椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ

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第2話 夢から覚めない

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 望むとも望まないとも関わらず、時間は人を無理矢理にでも癒していく。
 例えドン底まで落ち込んでいても、生きていれば腹も減るし、喉も渇く。日に三度運ばれてくるご馳走をつまんだり、香り高いお茶を口にしているうちに、雪樹の気力もだいぶ回復したようだ。今ではシャキシャキと動き回り、喋りまくる、いつもの彼女にほぼほぼ戻っている。――少なくとも、表向きは。
 もともと負けん気が強く、身も心もタフだったのが幸いしたのだろう。

 ――やられっぱなしでたまるか!

 怒りの炎をごうごうと胸中で燃やし、奮起したのち、雪樹が案じたのは家族のことだった。

 ――お父様、お母様、お兄様たち……。心配しているだろうな。

 皇宮に留め置かれてから、もう一週間ほど経ったろうか。
 これほど長い間、両親の許可なく家を出るのは初めてのことだ。きっと家族は皆、心配しているだろう。

 ――それに、秋から始まる学校のことも、どうしたらいいのか……。

 雪樹が次に気を揉んだのは、努力に努力を重ね、入所を勝ち得た「霧椿西方高等学問所」のことである。
 入学式は今より三月後、酷暑が和らぐ時期に執り行われる予定となっている。
 幸いというべきか、入所届と学費は、合格の知らせが届いた即日、送付済みだ。
 しかし学問所が始まるその日までに、ここから出られるのだろうか――。

 ――そもそも、なぜ私は後宮に――こんなところに閉じ込められているのだろう?

 乱暴されたあの日以来、蓮とは会っていない。仕方なく雪樹は、唯一接触できる侍女たちに「家へ帰してくれ」と、再三頼み続けていた。しかし身の回りの世話をしてくれる彼女たちは、「皇帝の許しがなければ、ここからは出られません」と、馬鹿のひとつ覚えのように繰り返すだけだった。

「あーあ、女の人なんていっぱいいるでしょうに……。早いところ、解放してくんないかなあ」

 雪樹は後宮内にあてがわれた離れの、縁側に腰を下ろし、猫の額ほどしかないちっぽけな庭を眺めた。

 ――そういえば真百合先生は「あなたが後宮に入るならば」と、私が寵姫になるような言い方をしたけど……。

 あの穏やかな女医の言葉を思い出して、雪樹は首を振った。

 ――ありえない。

 雪樹は十八歳。確かに結婚や出産を経験しても、おかしくはない年齢だろう。だが彼女自身は、そんなことを考えてもいない。
 雪樹の夢はたくさん勉強をして、立派な社会人になること。そのための障害になるのなら、結婚なんてしなくていいし、子供だっていらないとさえ思っている。

 ――こんな風に思ってるなんて知ったら、お父様もお母様も悲しむだろうけどね……。

 ぼけっと、雪樹は外に目をやる。
 少し先に見える大きな建物は、皇帝のお手つきを今か今かと待ち侘びている寵姫たちの住まいで、そのまま「後宮」だとか「本屋敷」などと呼ばれているらしい。
 対して今、雪樹がいるのは離れの別邸だ。
 寵姫たちは通常、本屋敷にて寝起きしている。だが雪樹の離れはそことは繋がっておらず、おかげで女たちとの共同生活に伴う気苦労は皆無だ。それだけでなく、離れには厠や風呂も備えつけられており――つまり雪樹は寵姫の中でも、かなりの厚待遇で迎えられたことになる。

 ――あ。やっぱり蓮様、後宮には来てないな……?

 雪樹はそう結論づけた。
 なに、簡単な推理である。
 目の前の庭に植えられた草花も樹木も、手入れが行き届いていなかったからだ。

 ――蓮様だったら、こんなの許さないもの。なんならご自分で世話し始めるよ……。

 せっせと雑草を抜いたり、花に水をやったりしている蓮の姿を想像して、雪樹はくすっと笑ってしまった。

「池がある……」

 庭の端にはポツンと、大きな水たまりのような池がこしらえてあった。離れた縁側から見る限り、水面はどんよりと濁っていて、魚や虫といった生命の息吹は感じられない。
 雪樹はふと、「日当の池」で見た鯉のことを思い出した。
 陽光を浴びて、誇らしげに鱗を輝かせていた鯉たち。
 大いに慈しみ、育て上げたそれらを見守る、蓮の眼差しはとても温かかった。
 図体は大きく、顔も怖いあの青年皇帝は、しかし心根はとても優しいのだ。
 そう、思っていたのに。

 ――あれは本当に、蓮様だったのだろうか。

 どれだけやめてと泣いて懇願しても手を引かず、強引に欲望を遂げたあのときの蓮は、雪樹の知る彼ではなかった。
 どこかの獣が、皇帝のふりをしていたのか。
 あるいは単純に虫の居所が悪くて、ついあのような狼藉を働いてしまったとか。

 ――昔の蓮様は、そういうところあったもん……。

 雪樹は二人がまだ幼かった頃を思い出した。
 蓮はよく癇癪を起こして、怒鳴ったり暴れたり、ものに当たったりの、いわゆるクソガキだった。雪樹だって散々、殴られたり蹴られたりしたものだ。しかしいつの頃からかすっかり落ち着いて、彼は逆に雪の言葉や振る舞いが過ぎたものでも許してくれる、寛容さを身に着けるに至った。

 ――なんだか私、馬鹿みたい……。

 ふうと、雪樹は大きなため息をついた。
 あんなことをされておきながら、まだ蓮のことを嫌いにもなれないし、憎くも思えない。
 被害者でありながら、加害者たる男を庇っている。
 痛くて、怖かったのは確かだ。いやらしいことをされたのも、嫌だった。
 でも、許せないかというと、そこまでではないような気がする。

 ――甘いのかな……。でも……。

 誰に宛てるでもなく、心の中でグチグチと言い訳する。
 蓮とは十年もの間、ケンカしたり笑い合ったりした仲なのだ。雪樹にとって彼との友情はとても尊いもので、だからたかがあのような「くだらないこと」で失うのは惜しい。
 ――そう。まるで普通の男女のようなつまらない諍いで壊してしまうなんて、あまりに勿体ないではないか。

「また前のように、仲良くできたらいいのにな……」

 暗く、底が見通せない池を遠目に覗き、雪樹はそこにはいないだろう鯉を探した。
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