椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ

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第7話 渦

7-1

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 元気な産声を響かせ、生まれ落ちたそのときから、健やかにすくすくお育ちになったその御方は、大病もせずケガもなく、歴代の皇子の中でもひときわ頑健であったという。
 澄花志乃香蓮。幼少のみぎりにはごく普通に、「澄花 蓮」と呼ばれていた男の話である。
「人は見かけではない」とはよく言われることだが、しかし容姿が立派ならばそれに越したことはなかろう。霧椿皇国の次期皇帝と定められていたこの皇子は、十四の誕生日を迎えた頃には、既に成人男性に引けを取らぬほど逞しく成長していた。その顔つきときたら、悪く言えば「ふてぶてしい」、良く言えば「精悍さが漲る」――。長じてから彼はよく「どこに出しても恥ずかしくない、バリバリのヤンキー」と称されたものであったが、年端もいかぬ当時より、そのような印象の片鱗を伺わせていたのだった。

『皇帝は左文右武の士であらせられ、まさしく民草の模範たるにふさわしい御方であった』

 古(いにしえ)より書き連ねられている皇帝に関する本はたいてい同じ、そのような書き出しで始まる。そんなものを聞かされて育てば、不真面目なのは顔つきだけで根は一途な香蓮皇子が、奮起するのは当然だった。
 ご先祖様たちに負けぬようにと、昼となく夜となく剣術や武道の鍛錬に励む。蓮の生まれ持った才能と恵まれた頑丈な体躯は、その努力によく応えた。おかげで腕前はメキメキと上達し、たった数年で免許皆伝に至るまでとなったのである。しかしその代わり、皇宮内で彼に敵う者はいなくなってしまったのだが。
 ライバルがいないせいですっかり張り合いを失くした蓮は、ある日ぼやいた。

「もっと強い奴と戦いたい。誰か猛者を呼んでこい」

 それを聞いた剣の師匠は、白いものがだいぶ混じる総髪を撫でて、言った。

「いえいえ、蓮様、これ以上は……。あなたにケガでもしてもらっては困ります」

 若かりし頃は無茶や無謀を繰り返し、だからそれ故に「歴戦の勇者」と讃えられた男も、老いたということだろうか。困ったように微笑む師匠のその目は、決して笑ってはいなかった。
 次期皇帝たる蓮に万一大ケガでも負わせたならば、彼の首は飛ぶ。比喩などではなく、そのままの意味で、である。

「ふん、つまらん。いっそ、武者修行の旅にでも出るか」
「相手が皇子と知れば、誰も本気では勝負してくれませんよ。そういう意味ではあなたは、我が国随一の武人ですな」
「!」

 師匠の痛烈な皮肉に腹を立てる前に、蓮は大いに納得してしまった。
 歴史書にあった、あの一文――。

『皇帝陛下は特に剣術において並ぶ者はなく、霧椿皇国最強であった』

 なるほど、誰とも戦わなければ、負けることはない。確かに「最強」だ。
 嘘は書いていないが、しかし……。歴史書の、そのからくりを知った蓮は、すっかり興ざめしてしまった。
 さて――。皇帝として文武両道を目指す。そのうちの「武」については、これ以上の成長が見込めない。ならば「文」を極めようと、蓮は学問に注力した。
 手始めに、国内の著名な学者たちを招き、教育を受けた。蓮は優秀な生徒だったが、算術や科学よりは、文学や芸術を好む少年だった。
 絢爛豪華な品々に囲まれて育ち、また遊び場としていた宝物庫には、古今東西から集められた貴重な書物や絵画、彫刻などが山と積まれている。自然に審美眼が磨かれていたのだろう、教養のひとつにでもと手慰みに習った美術・図工の類を、蓮はあっという間に我がものとしてしまった。
 鍛えられていたのは「目」ばかりではなく、「耳」も同様だったらしい。笛や琴を与えられれば、聞いたことのある曲を自在に奏でてしまう有り様だった。
 つまり、まごうことなき天才だったのだ。
 ――しかし。
 あれは蓮が十五のときだ。先代皇帝・夢蕨が死の床についている最中(さなか)、蓮は水墨画の大作を完成させた。臥せった父の代理として公務をこなしつつ、合間にコツコツと手を加え、仕上げたそれは、会心の出来だった。うぬぼれではなく客観的に見ても、どこぞの展覧会に出せば、何かしらの賞は取れるはずだと確信できるほどだった。
 ようやく描き上げたその作品を、蓮は鼻高々に画の師匠に見せた。
 師匠は感嘆に唸り、続けてこう言った。

「大変素晴らしい! とても皇子様が描いた画とは思えません!」

 その感想を聞いたとき、自身の心がひび割れたのを、蓮は今でも覚えている。
 皇子などという得体の知れない偶像を持ち上げるのではなく、ただ単純に褒めてほしい。世の人々と同じ扱いをして欲しいのに。

 ――俺が何をしようとも、その行為も評価も、「皇帝」という大きな名に飲み込まれてしまうのだな。

 皇帝も皇子も、一個人ではない。――そうはなれない。「澄花 蓮」という男は、どこにもいないのだ。
 額に汗して働く必要もない代わりに、何をしても認められない。これでは、死人と同じではないか。

 ――虚しい。

 一度自意識に生じた亀裂は何かにつけ広がっていき、やがて蓮の活力を減退させていった。
 誰も自分に期待などしていない。ただ生きて、時がくれば跡継ぎを作り、その怠惰な生を次代に引き継げばいいのだ。
 それが自分の、皇帝の、唯一の役目である。

 ――だがそれを厭うてはならない。

 ひとりの男としては楽しみのない毎日だとしても、帝位を守ることには大きな意味がある。
 初代皇帝が苦労に苦労を重ねて霧椿皇国をひとつにまとめ上げ、今日(こんにち)の平和をもたらした。蓮たち代々の皇帝がその玉座を守っている限り、国が乱れることはない。罪のない人々の安全が脅かされることもないのだ。

 ――ならば俺は、皇帝でいよう……。

「それが自分の運命なのだから」と、全てを諦め、受け入れるつもりでいた。蓮は、このときまでは――。


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