恋するおれは君のオモチャ

野中にんぎょ

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ヴィランの不在、ヒーローの本懐

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 川辺に止まっていた黒い蝶。木漏れ日で羽の色が緑や青に変化していくのを、十一歳の真緒は瞳を大きくして見つめた。
 この蝶を見せてあげなくちゃ。
 使命感に駆られ、真緒は蝶の消えて行った雑木林の中へと分け入った。山間部の夕暮れは住み慣れた街のそれよりもずっと早く、深かった。蝶と帰り道を見失い、真緒は夏の夜闇の中で膝を抱えた。
 ――真緒、大丈夫か?ほら、泣いてないで一緒に帰ろう。みんな心配してる。
 泣き疲れ、木の根元でうつらうつらし始めた頃に現れた京一。その時の真緒には、京一が世界一のスーパーヒーローに見えた。
 京一に手を引かれコテージに戻ると、大人たちがワッと声を上げて駆け寄って来た。よく無事だった、探したんだよ、どこに行っていたの。口々に問われ、母に抱きすくめられたその時、真緒と大人たちを遠巻きに見ていた圭司が声を荒げた。
 ――バカか!お前は森の中で迷子になってたんだよ!死んでもおかしくなかったんだよ!ヘラヘラ笑ってんな、いっぺん死んどけよ!
 今なら分かる。圭司の言っていることが、圭司の気持ちが。十八歳の真緒は唇を噛んだ。
「……けい君、Tシャツどろどろだ……」
 真緒は一枚の写真を指先で撫でた。仲直りにとバーベキューの後に三家で撮った写真。泣き腫らした真緒を挟んで、笑顔の京一とむくれた圭司が写っている。圭司の服は土汚れでどろどろだった。
 そういえば、この後からけい君に無視されるようになったんだ。真緒は宙を見つめ涙を堪えた。
「あらあ、それ、懐かしいわね」
 母が真緒の背後から弾んだ声を投げ掛ける。「うん。昔、キャンプに行ったときに迷子になっちゃったなって、思い出して」すまなそうに眉根を寄せる息子に、母は笑いながら頷いた。
「そんなことあったわねえ。あの辺、カラスアゲハっていう蝶がいて。真緒、その蝶を追って山に入っちゃったのよ」
「その蝶、覚えてる。すごく綺麗な羽をしてて。影に居ると黒色なのに、光に当たるとオーロラみたいに輝くんだ」
「そうそう。圭司君、俺のせいで真緒がいなくなっちゃったって泣いて、私も見ていて胸が苦しかった」
 眉間に皺を寄せこちらを睨んでいる十三歳の圭司。真緒は写真から面を上げ、確かめるように母を見つめた。
「真緒が行きの車の中でソワソワしっぱなしだったから、圭司君が昆虫図鑑を広げてくれてね。今から行くところにはこんな綺麗な蝶がいるから一緒に見ようって真緒に話してくれてたの。……だから、真緒がいなくなったのは俺のせいだって、目を赤くして、ずーっと真緒を探して、Tシャツもズボンも土と汗でどろどろになって。真緒より圭司君の方がかわいそうに見えたわよ、私には……」
 けい君は俺を探してくれていたんだ。真緒の目頭が熱くなった。
 圭司の愛情は不器用で不格好で、だからすぐ何かの影に隠れてしまう。十一歳の真緒が見つけられなかった圭司の愛情を、真緒はいま、真っ直ぐに見つめた。笑顔で「大丈夫か」と現れたヒーローの影で、圭司は不安と戦いながらずっと真緒を探していた。
 あの時、見つけてあげられなくてごめんね。遅くなっちゃって、ごめんね。
 記憶の欠片を辿ると、圭司の優しさの足跡が浮き上がってくる。あの時も、あの時も、あの時も、圭司はちゃんと優しかった。
 開けてもらったピアスホールが痛む。胸がじくじくと痛む。肌をつねられた痛みが鮮明に蘇る。「こっち見てよ」「俺を見つけて」「俺はここにいる」あの痛みは、圭司の言葉だった。
「あんたたち、最近また昔みたいに一緒にいるわね。圭司君、ぶっきらぼうだけど本当にいい子よ。大切にしなさいね」
「そんなの分かってるよ」
 思わずこぼれた一言はちょっと拗ねていて、自分でも可笑しかった。
 京一に彼女ができた時とは少し違っている胸の痛み。あの時は京一への想いを打ち明けられなかったことが堪えた。けれど圭司と離れた今は違う。離れてしまったあの手にもう一度触れたくて、叶うならばもう一度、彼の拙い愛情を受け止めたくて。
 あの手が与えてくれるのなら、痛みでも苦しみでも構わない。
 真緒は自分の頬をつねった。鈍く野暮ったい痛み。見る間に涙が溢れた。圭司が恋しかった。
「きょーちゃん、居る?」
 夜が更けてから、真緒は京一の部屋を訪れた。「なんだ、勝手に入ってもいいのに」ドアを開けてくれた京一は先日よりも落ち着いて見えた。それでも、部屋に入るともの寂しさが這い寄って来る。ああ、きょーちゃんは彼女さんが本当にすきなんだな。真緒は完璧な京一の人間臭いところに触れてほっとした。
「こんな遅くに俺の部屋に来るなんて珍しいな。何か相談?」
 膝を突き合わせて座り、真緒は首を横に振った。「じゃあなんだろう?」こめかみに軽く握った拳を当て、考えるポーズを取る京一。真緒は思わず噴き出してしまった。
「きょーちゃん、分かってたんでしょ?俺がきょーちゃんを……すきだったこと」
 京一の眉間にごく小さな皺が寄る。彼の瞳の奥が揺れていた。真緒は香色の光彩を横切るように走る光を見つめ「悩ませてごめんね」と微笑んだ。あの優しい手のひらが真緒の頭を躊躇いがちに撫でる。細めた視界は熱く潤んだ。
「この気持ちは……憧れだったかもしれないけど、ヒーローみたいなきょーちゃんになりたいっていう気持ちだったかもしれないけど、ちゃんと、すきって気持ちもあったんだ」
「……うん」
「ちゃんと、すきだった。きょーちゃんがすきだった。ごめんね、きょーちゃん」
 溢れる涙を京一の指が拭う。この指が大好きだった。皆に優しい指。俺のヒーローの指。
「真緒、嬉しいよ。ごめんなんて言うな。……俺こそ、逃げてばっかりでごめん。俺ももう逃げたりしないよ」
 指先は離れ、真緒は面を上げた。傷ついた京一の顔が、そこにはあった。俺の気持ちがきょーちゃんを傷つけたんだ。そう思うと切なかった。なのに、後悔はない。自分たちに必要な痛みなのだと、今の真緒にははっきりと分かった。
「俺はお前の気持ちに答えられない。俺、まだ、若葉さんがすきなんだ。俺はお前の恋人にはなれない」
 綺麗なままで死んでいた恋心が、血を流して泣いている。真緒は恋に破れて、けれど不思議なほど傷つかなかった。京一が同じだけの熱量で自分に応えてくれたことが嬉しかった。
「ちゃんとふってくれてありがとう。きょーちゃんのこと、すきになってよかった」
 立ち上がり、真緒はドアに踵を返す。「真緒」呼ばれて振り返ると、京一は噛んでいた唇をほどいて「あの時」と声を震わせた。
「お前が吐いて、俺がおぶって家まで送った時。……俺がそこに居たのは、圭司が俺を呼びに来たからだよ。真緒が吐いたって、汗を顔いっぱいに浮かべて俺の家の前で叫んだんだ、あいつは。……黙っててごめんな。お前のたった一人のヒーローでいたくて、お前の憧れの気持ちを独り占めしたくて、ずっと黙ってた。家におばちゃんが居なくて、圭司がお前を介抱しようとしたけど上手くいかなくて……、氷嚢の中身、ぶちまけちゃったけど。お前のヒーローは圭司だよ。俺じゃない。……ごめん」
 耳で光るピアスに触れて、真緒は笑った。
「二人とも、俺のヒーローだよ」
 その一言だけを残して、真緒は階段を駆け下りた。
 外に出て、圭司の家の前に立つ。彼の部屋に明かりは点いていない。
 俺、けい君がすき。
 暗いままの圭司の部屋を見つめ、真緒はそう思った。京一に向けた綺麗な恋心とは違う、恋と欲と痛みとが混じり合ったまだらな気持ち。けれど、痛いほど真っ直ぐで大きな気持ち。秘めたままではいられない、打ち明けずにはいられない。今すぐに伝えたい。他でもない、圭司本人に。
 圭司のくれた痛みが、真緒の胸を甘く痺れさせる。ピアスの穴がこのままずっと痛ければいいのに。真緒は心からそう思った。
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