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8. もう一人のα
しおりを挟む『着いた』
すっかりと準備を済ませ、リビングのソファーに座って湊からの連絡を待っていた千歳は、メッセージを見るなりはじかれたように玄関へと急ぐ。
お気に入りの白いスニーカーに足を入れて立ち上がると、千歳は胸に手を当てて一度深呼吸をした。吐き出した息とともに、胸の奥で騒ぐ感情を落ち着かせようと試みる。
湊のメッセージからすれば、今日はまだ累は来ていないのだろう。そう思うのに、心臓がドキドキと音を立てるのは”期待”なんかじゃない。揺れる自分の気持ちを振り払うように、千歳は意を決して玄関ドアを開く。そして、そのままピタリと足を止めた。
千歳の家はいわゆるオープン外構で、門はなく、玄関から出てすぐに駐車場がある。さえぎる物のない玄関ポーチを照らす柔らかな朝日に目を細めながら、千歳はもう一度目の前を確認してみた。
そこに累はいない。昨日、有無を言わさず乗せられた黒塗りの高級車も停まっていない。ただ、見知らぬ一人の男が朝の光を背に受け、立っていた。
背が高く、ずいぶんと整った顔立ちの男は明らかに”α”だ。千歳と同じ制服を着ているから、同じ学校の人だとは思うが、こんな目立つ容姿の人間に見覚えはない。だれ? と浮かんだ疑問のまま、頭が横にかしいでいく。
いや、それよりも、メッセージをくれたはずなのに湊はどこにいるのだろうか。もう一度周囲を見渡してみるが、目の前にいる男以外に誰の姿もない。
玄関ドアに手をかけたまま、混乱でいっぱいの千歳。そして、そんな千歳を不思議そうな表情で見ている目の前の男。謎の沈黙が下りる中、先に口を開いたのは男のほうだった。
「どうかした?」
「えっ」
その聞きなれた声に目を見開いている間に、今度は見覚えのある黒塗りの車が静かに千歳の家の前に止まった。勢いよく開いた車のドアから出てきたのは案の定、累だ。
どこから驚いたらいいのか。千歳は未だ玄関ドアに手をかけたままだ。
「な~ん~で、あんたがいるんだよ!!」
大きな音を立てながら車のドアを閉めた累はさっそく千歳の家の前に立つ男に詰め寄っている。累の反応を見る限りこの男は――、やはりそうなのだろう。
ようやく玄関のドアを閉めた千歳は、一歩だけ前に出て恐る恐る男に声をかけた。
「……湊?」
「ん? おはよ」
千歳の呼びかけに男は切れ長の目を緩めてにっこりと微笑んだ。その既視感のある笑顔に、千歳は思わず目を細める。とりあえず、近くに行って顔をじいっと見上げてみれば、そこにいたのは確かに湊だった。
いつも目を隠していた分厚い前髪と、顔の半分を覆っていた黒縁眼鏡がないだけで、こんなにも雰囲気が変わるものなのか。
声も千歳に向ける優しい眼差しも、千歳が知る湊と同じものなのに、前髪を上げ、涼し気な目元をあらわにした姿は、昨日までには感じたことのなかったαとしての堂々した存在感がある。
まるで別人のような姿を呆然として見つめていると、少し苦笑した湊はぽんぽんと千歳の頭に手を乗せた。その大きな手から伝わるいつもと変わらないぬくもりに、千歳は安堵と驚きが入り混じったような、複雑な気持ちを抱く。
「色々話したいことはあるけど、とりあえず行こ。遅刻する」
「あっ、あぁ、うん」
「俺もいるんですけど!!」
千歳の頭の上に乗っていた湊の腕を累がつかみ、乱暴に振り払う。それを合図に累と湊は千歳を間に挟んで睨みあいを始めた。
「なにすんだよ」
「勝手に千歳さんに触るな」
「お前に言われる筋合いはないんだが? っていうか、昨日言ったこともう忘れたわけ?」
「なんであんたの言うことに従わないといけないの? って俺も昨日言ったと思うけど?」
累と並んだ時、単純に背が高いなと思っていたが、こうして並んでみると湊も同じくらい背が高い。千歳よりも頭半分くらい背が高い二人に挟まれ、頭上で口げんかが展開されている。千歳は「どうしてこんなことに」と心の中で嘆きながら、まだ戸惑う思いと、言い争う二人への呆れを吐き出すように、深くため息をついた。
でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。このままでは遅刻しかねないし、家の前で言い争いを続けられては近所迷惑になる。
両親はすでに家にいないからいいとしても、通りかかった人たちにチラチラとこちらを見られているのが非常にいたたまれない。
αとしての存在感丸出しの二人が言い争いをする光景は、どう考えても人目を引く。その間にはさまれている千歳を見て、周囲がどう思うか。想像するだけで恐ろしい。
早くこの状況から逃げ出すために、千歳は二人の間から抜け出ると、くるりと振り返った。
「僕は先に行くから、喧嘩なら二人でどうぞ」
「はっ?! ちょっと待てよ」
「えっ! 待ってよ千歳さ~ん」
二人の情けない声を背で聞きながら、千歳は早歩きで進んでいく。とはいっても、あっという間に追いついてきた二人にまた挟まれることになったのだけれど。
「あんたのせいで千歳さんに置いて行かれるところだった」
「いや、お前のせいだろ。ストーカー野郎」
「痴漢野郎に言われたくないね」
「俺は千歳に拒否られてない」
「これからじゃない?」
言い争いの内容が気にはなるが、ここで参戦すると絶対ろくなことにならない。千歳はあたかも関係ないという顔をしながらただただ足を前に進めることに集中する。
そんな千歳の努力もむなしく、周囲からかなりの注目を浴びたまま、学校に着いても二人の無益な言い争いが終わることはなかった。
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