椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ

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第8話 虚しき復讐

8-1

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 蓮の母親である珀桜皇太后は、元は貧しい下級貴族の娘であった。
 以前は「桜子(さくらこ)」という名で呼ばれていた彼女は、皇宮のとある催しに参加した折に、先代皇帝・澄花楽善夢蕨(すみはならくぜんむけつ)に美貌を見初められ、寵姫にと望まれたのである。
 その後、夢蕨(むけつ)の子を産み、国母となった桜子については、女性版の立身出世物語として、広く羨望を集めた。しかし幸運に恵まれた者にはよくある話かもしれないが、その周辺では悪意ある噂も囁かれていたのである。
 曰く、「桜子の産んだ子は、夢蕨陛下の血を引いていない」――。
 最初は流言飛語の類と一笑に付されていたそれは、だが蓮皇子が成長していくにつれて、まことしやかに語られるようになった。なぜなら皇子は父である夢蕨に、ほんの僅かも似ていなかったからだ。
 蓮は長身痩躯で、切れ長の涼し気な目が特徴的な美少年である。
 しかし夢蕨ときたら、まず背は低い。顔といえば、重たそうな瞼が小さな垂れ目を今にも塞いでしまいそうだったし、鼻も低く、口元はだらしなく常に緩んでいる。ついでに言えば、長年の不摂生の産物である脂肪をでっぷり蓄えた、肥えた体の持ち主であった。この皇帝を見て、「美形」との感想は到底抱けないし、むしろそんなことを口にしたならば、とんでもない嫌味を申し述べたとして罪に問われるのではないか。
 それくらい似ても似つかぬ容姿をしている親子を前にして、多くの者が皇后――桜子を改め、珀桜の不実を疑ったのである。実際珀桜には寵姫となる前に、相思相愛の婚約者がいたという過去があった。その事実が、人々の疑念を補強してしまったのだ。
 だが蓮が生まれたのは、くだんの婚約者が急死してから、五年後のことである。他の男をたらしこんだという可能性も、珀桜の性格からいって考えづらい。
 なにしろ珀桜はとかく臆病で、それ故にしたたかなのだ。残忍な夢蕨の怒りを買って粛清されるよりも、彼に気に入られようと媚びるだろう。そうしておいてから、裏では傍若無人の夫に虐げられる不幸を嘆き、周りの同情を買うのだ。自分の生きる場所を少しでも居心地良くするための、それは一種の生存戦略である。
 母のそんな性格をよく知っている蓮は、だから己の出生について、疑問を持つことはなかった。自分は夢蕨の子供だと一心に信じ、生きてきたのである。
 ――蓮が真実を知ったのは、雪樹を後宮へ閉じ込める、その直前のことであった。
 その日蓮は、柘榴御所の地下宝物庫の一角にある、図書室に足を向けていた。
 図書室には、歴代の皇帝たちの私的な日記が収められている。自分の境遇への不満が高まり、やるせなくなったとき、蓮は先祖が残したそれらを閲覧することにしていた。民の幸せを想い、霧椿皇国の繁栄を願った皇帝たちの、熱い情熱に倣うために。
 地下の端、吹き抜けのガラス戸から、わずかな陽光が差し込む。もう午後遅く、穏やかなそれは、錠が外されあらわになった棚の一角をぼんやりと照らしていた。
 淡く光る、いつもなら見向きもしないとある書が、この日の蓮は妙に気になった。まるで書から伸びた手に、ぐいぐい引っぱられているようだった。
 それは、父・夢蕨が残した日記。悪筆で文法も怪しく、内容だってあまりにくだらない。最初の数頁を読んだだけでうんざりして、過去投げ出した覚えがある。
 しかしこのとき、蓮はなんとなく父の日記を手に取ったのだ。深い意味など、てんでなかった。
 ――運命はそのように、なんの前置きもなく、流転するものなのかもしれない。








 美しい夕焼けが闇に染まり始めて、鳥たちもねぐらへ帰っていく。
 いつもならそろそろ松明に火を入れる頃合いだろう薄暮の中、人々は時折吹きつける季節外れの冷たい風に首を縮めた。しかし誰一人、声を発することなく、目の前のやりとりを凝視している。
 人垣の中には雪樹の姿もあったが、突然突きつけられた真実によほど衝撃を受けたのか、凍りついたように立ち尽くしている。
 聞こえるのは、退屈した馬の鼻息とイライラと蹄で大地を蹴る音、そればかり。
 唯一皇帝に発言を許された羽村 芭蕉は、しかし馬の鞍に座したまま沈黙していた。

「父上の日記には、出産直後、珀桜……母上との間にできた跡取り息子を、下賎の子とすり替えられた、とあった。そしてそのような大罪を犯したのは、羽村 芭蕉。兄を殺された仕返しのつもりだろう、ともな。父上はご自分のやったことなどお忘れになったかのように、おまえのことを、陰湿で執念深い男だと書いていた」

 くだらない冗談を笑うように、蓮は唇を歪めた。
 愚かな先代皇帝には少しも似ていない、知性と雄々しさが滲む顔つき。良い男だと、芭蕉は蓮のことを、素直にそう評価する。こういう面構えをした男は、どの道に進んでも大成するものだ。
 もう呪いは解けている。蓮は二度と騙されない、騙せない。ごまかしも効かない。

「下賎の者、馬の骨などと、そんな表現はふさわしくない。あなたにだって、真祖・霧椿皇帝の血は流れている」

 重い口を開いた芭蕉の、その弁に取り繕う様子がないのを確信した蓮は、油断なく馬上を見据えながら尋ねた。

「俺を、どこから連れてきた?」
「あなたから数えて、四代前の礼柊皇(れいしゅうこう)。その皇女様が嫁した家が、現在も残っております。そこから、あなたをお譲りいただきました」

 蓮の顔からは微笑が消え、複雑な思いがそのまま表れていた。諦観や、自らのルーツを知ったことによる安堵や……。意外なことに、怒りや興奮といった、荒ぶった感情は全く見えなかった。代わりに、濃い疲労の色が浮かんでいる。

「父上は日記に、おまえが復讐のために、本当の皇子と俺をすり替えたのだと書いていたが」
「いいえ……。誓って申しますが、そのようなことは、決してございません」

 手綱を握り締めて、芭蕉は目を閉じた。
 夢蕨はどこまでも卑怯な男だ。しかし芭蕉も同じ男として、本当のことを記せない彼の気持ちも、分からないではなかった。

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