たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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許せないこと

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 一週間の療養期間最終日。
 夕食を終えた後、ザファルはいつものように窓際に立って外を眺めていた。
 明日からは再び皇帝としての日々が始まる。七星との会議、山積みの書類、そして夫人たちとの義務的な時間。
 この一週間がどれほど特別だったか、失ってから改めて思い知ることになるのだろう。
 イヴァが言っていた『帰りたくなくなっている』はそのとおりとなった。

「陛下、大丈夫ですか? 顔色が優れませんが……」

 イヴァの心配そうな声に振り返った。
 今日は昼頃から頭痛もあり、あまり調子が良くない。かといって、どこか明確に悪いという感じもない。ただ、なんとなくそうなっている理由はわかっている。

「少し疲れているだけだ」
「お部屋でお休みになってはいかがですか?」

 ソファーに座るアストリッドの提案にザファルはかぶりを振った。

「まだ眠くない。それに……」

 言いかけて口を閉じた。
 最後の夜を一人で過ごすのが惜しかったのが、それを口にする勇気がない。子供のようだと笑われるのは避けたいと意地を張ってしまう。
 おやすみを口にして部屋に入るその瞬間までここで過ごしたいと思っていることも言えず、いつもどおりを装ったのだが、アストリッドは何かに気付いているかのように目を細めて手を動かす。

「でしたら、こちらでゆっくりなさいませんか?」

 アストリッドがソファーを示すと素直に頷き、腰掛ける。

「あまり眠れていないのではありませんか?」
「いつもどおりだ」

 そうは思えなかった。いつもたったの三時間程度しか睡眠を取らないとアミーラが心配していたため、それが彼の当たり前であるなら心配は必要ないと助言していたのだが、彼の今の顔色は「いつもどおり」を信じるには無理があるものだった。

「ザファル陛下?」

 ザファルの顔色は悪くなる一方であり、二人の顔にも心配の色が出始める。
 明日への不安、この幸せな時間の終わり、そして胸の奥にある重苦しい感情。
 様々な思いが頭の中を駆け巡り、息苦しささえ感じていた。

「大丈夫ですか?」

 異変を感じたイヴァが濡れタオルを持って駆けつけた。
 汗をかいているわけではないが、嘔吐があったり冷や汗が出始めたときにすぐに対応できるようにと自然と準備してしまう。
 フィルングへの対処がそうだったから。 

「息が……苦しい」

 ザファルの呟きに、アストリッドの表情が変わった。
 全員が同じ物を食べている以上は食当たりではないだろう。だからこれは精神的なものから来るものかもしれないと考えた。
 フィルングも時折、不安すぎるとこうなっていた。考えても仕方ないことだとわかっていると言いながらも考えることをやめられず、体調を崩す。
 この一週間、彼はとても穏やかに過ごしていた。自ら水やりをしたり、イヴァからパンの作り方を教わったり、やはり顔は隠していたいと言ってはイヴァから反対されたり。大きなものではないが笑顔が多かったように思えていただけに、明日から日常に戻ることを考えて軽いパニックのような状態に陥っている。
 そう考えたアストリッドはザファルに向かって自分の膝を叩いた。

「こちらに」
「え……」
「言ったでしょう? 強制的に寝かしつけると」

 優しく微笑むアストリッドに促され、ザファルは遠慮がちに彼女の膝に頭を預けた。
 途端に、不思議な安心感が身体を包む。まるでアミーラの魔法に包まれたときと同じ感覚に息苦しさが徐々に和らいでいく。

「アストリッド様の膝枕は陛下であろうと抗えませんよ」

 体調が悪くてもアストリッドに膝枕をしてもらえばすぐに夢の中だと何故か自慢げに言うイヴァも何度救われたかわからない。
 アストリッドの手が、そっとザファルの髪を撫でる。
 その感触に、彼は全身に走っていた無意識の緊張さえも和らいでいくのを感じていた。

「ルー……」

 ルィムも心配そうに飛んできて、ザファルの顔の横でそっと風を送る。
 ここは優しさに満ち溢れている。醜い欲望のない世界。ザファルが初めて経験する世界であり、初めて感じる幸せでもある。
 胸に置かれた手が一定のリズムでポンポンと軽く動き始めた。赤ん坊をあやすような、優しく規則的な動作。

「さあ、ゆっくり息を吐いて」

 子守唄のように優しい声で囁きかけたあと、アストリッドは静かに歌い始めた。
 風の谷に伝わる古い子守唄。母から子へと受け継がれてきた優しいメロディーにイヴァも目を閉じる。
 アストリッドの膝の温もり、優しい香り、規則正しい胸への刺激、そして美しい歌声。
 全てが重なって、ザファルの意識がゆっくりと遠のいていく。

「どうしてか抗えないんですよねぇ」

 歌が終わって目を開けたイヴァは目の前の光景を見つめながら微笑んで呟いた。

「フィルング様も、私も、どんなに眠れない夜でも、この膝枕と子守唄で深い眠りに落ちてしまうんです」

 ザファルの表情からは苦しみが消え、穏やかで幸せそうな寝顔に変わっている。

「よかった……」

 アストリッドが安堵の息を漏らしたとき、ザファルの手がそっと動いた。子供が無意識に母親の存在を探すように手を握る。
 アストリッドは彼の無意識の行動に胸を締め付けられるときがある。
 母親がいないことで甘えられなかった気持ちはよくわかる。風の谷は閉鎖的で、族長の娘ということもあって隔離的な生活を送っていたアストリッドにとって甘えられる相手というのはいなかった。
 彼もそうなのだろう。生まれながらにして皇子であり、母を亡くしてから甘えられる相手がいなくなってしまった。実際はいるにはいるのだろう。マルダーンには多くの妻が存在し、数えきれないほどの兄弟がいるという。しかし、彼が数えているのは母親が同じ兄と弟だけ。
 自分の母親ではない女には甘えられないと思ったのかもしれない。
 膝枕をすると無防備になる彼はいつもこうして手を握ってくる。それを見ていると切なくなってしまうのだ。だから握り返してしまう。そうすることでザファルの表情がさらに穏やかなものへと変わっていくのも知っているから。

「王であり続けることこそ最も難しいことである」
「おっしゃっていましたね」

 アストリッドの優しい声にイヴァも頷く。

「帝国という巨大な国を背負う立場は想像以上に……想像なんてできないほど大変なんでしょうね」
「想像もつきませんね。妻が六人もいるってだけで戦争じゃないですか。若くして皇帝に指名されて、兄弟仲は良くなくて──」

 好きな人に愛してるも言えない、という言葉はのみこんだ。
 
「辛いですよね」
「そうね」
「この一週間、とても穏やかな表情で過ごされていたので心配です」

 二人は静かに話しながらザファルの小さな寝息を聞いている。
 心配するほど悪かった顔色は消え、この一週間で見た中で最も平和で穏やかな表情へと変わっている。

「毛布持ってきますね」
「ええ、お願い」

 ふふっと笑ったイヴァが部屋へと向かおうとしたそのとき、玄関のほうから足音が聞こえた。

「んん?」
「誰かしら?」
「ハキームさんでしょうか?」

 この時間に訪問者など珍しい。
 来るとすれば明日からのことでハキームが確認に来たのかもしれないとイヴァは階段ではなく玄関へと向かう。
 それに合わせるように外の足音は徐々に近くなり、入り口で止まった。
 そして――

「うわっ」

 確認のためにカーテンを開けると同時に見えた相手にイヴァは思わず嫌そうな声を漏らした。

「うええ……あの嫌な女の人です」
「開けましょう」

 開けたくはないが開けないわけにもいかず、渋々鍵を開けるとすぐにドアが押し開けられ、アリアが中に入ってきた。

「陛下がお世話にな――」

 妻としての立場を改めて突きつけに来たのかと警戒するイヴァがピッタリと側につくも、アリアの言葉は途中で途切れた。
 目の前の光景に言葉を失っているのだ。アストリッドの膝に頭を預け、眠りについているザファルの姿に。
 その顔は、アリアが一度も見たことのない穏やかな表情。ベールもしていない。妻である自分でさえ滅多に素顔を見ることはないのに。
 皇帝として、夫として、彼女が知る彼は常に仮面をつけていた。冷たく、距離を置き、感情を表に出すことなど決してなかった。
 だが、今そこにいるのは――まるで子供のように無防備で、幸せそうに眠る一人の男性だった。

「ま、まさか……」

 アリアの声が震える。
 夫人たちの誰も見たことがないザファルの寝顔。それを、この女は当然のように見ている。
 そして何より信じられないのは、ザファルが眠りながらアストリッドの手をしっかりと握っていることだった。
 月に一度の訪問日、彼はどの妻の部屋でも決して眠らなかった。義務を果たすと、すぐに身体を離しそのまま帰ってしまう。
 触れ合うのは行為のときだけで、それ以外は一切の接触を拒んでいた。
 それなのにアストリッドの前では、こんなにも無防備に、幸せそうに眠っている。

「あ……あ……」

 アリアの口から、怒りとも嫉妬ともつかない声が漏れる。
 血管が切れそうなほどの怒りが、煮えたぎる憎悪が腹の奥底から湧き上がってくる。

 許せない。
 許せない。
 許せない。

 この女が――
 この忌々しい女が――

「申し訳ありませんが、ようやく深い眠りに入ったところなんです」

 アストリッドの静かな声がアリアの思考を遮った。
 その言葉と表情には、勝ち誇った様子も嫌味もなかった。ただ純粋に、ザファルの安息を願っているだけの優しい女性の顔。
 それが――それこそが、アリアは一番許せなかった。
 この女には計算も策略もない。明日、朝一番にやってきて昼まで文句を言い続けてもそれを聞き続けるのだろう。そんなことが容易に想像できてしまうのが嫌だった。
 自分たちが何年もかけて手に入れられなかった夫の心を――この女は、いとも簡単に掴んでしまった。
 アリアは今、髪を掻き乱して叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

「…………」

 声にならない怒りの叫びを喉の奥で押し殺し、アリアは拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど、強く、強く。
 今ここで怒鳴り散らすわけにはいかない。ザファルが起きてしまえば、自分の立場が悪くなるだけだ。
 アリアは何も言わず、ただじっとその光景を見つめていた。嫉妬と憎悪で煮え立つ心を必死に抑えながら。

 この女は――
 この女だけは――
 絶対に許してはいけない。

 アリアは何も言わず、静かに踵を返した。足音を立てないよう細心の注意を払いながら。
 しかし、玄関を出る直前で振り返るとアストリッドと目が合った。
 静かに頭を下げるこの女は自分がどれほど憎まれているのか、どれほど危険な状況にいるか気付いていない。
 だからこそ、容赦する必要はない。

 アリアは無言で立ち去った。
 しかし、その足取りは来た時よりもずっと重く、決意に満ちていた。

 明日――
 いや、今すぐにでも他の夫人たちに報告する。 
 アリアの怒りに歪んだその表情は、もはや人間のものとは思えないほど恐ろしいものだった。
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