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4話
3.
しおりを挟むそれから五分も経たず準備を整えると、キャシディーはアロイスを迎え入れた。
「いらっしゃいませ、アロイスさん」
「こんばんは、キャシディー」
身の丈二メートルの巨大な体躯に、顔を覆う黒いマスク。見た目はこんなにも怪しいのに、この人がそばにいると落ち着くのはどうしてなのだろう。
いつものように一緒にシャワーを浴びてから、裸でベッドに入った。アロイスの引き締まった体を見るたび、キャシディーの心は踊り、手がつけられなくなる。
唇で体の輪郭をなぞっていけば、アロイスはくすぐったそうに身動ぎする。その仕草が可愛く思えて、舌先を立て、尚も意地悪く舐めた。
前戯から挿入に至るまでの一連の行為は、娼婦側がひととおり行う。だが客の中にはイニシアチブを取るのが好きなタイプもいるし、その辺りはその時々に応じて対応する。
アロイスも、最初のうちはキャシディーのなすがままになっているが、臨戦態勢が整うと自分で動くことを好む。今日もそのつもりだったのだろう、体を起こそうとした彼の肩を、だがキャシディーはそっと押し返した。
もっと、この愛しい男を、味わいたい。
「キャシディー?」
不思議そうなアロイスに妖艶な笑みを返すと、キャシディーは再びベッドに倒れた彼の乳首を吸った。
「んっ……!」
小さな乳輪に沿ってぐるぐると舌を這わせながら、天を向き始めた太い陰茎を扱いた。しばらくそれを続けて、ペニスの先端が濡れ始めると、胸から脇腹、そしてその下へと口づけていく。
硬く張り詰めた赤黒い肉の棒と遂に対面すると、キャシディーはうっとりとつぶやいた。
「ああ、なんて立派なの……。アロイスさんのここ、本当に素晴らしいです。大好き……!」
「……っ」
下卑た称賛にすら反応し、びくりと震えたそれを、キャシディーはねっとりと口に含んだ。鼻に抜けていく、どれだけ洗っても消えない雄の匂いに、くらくらする。太い血管を舌でくすぐりながら、陰嚢を優しく揉んだ。鍛え上げられた鋼の肉体にもこんなに柔らかい器官がついていて、しかもそれが急所だとは、男の体とはなんとも面白い。
「く……っ! キャシディーさん、そんな……ダメだ……っ」
自分の口の中で質量を増していく男の分身が、たまらなく愛おしい。
もっと気持ち良くなって欲しい。甘い声が聞きたい。
キャシディーの奉仕にも力が入った。
これでも娼婦歴十年だ。大抵の男なら満足させることができる――はずだったのだが。
アロイスはキャシディーの顎をそっと押さえると、自ら腰を引いた。
「あっ……」
ずるりとゆっくり去っていく太く育ったペニスを舌で追いかけて、キャシディーは残念そうに呻いた。
――どうしたのだろう?
口の端から零れた唾液を拭う自分を、アロイスは興奮に取り憑かれた目で見詰めているというのに。
「そのまま気にせず、出してくださってもよかったんですよ?」
「あなたが、こんなことをする必要はないんだ……」
「いえ、お気になさらず。これがあたしの仕事なんですから」
この客は、娼婦に気を使い過ぎる。
遠慮しないで欲しくてそう言ったのに、マスクから覗くアロイスの唇は、きゅっと歪んだ。
「あ、あの……! ごめんなさい、あたし、何か失礼なことを……!」
狼狽するキャシディーには答えず、アロイスは衣服を着始めてしまった。
――好きな人に喜んで貰いたかったのに、逆に怒らせてしまった?
軍人という職業柄か、あっという間に身だしなみを整えてしまうと、アロイスは裸のままベッドでオロオロしているキャシディーの前に立った。
「すみません。あなたは何も悪いことなんてしていない。私が勝手に……」
「あ、あの、どうしたんですか? ごめんなさい、あたし……!」
マスクの下の男の目は、潤んでいるように見えた。
アロイスはキャシディーの艶やかな黒髪を一房手に取って、言った。
「私は、こんな所に来るべきじゃなかった。――あなたに出会うべきではなかった」
「……!」
アロイスの懺悔と後悔を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが切れた。
キャシディーはアロイスの手を勢いのまま払い除けると、上目遣いに睨んだ。
「なんですか、それ! あたしのサービスが悪かったのなら、そう言ってください!」
「違う、そうじゃない!」
わずかに後ずさって慌て出すアロイスが、ひどく憎らしく思えた。
男らしくない。最低だ。
――さっきまでは、あれほど愛しかったのに。
こんな所で、こんな娼婦と、関係しなければ良かった。
アロイスが言いたいのは、そういうことだろう。
「結局あなたも軽蔑するのね! あたしを!」
軽蔑? そんなの、慣れていたはずじゃないか。
客の多くは罵りながら、娼婦を抱く。卑しい女だと、嘲笑う。
――当たり前じゃない。金のために、体と、人間としての尊厳も売る、最低の仕事なのだから。
故郷で平和に暮らしていた頃、年頃になった娘に、母はよく教え諭したものだ。
『自分を大切にしてちょうだい。男遊びなんてもってのほかよ』
『でも同じクラスの子、おじさんとエッチして、お小遣いもらったって言ってたよ!』
『いやっ! 絶対ダメ! ダメよ! そんなことしないで! キャシディーはね――』
――お父さんとお母さんの大事な大事な、可愛い可愛い宝物なんだから。
『ずっと綺麗でいてね』
ああ、そうだ。
自分を甘やかそうとするたびに思い浮かぶ、黒髪のあの女性は――。
――分かっていたけど、だけど生きていくためには仕方なくて。
あの人は、お母さんだ。
キャシディーの頭の中で、母がまた悲しそうに首を振る。
『嘘はいけないわ。あなたは楽をしたいだけなのよ』
聞きたくない。
咄嗟に枕を掴むと、キャシディーはそれで目の前の大きな体を力任せに叩いた。
「聞きたくない! 聞きたくない!」
「キャシディー、私は……!」
「帰って! お金はいいですから、帰って! もう二度と来ないで!」
「……!」
言葉の礫をぶつけられて、アロイスはしばらく動かなかった。
傷つけたか、怒らせたか。
だが彼は何も言わず、やがて静かに部屋を出て行った。
「は……」
ドアが閉まり、遠ざかって行く客の足音が完全に消えると、キャシディーの体からは力が抜けた。
あとからあとから涙が零れ落ちてくる。
――八つ当たり、だ。
「お客様を満足させられないわ、当たり散らすわ、ホント、最低な娼婦ね……。こりゃ真剣に引退を考えなきゃだわ」
ひっきりなしに落ちていく涙が、シーツに染みを作っていく。
――誰よりも娼婦を侮蔑しているのは、あたしだわ。
それなのに、惰性と慣れでこの仕事を続けている。
ただ生きていくためなら、今なら貯えも多少あるし、別のところで働くことだってできるだろう。
だが故郷から逃げ出して、やっと得たこの居場所を、失うのが怖いのだ。
そのためだけに、母や自分の自尊心を裏切り続け、結果、愛する人にも見放されてしまった。
――でも、ひとりは怖い。
顔を上げ、周囲を見回す。
白い壁、大きなベッド、細々した家具。いつもなら鳥かごのように狭いと思っていたこの部屋が、今はとても広く感じる。
「怖いのよ……」
キャシディーは寝台の上で泣き崩れた。
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