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愛を綴る
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「陛下」
「入るな」
静かなのにピシャリとした声がドアの向こうまで届く。
いつもならここで引くハイルだが、今はそうも言ってはいられない。
「アストリッド様より文をお預かりして参りました」
「文?」
明らかに声色が変わった。
そっとドアを開けるとハイルは驚いた猫のように全身の毛が逆立ったように感じた。まるでイフラーシュのように音もなくドアの向こうに立っていたのだ。
動悸のように激しく心臓が動くのを感じながら文を差し出すとすぐには取らず、文字を凝視する。
「何故お前がアストリッドの元に……?」
「ハキーム様の命でございました」
余計なことを、と怒られるかと構えていたが、そっと手紙が取られた。
「陛下──ッ!」
ピシャッと閉められたドアに大袈裟に肩を跳ねさせるハイルはもう帰ってしまいたかったが、渡す物が残っているため泣く泣くドアをノックした。極めて控えめなノックに「なんだ」と不機嫌そうな声が聞こえる。
泣きたいのを堪えながら再びドアを開けるも今度はそこにいなかった。ちゃんと椅子に座っているのが見える。手には既に封筒から出された便箋。これから読もうとしているところを邪魔した罪として死罪にかけられるのではないかと被害妄想を働かせながら包み紙を差し出した。
「なんだこれは?」
「アストリッド様よりいただきました焼き菓子です」
「……彼女が焼いたのか?」
「また焼くと言っておりましたので、たぶんそうかと」
「……そうか。ありがとう」
「ッ!?」
これほどハッキリとした感謝を口にされたのは初めてで、ハイルは驚きに目を瞬かせる。自分の耳を疑うが、鼓膜の奥には確かにザファルの声で「ありがとう」が木霊していた。
ハイルは何も言わず、頭を下げて部屋をあとにした。
ザファルに睨まれた数秒前よりもずっと速く心臓は動いているが、ハイルの気分は最高潮に達している。ザファルからありがとうを言ってもらえた。一生言ってもらえない人生でも悔いはないが、言われた今、いつ終わろうと悔いはないと断言できるほどの幸せを感じている。
部屋に戻るハイルの足取りはいつもの三倍は軽かった。
感謝を口にしただけでハイルが浮かれて帰ったことも知らないザファルは折りたたまれていた便箋を開いて一行目から丁寧に目を通していく。
────
先程、ハイル様がお見えになりました。
訪問にも驚きましたが、一番驚いたのはその理由です。
食事も睡眠もされていないとはどういうことですか? 話を聞けば、私が宮を出た日からとのこと。
人間に必要なことを拒み、周りに心配をかけるのは皇帝という立場以前に人として良くないことです。
────
しっかりとしたお叱りの手紙だが、ザファルの表情はどこか嬉しそうで、ほんのりと柔らかい。
────
どうか、いつもどおりのお食事と睡眠を日常に戻してください。
私は母親のようにあなたに食事をさせて、眠るまで傍で本を読み聞かせることはいたしません。
ですが、日常に戻す努力をした上で、どうしても眠れなければ一度お越しください。
ただし、痩せている様子でしたらお帰りいただきますので、そのおつもりで。
────
書いてある内容は厳しいものだったが、やはりアストリッドらしさが滲み出ていた。
たったの三日食べないぐらいで人が死に至ることはない。だが、そこに睡眠も不足しているのでは身体は思うように動かなくなる。
既にザファルの脳は思考を停止しつつあり、目の前の書類の文字を読むことも難しくなっている。脳が理解を拒んでいるのだ。
それでも不思議なもので、アストリッドの手紙だけは嘘のようにすらすらと読めた。
「イフラーシュ」
声をかけるとスッと着地の音も立てずに目の前に降りてきたイフラーシュが頭を下げる。
「俺は痩せたか?」
「ひと目見ただけでも良い調子とは言えませんし、女性は鋭いですので、嘘をついたところでバレてしまうのではないでしょうか?」
「……読んだのか?」
「ッ!」
弱ってはいない。彼の怒りが波のように部屋に広がったのを感じ、失言だったと後悔しながらその場に片膝をついた。
「大変申し訳ございません。内容は全て記憶から抹消いたします」
ザファルはアストリッドの宮へ向かう際、イフラーシュの同行を嫌った。自分だけの時間にしたかったからだ。
今回もそうだ。誰もその手紙を読んではならなかった。アストリッドからの手紙は自分だけの宝物だから。
常に側に待機しているのはわかっているが、そこまで侵略するのは許していない。
「二度目はないぞ」
首筋に太く鋭い牙を立てられている気分だった。
ザイードの荒れた怒りとは別物の冷たい怒り。身体の芯から込み上げる震えにイフラーシュの喉がごくりと鳴った。
ザファルが背を向けると同時にその場から姿を消し、イフラーシュは部屋から出ていった。
「……彼女なら気付いてしまうだろうな」
そして容赦はしない。少し怒った顔を見せて「お帰りください」と言い放つのが想像できる。相手が皇帝であろうと自分は手紙に書いていたとハッキリと主張する。
容易に想像できてしまう彼女の行動に先程までの怒りはどこへやら、ザファルの表情に小さな笑みが滲んだ。
「ハキームを呼べ」
立ち上がり、ドアを開けてそう告げると使用人が慌ててハキームの部屋へと走った。
「明日からいつもどおりの食事を摂る」
「反抗期は終わりですかな?」
「反抗などしていない。決めつけるな」
「やれやれ。人に心配をかけておきながら、言うことがそれとは恐れ入りますなぁ」
「お前の舌は嫌味で出来ているようだな」
「これは喜んでおるのですよ」
いつもとなんら変わらない穏やかな笑みだが、ハキームは純粋に安堵していた。それと同時に切なくもあった。
彼の心は既にアストリッドにあり、死ぬも生きるも彼女次第というところにまで心が堕ちてしまっている。
単純で純粋。ハキームは喜びと悲しみが存在する今の感情を静かに飲み込み、明日からの準備を伝えに部屋を出た。
ここ数日、もはや正気すらなかった男が今は手紙の返事を書こうと新しい紙を机に置いていた。
喜ばしい限りだと言えないのが悲しい状況ではあるが、今は喜びと安堵を置いておくことにした。
翌朝、アストリッドの家には既にザファルからの手紙が届けられていた。
「僕はこれで」
「ありがとうございました」
ハイルはアストリッドの家でお茶と焼き菓子を堪能してから場をあとにした。
「貴重な物なのに……」
ザファルからの返事に添えられていたのは庭で育った水色の花。
万能薬と呼ばれるほどの回復効果が高いエキスが採れるという貴重な花をどうして自分に寄越したのかは書かれていなかったが、それぐらいしか思いつかなかったのは綴られている内容から察しがつく。
────
今日から食事を再開することにした。
弱ろうと思ってやめていたわけではなく、単純に食欲がなかっただけだ。あなたへの当てつけでやめていたわけではないことだけはわかってほしい。
あなたがどこにいるかはわかっているし、あなたがそこで穏やかに暮らしていることも知っている。だが、そこは俺のテリトリーではないから、容易に足を運ぶことはできない。俺が訪ねていけば周りはあなたを見る目を変えてしまうだろう。あなたの生活を俺が変えてしまうわけにはいかない。
俺がいなくてもあなたは生きていけるのだと、当たり前のことを考えた瞬間、眠れなくなってしまった。正夢になるような夢を見るのが怖いからだろう。
本当は、今すぐにでもあなたに会いに行って、あの穏やかな眠りにつきたいのだが、今の俺を見ればあなたはきっと俺を門前払いするだろうから少しの間、我慢しておく。食事も睡眠もできる限り、以前と同じレベルまで戻していくつもりだ。(ハイルがくれた焼き菓子は食べた)
一週間後、あなたに会いに行く。だからどうか、私に呆れないでほしい。
待っていてくれ。
────
「ルィム、この水色は自分の代わりにって意味だと思う?」
「ル、ルー!」
傍にいられない代わりに、と思って添えたのだとしたら、やはり子供のようだとくすぐったくなってしまう。
道端に咲く野花を摘んで母親に差し出す子供を何度エルヴァングで見たことか。
ロマンチックというより愛らしさを感じることにクスッと笑い、花瓶に飾られた一輪を暫く眺めていた。
「入るな」
静かなのにピシャリとした声がドアの向こうまで届く。
いつもならここで引くハイルだが、今はそうも言ってはいられない。
「アストリッド様より文をお預かりして参りました」
「文?」
明らかに声色が変わった。
そっとドアを開けるとハイルは驚いた猫のように全身の毛が逆立ったように感じた。まるでイフラーシュのように音もなくドアの向こうに立っていたのだ。
動悸のように激しく心臓が動くのを感じながら文を差し出すとすぐには取らず、文字を凝視する。
「何故お前がアストリッドの元に……?」
「ハキーム様の命でございました」
余計なことを、と怒られるかと構えていたが、そっと手紙が取られた。
「陛下──ッ!」
ピシャッと閉められたドアに大袈裟に肩を跳ねさせるハイルはもう帰ってしまいたかったが、渡す物が残っているため泣く泣くドアをノックした。極めて控えめなノックに「なんだ」と不機嫌そうな声が聞こえる。
泣きたいのを堪えながら再びドアを開けるも今度はそこにいなかった。ちゃんと椅子に座っているのが見える。手には既に封筒から出された便箋。これから読もうとしているところを邪魔した罪として死罪にかけられるのではないかと被害妄想を働かせながら包み紙を差し出した。
「なんだこれは?」
「アストリッド様よりいただきました焼き菓子です」
「……彼女が焼いたのか?」
「また焼くと言っておりましたので、たぶんそうかと」
「……そうか。ありがとう」
「ッ!?」
これほどハッキリとした感謝を口にされたのは初めてで、ハイルは驚きに目を瞬かせる。自分の耳を疑うが、鼓膜の奥には確かにザファルの声で「ありがとう」が木霊していた。
ハイルは何も言わず、頭を下げて部屋をあとにした。
ザファルに睨まれた数秒前よりもずっと速く心臓は動いているが、ハイルの気分は最高潮に達している。ザファルからありがとうを言ってもらえた。一生言ってもらえない人生でも悔いはないが、言われた今、いつ終わろうと悔いはないと断言できるほどの幸せを感じている。
部屋に戻るハイルの足取りはいつもの三倍は軽かった。
感謝を口にしただけでハイルが浮かれて帰ったことも知らないザファルは折りたたまれていた便箋を開いて一行目から丁寧に目を通していく。
────
先程、ハイル様がお見えになりました。
訪問にも驚きましたが、一番驚いたのはその理由です。
食事も睡眠もされていないとはどういうことですか? 話を聞けば、私が宮を出た日からとのこと。
人間に必要なことを拒み、周りに心配をかけるのは皇帝という立場以前に人として良くないことです。
────
しっかりとしたお叱りの手紙だが、ザファルの表情はどこか嬉しそうで、ほんのりと柔らかい。
────
どうか、いつもどおりのお食事と睡眠を日常に戻してください。
私は母親のようにあなたに食事をさせて、眠るまで傍で本を読み聞かせることはいたしません。
ですが、日常に戻す努力をした上で、どうしても眠れなければ一度お越しください。
ただし、痩せている様子でしたらお帰りいただきますので、そのおつもりで。
────
書いてある内容は厳しいものだったが、やはりアストリッドらしさが滲み出ていた。
たったの三日食べないぐらいで人が死に至ることはない。だが、そこに睡眠も不足しているのでは身体は思うように動かなくなる。
既にザファルの脳は思考を停止しつつあり、目の前の書類の文字を読むことも難しくなっている。脳が理解を拒んでいるのだ。
それでも不思議なもので、アストリッドの手紙だけは嘘のようにすらすらと読めた。
「イフラーシュ」
声をかけるとスッと着地の音も立てずに目の前に降りてきたイフラーシュが頭を下げる。
「俺は痩せたか?」
「ひと目見ただけでも良い調子とは言えませんし、女性は鋭いですので、嘘をついたところでバレてしまうのではないでしょうか?」
「……読んだのか?」
「ッ!」
弱ってはいない。彼の怒りが波のように部屋に広がったのを感じ、失言だったと後悔しながらその場に片膝をついた。
「大変申し訳ございません。内容は全て記憶から抹消いたします」
ザファルはアストリッドの宮へ向かう際、イフラーシュの同行を嫌った。自分だけの時間にしたかったからだ。
今回もそうだ。誰もその手紙を読んではならなかった。アストリッドからの手紙は自分だけの宝物だから。
常に側に待機しているのはわかっているが、そこまで侵略するのは許していない。
「二度目はないぞ」
首筋に太く鋭い牙を立てられている気分だった。
ザイードの荒れた怒りとは別物の冷たい怒り。身体の芯から込み上げる震えにイフラーシュの喉がごくりと鳴った。
ザファルが背を向けると同時にその場から姿を消し、イフラーシュは部屋から出ていった。
「……彼女なら気付いてしまうだろうな」
そして容赦はしない。少し怒った顔を見せて「お帰りください」と言い放つのが想像できる。相手が皇帝であろうと自分は手紙に書いていたとハッキリと主張する。
容易に想像できてしまう彼女の行動に先程までの怒りはどこへやら、ザファルの表情に小さな笑みが滲んだ。
「ハキームを呼べ」
立ち上がり、ドアを開けてそう告げると使用人が慌ててハキームの部屋へと走った。
「明日からいつもどおりの食事を摂る」
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「反抗などしていない。決めつけるな」
「やれやれ。人に心配をかけておきながら、言うことがそれとは恐れ入りますなぁ」
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「これは喜んでおるのですよ」
いつもとなんら変わらない穏やかな笑みだが、ハキームは純粋に安堵していた。それと同時に切なくもあった。
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単純で純粋。ハキームは喜びと悲しみが存在する今の感情を静かに飲み込み、明日からの準備を伝えに部屋を出た。
ここ数日、もはや正気すらなかった男が今は手紙の返事を書こうと新しい紙を机に置いていた。
喜ばしい限りだと言えないのが悲しい状況ではあるが、今は喜びと安堵を置いておくことにした。
翌朝、アストリッドの家には既にザファルからの手紙が届けられていた。
「僕はこれで」
「ありがとうございました」
ハイルはアストリッドの家でお茶と焼き菓子を堪能してから場をあとにした。
「貴重な物なのに……」
ザファルからの返事に添えられていたのは庭で育った水色の花。
万能薬と呼ばれるほどの回復効果が高いエキスが採れるという貴重な花をどうして自分に寄越したのかは書かれていなかったが、それぐらいしか思いつかなかったのは綴られている内容から察しがつく。
────
今日から食事を再開することにした。
弱ろうと思ってやめていたわけではなく、単純に食欲がなかっただけだ。あなたへの当てつけでやめていたわけではないことだけはわかってほしい。
あなたがどこにいるかはわかっているし、あなたがそこで穏やかに暮らしていることも知っている。だが、そこは俺のテリトリーではないから、容易に足を運ぶことはできない。俺が訪ねていけば周りはあなたを見る目を変えてしまうだろう。あなたの生活を俺が変えてしまうわけにはいかない。
俺がいなくてもあなたは生きていけるのだと、当たり前のことを考えた瞬間、眠れなくなってしまった。正夢になるような夢を見るのが怖いからだろう。
本当は、今すぐにでもあなたに会いに行って、あの穏やかな眠りにつきたいのだが、今の俺を見ればあなたはきっと俺を門前払いするだろうから少しの間、我慢しておく。食事も睡眠もできる限り、以前と同じレベルまで戻していくつもりだ。(ハイルがくれた焼き菓子は食べた)
一週間後、あなたに会いに行く。だからどうか、私に呆れないでほしい。
待っていてくれ。
────
「ルィム、この水色は自分の代わりにって意味だと思う?」
「ル、ルー!」
傍にいられない代わりに、と思って添えたのだとしたら、やはり子供のようだとくすぐったくなってしまう。
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