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第1話 牢の中へ
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しおりを挟む羽村家に戻った雪樹は、自室で着替えることにした。全体的にだぼっと大きめの衣服を脱げば、現れたのは細く――艶かしい曲線を描く体である。きつく巻かれていた布を胸から取り払えば、豊かな膨らみが蘇った。
半袖の上衣に、足首までを覆う筒型の――いわゆるスカートに着替え、烏帽子にしまっていた長い髪をひとつに括り直した雪樹は、どこに出しても恥ずかしくない十八歳の美少女だった。
「んしょ……。苦しかったあ」
そう、雪樹の性別は女。彼女の正しい素性は、皇帝・蓮の親戚であると同時に、霧椿皇国最高議会議長・羽村 芭蕉(はねむら ばしょう)の末子であり、長女であった。
「ふう、疲れた……。皇宮が、もう少し近ければいいのにー」
ぶうぶう文句をこぼしながら、雪樹は畳に腰を下ろし、パンパンに張ったふくらはぎを揉んだ。
羽村家から蓮の住まいである皇宮へは、馬を使っても三時間はかかる。なかなかの道のりだ。
「雪樹様、お手紙が届いておりましたよ」
「ん、ありがとう……!?」
ひとごこちついているところに、使用人が本日届いたという封書を持ってきた。
差出人を見て、雪樹は顔色を変える。急いで封を切り、中身を確認した。
「ギヤアアアア……!」
一声、悲鳴のような怪獣の咆哮のような、奇異な叫びを発したかと思うと、雪樹は部屋を飛び出した。
今は皇国議会も休会中で、父も家にいるはずだ。全速力で廊下を走っていると、途中、母とすれ違う。当然「はしたない!」と叱られたが、雪樹はそれどころではなく、階段を駆け上がった。
羽村家は、遠戚とはいえ、皇帝家と縁(えにし)のある由緒正しい貴族の家柄である。しかし質素倹約を信条としているこの家は、暮らしぶりもかなり地味だ。
庶民とたいして変わらぬ――だから馬のように大いに駆けても大丈夫。ぶつかって困るような高価な家財道具も調度品もないのだから。
「お父様!」
二階奥の部屋の戸を勢い良く開けると、父は読んでいた書物から顔を上げた。
「雪(せつ)、ノックをしなさい。まったくおまえは、いつまでも子供だね」
口では叱りながらも、顔は笑っている。この父は、末に生まれた唯ひとりの娘には甘いのだ。
黒々とした長い顎髭が印象的な雪樹の父親は、名を「羽村 芭蕉(はねむら ばしょう)」という。
今年で五十五歳になる芭蕉は、霧椿皇国の代表機関である最高議会の議長を勤めている。
国の首長は皇帝と定められているが、それは形式的なものに過ぎない。実際のまつりごとを取り仕切っているのは、貴族や一般の有識者から選出された者たちからなる議会である。
その最高議会の代表、議長である羽村 芭蕉は、実質的な霧椿皇国の代表だ。いまや国一番の権力を持つと言っても過言ではないだろう――。
しかし芭蕉はその立場に奢ることなく、自分にも他者にも厳しい。それでいて家庭においては、妻を愛し、子供たちをほどほどに甘やかす、善良な男であった。
「それで、どうしたね、雪。そんなに慌てて」
「こ、こここ、これ!」
娘が差し出した封筒を受け取り、中身に目を通すと、芭蕉はゆっくり息を吐きながら、大きく頷いた。
「雪、やったな。おまえは私の誇りだ」
「お父様……!」
父の笑顔を見て、雪樹は思わず涙をこぼした。
先ほど届いた書状は、霧椿皇国の最高学府、「霧椿西方高等学問所」からの入学許可証である。くだんの学問所は十六歳から二十歳までの若者のみ、年に百人ほどしか入学を許さず、その合格倍率は三十倍にもなる難関校だった。
雪樹は入所資格が生じる十六の歳から毎年同所を受験していたが、狭き門が開かれることはなかった。それがようやく十八になった今年、入所を許されたのである。
「女子が受かった前例がないというから、半分諦めていたんですが……」
そこで雪樹は不安そうに、芭蕉の顔をちらっと見上げた。
「あの、お父様。もしやと思いますが、お父様が手心を加えてくれるよう学問所に依頼したとか、そういうことはありませんよね……? 裏口にゅうがくっていうんですか……?」
「おいおい、バカを言っちゃいけない。私が策を弄するとしたら、『うちの娘を入れないでくれ』と頼むとも。これ以上雪が、じゃじゃ馬になっては困るからな」
冗談めかしてはいたが、父の台詞には実感がこもっていた。
霧椿西方高等学問所は、県をいくつも跨いだ遥か西国にある。もちろん羽村の家から通うことなどできず、入学するとなれば寮に入るか別に住まいを借りなければならないだろう。
大事な愛娘を家から出す――。芭蕉の本音はまだまだ雪樹を手放したくないはずで、だから高等学問所へなど進んで欲しくないのだろう。
それでいて、雪樹を誇りだと称えたことも、嘘ではないはずだ。
芭蕉は貴族にしては珍しく妾(しょう)を取らず、正妻との間にのみ四人の子供を儲けた。先に生まれた三人の兄はいずれも優れた青年に成長したものの、学問に最も秀でているのは女子である雪樹であった。
芭蕉は雪樹をこよなく愛したが、しかし期待というものは一切しなかった。娘が美しく健やかに育つように、そして幸せになるよう祈ったが、何かを成す人物になれとは願わなかったのだ。
それは母も同じである。
女子は世に打って出る必要などなく、良き夫に娶られ、良き子供に恵まれ、平穏に暮せば良い――。
両親のそういった価値観は、物心ついた頃から雪樹を苦しめていた。
――私はお父様もお母様も、お兄様も……みんなのことが大好き。でもこの家にいる限り、成長はない……!
自分だって、父のように兄のように、なにかを成して、人々に認められたい。
自己実現の欲求――。雪樹が抱くその想いは、日増しに強くなっている。
しかし家族のもとにいれば、望んだどおりの自分にはなれないだろう。
だからこそ、羽村家より遠く離れた西国の学問所に、入所が認められたことは幸運だった。卒業までの四年間、実家から離れ、学問に打ち込みながらも、ゆっくりと自分の身の振り方を考える、良い機会となるだろう。
「ああ、早く準備をしなければ! お父様、私、なるべく早く発ちます! それと、友達や先生や……ご挨拶に回らなければ!」
「…………………」
頬を紅潮させ、はしゃぐ娘を穏やかに眺めていた――芭蕉の瞳に淡い失望の色が浮かぶ。
雪樹の胸はチクリと痛んだ。
――良い娘ではなくて、ごめんなさい……。
父の気落ちした様子には気づかないふりをして、雪樹は明るく言った。
「そうだ。蓮様にも、お別れを……」
直後、雪樹はハッと口をつぐむ。
芭蕉は眉根を寄せた。
「おまえはまだ皇宮に出入りしているのかね」
臣下であり親戚でもあるが、芭蕉は皇帝一族に良い感情を持っていない。
なんでも昔、兄、つまり雪樹の伯父は、先皇に手打ちにされたのだそうだ。それも理不尽な理由だったとか。
そのことがあって以来、芭蕉は皇帝一家にわだかまりを持っているのだ。
とはいえ最高議会議長にまで上り詰めた今ならば、いくらでも皇帝家に復讐できるのだが。
だが世にいらぬ混乱を招かぬよう、短慮に走らないところが、芭蕉という人間の思慮深さを物語っているのかもしれない。
「ええと、お父様、蓮様は荒くれ者ではありませんよ。問題の多かった先皇・夢蕨(むけつ)様とは、お人柄が全然違います」
「うむ、確かに蓮様は、とても賢い青年だとは思うが……。それはともかく、だ。年頃の男女がみだりに逢瀬を交わしているというのは、よろしくないぞ」
「あっ、その点は大丈夫です! 蓮様は私のことを、少年と思っていらっしゃいますので」
「なんと……! まさか陛下は、私の戯言をまだ信じていらっしゃるのか?」
芭蕉は冷や汗を流し始めた。
雪樹がまだ幼い頃、皇帝家を含めた親戚一同が集まった折り、芭蕉はただひとりの娘を男児だと偽り、お披露目したのだった。
なぜかと言えば、当時まだ存命中だった先皇・夢蕨の関心を逸らすためである。
夢蕨の色狂いは半端なく、見目好い女とあれば幼子だろうが老人だろうが、見境なく毒牙にかけていたからして。
父の気働きのおかげで娘の貞操は守られたのかもしれない。が、しかしその嘘を、皇子としてその場にいた蓮がいまだ信じているのは、困ったことだ。
「でも今のままのほうが、お互い気を使わなくて楽ですよ。蓮様は私を弟のように可愛がってくれますし……」
芭蕉の焦りをよそに、雪樹はあっけらかんと笑う。
「うむ……。蓮様にはご兄弟がいらっしゃらないから、お寂しいのかもしれないな」
「お母上であらせられる珀桜皇太后様とも、あまり仲良くないようですし」
「蓮様はあまりに過保護に育てられたからな。――皇帝の血を引く唯一の御子でいらしたから、仕方のないことではあるが」
気の毒そうに表情を曇らせ、芭蕉は長い顎髭を撫でた。
皇帝家といえど、本来ならば子の養育は、母たる后が中心に執り行う。
だが蓮の場合は、兄姉たる皇子たちの死産あるいは夭折が度重なったのちの誕生であったため、あまりに大事に扱われた。生まれてすぐ母である珀桜皇太后とも引き離され、厳重管理のもと育てられたのだ。
病から遠ざけるために面会できる人間は絞られ、両親ですら月に一度会えるかどうか。そのような気の張る生活は、蓮が七つになるまでも続いたという。
おかげで父である先皇とも、母である皇太后とも関係が希薄となり、それが影響したのか蓮はバリバリにグレてしまった――もとい、反骨心溢れる性質の青年にお育ちあそばされたのだった。
「まあ、雪が高等学問所へ進むならば、陛下とお会いする機会ももうあるまい。卒業時にはおまえは二十歳(はたち)を過ぎている。さすがに少年のふりはできないだろう」
芭蕉の、確かに言うとおりである。
学問所への入所が許されたことで、雪樹はただただ有頂天になっていたが、新しい世界へ旅立つということは、それだけ失うものもあるということだ。
例えば、仲良しの幼馴染だとか――。
「そっか……。もう蓮様とは遊べないんだあ……」
喜びに膨らんでいた胸が、急速にしぼんでいくような気がする。
雪樹にとって蓮は、それだけ大切な存在だったのである。
だが――。
自分の想いは一方的な勘違いだったということを、彼女はたった一日の後に思い知ることになるのだった。
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*この作品は大山あかね名義で公開していた物です。
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本編完結日 2019/10/31
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