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第5話 住めば都
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後宮の離れから出て、炎天下をテクテク十五分ほど歩けば、柘榴御所へ着く。入口を守る衛士に挨拶をして、地下へ続く階段を下りた。夏の暑さにゆだった体を、地の底の涼がひんやりと鎮めてくれる。図書の類がひとかたまりになっている北の区域へ向かえば、果たして蓮の姿があった。
「来たのか」
椅子に腰掛けている蓮は、ちらりと雪樹の顔を確かめて、すぐにまた手元の本に視線を戻した。
「昨日はすみませんでした……」
「負け越しとは情けない奴め。しっかり体を作っていないからそうなる」
「結構たくさん食べてるんですけどねえ……」
口を尖らせながら、雪樹は最近少し肉がついてきた腹をさすった。
蓮は本とにらめっこしている。パラパラとページをめくる音だけが、静かな室内に響く。
「えーと、あの、聞きました。後宮を廃止するって……」
「ああ。言っておいただろう。おまえの部屋は、今、この御所に用意させているところだ。もうしばらく待て」
「………………」
「はい」とも「いいえ」とも答えず、雪樹は黙った。
後宮がなくなること。蓮とひとつ屋根の下で暮らすこと。どちらも、本当は嬉しい。だが、それは言わない。――言いたくない。
言ったら負けだ。蓮にされた数々の仕打ちを、許してしまうことになる。
だからわざとらしく、話題を変えた。
「……今日は、どんな書物を読んでいらっしゃるんですか?」
「今度の謁見日に、外国の大使が来る。海を越えた、遠い西の国のな。今はその国のことを調べている」
「お忙しいんですね。以前私が皇宮に通っていたとき、蓮様はいつもフラフラされていたので、皇帝のお仕事はてっきりお暇なものなのだと思っていました」
「……別に信じなくてもいいが、あれはわざわざ時間を作っていたんだ」
「はあ、それはそれはどうも……。光栄なことです」
しかめっ面になった蓮の隣に座ると、雪樹は彼が読んでいる本を覗き込んだ。なるほどそこに描かれている挿絵の人々は、霧椿皇国のものとは雰囲気の異なる衣を纏っている。
「そういえば、お忙しいせいで、趣味はおやめになったのですか? 前はよく書や絵を描かれたり、楽器をお弾きになっていたじゃないですか」
「いや……。意味を見出せなくなっただけだ」
本を閉じ、蓮は立ち上がる。追いかけるように、雪樹は彼を見上げた。
「意味? 絵を描くとか、演奏するとか、そういったことに意味なんてあるんですか?」
「おまえは本当にズケズケと物を言うな」
蓮は苦笑してから、背後の本棚のほうを向いた。雪樹はハッと口を押さえる。
悪気があったわけではない。現実主義者で、かつ感受性があまり発達していない雪樹は、芸術にまつわる諸々の活動に生産性があると思っていなかったのだ。
「も、申し訳ありません」
「いや、いい。おまえの言うとおりだ。なにかを表現することに、そもそも意味なんてないんだ。――だが、俺は欲を持ってしまった。その道で大成したい、誰よりも上手くなりたい、と……。そんなことを考えずにいられたら、今だって楽しんでいられただろうに」
棚に収められた本の、背表紙を物色している蓮は、だがその目は何も探していない。
「蓮様は、何でもお上手だったと思いますが」
お世辞ではない。絵でも書でも何でも、蓮が描いたそれは、素人目でも分かるほど優れていた。
「俺なんてまだまだだ。どの道だって、極めるには時間がかかる」
「やはり、皇帝のお勤めのせいで……」
「――そうじゃない」
雪樹に背中を向けたまま、少し苛立ったように、蓮は否定した。
「どの道を志しても、俺には皇帝という立場がついて回る。『澄花 香蓮』という、ただの男が作ったものとしては、決して評価してもらえない。それがつらくなっただけだ。もっとも、趣味のことだけじゃないが、な。政(まつりごと)からも何もかもから外されて、俺は宙ぶらりんだ。責任もない代わりに、得るものも、残るものも、ない……」
「…………………」
いつもどこか不満そうな蓮を、雪樹はなんて贅沢なんだと密かに非難していた。世には食べることにも困るような貧しい人たちだっているのに、皇帝として崇められ、丸々面倒をみてもらえる今の境遇の、何に文句があるのか、と。
――だが、そうじゃない。
蓮のように知性高く、あらゆる才能に恵まれた男にとっては、逆に何の苦労もなく生きていくことが――誰かの手によって生かされていることが、苦痛でしかないのだ。
太平の世において皇帝という職務は、波風立たせず、安穏と過ごすことだけを求められる。言い換えれば、何ひとつ、自分の力で切り開くことを許されない。男としての可能性を、欠片も試すことができない……。
「時々……俺はなんのために生まれてきたのかと、思うことがある」
蓮がぽつりと漏らした苦悩に満ちたつぶやきを聞いて、雪樹は悟った。
――ここにも、「檻」がある。
皇宮とは、この若き獅子を閉じ込めるための、檻なのだ。
「まあそのうち割り切れるようになったら、絵でも書でもボチボチ再開するさ」
「はい、是非。私はあなたの作品が好きです」
「おまえのようなボンクラに褒められてもなあ」
そう言いながらも、振り返った蓮は、嬉しそうに笑う。暗く沈んだ部屋の空気を、一瞬で晴らすような笑顔だった。
可愛くて、可哀想で――。雪樹は椅子から飛ぶように立つと、蓮に抱きついた。
「ど、どうした?」
蓮はオロオロしている。――察しの悪い男だ。黙って、広い胴に回した腕に、ぎゅっと力を入れる。
「ここでも相撲を取る気か?」
冗談めかして言いながら、蓮は背を屈め、精悍な顔を寄せてきた。
「蓮様……」
ひとつに重なり、すぐに離れていった温かい唇の余韻に浸りながら、雪樹は蓮を見詰めた。その瞳に宿る熱に炙られ、蓮の芯も燃え上がる。
「雪……」
蓮は再び雪樹に口づけた。何度も繰り返し、やがてねっとり舌を絡み合わせた頃には、互いの息は上がっている。
――このあとふたりは、久しぶりに体を繋げた。
「来たのか」
椅子に腰掛けている蓮は、ちらりと雪樹の顔を確かめて、すぐにまた手元の本に視線を戻した。
「昨日はすみませんでした……」
「負け越しとは情けない奴め。しっかり体を作っていないからそうなる」
「結構たくさん食べてるんですけどねえ……」
口を尖らせながら、雪樹は最近少し肉がついてきた腹をさすった。
蓮は本とにらめっこしている。パラパラとページをめくる音だけが、静かな室内に響く。
「えーと、あの、聞きました。後宮を廃止するって……」
「ああ。言っておいただろう。おまえの部屋は、今、この御所に用意させているところだ。もうしばらく待て」
「………………」
「はい」とも「いいえ」とも答えず、雪樹は黙った。
後宮がなくなること。蓮とひとつ屋根の下で暮らすこと。どちらも、本当は嬉しい。だが、それは言わない。――言いたくない。
言ったら負けだ。蓮にされた数々の仕打ちを、許してしまうことになる。
だからわざとらしく、話題を変えた。
「……今日は、どんな書物を読んでいらっしゃるんですか?」
「今度の謁見日に、外国の大使が来る。海を越えた、遠い西の国のな。今はその国のことを調べている」
「お忙しいんですね。以前私が皇宮に通っていたとき、蓮様はいつもフラフラされていたので、皇帝のお仕事はてっきりお暇なものなのだと思っていました」
「……別に信じなくてもいいが、あれはわざわざ時間を作っていたんだ」
「はあ、それはそれはどうも……。光栄なことです」
しかめっ面になった蓮の隣に座ると、雪樹は彼が読んでいる本を覗き込んだ。なるほどそこに描かれている挿絵の人々は、霧椿皇国のものとは雰囲気の異なる衣を纏っている。
「そういえば、お忙しいせいで、趣味はおやめになったのですか? 前はよく書や絵を描かれたり、楽器をお弾きになっていたじゃないですか」
「いや……。意味を見出せなくなっただけだ」
本を閉じ、蓮は立ち上がる。追いかけるように、雪樹は彼を見上げた。
「意味? 絵を描くとか、演奏するとか、そういったことに意味なんてあるんですか?」
「おまえは本当にズケズケと物を言うな」
蓮は苦笑してから、背後の本棚のほうを向いた。雪樹はハッと口を押さえる。
悪気があったわけではない。現実主義者で、かつ感受性があまり発達していない雪樹は、芸術にまつわる諸々の活動に生産性があると思っていなかったのだ。
「も、申し訳ありません」
「いや、いい。おまえの言うとおりだ。なにかを表現することに、そもそも意味なんてないんだ。――だが、俺は欲を持ってしまった。その道で大成したい、誰よりも上手くなりたい、と……。そんなことを考えずにいられたら、今だって楽しんでいられただろうに」
棚に収められた本の、背表紙を物色している蓮は、だがその目は何も探していない。
「蓮様は、何でもお上手だったと思いますが」
お世辞ではない。絵でも書でも何でも、蓮が描いたそれは、素人目でも分かるほど優れていた。
「俺なんてまだまだだ。どの道だって、極めるには時間がかかる」
「やはり、皇帝のお勤めのせいで……」
「――そうじゃない」
雪樹に背中を向けたまま、少し苛立ったように、蓮は否定した。
「どの道を志しても、俺には皇帝という立場がついて回る。『澄花 香蓮』という、ただの男が作ったものとしては、決して評価してもらえない。それがつらくなっただけだ。もっとも、趣味のことだけじゃないが、な。政(まつりごと)からも何もかもから外されて、俺は宙ぶらりんだ。責任もない代わりに、得るものも、残るものも、ない……」
「…………………」
いつもどこか不満そうな蓮を、雪樹はなんて贅沢なんだと密かに非難していた。世には食べることにも困るような貧しい人たちだっているのに、皇帝として崇められ、丸々面倒をみてもらえる今の境遇の、何に文句があるのか、と。
――だが、そうじゃない。
蓮のように知性高く、あらゆる才能に恵まれた男にとっては、逆に何の苦労もなく生きていくことが――誰かの手によって生かされていることが、苦痛でしかないのだ。
太平の世において皇帝という職務は、波風立たせず、安穏と過ごすことだけを求められる。言い換えれば、何ひとつ、自分の力で切り開くことを許されない。男としての可能性を、欠片も試すことができない……。
「時々……俺はなんのために生まれてきたのかと、思うことがある」
蓮がぽつりと漏らした苦悩に満ちたつぶやきを聞いて、雪樹は悟った。
――ここにも、「檻」がある。
皇宮とは、この若き獅子を閉じ込めるための、檻なのだ。
「まあそのうち割り切れるようになったら、絵でも書でもボチボチ再開するさ」
「はい、是非。私はあなたの作品が好きです」
「おまえのようなボンクラに褒められてもなあ」
そう言いながらも、振り返った蓮は、嬉しそうに笑う。暗く沈んだ部屋の空気を、一瞬で晴らすような笑顔だった。
可愛くて、可哀想で――。雪樹は椅子から飛ぶように立つと、蓮に抱きついた。
「ど、どうした?」
蓮はオロオロしている。――察しの悪い男だ。黙って、広い胴に回した腕に、ぎゅっと力を入れる。
「ここでも相撲を取る気か?」
冗談めかして言いながら、蓮は背を屈め、精悍な顔を寄せてきた。
「蓮様……」
ひとつに重なり、すぐに離れていった温かい唇の余韻に浸りながら、雪樹は蓮を見詰めた。その瞳に宿る熱に炙られ、蓮の芯も燃え上がる。
「雪……」
蓮は再び雪樹に口づけた。何度も繰り返し、やがてねっとり舌を絡み合わせた頃には、互いの息は上がっている。
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