椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ

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第10話 狭いながらも、楽しい我が檻(や)

10-1

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 等間隔に並ぶ格子を、気がつけば眺めていた。この模様には見覚えがある。朝起きると、最初に目に飛び込んでくる――そうだ、閨の天井だ。
 意識がしっかりしてくると同時に、体の感覚が戻ってくる。ふかふかと柔らかい布団に包まれ、横になっているらしい。
 そして嗅ぎ慣れた、スッと爽やかな香りがする。
 何かを必死に握っている。――大きな手を、掴んでいた。
 一気に記憶が巻き戻る。
 走り過ぎて呼吸が苦しい。切ったスモモのような、鮮やかな夕焼け。詰め掛けた人馬。
 怖い顔をした父、兄。そして、そして――。
 ハッと我に返り、探す。
 すぐ横を向けば、彫刻のような整った顔があった。
 蓮だ。

 ――蓮様だ……。

 雪樹の忙しない瞬きが、相手の眠りを覚ましたようだ。長いまつげに縁取られた目が、ゆっくり開く。

「起きたか……」

 深い茶色の瞳が自分を映している。途端、雪樹の胸は温かいもので満ちた。泣きそうになってしまい、誤魔化すように顔を背ける。

「私、いつの間に……。どうやってここへ……?」

 父・羽村 芭蕉と兄たちの穏やかならざる訪問。彼らを撃退してから、雪樹は蓮に縋って泣きに泣いた。情けないことにそのまま前後不覚に陥り、どこかへ連れて行かれたことはうっすら覚えているのだが……。

「おまえが俺を離さないから、なんとか引きずって、ここまで運んだんだぞ」

 どうやらここはいつもの住まい、後宮の離れのようだ。
 蓮はゴロリと仰向けに寝直した。雪樹の左手は、まだ蓮の右手を握り締めている。互いの無事を確かめたあとも、どうしても離す気にはならなかった。
 このままこうしていたい。ずっと蓮に触れていたい。
 寝転んだまま、キョロキョロと辺りを見回す。
 障子から朝の光が入ってきて、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
 平和な、いつもの朝だ。雪樹はふーっと長く息を吐き、体から力を抜いた。

「目が重たいです……」

 瞼が熱を持っている。腫れぼったいそこを自由なほうの手の、指の腹で揉みながら、雪樹は嘆いた。

「まあ、そうだろう。おまえ、うぉーんうぉーんと、まるで狼の遠吠えのように泣いていたからなあ」

 蓮はくくっと笑い、雪樹はふくれっ面になる。

「だって。だって……」

 ――絶対に、あなたを失いたくなかったから。

 蓮をこの腕に抱いたとき、感情の堰が切れてしまった。体の深いところから濁流の如く涙が押し流れてきて、止めることができなかったのだ。
 蓮が動くたび、布団と彼の衣が擦れる音がする。さらさらと雨音に似たそれは、耳に心地良かった。
 目を閉じると、ここに運ばれる直前のことが脳裏に蘇ってくる。

 ――蓮の生い立ちの秘密と、父の罪。

「父は……あなたにひどいことをしましたね……」
「多少は私怨を晴らした向きもあるだろうが、芭蕉はそれ以上に皇国の存続を一番に考えたのだと思う。あいつがやらなくても、別の誰かがいずれ、俺か俺以外の子供をここへ連れて来ただろう。――あまり父君を責めてやるな」

 蓮の口調は落ち着いていて、無理をしている様子もなかった。彼の中では既に芭蕉の仕打ちについて、整理がついているのかもしれない。

「でも、あの、大丈夫でしょうか……」
「何が?」
「皇宮の人たちにも、蓮様のお生まれのことが知られてしまいました……」
「いいんだ。俺は皆を騙していることに、ずっと罪悪感があった。どこかで暴露してしまいたかったんだ。本当は、国中に触れ回ってしまいたいが……」
「そんなことをすれば、また国が乱れます……」

 最後は雪樹が引き取って言った。
 最高議会の議長である羽村 芭蕉が、現在の霧椿皇国における実質的な統治者である。とはいえ皇帝の影響力だって、まだまだ強大なものだ。
 そんな中、当代の皇帝である蓮が、実はその資格なしと知られれば、ひと騒動になるだろう。野心に燃えるものの、表向きは皇帝への忠誠を誓っている各地の諸侯が、どう動くか分からない。彼らが霧椿皇国を我がものとせんと兵を立て、再び戦乱の世に戻ることだって十分あり得るのだ。

「偽物の皇帝だと、言いたい奴は言えばいい。皇帝なんて、ただの飾りだと……。いてもいなくても、この国にとって何のさわりもないと、皆が早く気づけばいいんだ。そうなれば、俺もお役御免になる」
「それは違います、蓮様。あなたが思っている以上にこの国の民は、皇帝という存在を精神的な支柱に据えています」

 そうだ。きっと皇国の人たちは、皇帝陛下を放そうとしないだろう。
 支配する、されるといった関係はとうの昔に終わり、今や皇帝は霧椿皇国そのもの。国民全ての源流である。

「ふん。そんな大層なものではない」

 蓮は手の甲で瞼を覆い、つまらなそうにしていたかと思うと、急に横で寝ている雪樹に顔を向けた。

「おまえ、その……。子供ができたとかなんとか、言ってたが……」
「あっ、あー。えーと、そういう可能性もあるじゃないですか……」
「ああ、まあ、そうか……。遠慮なく、ヤったからな……」

 雪樹は怒られるかと身構えたが、蓮は何を思い出しているのやら、照れくさそうに頬を掻いている。

「でも実際のところ、赤ちゃんができたかどうかなんて分かりません。真百合先生の話では、簡単に授かるものではないんだけど、そう思ってると、あっさりできたりするそうで……。妊娠って、仕組みは分かっていても、そのとおりうまくはいかないものなんですって」
「ふーん。まあ父上のような例もあるだろうしな。だが俺たちの間に子供が生まれようが生まれまいが、俺の后はおまえだけだ」
「……!」

 時々さらっと、心臓を撃ち抜くような台詞をほざくのは、これも蓮の育ちのせいなのだろうか。

『そばにいてくれ』

 昨晩の、慟哭のような彼の告白を思い出して、雪樹は真っ赤になる。
 戸惑う空気が伝わったのか、蓮は不安げに言った。

「おまえ、後悔しないか? 皇宮に、一生囚われの身になるんだぞ?」
「まだそんなことを」

 繋いでいた手を名残惜しげに蓮から離すと、雪樹はむっくり起き上がった。

「じゃあ聞きますけど、蓮様は私がいなくても、大丈夫なんですか?」
「それは……無理だな」

 腕を投げ出し、まるで水に浮くような姿勢で天井に目をやり、蓮は断言した。

「だが、せっかくその頭脳を認められて、西方高等学問所への入所を許されたんだろう? 悔いが残らないか?」
「まあ、それはそうですが……」

 自分にとって、何が一番大事なのか。雪樹はもう選んでしまった。
 蓮と共にある。
 そう決めたから、だから迷いはない。――少し勿体ないかなとは、思うけれど。なにしろ寝る間も惜しんで、必死に勉強したわけだから。
 ふと見れば、以前蓮から贈られた椿の髪飾りが、枕元にきちんと置かれていた。寝ている間にどこか刺してしまわないよう、外してくれたのだろう。
 大切な、そしてとても高価であろう黄金のそれを手に取った瞬間、雪樹の頭の中で閃くものがあった。

「だったら、蓮様、作ってくださいよ!」
「作る? 何を?」
「私がここからでも通える学校を!」

 勢いのまま、雪樹はたった今思いついたことを吐き出した。

「がっこう……?」
「そうです! そうですよ! 西国が遠いなら、近くに作ればいいんです! 私、前から変だなーって思ってたんです! 西にこの国一番の学問所があって、なんで皇帝のお膝元であるこの首都に、大した学校がないんだって! 蓮様ならお金がいっぱいあるから、作れるでしょう!?」
「……?」

 蓮も体を起こし、布団に座り直したが、よく理解していないのか、首を傾げ、ボケッとしている。焦れた雪樹は、捲し立てた。

「ねっ! ねっ! 年齢も性別も家柄も関係なく、賢くてやる気があるなら誰でも通えるような、そんな学校を! ぶっ建てましょうよ!」

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