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第1話 牢の中へ
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しおりを挟む手押し車の上でぶつかり合い、ガチャガチャとやかましいバケツは、それでも中身は空だから、運び手の足取りも軽い。
やがて皇宮内の建物の中でも一際大きく、警備も厳重なそこ――「柘榴御所(ざくろごしょ)」が見えてくる。
御所が近づくにつれ、鼻歌は止まり、くつろいだ表情も消え失せ――蓮はいつもの不機嫌そうな顔つきになった。
「おかえりなさいませ、陛下」
「どうぞお出かけの際は、一声おかけくださいますよう……」
「……………」
御所の入り口を守る兵士たちが、深々と頭を下げる。だが蓮は彼らを路傍の石のように無視し、手押し車を放り出すように置いて、御所に入った。
ここ「柘榴御所」は、皇帝である蓮とその家族のための邸宅だ。
長い廊下を進み、一番奥にあるのが蓮の私室である。置かれている調度品のひとつひとつは高価で価値が高いのだろうが、数が少なく、室内はすっきりしている。二十畳ほどの広さのそこに引きこもると、蓮は汗に水に土にとドロドロに汚れた衣を脱ぎ捨てた。
上半身は裸になり、袴と足袋姿になったところで、辺りが騒がしくなる。
チッと、蓮は舌打ちした。
「蓮、帰ったのですか? また誰にも告げず、遊びに行ってしまったと聞きましたが……」
現在の柘榴御所の住人は、蓮ともう一人、彼の生母である珀桜皇太后(はくおうこうたいごう)のみである。
皇太后は侍女を二人ほど引き連れ、現れた。
「まあ、蓮。またそのような……」
床に脱ぎ捨てられた汚れた衣服を一目見るや、皇太后は手にした扇子を口元に当て、眉をひそめた。
珀桜皇太后のお歳は、確か四十手前。若かりし頃、「霧椿国一の美女」と謳われていた美貌も未だ健在で、大変麗しい女人である。
きめ細やかな白い肌と、人形のように整った顔、細くたおやかな柳のような肢体は、しかし残念ながらただ一人の息子である蓮に、受け継がれていないようだ。
「下々の者のように、こんなに日に焼けて、みっともない……」
自分に伸びてくる皇太后の細い指先を避けるように、蓮は冷笑を浮かべながら身を捩った。
「そもそも俺は、あなたのような可憐な肌色は似合いませんよ」
皇太后の眉間に刻まれたシワが、ますます深くなる。
「もういい加減、童子(わらし)のような真似はおやめなさい。きちんと腰を落ち着かせて、国の元首としての役目を果たしてもらわねば困ります。まったく、誰に似たのでしょう……」
「さあ。少なくとも、父上ではないでしょうね。あの人は滅多に外に出ず、なまっちょろかったから。――まったく俺は、両親どちらにも似ていない」
嫌味に嫌味で返すと、皇太后は顔を青くし、背後に控えている侍女たちの様子をこっそり伺った。
侍女たちも心得たもので、聞こえないふりを決め込んでいる。
珀桜皇太后には、先皇の后となる前に、将来を誓い合った恋人がいたとか。だから蓮が生まれてしばらくは、彼の父親は実は皇太后の昔の恋人ではないかと散々噂されたのだそうだ。
二年前に先皇が崩御し、蓮が後を継いだ今でも、皇太后は当時の醜聞を気にしている。
「滅多なことを仰るものではありません……! あなたのその立派なお体は、代々の霧椿皇国皇帝に受け継がれる特長そのものではありませんか……! それにあなたの学問においても武芸においても才気あふれる様は、神祖と崇められる初代皇帝に叶わずとも劣らずと、この母は知っております……!」
「……………」
そもそもは自分の失言からねじれた問答への罪滅ぼしか、それとも普通に息子を激励したいのか。美辞麗句が籠められた口上にも、だがさっぱり熱は宿っていない。
蓮は小さくため息をついた。
皇太后の説教は続く。
「ともかく……。趣味にばかり明け暮れていないで、早く世継ぎをお作りなさいませ。それが目下、一番の、あなたの責務ですよ」
母の言うことはいつも同じだ。蓮は決して皇太后を嫌いなわけではなかったが、彼女を見ているとイライラしてしまう。
――自分の知る限りで最も哀れで、最も蔑むべき生き方をしている女だからだろうか。
「姫たちに不満があるのなら、仰ってくださいませ。あなたのためならいくらだって、お好みの女性(にょしょう)をご用意しますから」
――「ご用意」ときたか。
蓮は不快げに唇をへの字に曲げた。
ここ花咲本皇宮には、国内各地から数多の美女たちが集められ、次代の皇帝を生むべく一所(ひとつところ)に控えさせた――いわゆる後宮が存在する。皇太后は息子にそこへ通い、一刻も早く子供を作れと、再三言い続けているのだった。
そもそも蓮の母である珀桜皇太后も、若干イレギュラーな形ではあるが、後宮へ連れて来られた寵姫の一人である。
「あなたもご存知のとおり、皇位を継げるのは澄花家の直系男子のみ。それも代を重ねるごとに、お血筋はか細くなり……。尊き家柄を繋ぐ役目として残されたのは、もうあなただけなのですよ、蓮」
そのとおり、霧椿皇国の初代皇帝より連なる澄花家の直系子孫は、七代目の蓮ひとりとなっていた。
前皇・澄花楽善夢蕨(すみはならくぜんむけつ)は色を好む性質(たち)だったくせに、成した子は蓮だけだったのだ。
そのおかげというべきか、皇位継承の際に揉めることがなかったのは幸いだったが。
「不幸になるのが分かりきっているのに、子供を作るなんて、俺にはできない。――あなたのように無神経にはなれません」
「……!」
蓮が苦々しくつぶやくと、皇太后は絶句した。扇子を持った手が、ぶるぶると震えている。
言い過ぎたと思ったが、一度口から出てしまった言葉は戻らない。蓮は母から目を逸らした。
「蓮、あなた……! 何を言っているのです! 代々受け継がれてきた尊い血を断ち切ろうなどと、なんと罰当たりな……!」
「母上……。確かに乱世の時代、この国をひとつにまとめあげたご先祖様は、大英雄だったかもしれない。でも末裔の自分たちは、庶民と変わりはしませんよ。ふつーの人というやつです」
「ああ、やめて、蓮! それ以上、バカげた……! 我が澄花家を貶めるようなことを……!」
これ以上やり込めれば、母は卒倒しかねない。
「では俺は風呂に入りますので、失礼」
早々に切り上げ、蓮は珀桜皇太后に背中を向けた。
冷たく笑いながらも、胸の内はぐつぐつと怒りで煮えている。
――尊いとか高貴だとか。それほど大層な血が流れているというならば、父があれほど暗愚な君主だったわけがない。
何もかも、腹が立つ。蓮はドスドスと床板を踏み抜くように、廊下を歩いた。
背後からはキーキーと動物のような母のわめき声が聞こえてくる。だがそれもほんの数時で、啜り泣きに変わるだろう。
可哀想可哀想。自分を責め苛む周囲、理解のない息子。私は本当に不幸なのだ……と。
イライラと引き結んだ唇を、蓮はため息と共に解いた。
――俺だって、ご先祖様を敬っていないわけじゃない。
虐げられていた哀れな我が国の民を救い、蛮族や外夷と戦って討ち果たして、遂に霧椿皇国を興した――。
幼き日、蓮は初代皇帝の偉業について記された歴史書を、ワクワクと心躍らせながら読み進めたことを覚えている。
――久しぶりに読み直してみるかな……。
地下の書庫に納められた建国の史書。所詮権力者である澄花家に都合がいいよう、大いに脚色された書物であろうが、それでももう一度目にすれば、皇帝という自分の立場に少しは愛着を持てるかもしれない。
――母にも、もうちょっと優しくしてやることができるだろうか……。
「どうせ暇だしな……」
皇帝たる自分に、「やるべきことなどないのだから」。
少しだけ足取りを軽くし、浴室へ向かいながら、蓮はしばしの暇つぶしを思いついたのだった。
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