の上で停止する。
先に降りたザファルの手を握るも砂漠に降りるのは初めてで、緊張しながら足を砂につけた瞬間、アストリッドは小さく驚いた。
「わあ……」
日中の熱を失った砂は、驚くほどひんやりとしていた。
そして、足が沈む感触が想像以上に柔らかい。
「こんなにも柔らかいものなんですね」
アストリッドが裸足で砂を踏みしめると、細かな粒子が指の間をすり抜けていく。
その感触に、彼女は思わず目を細めた。
「シルクに触れているみたい」
ラフナディールで触る砂とは違う感覚が不思議だった。
「何百万年という時間をかけて岩や石が風に吹き削られ、その繰り返しで砂粒になっていく。あなたはよく知っているだろうが、風は攻防ともに優れていて、乾いた岩肌すら削る力があるから角がどんどん取れて丸くなる」
「それでシルクみたいな質感になるのですか?」
「雨が多い地域では岩が水で転がって砕けるから角があるままのものが多いが、この一帯は乾燥地帯だから風だけで磨かれた細かい砂になるんだ」
「独特の地帯にのみ存在する長い歴史のひとつなんですね」
「そういうことだ」
どこにでも起こり得るものではなく、その地域でのみ存在する特別なもの。
ラフナディールにはそういったものが多く、感動も多い。
二人の前には、果てしなく続く砂丘と、空に浮かぶ巨大な満月。
「今夜の月は特別に大きい」
ザファルが見上げる月は、手を伸ばせば触れられそうなほど大きく、明るい輝きを放つ。
その光が砂漠全体を銀世界に変えている。
「落ちてきそうなほど大きいですね」
同じように手を伸ばしてみるアストリッドの横顔を盗み見るように視線だけ動かす。
月光に照らされたその横顔は、いつもより柔らかく見えた。
「あなたに見せたいものがある」
そう言うと、ザファルは黒い上着に手をかけた。
アストリッドの視界の中で彼は躊躇うことなく脱いで上半身を露わにした。
月光がザファルの肌を照らす。
鍛え抜かれた美しい身体。だが、アストリッドの目を奪ったのはその引き締まった身体ではなく、その肌に浮かび上がった不思議な模様だった。
胸から二の腕にかけて描かれている白い模様。月光に照らされ、光っているようにすら見えるそれに目を奪われる。
「月を見ていてくれ」
ザファルが何をしようとしているのかわかっているようにカトラが月に向かってそっと手をかざす様子をルィムも不思議そうに見守る。
宙に浮かび上がった水がゆっくりと形を変えて月を枠取るように固定された。
その光景だけでもアストリッドは息を忘れたように魅入ってしまう。
手が届きそうなほど大きな月と水の融合が魅せる奇跡のような美しさ。
「両手を出してくれ」
言われるがままに両手を出すと月の枠となっていた水がまたゆっくりと形を変え始めた。
溶けるように上から枠が消え、下に水が集まっているように見える。このまま待っていればそこから、月から一滴の雫が落ちる──
「あ……」
月から落ちたわけではないと頭ではわかっていても、あまりの美しさに錯覚する。
手のひらに落ちたのはただの水なのに、それがとても神聖なものに感じた。
「ルー?」
それはルィムも同じように感じたのか、アストリッドの手の中にある水を覗き込んで指先で水に触れる。
「月の雫は気に入ってもらえたか?」
言葉にならない美しさに感動しているアストリッドは笑顔ではなかったが、まるで初めて宝石を見た子供のような表情を見せた。
イヴァがいればきっと大はしゃぎしていただろうが、アストリッドはそうじゃない。吐き出す息が震えていることで胸の内が震えているのがわかる。
その様子が抱きしめてしまいたいほどザファルにはとても愛おしく感じる。
「瓶に詰めて持って帰りたいぐらいです」
「次は瓶を持ってこよう」
アストリッドがいつまでも手をそうしているだろうことは想像に難くないため、カトラは手の中の水を花火を打ち上げるように空へと放ち、そして弾けさせた。
「わぁ……」
月の光が照らし、キラキラと微粒子のように輝きながらミストとなって落ちてくる。
「乗ってくれ。連れて行きたい場所がある」
先に絨毯に乗り、再び差し出された手を握って絨毯に乗った。
「その模様はラフナディールのものですか?」
近くで見るともっと繊細で、服の上からではわからなかった筋肉質の腕に顔を近付ける。
「いや、この印はカトラと契約した証だ。普段は見えないのだが、満月の夜にだけこうして姿を現す。本人曰く、おしゃれだから施してやったんだと。迷惑な話だ」
目の前で挑発するように舌を出して顔を揺らすカトラにアストリッドが笑う。
「だが、満月になると精霊の力が増している気がする。あんなふうに繊細なコントロールができるのもそのせいだと」
「とても神秘的でした。あんなに美しい物を見たのは初めてです」
アストリッドの言葉でザファルの表情が和らいだ。
月光の下で微笑む彼の顔は、今まで見た中で最も美しかった。
「どこへ向かっているのですか?」
「歴史の中だ」
今度は砂漠の奥へ、低空飛行で進んでいく。
砂丘の間を縫うように飛ぶ絨毯から、アストリッドは砂漠の地形を間近に見ることができた。
手を伸ばせば砂に触れられそう気がして少し身を乗り出すもすぐにザファルによって止められる。
「砂の中には多くの生物がいる。容易に手を突っ込むのはやめておいたほうがいい」
止めるために抱かれた肩が熱い。ひんやりとした空気の中でも彼の手の熱さを感じながら身を引っ込める。
しばらく飛ぶと、前方に青が見えてきた。
「湖?」
「オアシスだ」
アストリッドが息を呑む。
砂漠の中にぽつんと現れた小さな湖のような場所。
椰子の木々に囲まれた小さな湖が、月光を反射してきらめいている。
絨毯がオアシスの縁に降り立つと、二人は再び砂の上に足をつけた。
今度は湖のほとりの柔らかな草の上。
「深いのに底が見えそうなほど透き通ってて、キレイ」
湖面に映る満月を見つめながらアストリッドが呟いた。
青と緑が混ざったような水の底は黒であり、深い深いその底まで見えそうな透明感にまた手を伸ばしたくなる。
「昔、この国の人々にとってオアシスは命そのものだった」
ザファルが湖を見つめながら語り始める。
「俺が水の精霊の加護を授かる前、ラフナディールは常に水不足に悩まされていた。人々はこのオアシスまで、何日もかけて水を汲みに来ていたんだ」
「何日も……」
「砂漠には様々な危険が存在し、時には命がけの旅になることもあった。砂嵐に遭えば道に迷い、蠍や蛇に噛まれることは死を意味した。それでも彼らは家族のために足を止めることはしなかった」
ザファルの声には先祖たちへの敬意が込められているように感じた。
「だからこそ、ラフナディールでは水は神聖なものとされている。命を繋ぐもの、希望を与えるものとして、彼らはその重みを知っているんだ」
彼の言葉を聞きながらアストリッドは湖面に手を浸した。
ひんやりとした水が月光の下で輝いている。
「今では街に水道が通り、蛇口をひねれば水が出てくる。人々は簡単に水を得られるようになったが、この場所の神聖さは変わらない。ここには今も多くの民が訪れている」
それを証明するのは供えるように置かれた花々。その花が意味することをアストリッドはすぐに察した。
(弔い……)
ザファルが皇帝になったのはここ数年の話で、それまでは多くの人々が犠牲になっていたということ。
ラフナディールの民にとって、オアシスの水が命だった頃は遠い昔の話ではないのだ。
「あなたがこの国を愛しているのがよくわかります」
「……何故そう思う?」
「国のことを語るときのあなたはとても真剣だから」
その指摘にザファルは少し驚いたような顔をする。
「……そうかもしれない。皇帝になることは望んでいなかったが……この国と民のことは大切に思っている」
素直な告白にアストリッドはフィルングの言葉を思い出していた。
『王になるのは簡単だ。ただ継げばいいのだから。大変なのは王として認められること。王を引退するまで私は王で居続けなければならない。国民の期待を裏切らず、応え続け、そして愛される王でいること。それこそが最も難しく、やり甲斐があることだ』
湖に映る自分の顔を見つめ、それを消すように水面を撫でた。
笑っている。苦笑ではない。彼を失って一年も経っていないのに、自分はもう笑えるようになっているのだ。その顔がとても薄情に見えた。
その行動を見たザファルはアストリッドから夜空へと顔を向ける。
「俺はこの時間がとても好きだ」
アストリッドが顔を上げる。
「夜にこうしてあなたといると、自分が皇帝であることを忘れることがある。ただの男として生きていけるような気がしてしまうんだ」
彼の気持ちはわかっている。
熱を持った言葉。熱を送る視線。
気付かないはずがない。ただ、アストリッドは返す言葉を持っていないのだ。
「俺は周囲から無欲な人間だと言われてきたが、存外欲張りなようだ。あなたの近くにいるだけでは物足りないと欲が出てしまう。それがあなたを困らせてしまうことだとわかっていても……」
そっと伸ばされた手がアストリッドの頬に触れた。彼の手は熱があるかのように熱くて、熱を持った瞳が心の奥底に溜め込んでいた想いを伝えてくる。
ハッキリと断るべきだろう。その愛は受け入れられないと。そうしなければ、また失ったとき、きっともう耐えられないだろうから。
だが、アストリッドの中にある恐怖がそれを拒むこともできなくさせている。
(卑怯な女……)
醜い自分を飲み込みながらただ見つめるだけ。
「ルー?」
ルィムの小さな声に二人は同時に顔を向けた。
少し離れた場所でルィムとカトラが寄り添うように浮いている。
まるで二人を見守っているかのように。
「……そろそろ戻ろう」
「はい」
ザファルの提案に頷き、絨毯に乗った。
帰り道、絨毯の上で二人は静かに並んで座っていた。
おしゃべりな時間は終わり、夜に溶けるように黙っている。
「……忘れてくれと言わないのは、卑怯か?」
宮の前で降りたザファルの問いかけにアストリッドは驚きはしなかった。少し考えたように間を空けたあと、「いいえ」とだけ返事をした。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ……アストリッド」
二人は並んで宮に入るも何も言わないまま階段を上がり、部屋の前で挨拶を交わしたあと、ベッドに潜ったものの──眠れぬ夜を過ごした。
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これは――
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*この物語は、今まで顔を合わせれば喧嘩ばかりだった二人が夫婦となり、紆余曲折ありながらも愛と絆を深めていくただのハイテンションラブコメ………になる予定です。
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*主要な登場人物*
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いろんな不幸が重なり落ちぶれた、貧乏侯爵家の一人娘。意地っ張りでプライドの高いツンデレヒロイン。
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一代で莫大な富を築き上げた豪商。生まれは卑しいが、顔がよく金持ち。恋愛に関しては不器用な男。
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