椿の国の後宮のはなし

第8話 虚しき復讐

8-2（完）

　芭蕉には「檀（まゆみ）」という名の、二歳違いの兄がいた。
　檀は成人後、皇帝の侍従として、皇宮に勤め始めた。優秀で人柄も良かった彼は瞬く間に頭角を現し、次の侍従長と目されるまでになったそうだ。
　芭蕉は賢く優しい檀が、何よりも自慢だった。
　そんな兄だったが、なかなか女性とは縁がないようで、長い間独り身だった。しかしある日ようやく彼は婚約者として、貧乏貴族の娘を連れてきたのだ。
「桜子」というその女を見たとき、芭蕉はなんとも説明のつかぬ、嫌な印象を持った。
　桜子は若く美しく控えめなたちだったが、だがふと気づけば、ねっとりと濡れた目で男を見詰めている……。そんなことがままあった。それでいて「誤解を受けやすい」、「こちらにはその気がなく、何をしたわけでもないのに、勝手に男が寄ってくる」と、悲嘆に暮れるのだった。いつも被害者面の桜子が、だから芭蕉はあまり好きになれなかった。
　それでも兄が選んだ人だから、と理解を示そうとしたが――。
　結局はあの女が、全ての災いを呼び込んだのである。
　澄花楽善夢蕨が、桜子を後宮へ閉じ込めたのは、まさに晴天の霹靂であった。
　取るに足らぬ催しの際に、皇宮へ遊びに来ていた桜子と出会い、夢蕨はその可憐さに一目で虜になったのだという。
　皇帝のこの身勝手な暴挙は非難されるべきだが、しかし桜子の人となりを把握していた芭蕉からすると、彼女のほうに問題がなかったとは思えなかった。
　兄との結婚を控えておきながら、桜子はきっと別の男を誘惑して、楽しんでいたのではないか？　そこに皇帝という、望外の大物が釣れてしまった……。
　しかし今は珀桜皇太后と呼ばれるあの女は、不幸という名の鎧で身を守り、口にすることといえば「私は哀れな女なのです……」、これだけだ。真相は分からない。
　それはさておき、檀は当然、皇帝に強く抗議した。皇帝家と羽村家は遠縁だからという、一種の甘えもあったのかもしれない。話せば分かってくれる、と。
　しかし夢蕨は、秀でた人間が押し並べて嫌いという、歪んだ人格の持ち主だった。皇帝はつまり、人望の厚い檀のことも、憎んでいたのである。
　結局、檀は、皇帝に目通りがかなったその場で、非情にも無礼討ちされてしまった。
　羽村家は、特に芭蕉は嘆き悲しみ、皇帝への憎悪を募らせた。
　この頃はまだ議会の力も弱く、皇帝の力は絶大だった。だから大事な長男を殺された羽村家も、泣き寝入りするしかなかったのである。

　――このままでは、あまりに兄が不憫だ。

　以降、芭蕉は着々と力を蓄え、政界にこの人ありと称えられるほどの、ひとかどの人物になった。そのうえで常に、皇宮の様子も探っていたのだった。
　だいぶ経って分かったのは、兄の仇である夢蕨には、どうやら健やかな子を作る能力がないらしいということだ。
　性に奔放な夢蕨は、寵姫たちのみならず下女たちも含め、様々な女を何十も孕ませたが、ほとんどが流れてしまい、なんとか生まれた子たちも生後一週間以内に亡くなってしまっている。
　そんな事情の中、檀の元婚約者であり、夢蕨の寵姫となった桜子が妊娠した。めでたいことだが、今までの経緯を知る周囲は素直に喜べなかった。
　もしかしたら、今度も……。
　あれこれと皇宮との関わりを持ち、発言力も強めた芭蕉は、侍従たちに、もしものときのために手段を講じるよう進言した。つまり、「代わりの赤子を用意しろ」、と勧めたのだ。
　皇位は、皇帝家直系の男子のみ、継ぐことができる。これは霧椿皇国始まって以来の決まりごとだ。それ以外の子を皇帝の座に据えるとなれば、各地の有力貴族たちが黙ってはいないだろう。
　そうなれば諸地域をまとめあげ、ようやくひとつになったこの国がまた分裂する恐れがある。平穏に暮らしていた人々が、戦火に追われることになるだろう。
　だからなんとしても、皇帝陛下には、男子を作ってもらわねばならない。例えその子が、彼の血を引いていないとしても――。
　丁度、歴代皇帝のうち、礼柊皇帝の三人目の姫が嫁いだ家に、妊婦がいることが分かった。出産の時期は、桜子とほぼ同じという。泣き渋る母親を、お国のためと誠心誠意説き伏せて、芭蕉は生まれた男子を何とか譲り受けた。
　時が満ち、桜子は子供を産んだ。待望の皇子であった。
　皇子の安全のため、特例として、母子はすぐに引き離された。だから、桜子――珀桜皇太后も、自分の子供が別の子と取り替えられたことを知らぬのだ。
　予想どおりというべきか、夢蕨皇と桜子の赤ん坊は、生まれた翌日の朝を迎えることなく、亡くなってしまった。
　こうして貰われてきた子供――蓮が、夢蕨の後継ぎとして、育てられることになったのである。
　真実を知っているのは芭蕉のほかに、当時の侍従たち、そして桜子の出産に立ち会い、その後蓮の育児を監督した女医の清田　真百合のみだ。

　――復讐といえば、そうなのだろう。

　何も言わずに済ますこともできた。あの愚鈍な男ならば、死ぬまで気づくことはなかったはずだ。
　だが兄の無念を思うと、どうしてもそのままにしておけなかった。
　だから芭蕉は、香蓮皇子が無事七つになり、正式に次期皇位継承件を授けられたのち、全てを夢蕨に告げたのだ。

「あなたの子供は、一人残らず死んだ。あなたは皇帝としても、男としても、出来損ないだ」
「赤の他人があなたの後を継ぎ、皇帝となる」
「あなたが霧椿皇帝の血を絶やしたのだ」

　爽快な気持ちになるかと思ったのに、嘲りの言葉を吐き出せば吐き出しただけ、身を斬られるような痛みが走った。
　兄のように斬り捨てられてもおかしくない。芭蕉は覚悟していたが、人払いをした部屋で二人きりの会談中、夢蕨は茫然自失となった。
　喋ることさえできなくなった皇帝の、見開かれ充血した眼（まなこ）から、やがて涙がこぼれ落ちた。
　畜生のような男のくせに、それでも涙は澄んでいるのかと、芭蕉は妙なことに感心した。
　この頃、芭蕉は既に妻帯しており、息子も三人生まれている。だから自分の血を分けた子がどれだけ可愛く愛しいものか、よく知っていた。
　そして皇帝にとって、尊き血を次の代に繋ぐことは、最も重要な任務である。蓮がその役目を替わった正統なる皇子――実は既に荼毘に付され、存在を消されてしまった我が子が、すくすく育っていると――。そう信じ、皇子の成長を見守っていた夢蕨の、安堵感、達成感はいかばかりだったか。
　しかしそれらはなにもかも偽りだったのだ。
　自分は皇帝として課せられた職務を立派に果たした。――その誇りは泡のように弾けた。
　そして我が子は死んで、もういない。真相を知ったとき、父親は一体どれだけの衝撃を受けるのだろう。どれだけの悲しみに襲われるのだろう……。

「ざまあみろと、思っておるのだろうな……」

　たるんだ頬を震わせるようにして、夢蕨が漏らした一言を聞き、芭蕉の皇帝を恨む気持ちは消えてなくなった。ただ、哀れだと、それだけを思った。
　以降、皇帝はますます酒色に溺れ、仕事を放り出すようになった。よって人心は離れ、皇宮の権勢は一気に弱まったのだった。



～　終　～