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ファリクス邸の怪はもはや無し
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ロッシーナ軍を退けた功によって鬼一法眼はマカロン王都内に家と土地を与えられた。
その名もファリクス邸。
かつてはさる貴族の屋敷であったが諸々の事情で売り家となった邸宅である。
諸々の事情――いわゆる怪奇現象というやつだが、もはやそのような怪現象とは無縁となった。
鬼一法眼は家と土地を与えられたといったが、それだけではない。
騎士爵にも叙される事となった。
騎士爵とは世襲権を持たない準貴族である。
上流階級である。
上流階級と中流階級とそれ以下の労働階級を区別するのは氏姓や書類上の肩書や階級、収入以外にも重要な点がある。
使用人の有無だ。
執事の下に料理長や小間使いや女家庭教師や乳母や子守り、そして料理も掃除も洗濯も針仕事もなんでもこなす雑役メイドといった使用人がいてはじめて貴族と言えた。
「アホくさい。家事なんぞ使い魔にでもやらせればいいし、電気やガスや水道に代わる魔法という存在があるのに何でヴィクトリア朝時代の英国みたいに見栄で使用人を雇わなければいけないのか。むしろ俺のいた世界じゃ式神に家事をさせるのが呪術界のステータスだったのに……」
それはここが異世界だからである。
「うん、それはそうだ。入郷随俗という言葉もあるし使用人を雇うか」
そんなこんなで大々的に募集をかけ、集まった人たちに料理を振る舞うことにした。
厨房にて。
「いいか、みんな。知っての通り俺はマカロン人でもナーロッパ人でもない異邦人だ。味の好みもここいらの人とは異なる。こういうのが好きだから覚えておいてくれ」
そう言うや使用人志望として集まった人たちの前で食事の準備にとりかかる。
野菜や肉を手早く切り刻み、大鍋に入れて調理すると料理人希望者たちが興味深げに覗いてきた。
「おう、鍋料理ですな」
「うむ、鍋料理だ」
「これはなんて鍋料理で?」
「チャプスイという」
「チャプスイ? 聞いたことがない」
「まぁ、そうだろうな。ひとことで言えば野菜や肉のごった煮だ」
チャプスイ。
漢字では雜碎と書く。
八宝菜によく似たこの料理の生まれにはちょっとした逸話がある。
清の時代の中国。李鴻章という重臣が外交のためアメリカへ渡った時のこと。
異国の高官をもてなすためアメリカ当局は贅沢なフランス料理を用意したのだが、高齢の李鴻章は食べなれない西洋料理には食指を動かさなかった。
そこでチャイナタウンにいる華僑の料理人を呼んできて中国料理を作らせたのだが、本場の中国で山海の珍味に食べなれている人の舌にはとうてい合わない。
だからといってなにも食べないわけにもいかないため、出てきた料理をすべて大鍋にあけ、ごった煮を作らせると、これが非常に美味しかったらしく「好吃、好吃」と満足したという。
この話が評判になり、それ以降アメリカの中華料理屋では菜譜に李鴻章雜碎と称するごった煮を載せるようになり、こんにちでは宴会用にいったん作られた物を材料にこしらえたごった煮をのことを、特に李鴻章雜碎と呼ぶそうな――。
「ん? こっちの鍋ではなに作っているんで?」
「スープ用に細かく刻んだ野菜を入れて煮てる。ほぐれたらペースト状にして、白湯と混ぜれば片栗粉なしで羹に、とろみスープができあがる」
「ほー、なかなか凝ってますなぁ」
「手持ち無沙汰だったらそのとろみスープ作りをお願いしよう。もう少しで煮あがるから、それをそこのフードプロセッサーにかけてくれ」
「はい、わかりました。……ところで騎士爵様は単なる美食家ではなく酒の方にも通じておられるとか……」
「ああ、茶は酒の代わりにならないが酒は茶の代わりになるからなら」
「これはこれは! 含蓄のあるお言葉ですな、使わせてもらいます」
「ああ、おおいに使え」
これはもとより鬼一の言葉ではなく清代の文人である張潮の言である。
「酒か……、こっちの世界の葡萄酒や蜂蜜酒もいいが日本酒も恋しいな。いつぞやの重陽の節句に貴船山で飲んだ菊酒は実に美味かった」
重陽の節句。
陰陽思想では奇数は縁起の良い陽数。偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日を節句と称した。
しかし五行相剋相乗。相剋も度が過ぎれば良くないように、おめでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いもしていた。
中でも一番大きな陽数である九が重なる九月九日を、陽が重なる重陽の節句と定め。
この日は強い香りで邪気を祓い、長寿をもたらすとされる菊の花を飾ったり、湯船に菊を浮かべた菊湯に入ったり、菊を詰めた菊枕で眠ったりといった菊をもちいたまじないをさかんにおこなった。
「この世の中にはたくさんの神秘の酒がある。節句の菊酒や屠蘇の他にレア物のアムリタ、ソーマ、ネクタル、天甜酒に 八塩折之酒といったの霊酒の類はいまだに飲んだことがない」
「アムリタやネクタルなら聞いたことがあります。……騎士爵様は近々魔術学院に通われるとか、そこでなら変わった魔法の酒の情報も手に入ることでしょう」
「そういえばこのチャプスイにも呪術じみた逸話があったな。いわば真の李鴻章雜碎とでも呼ぶべきか――」
食事というのはたんなる栄養摂取の一過程ではない。
動植物を殺し、命を奪い、その魂を吸収する一種の儀式。呪術の面を持つ。
料理の素材である動物や植物に細胞レベルで残留した魂と、調理する人間から発散されて食べ物にうつる気が消化器官を通じて食事する人間の魂に吸収される。
同様の現象は逆方向にも起こる。
美味しそうな食べ物が目の前に並ぶ。それを見てうまそう、食べたい、などと思う。
そう食欲をもよおした人間の気は欲望とともに対象物に投影される。
その余韻が残留するからこそ、残り物料理には独特の味が生まれる――。
「――そのように実際の食卓に上がり、人の目や箸にさらされた食べ物には人間の五味とは異なる味わいが生まれるそうだ。これこそ李鴻章が実際に口にした宴会料理の残り物で作ったチャプスイで、稀代の食通たちの中にはこの魂の味つけがわかる者がいるとか。この真・李鴻章雜碎の作り方は犬神作成といった巫蠱の術理にも通じるものがあるから、陰陽師としてはとても興味深いものが――」
「…………」
魔術や呪術にさしたる縁も知識もない一般人の使用人たちは鬼一の言っていることの一割も理解できなかったが、作っている料理は間違いなく美味そうだとわかった。
あれこれと長話をするうちにできあがったチャプスイはみなに大好評で、残るようなことはなかったため『真・李鴻章雜碎』として生まれ変わることはなかった。
その名もファリクス邸。
かつてはさる貴族の屋敷であったが諸々の事情で売り家となった邸宅である。
諸々の事情――いわゆる怪奇現象というやつだが、もはやそのような怪現象とは無縁となった。
鬼一法眼は家と土地を与えられたといったが、それだけではない。
騎士爵にも叙される事となった。
騎士爵とは世襲権を持たない準貴族である。
上流階級である。
上流階級と中流階級とそれ以下の労働階級を区別するのは氏姓や書類上の肩書や階級、収入以外にも重要な点がある。
使用人の有無だ。
執事の下に料理長や小間使いや女家庭教師や乳母や子守り、そして料理も掃除も洗濯も針仕事もなんでもこなす雑役メイドといった使用人がいてはじめて貴族と言えた。
「アホくさい。家事なんぞ使い魔にでもやらせればいいし、電気やガスや水道に代わる魔法という存在があるのに何でヴィクトリア朝時代の英国みたいに見栄で使用人を雇わなければいけないのか。むしろ俺のいた世界じゃ式神に家事をさせるのが呪術界のステータスだったのに……」
それはここが異世界だからである。
「うん、それはそうだ。入郷随俗という言葉もあるし使用人を雇うか」
そんなこんなで大々的に募集をかけ、集まった人たちに料理を振る舞うことにした。
厨房にて。
「いいか、みんな。知っての通り俺はマカロン人でもナーロッパ人でもない異邦人だ。味の好みもここいらの人とは異なる。こういうのが好きだから覚えておいてくれ」
そう言うや使用人志望として集まった人たちの前で食事の準備にとりかかる。
野菜や肉を手早く切り刻み、大鍋に入れて調理すると料理人希望者たちが興味深げに覗いてきた。
「おう、鍋料理ですな」
「うむ、鍋料理だ」
「これはなんて鍋料理で?」
「チャプスイという」
「チャプスイ? 聞いたことがない」
「まぁ、そうだろうな。ひとことで言えば野菜や肉のごった煮だ」
チャプスイ。
漢字では雜碎と書く。
八宝菜によく似たこの料理の生まれにはちょっとした逸話がある。
清の時代の中国。李鴻章という重臣が外交のためアメリカへ渡った時のこと。
異国の高官をもてなすためアメリカ当局は贅沢なフランス料理を用意したのだが、高齢の李鴻章は食べなれない西洋料理には食指を動かさなかった。
そこでチャイナタウンにいる華僑の料理人を呼んできて中国料理を作らせたのだが、本場の中国で山海の珍味に食べなれている人の舌にはとうてい合わない。
だからといってなにも食べないわけにもいかないため、出てきた料理をすべて大鍋にあけ、ごった煮を作らせると、これが非常に美味しかったらしく「好吃、好吃」と満足したという。
この話が評判になり、それ以降アメリカの中華料理屋では菜譜に李鴻章雜碎と称するごった煮を載せるようになり、こんにちでは宴会用にいったん作られた物を材料にこしらえたごった煮をのことを、特に李鴻章雜碎と呼ぶそうな――。
「ん? こっちの鍋ではなに作っているんで?」
「スープ用に細かく刻んだ野菜を入れて煮てる。ほぐれたらペースト状にして、白湯と混ぜれば片栗粉なしで羹に、とろみスープができあがる」
「ほー、なかなか凝ってますなぁ」
「手持ち無沙汰だったらそのとろみスープ作りをお願いしよう。もう少しで煮あがるから、それをそこのフードプロセッサーにかけてくれ」
「はい、わかりました。……ところで騎士爵様は単なる美食家ではなく酒の方にも通じておられるとか……」
「ああ、茶は酒の代わりにならないが酒は茶の代わりになるからなら」
「これはこれは! 含蓄のあるお言葉ですな、使わせてもらいます」
「ああ、おおいに使え」
これはもとより鬼一の言葉ではなく清代の文人である張潮の言である。
「酒か……、こっちの世界の葡萄酒や蜂蜜酒もいいが日本酒も恋しいな。いつぞやの重陽の節句に貴船山で飲んだ菊酒は実に美味かった」
重陽の節句。
陰陽思想では奇数は縁起の良い陽数。偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日を節句と称した。
しかし五行相剋相乗。相剋も度が過ぎれば良くないように、おめでたい反面悪いことにも転じやすいと考え、お祝いとともに厄祓いもしていた。
中でも一番大きな陽数である九が重なる九月九日を、陽が重なる重陽の節句と定め。
この日は強い香りで邪気を祓い、長寿をもたらすとされる菊の花を飾ったり、湯船に菊を浮かべた菊湯に入ったり、菊を詰めた菊枕で眠ったりといった菊をもちいたまじないをさかんにおこなった。
「この世の中にはたくさんの神秘の酒がある。節句の菊酒や屠蘇の他にレア物のアムリタ、ソーマ、ネクタル、天甜酒に 八塩折之酒といったの霊酒の類はいまだに飲んだことがない」
「アムリタやネクタルなら聞いたことがあります。……騎士爵様は近々魔術学院に通われるとか、そこでなら変わった魔法の酒の情報も手に入ることでしょう」
「そういえばこのチャプスイにも呪術じみた逸話があったな。いわば真の李鴻章雜碎とでも呼ぶべきか――」
食事というのはたんなる栄養摂取の一過程ではない。
動植物を殺し、命を奪い、その魂を吸収する一種の儀式。呪術の面を持つ。
料理の素材である動物や植物に細胞レベルで残留した魂と、調理する人間から発散されて食べ物にうつる気が消化器官を通じて食事する人間の魂に吸収される。
同様の現象は逆方向にも起こる。
美味しそうな食べ物が目の前に並ぶ。それを見てうまそう、食べたい、などと思う。
そう食欲をもよおした人間の気は欲望とともに対象物に投影される。
その余韻が残留するからこそ、残り物料理には独特の味が生まれる――。
「――そのように実際の食卓に上がり、人の目や箸にさらされた食べ物には人間の五味とは異なる味わいが生まれるそうだ。これこそ李鴻章が実際に口にした宴会料理の残り物で作ったチャプスイで、稀代の食通たちの中にはこの魂の味つけがわかる者がいるとか。この真・李鴻章雜碎の作り方は犬神作成といった巫蠱の術理にも通じるものがあるから、陰陽師としてはとても興味深いものが――」
「…………」
魔術や呪術にさしたる縁も知識もない一般人の使用人たちは鬼一の言っていることの一割も理解できなかったが、作っている料理は間違いなく美味そうだとわかった。
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