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五日前
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錠前が外れる甲高い音が重厚なドアの向こうから聞こえてきた。
眠れていないアストリッドはベッドから起き上がり、静かにドアへと近付いた。
「何用──」
牢番が掲げた灯りの向こうに少女が立っている。
イヴァだった。
髪は濡れ、額に張りついている。外で雨が降っていることさえアストリッドは知らなかった。
「どういうことですか?」
「風の精は教えてくれなかったのですか?」
牢番の後ろから聞こえた声に眉を寄せる。神官タウロスの声だ。
鍵束を鳴らして扉を開け放つと、イヴァの背を軽く押した。よろめきながら入ってきた彼女の身体を受け止め、タウロスを睨みつける。
「反逆者に国を滅ぼされては困りますからね」
「私を反逆者にしたほうが、あなたには都合がいいようですね」
「何をおっしゃるのです、アストリッド“元”王妃」
その言葉だけで今がどういう状況なのか大体の察しはつく。
タウロスという男は神官でありながらも欲深い男であることはフィルングもわかっていた。だが、それだけ。不正の証拠もなく、民からの信頼も厚い。
彼に嫌悪を抱くという理由だけで引き摺り下ろせるはずもなく、彼は今もこうして神官を続けている。
間違いだったと悔いたところで何もできない。
それでもアストリッドは悔しさを表に出すことはしなかった。それは彼が望んでいる感情だろうとわかっているから。
「この悪魔ッ! お前など神に仕える資格もない!!」
「王殺しの悪魔に仕えるお前に言われたくはない」
「このッ──!」
かかっていこうとしたイヴァの手をアストリッドが握って止めた。
「民の暴動を引き起こす準備が着々と進んでいるようですね?」
「──私が誘導していると? この国だけでなく神にも仕える私が、この国で民の暴動を引き起こそうとしていると疑っておられるのですか?」
「ええ。私を“正当な理由”で殺すために」
アストリッドの迷いなき返事にタウロスは言葉を返さなかった。
「近々、評議会があなたへの罪状を発表することでしょう。それまでこちらで心を楽に、優雅にお過ごしください」
「お心遣いどうもありがとう」
嫌味にすら表情を歪めることはなく、礼を返すと「ふんっ!」と苛立ちを露わにドアを閉めた。
「タウロス神官」
階段を上がろうとしていたタウロスが踵を返し、ドアの小窓から目を覗かせる。
「全て見ていますよ」
その瞬間、風が吹き抜けた。地下牢で起こるはずがない突風が彼の目を閉じさせた。まるで少し怯んだように。
ピクッと頬を痙攣させ、何も言わぬまま階段を上がっていく彼の足音を聞きながらアストリッドは大きく息を吐き出した。
錠前が閉まる音を聞きながらアストリッドはイヴァと奥へ戻る。
アストリッドが椅子に座ると同時にイヴァは膝を折った。
「ご無事で、良かった……!」
アストリッドの手を握る手が震えている。けれど涙はこぼさない。
アストリッドはその手をそっと包み込み、笑顔を見せた。
「なぜ、あなたが牢へ?」
イヴァが唇を噛む。
「タウロスは私に、アストリッド様が風の精を操っているのを見たことがあるかとしつこいほどに聞いてきました。タウロスは警戒していると思い、風の精に祝福を受けたアストリッド様の周りには常に風の精がいる、と答えたんです」
「それだけであなたをここへ?」
「いえ、私を脱走犯として投獄すると」
「脱走犯?」
濡れているイヴァの髪を見て、アストリッドはすぐにタオルを取った。頭にかけて優しく拭いてやると「えへへ」と元気はないが、少し嬉しそうな声が漏れた。
「どこかへ行こうとしていたの?」
「──風の谷へ……」
アストリッドの身に起こっていることをすぐにでも彼女の父親へ知らせなければならないとイヴァは監視の目を盗んで国を飛び出した。
「見つかってしまって……馬もないので逃げきれず捕まってしまいましたッ。すぐにでも知らせなければならないのに──」
その場で頭を下げようとしたイヴァの前に膝をつくと驚いた顔がこちらを向く。
「いいのよ、イヴァ。風の谷はあなた一人で行くには危険な場所よ。行かなくて正解」
「で、でも私……」
「いいの。──こんなことを言ってしまうのは最低かもしれないけれど、あなたに会えて嬉しいのよ。一人は……とても寒かったから」
堪えていた涙が溢れてしまう。
抱きつき、謝りながら泣きじゃくるイヴァを抱きしめて背中を撫でる。
「風の精を怖れる神官……皮肉ね」
アストリッドは微かに笑った。
「こんな所にアストリッド様を寝かせるなんて!」
暫くして泣き止んだイヴァはいつもの調子を取り戻していた。
部屋は狭く埃臭い。壁際にベッドがひとつ、鉄製の水差し、乾いたパンが置かれた皿。
地下なため、窓もないこの場所は闇に包まれ、確かに寒い。
「フィルング陛下はきっとお怒りですよ」
「そうね」
「私は今、フィルング陛下の分も背負って怒っています」
「イヴァ、どこへ行くの?」
足音に怒りを乗せながらドアへと近付くとそのまま足で思いきり蹴り飛ばした。
ドアの向こうに立っていた門番が驚き、慌てて小窓を覗くとイヴァと目が合った。
「裏切り者め。恥を知れ」
吐き捨てるように告げたイヴァは彼らからの返事を待たずにアストリッドの元へと戻る。
後ろから兵士の怒声が聞こえるもイヴァは聞こえていないフリをしてアストリッドに笑顔を見せた。
「アストリッド様、お休みください。今日からまた私が一緒です」
「あなたは?」
「私は床で充分です! まだ若いですし、大丈夫──」
「ダメ。一人は寒いと言ったでしょう?」
そう言われると断れないと知っているため、ズルいと呟きながらも嬉しそうにベッドに横になった。綺麗とは言えないシーツだが、石床の上で眠るよりはずっといい。
牢の外では時折、松明の炎が揺れる音が聞こえる。
ベッドの上で向かい合いながらアストリッドはイヴァの髪を優しく梳いた。
「何もされてない?」
「何も。私がこうして無事なのは全てアストリッド様のおかげです」
きっと、捕まったときに何かされそうになったのだろうが、誰かが止めたのかもしれない。けれど、あの言葉が効いた。
「よかった」
小さく笑うアストリッドの頬に手を添える。
「私にはアストリッド様を支える力しかありませんが、絶対にタウロスの思惑どおりにはいきません。いくわけないんです。だから、諦めないでくださいね。なんとかして風の谷に連絡を取って、無実を証明してもらいましょう」
アストリッドは目を閉じた。
イヴァらしい言葉だが、希望を持つには絶望が大きすぎる。
「……風の谷は、そんなに厳しい所なんですか?」
前向きな言葉ひとつ口にしないアストリッドにイヴァが不思議そうに問いかけた。
「谷から出た者は二度と戻ってはならない決まりがあるの」
「そんな──」
「どこにだってルールはあって、誰もがそれに従って生きてる。私はそれを承知で彼から──フィルング・ルーセラン=エルヴァングからの求婚を受けたの」
「で、でも……」
娘が死ぬかもしれないのに、ルールだからと見殺しにするような親がいるのかと、イヴァは信じられない思いだった。
「もし民が、アストリッド様を疑うのであれば、こんな国は滅んでしまえばいいんです」
「イヴァ……」
「フィルング陛下が愛した国が強欲な者たちの手によって変えられてしまう前に、滅びるべきです」
彼はこの国を愛していただろうか。彼の口から語られるのは辛い記憶ばかりだった。今となってはその真意を確認する術もなく、イヴァの言葉を黙って受け止めるしかない。
「乱暴な言葉を使ってすみません。さ、アストリッド様は少しでもお休みください」
「あなたもね」
「私は床でも眠れる女ですよ。心配ご無用! あ、子守歌でも歌いましょうか?」
「ふふっ、お願いしようかしら」
イヴァは小さく笑ったあと、そっと息を吸い込んで歌い始めた。
透き通るような声が奏でる旋律――フィルングが好んだこ古い子守歌だ。エルヴァングに伝わる子守唄だと聞いた。
アストリッドは重い瞼を閉じ、イヴァの体温に身を預ける。
希望はない。未来も──それでも、アストリッドは今この瞬間だけは幸せだった。
──処刑まで、あと五日。
眠れていないアストリッドはベッドから起き上がり、静かにドアへと近付いた。
「何用──」
牢番が掲げた灯りの向こうに少女が立っている。
イヴァだった。
髪は濡れ、額に張りついている。外で雨が降っていることさえアストリッドは知らなかった。
「どういうことですか?」
「風の精は教えてくれなかったのですか?」
牢番の後ろから聞こえた声に眉を寄せる。神官タウロスの声だ。
鍵束を鳴らして扉を開け放つと、イヴァの背を軽く押した。よろめきながら入ってきた彼女の身体を受け止め、タウロスを睨みつける。
「反逆者に国を滅ぼされては困りますからね」
「私を反逆者にしたほうが、あなたには都合がいいようですね」
「何をおっしゃるのです、アストリッド“元”王妃」
その言葉だけで今がどういう状況なのか大体の察しはつく。
タウロスという男は神官でありながらも欲深い男であることはフィルングもわかっていた。だが、それだけ。不正の証拠もなく、民からの信頼も厚い。
彼に嫌悪を抱くという理由だけで引き摺り下ろせるはずもなく、彼は今もこうして神官を続けている。
間違いだったと悔いたところで何もできない。
それでもアストリッドは悔しさを表に出すことはしなかった。それは彼が望んでいる感情だろうとわかっているから。
「この悪魔ッ! お前など神に仕える資格もない!!」
「王殺しの悪魔に仕えるお前に言われたくはない」
「このッ──!」
かかっていこうとしたイヴァの手をアストリッドが握って止めた。
「民の暴動を引き起こす準備が着々と進んでいるようですね?」
「──私が誘導していると? この国だけでなく神にも仕える私が、この国で民の暴動を引き起こそうとしていると疑っておられるのですか?」
「ええ。私を“正当な理由”で殺すために」
アストリッドの迷いなき返事にタウロスは言葉を返さなかった。
「近々、評議会があなたへの罪状を発表することでしょう。それまでこちらで心を楽に、優雅にお過ごしください」
「お心遣いどうもありがとう」
嫌味にすら表情を歪めることはなく、礼を返すと「ふんっ!」と苛立ちを露わにドアを閉めた。
「タウロス神官」
階段を上がろうとしていたタウロスが踵を返し、ドアの小窓から目を覗かせる。
「全て見ていますよ」
その瞬間、風が吹き抜けた。地下牢で起こるはずがない突風が彼の目を閉じさせた。まるで少し怯んだように。
ピクッと頬を痙攣させ、何も言わぬまま階段を上がっていく彼の足音を聞きながらアストリッドは大きく息を吐き出した。
錠前が閉まる音を聞きながらアストリッドはイヴァと奥へ戻る。
アストリッドが椅子に座ると同時にイヴァは膝を折った。
「ご無事で、良かった……!」
アストリッドの手を握る手が震えている。けれど涙はこぼさない。
アストリッドはその手をそっと包み込み、笑顔を見せた。
「なぜ、あなたが牢へ?」
イヴァが唇を噛む。
「タウロスは私に、アストリッド様が風の精を操っているのを見たことがあるかとしつこいほどに聞いてきました。タウロスは警戒していると思い、風の精に祝福を受けたアストリッド様の周りには常に風の精がいる、と答えたんです」
「それだけであなたをここへ?」
「いえ、私を脱走犯として投獄すると」
「脱走犯?」
濡れているイヴァの髪を見て、アストリッドはすぐにタオルを取った。頭にかけて優しく拭いてやると「えへへ」と元気はないが、少し嬉しそうな声が漏れた。
「どこかへ行こうとしていたの?」
「──風の谷へ……」
アストリッドの身に起こっていることをすぐにでも彼女の父親へ知らせなければならないとイヴァは監視の目を盗んで国を飛び出した。
「見つかってしまって……馬もないので逃げきれず捕まってしまいましたッ。すぐにでも知らせなければならないのに──」
その場で頭を下げようとしたイヴァの前に膝をつくと驚いた顔がこちらを向く。
「いいのよ、イヴァ。風の谷はあなた一人で行くには危険な場所よ。行かなくて正解」
「で、でも私……」
「いいの。──こんなことを言ってしまうのは最低かもしれないけれど、あなたに会えて嬉しいのよ。一人は……とても寒かったから」
堪えていた涙が溢れてしまう。
抱きつき、謝りながら泣きじゃくるイヴァを抱きしめて背中を撫でる。
「風の精を怖れる神官……皮肉ね」
アストリッドは微かに笑った。
「こんな所にアストリッド様を寝かせるなんて!」
暫くして泣き止んだイヴァはいつもの調子を取り戻していた。
部屋は狭く埃臭い。壁際にベッドがひとつ、鉄製の水差し、乾いたパンが置かれた皿。
地下なため、窓もないこの場所は闇に包まれ、確かに寒い。
「フィルング陛下はきっとお怒りですよ」
「そうね」
「私は今、フィルング陛下の分も背負って怒っています」
「イヴァ、どこへ行くの?」
足音に怒りを乗せながらドアへと近付くとそのまま足で思いきり蹴り飛ばした。
ドアの向こうに立っていた門番が驚き、慌てて小窓を覗くとイヴァと目が合った。
「裏切り者め。恥を知れ」
吐き捨てるように告げたイヴァは彼らからの返事を待たずにアストリッドの元へと戻る。
後ろから兵士の怒声が聞こえるもイヴァは聞こえていないフリをしてアストリッドに笑顔を見せた。
「アストリッド様、お休みください。今日からまた私が一緒です」
「あなたは?」
「私は床で充分です! まだ若いですし、大丈夫──」
「ダメ。一人は寒いと言ったでしょう?」
そう言われると断れないと知っているため、ズルいと呟きながらも嬉しそうにベッドに横になった。綺麗とは言えないシーツだが、石床の上で眠るよりはずっといい。
牢の外では時折、松明の炎が揺れる音が聞こえる。
ベッドの上で向かい合いながらアストリッドはイヴァの髪を優しく梳いた。
「何もされてない?」
「何も。私がこうして無事なのは全てアストリッド様のおかげです」
きっと、捕まったときに何かされそうになったのだろうが、誰かが止めたのかもしれない。けれど、あの言葉が効いた。
「よかった」
小さく笑うアストリッドの頬に手を添える。
「私にはアストリッド様を支える力しかありませんが、絶対にタウロスの思惑どおりにはいきません。いくわけないんです。だから、諦めないでくださいね。なんとかして風の谷に連絡を取って、無実を証明してもらいましょう」
アストリッドは目を閉じた。
イヴァらしい言葉だが、希望を持つには絶望が大きすぎる。
「……風の谷は、そんなに厳しい所なんですか?」
前向きな言葉ひとつ口にしないアストリッドにイヴァが不思議そうに問いかけた。
「谷から出た者は二度と戻ってはならない決まりがあるの」
「そんな──」
「どこにだってルールはあって、誰もがそれに従って生きてる。私はそれを承知で彼から──フィルング・ルーセラン=エルヴァングからの求婚を受けたの」
「で、でも……」
娘が死ぬかもしれないのに、ルールだからと見殺しにするような親がいるのかと、イヴァは信じられない思いだった。
「もし民が、アストリッド様を疑うのであれば、こんな国は滅んでしまえばいいんです」
「イヴァ……」
「フィルング陛下が愛した国が強欲な者たちの手によって変えられてしまう前に、滅びるべきです」
彼はこの国を愛していただろうか。彼の口から語られるのは辛い記憶ばかりだった。今となってはその真意を確認する術もなく、イヴァの言葉を黙って受け止めるしかない。
「乱暴な言葉を使ってすみません。さ、アストリッド様は少しでもお休みください」
「あなたもね」
「私は床でも眠れる女ですよ。心配ご無用! あ、子守歌でも歌いましょうか?」
「ふふっ、お願いしようかしら」
イヴァは小さく笑ったあと、そっと息を吸い込んで歌い始めた。
透き通るような声が奏でる旋律――フィルングが好んだこ古い子守歌だ。エルヴァングに伝わる子守唄だと聞いた。
アストリッドは重い瞼を閉じ、イヴァの体温に身を預ける。
希望はない。未来も──それでも、アストリッドは今この瞬間だけは幸せだった。
──処刑まで、あと五日。
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