たとえば、この恋に終わりがないと言われても──

永江寧々

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星空

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 食事を終えた夜、アストリッドはバルコニーに出ていた。
 夜空一面に広がる満天の星空をひとり、静かに見上げている。
 イヴァは喋り疲れたのか、久しぶりに満腹まで食べたからか、ソファーの上でぐっすりと眠っており、大口を開けたまま幸せそうに眠っていて起きる気配がない。
 彼女がいると心強い。ポキッと簡単に折れそうな心をいつも全力で支えてくれた。
 だが、今だけは、一人で考える時間も欲しかった。

「はあ……」

 星明かりしか存在しない海の上で吐き出した息は溜息か、それとも感嘆か。

「王妃か」

 隣のバルコニーに出てきたザファルに顔を向け、会釈する。

「眠れないのか?」
「……そうですね」
「これから向かうのは、あなたにとっては未知の世界だ。不安はあると思う」

 不安がないと言えば嘘になる。今はまだ、楽しみよりも戸惑いや不安のほうが大きくて、気を遣った言葉ひとつ出てこない。

「それでも、あなたの不安は全て俺が拭うと約束する」
「そこまでしていただくわけには──」
「フィルングとの約束だ」

 フィルングが映像に残したのは彼の心の内のほんの一部でしかなかったのだろう。本当はもっと言いたいことがあったはずだ。それでも、残してしまう者が残される者に多くで縛りつけてはならないと考えたのかもしれない。
 アストリッドにはそう思えた。彼はとても優しい人だから。

「フィルングと親交を持ったキッカケはなんだったのか、聞いてもいいですか?」
「七年前の世界会議に私は父の代理で出席した。まだ私は十代で、あなたが知っているように立場はまだ皇子だった。故に、ラフナディール代表に相応しくないと思われていたのか、一つも話を振られなかったのだが、フィルングだけは違った。彼は私の若さを『若造』ではなく『未来の希望』と言ってくれたんだ」
「彼なら言いそう」

 容易に想像がつくと目を細めるアストリッドの横顔をザファルが横目で盗み見る。

「そのあとのパーティーであなたと初めて会った」
「覚えています」
「あの日からずっと、彼と手紙のやり取りをしていた」

 手紙のやり取りをしていたのは知っていたが、フィルングのその言葉をきっかけに個人間のやり取りが始まったことは知らなかった。

「彼はいつも未来への不安を口にしていた」
「彼が……?」

 想像がつかない。アストリッドにとってフィルングという男は常に明るい未来を見据えている人だったから。

「多くがあなたのことではあったが」
「……残して逝ってしまうかもしれないこと、ですか?」
「そうだ」

 星空から水平線へと顔を向けたアストリッドの声が少し小さくなる。

「それもあの人らしい……」

 解毒薬の多くはエルヴァングで発見されており、ルーセラン一族はその調合を惜しみなく世界に広めた。
 毒によって尊い命が消えてしまう機会が少しでも減ることを願ってのことだった。
 己が身を犠牲にして世界の顔も名前も知らない人間を救うことをアストリッドはどうしても尊いとは思えなかった。その犠牲が必要であるとも。今もそう。考えは変わっていない。

「風の谷で静かに暮らしていたあなたを自分が求婚したばかりに捨てさせることになった。王族でもないあなたが王妃として生きるのは楽ではなかったはず。毒の実験体になる夫を非難せず寄り添ってくれているあなたに感謝していると」
「あなたにそんなことまで話していたのですか……」
「彼はもう毒の研究をやめると言ったときもあった」
「え……?」

 初めて耳にする情報に驚いた表情のアストリッドと目が合った。

「結局は強力な新種が出てきたせいでやめられなかったのだろうが……」

 詳しいことは書いていなかったが、それらしいことは書いてあった。

「やめなければ。やめたい。やめよう。だが……そう思い続ける葛藤の中で生きてきたフィルングの人生も楽ではなかっただろう。そんな人生の中で、あなたは彼の希望だった。幸福の証だったのかもしれない」

 自分を、自分の一族を愚かだとフィルングは言っていた。だが、その愚かさがあったからこそ救われた多くの命がある。けれど、その命の名前も彼らは知らない。
 本当にそれでよかったのだろうか。多くの命を救うために彼らは自分の命を投げ落とす。未来がある大切な命が、未来まで続かない人生──……

「彼は……本当に幸せだったのかしら……」

 アストリッドの瞳から涙が一筋零れた。

「私は……あの人は……たくさんの愛をくれたのに……私が返せたのはまだほんの一部で……これからもっと、たくさん時間をかけて返したかった……」

 彼の気持ちを、言葉を疑っているわけではない。ただ、あまりにも辛い人生の中で彼にしてあげたかったことの半分もできなかった後悔を抱える自分が彼の光になれていたとは思えないのだ。

「自分を幸せにしてくれた、世界にたった一つの宝物だからこそ、彼はあなたを私に託した」
「ふふっ、無責任な人……」

 涙を拭いながら苦笑して、ゆっくりと息を吐き出す。

「あなたが風の谷に戻らないことを彼は予想していた。戻れないだろうと。けれど、風の谷とエルヴァングしか知らないあなたが穏やかに世界のどこかで自らの力だけで生きていくのは難しいと言っていた」

 彼が残した言葉を思い出す。

『外は君が強がって生きていけるほど優しい世界ではないんだ』

 実際、その言葉は正しいのだとアストリッドもわかっている。
 風の谷では族長の娘として、エルヴァングでは王妃として生きてきた自分が、普通の生活を知らない自分がポイッと放り出されて何ができるのか。
 困っている者に無償の愛で手を差し伸べる人間ばかりではないことを知っているからこそ、彼の言葉に従おうと思った。

「あの人が無茶なお願いをしてごめんなさい。あの人はあなたをとても気に入っていたからお願いしたんだと思います」
「……いや、私は……頼られて嬉しかった」

 優しい人だと小さな微笑みを浮かべながら涙を拭い、再び星空を見上げる。

「いつか、船を借りて海に出よう。そんな話を夫としたことがあるんです」
「海に?」
「海の上の散歩だと」
「彼らしいな」
「手漕ぎボートで海に出ると言うから、それだったら港で星を見ましょうと言ったのですが、彼は海の真ん中で見るからいいのだと……」

 今この瞬間のように海の上で彼と星を見ることは叶わなかった。
 この星空を見たらきっと、少年のように目を輝かせながら天体の本を片手に色々話をしただろう。
 ボートなど漕いだこともないくせに一生懸命漕いで、港から離れた場所で船を止める。そして持ってきていた本を広げて、とびきりの笑顔で空を指す。

『アストリッド、あの星はあそこの星と繋がっていて、こういう形になるらしい。そこから南に下がって──』

 止めたはずの涙がまたこぼれ落ちていく。
 あったはずの未来が失われた痛みと苦しみがアストリッドの心を蝕む。

「彼は幸せだった。それは間違いなく、あなたという妻がいたからだ」

 断言できるほど彼からの手紙には妻への愛が綴られていた。惚気を送ってくるなと何度言っても変わらなかった。
 呆れるほどの愛に何度肩を竦めたことか。

「ありがとう……ございます……」

 顔を両手で覆いながら華奢な肩を震わせて泣くアストリッドに伸ばした手は彼女の肩に触れる寸前で拳へと変わった。
 夫を想い、涙する女性が求めているのは、ただの男のぬくもりではなく最愛の人の温もりだ。慰めを理由に触れてはいけない。
 ザファルにできるのは、黒衣の下に持っていた紺のストールをアストリッドの肩にかけることだけ。
 上質な絹に銀糸が織り込まれた夜空を映したような美しいストールに包まれながら、エルヴァングから遠い夜空の下、少しだけ、肩の重みが優しく感じられた。
 
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