40 / 46
第9話 再生
9-1
しおりを挟む羽村 芭蕉の告白を聞いたのは、蓮、芭蕉の息子たち、そして皇宮に勤める人々であった。芭蕉が連れてきた兵士たちは距離を取っていたので、一切耳に届かなかったはずだ。
蓮は取り乱すこともなく、その表情にも目立った変化はない。もしや親しくしている医師の清田 真百合から、大まかな話を聞いていたのかもしれなかった。
射抜くようにまっすぐ父を見詰めている蓮の後ろ姿が、ぼやける――。皇宮の面々に紛れていた雪樹は、ぐっと乱暴に瞼を拭った。
――私が泣いてどうするの……! つらいのは、苦しんでいるのは、あの人なのに。私の、お父様のせいで……。
愛した人の体に、ぽっかりと洞が空いている。そこから何もかもが抜けていく、ごうごうという音を、雪樹は聞いた。
運命をねじ曲げられた……。
皆が崇める皇帝の座を、だが蓮自身は少しも望んでいなかった。――拒んでさえいたのに。しかし皇子として生まれたのだからと、悲壮な決意を伴って就いてみれば、実はそれは彼のものではなかったのだ。
蓮の気持ちを思うと、やりきれない。
「父上は自業自得だろう。だが、巻き込まれた俺は、なんなのだ」
蓮の平淡なその声が、聞く者の胸を尚締めつける。
「父上の子として生まれたのだから、この退屈な檻に囚われてやろうと、覚悟を決めたというのに」
「ここでの生活はおつらいと? なんの不自由もなく、贅沢に暮らせるでしょうに。欲しいものは、何だって手に入る……」
一舐めするだけなら甘い、だが実は猛毒の混じった芭蕉の言を、蓮は遮った。
「いいや。俺の欲しいものは、ここでは決して得られない。――初めから何もかも揃っているこの場所に、いる意味はあるのか? 男として生まれながら、名を残す機会もない。こんな俺は、生きていると言えるのか?」
――皮肉なものだ。芭蕉が自ら選び、連れてきた赤子は、最も皇帝に不向きな青年として成長してしまった。
環境が人を育てるのだと、芭蕉は今でも信じている。生ぬるい池で育ったオタマジャクシは、醜くのろまなカエルに育つのだと。
だが稀に、蓮のような例外もいる。どこでどう育っても内なる力に目覚め、大事を成す人物。
これも数多の国々をまとめ上げた英雄、霧椿皇国皇帝、その血のなせる技か。先代・夢蕨のようなまがいものも混ざってはいるが、蓮のような傑物もまた、確かに生む。
「くくっ……! ははは!」
ふと、蓮は気が抜けたように笑い出した。これほど悲しい笑い方をする人を、歳を重ねた芭蕉ですら見たことはない。
「俺はもう疲れた。心を支えていた何かが、父上の日記を読んだあの日に、ポキリと折れてしまった……。だから、この茶番から下ろさせてもらう。あとは、このつまらん脚本を書いたおまえが、決着をつけろ。皇帝専制を廃止するなり、またどこぞから新たな生贄を連れてくるなり、どうとでもするがいい。おまえほどの力があれば、いくらでも好きなようにできるはずだ」
蓮は両手を大きく広げている。
芭蕉の目には、似ても似つかぬ親子の顔が、重なって見えた。
放蕩三昧だった夢蕨。
真面目過ぎる性格のせいで、自らを追い詰めてしまった香蓮。
二人は霧椿皇国の元首として君臨しながら、その実、真に欲したものを得ることは叶わなかった。
一方は、次へ血を繋ぐ能力を。一方は、自由を。
そのせいで、彼らは虚ろに取り憑かれた――。
蓮を、野に下すことができれば、一番いいのだろう。だが彼は皇子をすり替えるという、芭蕉の犯した大罪の証そのものだ。もはやこの皇宮に閉じ込めておくほか術はない。
嫌だと言うならば――。
恐らく蓮もそれを望んでいるのだろう。左右の手の平を天に向け、胸を張り、まるで心の臓を差し出しているかのようだ。
皇帝の退位は、死してのみ。
つまり、蓮は――。
この先の生に絶望しているこの青年を、救う。それはすなわち、ひと思いに楽にしてやるということだ。それが勝手な都合で彼をここに招いた者の、償いと責任の取り方だろう。
芭蕉は騎乗している馬の、鮮やかな鹿毛の胴体に手を伸ばし、括りつけていた長槍の柄を握った。戦場にこそ立ったことはないが、貴族として身につけるべき程度の武術は会得している。それに相手は動かない的だ。仕留めるのは容易いだろう。
「父上……!」
後ろに控えていた三番目の息子が、緊張に張り詰めた声で呼んだ。「発言を禁じる」という皇帝の勅を、失念している。この息子には、そういった粗忽なところがあった。その代わりというべきか、人情に厚く、優しい性格をしている。三男は父が人を殺すことをよしとしないのか、それとももしかしたら、不幸な生い立ちの皇帝に、同情しているのかもしれなかった。
芭蕉の背中にはまた、上の二人の息子たちの戸惑いも伝わってきた。ただしこの二人は、邪魔をしないだろう。幼い頃から彼らは、父親に逆らったことがないのだ。
芭蕉はひとつ息を吐いて、腕を動かした。鞘からずるりと槍が引き抜かれ、細長い刃が姿を現す。
一番星の映える濃紺の空に、芭蕉は自分勝手な祈りを捧げた。
「お許しくださいませ、香蓮陛下。せめてあなた様の来世が、幸福に満ちますように……!」
――芭蕉の槍が振りかざされる、その直前のことであった。
ひらりと、一匹の蝶が舞い出る。薄桃色の衣に身を包んだ少女だ。
ひとつに結った髪はボサボサに乱れ、金色の飾りがなんとかそれを束ねている。可愛らしい顔は赤く染まり、玉のような汗が浮かんでいた。
「雪樹……!」
父も兄も、そして皇帝もが、驚きをもって少女の名を口にした。
10
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
先生
藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。
町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。
ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。
だけど薫は恋愛初心者。
どうすればいいのかわからなくて……
※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)
同窓会~あの日の恋をもう一度~
小田恒子
恋愛
短大を卒業して地元の税理事務所に勤める25歳の西田結衣。
結衣はある事がきっかけで、中学時代の友人と連絡を絶っていた。
そんなある日、唯一連絡を取り合っている由美から、卒業十周年記念の同窓会があると連絡があり、全員強制参加を言い渡される。
指定された日に会場である中学校へ行くと…。
*作品途中で過去の回想が入りますので現在→中学時代等、時系列がバラバラになります。
今回の作品には章にいつの話かは記載しておりません。
ご理解の程宜しくお願いします。
表紙絵は以前、まるぶち銀河様に描いて頂いたものです。
(エブリスタで以前公開していた作品の表紙絵として頂いた物を使わせて頂いております)
こちらの絵の著作権はまるぶち銀河様にある為、無断転載は固くお断りします。
*この作品は大山あかね名義で公開していた物です。
連載開始日 2019/10/15
本編完結日 2019/10/31
番外編完結日 2019/11/04
ベリーズカフェでも同時公開
その後 公開日2020/06/04
完結日 2020/06/15
*ベリーズカフェはR18仕様ではありません。
作品の無断転載はご遠慮ください。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
閉じたまぶたの裏側で
櫻井音衣
恋愛
河合 芙佳(かわい ふうか・28歳)は
元恋人で上司の
橋本 勲(はしもと いさお・31歳)と
不毛な関係を3年も続けている。
元はと言えば、
芙佳が出向している半年の間に
勲が専務の娘の七海(ななみ・27歳)と
結婚していたのが発端だった。
高校時代の同級生で仲の良い同期の
山岸 應汰(やまぎし おうた・28歳)が、
そんな芙佳の恋愛事情を知った途端に
男友達のふりはやめると詰め寄って…。
どんなに好きでも先のない不毛な関係と、
自分だけを愛してくれる男友達との
同じ未来を望める関係。
芙佳はどちらを選ぶのか?
“私にだって
幸せを求める権利くらいはあるはずだ”
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる