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第1話 牢の中へ
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しおりを挟む霧椿西方高等学問所の合格証を受け取った翌日、雪樹は馬車を乗り継いで、再び花咲本皇宮へ向かった。
本日、蓮陛下は自室にこもっているとのことだ。
皇帝の住まいである「柘榴御所」にも、雪樹は自由に出入りすることを許されている。部屋を訪ねれば、蓮はどっしりした大きな黒檀の座卓に向かい、黙々と筆を動かしていた。
「蓮様」
「……また来たのか」
蓮は顔すら上げない。
今日も少年の格好に扮した雪樹は、座卓の横にちょこんと座ると、蓮が綴る文字を覗き込んだ。
――相変わらずの達筆である。
言動猛々しいこの青年は、だがその書は優美で、どちらかというと女性的だった。
「何を書いていらっしゃるのですか?」
「書評を頼まれたのでな。それをまとめている」
「皇帝ともあろうお方が、そのようなことを!?」
「趣味のようなものだ。この国で一番暇なのは、俺だろうしな」
ニヤニヤと口元を歪める、それは自虐の笑みだ。偏屈な皮肉屋なのはいつものことだが――なぜだろう、雪樹は目の前で淡々と筆を操る今日の蓮に、違和感を覚えた。
「何か、ございましたか……?」
「何か、とはなんだ」
「いえ……。蓮様のご様子が、いつもと違うように思えましたので」
「……………………」
一度ぴたりと手を止めたものの、蓮はこちらを見ようともしなかった。
仕方なく、雪樹は周囲を見回す。近くの畳に積まれている本たちが、評価を頼まれたというそれだろうか。どれも分厚く、タイトルも難解である。それだけに読み応えがありそうだ。
このような興味深い本を昼日中から読み耽ることができて、感想をしたためる時間もあって……。勉学からも労働からも免除されている蓮は、とても贅沢な生活を送っているとも言えるだろう。
それなのにいつもつまらなそうにしているこの青年に、雪樹は疑問を感じていた。
世の中には貧困や病苦に喘ぎ、苦労している人間のほうが多いというのに、蓮は今の恵まれた境遇に、一体何の不満があると言うのか。
――甘えじゃないの!?
兄のように慕っている青年の、そういったところだけが、雪樹は少し腹立たしかった。
「それで、今日は何の用だ? 借りた本ならば、まだ読んでいないぞ」
紙面に目をやったままの蓮に問いかけられて、雪樹は我に返った。
そうだ、目的があったのだ。座り直し、胸を張る。
「いえ、今日は……。このたび霧椿西方高等学問所に入所を許されましたので、そのご報告に参りました。六日後に発ちます」
「……!」
蓮の筆跡がわずかに乱れた。が、すぐに元の滑らかさを取り戻す。
「そうか。とうとう、ようやく、やっと、受かったか。これでお前もニート卒業というわけだな」
「ふんだ! 受かってしまえばこちらのものです。なんとでも仰ってください!」
雪樹はつんと顎を上げて、拗ねて見せた。いつもなら辛辣な軽口が返ってくるはず――。だが、静かなままだ。
ちらりと様子を伺うが、蓮に変化はなかった。むしろ感情がなさ過ぎて、いつもは見惚れるほどの精悍な顔立ちが、仮面のように見える。
――なんだろう。どうしたんだろう……。今日の蓮様はやっぱり変だ。
気圧されながらも、雰囲気を変えようと、雪樹はハキハキと振る舞った。
「あの、蓮様! 僕、蓮様ご所望の春画集、買い求めて参りました! これまでお世話になったお礼として、お受け取りください!」
「……………」
「まったく! 低俗な内容の割に、意外と高価なのですねえ!」
雪樹は持ってきた風呂敷包みを解き、中身を蓮が向き合っている座卓の脇に載せた。
――きっと今日が友人として会う、最後の日となるだろう。
次にもし拝謁が叶うときがあるなら、それは羽村家の「娘」としてのこととなる。きっと今までのような、気安いやり取りはできないはずだ。
最後だからと、そして今まで男だと騙していたお詫びも兼ねて、恥を忍んで買い求めてきた卑猥な本を、だが蓮は見向きもしなかった。
「いらん。持って帰れ」
「え!?」
にべなく拒絶されて、雪樹は驚きながらも食い下がった。
「遠慮なさらなくてもいいのですよ! だって僕がいなくなったら、蓮様に俗なものを運ぶ者はいなくなるでしょう? だからせめて、これを……」
「いらんと言っているだろう!」
山と積まれた書物を、蓮は払い落とした。
「何をなさいます! 人がせっかく……!」
カッとなり、雪樹も思わず怒鳴り返す。
なぜこんなにも怒りを覚えるのか。
せっかくの気遣いを無碍なく拒否された。
――違う。
ただ単に、蓮のためを想ってしたことを、受け入れてもらえなかったことが悲しいのだ。こんな別れになってしまうのが嫌なのだ。
――今まで、あんなに仲良くしてきたのに!
要は、雪樹は混乱していたのである。
「うるさい! 出て行け! 学問所でもなんでも、さっさと行けばいいだろう!」
「蓮様のバカッ! 恩知らずッ!」
怒りに任せて、蓮が立ち上がる。
雪樹もまた売られた喧嘩を買うかのように勢い良く腰を上げると、畳に足を踏ん張り、蓮と相対した。
「どけ! 俺の前に立つな!」
正面から睨みつけてくる弟分の生意気な態度に腹を立てたのか、蓮は雪樹を思い切り突き飛ばした。
「きゃあっ!」
雪樹はあっさりと床に転がる。直後、蓮は訝しげに、自らの手のひらを凝視した。
「……?」
「いたた……! ひどいです、蓮様!」
「おまえ……」
倒れたままの雪樹に伸し掛かると、蓮は「彼女」の上衣に手を掛けた。中央の飾り紐を毟るように解き、その下に着ていた肌着も一度に開いてしまう。はだけた胸元には、幾重にも布が巻かれていた。
「なっ!? やめてください……!」
雪樹が制止するも、蓮の耳には届かなかった。
隙間なく布を巻いていても、歳の割に豊かな胸の膨らみは隠しきれていない。
付け根までむき出しになった首は細く折れそうで、肩幅は狭く華奢だ。
「雪、おまえ……」
幼なじみの正体を目の当たりにして、蓮はごくりと喉を鳴らした。
「女、か……!」
おかしいとは思っていたのだ。
この少年は――少年だと性別を偽っていた娘は、あまりに自分と違い過ぎる。だが、歳の近い若者が近くにいない孤独な蓮には、雪樹が本当は女なのだと決めてかかるだけの確証がなかったのだ。
背も低く、筋力もない、男性としては貧弱な体つき。仲の良い幼馴染の、その不出来さについて、指摘するのも可哀想だという気持ちもあった。
――やはり、女だったのか。
だが、どうして今このとき、それを確かめようとしたのか。
――置いて行かれたくない。
心中に潜んでいた弱さを直視するのが嫌で、蓮は頭を振り、雪樹の帯に手を掛けた。
袴を脱がされそうになって、雪樹は自分が何をされようとしているのか、ようやく察する。
「いやっ! 嫌です、蓮様! いきなりどうなさったのですか……!?」
陵辱されようとしていること、そしてそれ以上に、蓮との間に築いた大切なものが壊されてしまうのが恐ろしくて、雪樹は必死に抵抗した。
力任せに振り回した手が頬に当たり、蓮が怯んだ隙に、雪樹は彼の腕の中から逃げ出した。しかし引き下ろされた袴が足に絡み、立つことができない。犬猫のように四つん這いになって、戸口へ向かう。
丁度そのとき、騒ぎを聞きつけた警備士と侍女たちが駆けつけてきた。そして室内の惨状を見て、硬直する。
壁のように並んだ四、五人ほどの彼らに向かって、雪樹は声を張り上げた。
「助けて……! 助けてください! お願いします!」
だがその訴えに被せるように、蓮は命じた。
「ここには誰も近づけるな。おまえたちも消えろ」
逆らうことは許さない、それは支配者の声だ。
警備士と侍女たちの顔からスッと表情が消え、そして彼らは命令に従い、扉を閉めて、静かに去っていった。
「待って……!」
ぴたりと閉じた扉に腕を伸ばす雪樹に、蓮が後ろから静かに語りかける。
「あきらめろ、雪。皇宮は、俺が唯一意のままに操れる場所だ。誰もおまえを助けたりしない」
「……!」
草花を愛でたり、犬や猫の頭を撫でたときにふと浮かべる、照れくさそうな笑み。
雪樹は蓮のそんな表情が好きだった。
雪樹の記憶にある全てを叩き壊すように、そして彼女の密やかな思慕の情を踏みにじるように、蓮は冷たく笑う。
「気が済んだか」
「近寄らないでください……!」
全身を強張らせて、棒立ちになる雪樹に、蓮はゆっくりと近づいていく――。
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本編完結日 2019/10/31
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