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五行大災 3
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後方で数百の赤い輝きが乱舞するのが見えた。
次の瞬間、炎が噴き上がり、もうもうたる煙が空へと立ち昇る。
「い、いったいなにが、なにが起きているというのだっ!?」
五大明王の生み出した破壊呪術の余波は遠くはなれた場所にも影響し、無数の土礫や渦巻く颶風や瀑布となって荒ぶった。ジルギタは神聖魔術による防御結界で身を守ってはいるが、その威力はすさまじくすべては防ぎきれない。
鬼一法眼らも荒れ狂う五気の渦中にあったが、こちらは事前に使用していた禹歩による結界のおかげで呪術による猛威を完全に遮断している。
「ぎゃあっ」
飛来した火球の直撃を受けたホドロフスキーの身体がたいまつのように燃え上がり、むっとする熱気と煙、人の焦げるいやな臭いが鼻を刺す。
全身を炎につつまれ、狂ったようにのたうち回る。炎熱と煙による気道熱傷でのどを潰され、消火のための呪文を唱えることもできない。
哀れホドロフスキー、半死半生が完全なる死を迎えた。
「なんという有様だ……」
はなれた場所でさえこの威力。目視したわけではないが強大な呪力の氾濫にロッシーナ軍が壊滅状態になったのはあきらかだった。
ジルギタは結界を強化し、この五気の狂奔にひたすら耐えた。
そしてようやく破壊の嵐がおさまる。
「……このようなむごたらしい魔法は見たことも聞いたこともない――む?」
いつの間にか護身結界から出た鬼一がどこからか取り出した仏像を前に祈祷しているではないか。
手に五股印を結び真言を口にする。
「オン・マカラ・ギャ・バサロ・シュニシャ・バサラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」
チョロイ~ン☆
怨敵さえも敬服し、信愛をしめすといわれる愛染明王の敬愛法が効果を発揮した。
魅了の呪。
美男美女が異性をたぶらかすかのように人の心をぼやけさせ、判断力をうばう。
たとえ相手が憎むべき敵であろうとも呪の力が心から信頼できる友人や恋人に変えてしまうのだ。
「このジルギタ、感服いたしましたァ!」
凄腕の術者であり、不動の心を持つよう鍛練している武僧ジルギタは本来ならばこのように簡単に魅了されはしないだろう。
だが未曽有の大呪術を目のあたりにしたことに動揺し、心の間隙を突かれていとも簡単に籠絡されてしまった。
単純に魔術呪術への抵抗力があっても、心そのものにすきが生じたり、くじけてしまっては意味がない。
ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になってしまうことがあるのだ。
「このようなむごたらしい魔法は見たことも聞いたこともない。それを平然とやってのける。そこにシビれる! あこがれるゥ! 光明神ホルボーグにお仕えする身なれど、現世においてはあなた様の手となり足となり推服することを誓います!」
「なら今すぐに戦場を離れて二度といくさに関わらず僧侶として人々を救済して過ごせ」
「仰せのままに――」
こうして武僧ジルギタは鬼一の前から姿を消した。
「ふぅ、なんとか終わったみたいね」
「ひんだれた~」
「すさまじい威力だな、まったく次から次へと驚かせてくれる」
アヤネル、ナミ、シェラ。三人の戦乙女たちが安堵の表情を浮かべる。
「いや、まだだ」
手強い敵を戦場から消した鬼一だったが、その表情がゆるむことはなかった。
「……隠れているやつ、出てこい。そいつの骸ごと焼き尽くされていのか」
ホドロフスキーの死体に向け独鈷印を結び呪力を練る。
「……鋭いやつ。だが我はもうここにはおらぬぞ」
返事があった。
だが姿は見えない。
右か、左か、前か、後ろか、はたまた上か下か。
どこからともかく声がしたが、妙にくぐもり、反響しているそれからは声の主の居場所を特定できない。
「そうか、なら試してみよう。हां!」
「व!」
鬼一が不動明王の種字真言を口にすると、独鈷印より火焔が渦を巻いて周囲をなぎ払う。
それに対して見えざる者は水天の種字真言を唱え、水剋火。水で火を制しようとしたのだが――。
「以土行為石嵐、砕。疾く!」
土行を以て石の嵐と為す、砕け。
鬼一は種字真言を口にすると同時に土行符も打っていた。
最初に火界咒云々と言ったのはひっかけだ。
こちらが火術をもちいると思い込ませ、本命の土行術を展開した。
火生土。
火気はあくまで土気を強化するための触媒。火気からなる呪術は土気によって相生され、威力を増加。無数の石弾が地面から放たれ、周囲を飛び交った。
土剋水。
水の術は土の術に対して完全に不利であり、打ち消された。これは急所に不意打ちを受けたにひとしい。鬼一の術が見えざる者を打ちのめした。
「……やるな」
ホドロフスキーだった肉塊からにじみ出るようにして人の姿をしたものが現れた。隠形が解けてしまったのだ。
褐色の肌に漆黒の髪をし、薄絹の服を着て、金銀宝石の装飾品を身につけた、古代インドの藩王を思わせるような身なりの男。
「いまのはかなり痛かったぞ」
そう口にする男の全身には打撲傷があり、その言葉にうそはなさそうだ。
「タフなやつだ。挽き肉になってもおかしくないくらいの威力を込めたんだがな」
「おっかないねぇ、おまえは加減てものを知らないのかい?」
「あんたは動揺してないみたいだな」
「うん?」
「いまさっきロッシーナ軍を蹴散らした呪術さ」
精確な位置を把握することはできずとも、この男が隠形していたことは察していた。
愛染明王の敬愛法を発動したさい、その効果範囲にいたはずだが、その影響はまったく感じさせない。心に生じたおどろきやおびえで呪にかかる隙を作ってしまったジルギタとはちがい、大惨事を前にしてもいっさいの動揺もないことで、鬼一の呪に万全の状態で抵抗したのだ。
「ああ、なるほど。たいした威力だけれども我が国の歴史にもあのくらいの呪術は存在する。それどころかもっと凄いぞ、国ひとつが消し飛ぶくらいの呪ものがある」
「我が国、ね……。だが俺が言っているのはそういうことじゃない。人の死だ。破壊と殺人の感覚、耳障りな断末魔、血の臭い、すべてが神経に障る、実に不快だ。それに眉ひとつ動かさないとは、またずいぶんと人の死になれているようだ」
「おやおや、まあまあ! その不快な虐殺を生んだのはそっちだろうに、それなのになにを善人ぶってるのだ、人の子よ」
「善人ぶっているんじゃない、俺は善人だ」
鬼一ははっきりと言い放った。
「武力を以って侵略してくる連中がいたならば、俺たちはおなじレベルで報復してもいい、せざるをえない。そうしなければ一方的に侵略されるだけだからな。俺たちはマゾヒストじゃないんだ、やられたら、やりかえすさ。人様に手を出すのが悪い。手を出しておいて、こちらが抵抗するのはけしからん。と言うようなやつらにこちらが遠慮することはない」
そう言う鬼一だが争えば無関係の人々を巻き込むことがあるのは百も承知である。非がむこうにあると確信していても後味の悪さはどうしようもない。
「一城を皆殺しにすれば他の城は戦わずにして落ちる。そうしたまでだ」
一罰百戒。先にこちらの強烈な意志をしめすことで、のちに生じるかもしれない無益ないくさをなくす。
1868年、江戸城は薩長を中心とする新政府軍に無血開城された。
無血というといかにも平和然とした言葉だが、この言葉の裏には強烈な闘志が隠されている。
勝海舟は無抵抗で新政府軍に接したのではない。
勝が提示したいくつかの条件のうち、ひとつでも新政府側が拒否・反故すれば城を枕に討ち死にせんという必死の覚悟があったからこそ、江戸の街は戦火に見まわれることから逃れたのだ。
命欲しさ、いくさこわさに弱腰で外交していたのならば、新政府軍につけ込まれ、江戸の街はいいように蹂躙されていたかもしれない。
戦争は外交の失敗の産物というが、そもそも外交には他国を抑制する軍事力が少なからず必要であり、武力なくして平和は守れない。
一方的に侵略してくる相手に、話し合いなぞ通用しないのだ。
降伏すれば命が助かるという保障などない、負ければ生命も財産も自由も人権も奪われ、踏みにじられる。
事実ロッシーナ帝国は侵攻の際にあらかじめ降伏勧告を出してそれに従えば生命、財産を保障してそれまで通りの統治や生活を容認すると喧伝しているが、実のところ虐殺、略奪、強姦、弾圧がおこなわれていた。
戦争とは、侵略とはそういうものである。
たからこそ降伏などしてはいけない。
見えない鎖に繋がれ恐怖に怯え、それで人といえるのか。人であるためには戦うしかない。
戦うしかないのだ。
「強大国が弱小国に侵略するのは悪で、それに抵抗するのは善であり正義だ」
「それは墨子の考えだな」
「ほう、墨子を知るか、異世界の魔障」
「おう、墨子を知るぞ、異世界の呪術師」
墨子。
古代中国。春秋戦国時代という戦乱の世にあって非攻と兼愛という平和・博愛主義を唱えた古代中国の思想家。
「自分を愛するように他人を愛せば争いは起きない」という、後世のキリストのような博愛主義を説き「強い国が弱い国を侵略するのは悪で、弱い国がその侵略に抵抗するのは正義である」というような言葉も遺している。
この〝国〟の部分を個人に置き換えても通用するだろう。
墨子は非攻兼愛を唱える一方で平和を達成するために軍事研究して実践するという人であった。
攻める利得が完全になくなれば戦争はなくなるだろう。
そう考えた墨子とその弟子たちは各地の弱小国の城を守ってまわる傭兵のような集団となり墨守と呼ばれた。彼ら墨家の防衛術が非常に堅固なものだった証左であろう。
この藩王のような身なりをした男は墨子を、法眼のいた世界の思想家の存在を知っていた。
つまりこの男もまた異世界の住人であろうか――。
「ならばその墨守の思想であらがって見せるがいい! ――オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ!」
男は三鈷印を結び、天竺にルーツがあるとされる異貌の仏神の真言を唱えると、その身体から瘴気の渦が舞い上がり、空気を泡立たせた。
陰なる呪力が大気に浸透し、五気の調和を破壊する。
そこから無数の霊的特殊生物災害が、数多の妖怪変化が生まれた。
次の瞬間、炎が噴き上がり、もうもうたる煙が空へと立ち昇る。
「い、いったいなにが、なにが起きているというのだっ!?」
五大明王の生み出した破壊呪術の余波は遠くはなれた場所にも影響し、無数の土礫や渦巻く颶風や瀑布となって荒ぶった。ジルギタは神聖魔術による防御結界で身を守ってはいるが、その威力はすさまじくすべては防ぎきれない。
鬼一法眼らも荒れ狂う五気の渦中にあったが、こちらは事前に使用していた禹歩による結界のおかげで呪術による猛威を完全に遮断している。
「ぎゃあっ」
飛来した火球の直撃を受けたホドロフスキーの身体がたいまつのように燃え上がり、むっとする熱気と煙、人の焦げるいやな臭いが鼻を刺す。
全身を炎につつまれ、狂ったようにのたうち回る。炎熱と煙による気道熱傷でのどを潰され、消火のための呪文を唱えることもできない。
哀れホドロフスキー、半死半生が完全なる死を迎えた。
「なんという有様だ……」
はなれた場所でさえこの威力。目視したわけではないが強大な呪力の氾濫にロッシーナ軍が壊滅状態になったのはあきらかだった。
ジルギタは結界を強化し、この五気の狂奔にひたすら耐えた。
そしてようやく破壊の嵐がおさまる。
「……このようなむごたらしい魔法は見たことも聞いたこともない――む?」
いつの間にか護身結界から出た鬼一がどこからか取り出した仏像を前に祈祷しているではないか。
手に五股印を結び真言を口にする。
「オン・マカラ・ギャ・バサロ・シュニシャ・バサラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」
チョロイ~ン☆
怨敵さえも敬服し、信愛をしめすといわれる愛染明王の敬愛法が効果を発揮した。
魅了の呪。
美男美女が異性をたぶらかすかのように人の心をぼやけさせ、判断力をうばう。
たとえ相手が憎むべき敵であろうとも呪の力が心から信頼できる友人や恋人に変えてしまうのだ。
「このジルギタ、感服いたしましたァ!」
凄腕の術者であり、不動の心を持つよう鍛練している武僧ジルギタは本来ならばこのように簡単に魅了されはしないだろう。
だが未曽有の大呪術を目のあたりにしたことに動揺し、心の間隙を突かれていとも簡単に籠絡されてしまった。
単純に魔術呪術への抵抗力があっても、心そのものにすきが生じたり、くじけてしまっては意味がない。
ほんの一瞬のおびえやひるみ、弱気が一発逆転、起死回生の致命傷になってしまうことがあるのだ。
「このようなむごたらしい魔法は見たことも聞いたこともない。それを平然とやってのける。そこにシビれる! あこがれるゥ! 光明神ホルボーグにお仕えする身なれど、現世においてはあなた様の手となり足となり推服することを誓います!」
「なら今すぐに戦場を離れて二度といくさに関わらず僧侶として人々を救済して過ごせ」
「仰せのままに――」
こうして武僧ジルギタは鬼一の前から姿を消した。
「ふぅ、なんとか終わったみたいね」
「ひんだれた~」
「すさまじい威力だな、まったく次から次へと驚かせてくれる」
アヤネル、ナミ、シェラ。三人の戦乙女たちが安堵の表情を浮かべる。
「いや、まだだ」
手強い敵を戦場から消した鬼一だったが、その表情がゆるむことはなかった。
「……隠れているやつ、出てこい。そいつの骸ごと焼き尽くされていのか」
ホドロフスキーの死体に向け独鈷印を結び呪力を練る。
「……鋭いやつ。だが我はもうここにはおらぬぞ」
返事があった。
だが姿は見えない。
右か、左か、前か、後ろか、はたまた上か下か。
どこからともかく声がしたが、妙にくぐもり、反響しているそれからは声の主の居場所を特定できない。
「そうか、なら試してみよう。हां!」
「व!」
鬼一が不動明王の種字真言を口にすると、独鈷印より火焔が渦を巻いて周囲をなぎ払う。
それに対して見えざる者は水天の種字真言を唱え、水剋火。水で火を制しようとしたのだが――。
「以土行為石嵐、砕。疾く!」
土行を以て石の嵐と為す、砕け。
鬼一は種字真言を口にすると同時に土行符も打っていた。
最初に火界咒云々と言ったのはひっかけだ。
こちらが火術をもちいると思い込ませ、本命の土行術を展開した。
火生土。
火気はあくまで土気を強化するための触媒。火気からなる呪術は土気によって相生され、威力を増加。無数の石弾が地面から放たれ、周囲を飛び交った。
土剋水。
水の術は土の術に対して完全に不利であり、打ち消された。これは急所に不意打ちを受けたにひとしい。鬼一の術が見えざる者を打ちのめした。
「……やるな」
ホドロフスキーだった肉塊からにじみ出るようにして人の姿をしたものが現れた。隠形が解けてしまったのだ。
褐色の肌に漆黒の髪をし、薄絹の服を着て、金銀宝石の装飾品を身につけた、古代インドの藩王を思わせるような身なりの男。
「いまのはかなり痛かったぞ」
そう口にする男の全身には打撲傷があり、その言葉にうそはなさそうだ。
「タフなやつだ。挽き肉になってもおかしくないくらいの威力を込めたんだがな」
「おっかないねぇ、おまえは加減てものを知らないのかい?」
「あんたは動揺してないみたいだな」
「うん?」
「いまさっきロッシーナ軍を蹴散らした呪術さ」
精確な位置を把握することはできずとも、この男が隠形していたことは察していた。
愛染明王の敬愛法を発動したさい、その効果範囲にいたはずだが、その影響はまったく感じさせない。心に生じたおどろきやおびえで呪にかかる隙を作ってしまったジルギタとはちがい、大惨事を前にしてもいっさいの動揺もないことで、鬼一の呪に万全の状態で抵抗したのだ。
「ああ、なるほど。たいした威力だけれども我が国の歴史にもあのくらいの呪術は存在する。それどころかもっと凄いぞ、国ひとつが消し飛ぶくらいの呪ものがある」
「我が国、ね……。だが俺が言っているのはそういうことじゃない。人の死だ。破壊と殺人の感覚、耳障りな断末魔、血の臭い、すべてが神経に障る、実に不快だ。それに眉ひとつ動かさないとは、またずいぶんと人の死になれているようだ」
「おやおや、まあまあ! その不快な虐殺を生んだのはそっちだろうに、それなのになにを善人ぶってるのだ、人の子よ」
「善人ぶっているんじゃない、俺は善人だ」
鬼一ははっきりと言い放った。
「武力を以って侵略してくる連中がいたならば、俺たちはおなじレベルで報復してもいい、せざるをえない。そうしなければ一方的に侵略されるだけだからな。俺たちはマゾヒストじゃないんだ、やられたら、やりかえすさ。人様に手を出すのが悪い。手を出しておいて、こちらが抵抗するのはけしからん。と言うようなやつらにこちらが遠慮することはない」
そう言う鬼一だが争えば無関係の人々を巻き込むことがあるのは百も承知である。非がむこうにあると確信していても後味の悪さはどうしようもない。
「一城を皆殺しにすれば他の城は戦わずにして落ちる。そうしたまでだ」
一罰百戒。先にこちらの強烈な意志をしめすことで、のちに生じるかもしれない無益ないくさをなくす。
1868年、江戸城は薩長を中心とする新政府軍に無血開城された。
無血というといかにも平和然とした言葉だが、この言葉の裏には強烈な闘志が隠されている。
勝海舟は無抵抗で新政府軍に接したのではない。
勝が提示したいくつかの条件のうち、ひとつでも新政府側が拒否・反故すれば城を枕に討ち死にせんという必死の覚悟があったからこそ、江戸の街は戦火に見まわれることから逃れたのだ。
命欲しさ、いくさこわさに弱腰で外交していたのならば、新政府軍につけ込まれ、江戸の街はいいように蹂躙されていたかもしれない。
戦争は外交の失敗の産物というが、そもそも外交には他国を抑制する軍事力が少なからず必要であり、武力なくして平和は守れない。
一方的に侵略してくる相手に、話し合いなぞ通用しないのだ。
降伏すれば命が助かるという保障などない、負ければ生命も財産も自由も人権も奪われ、踏みにじられる。
事実ロッシーナ帝国は侵攻の際にあらかじめ降伏勧告を出してそれに従えば生命、財産を保障してそれまで通りの統治や生活を容認すると喧伝しているが、実のところ虐殺、略奪、強姦、弾圧がおこなわれていた。
戦争とは、侵略とはそういうものである。
たからこそ降伏などしてはいけない。
見えない鎖に繋がれ恐怖に怯え、それで人といえるのか。人であるためには戦うしかない。
戦うしかないのだ。
「強大国が弱小国に侵略するのは悪で、それに抵抗するのは善であり正義だ」
「それは墨子の考えだな」
「ほう、墨子を知るか、異世界の魔障」
「おう、墨子を知るぞ、異世界の呪術師」
墨子。
古代中国。春秋戦国時代という戦乱の世にあって非攻と兼愛という平和・博愛主義を唱えた古代中国の思想家。
「自分を愛するように他人を愛せば争いは起きない」という、後世のキリストのような博愛主義を説き「強い国が弱い国を侵略するのは悪で、弱い国がその侵略に抵抗するのは正義である」というような言葉も遺している。
この〝国〟の部分を個人に置き換えても通用するだろう。
墨子は非攻兼愛を唱える一方で平和を達成するために軍事研究して実践するという人であった。
攻める利得が完全になくなれば戦争はなくなるだろう。
そう考えた墨子とその弟子たちは各地の弱小国の城を守ってまわる傭兵のような集団となり墨守と呼ばれた。彼ら墨家の防衛術が非常に堅固なものだった証左であろう。
この藩王のような身なりをした男は墨子を、法眼のいた世界の思想家の存在を知っていた。
つまりこの男もまた異世界の住人であろうか――。
「ならばその墨守の思想であらがって見せるがいい! ――オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ!」
男は三鈷印を結び、天竺にルーツがあるとされる異貌の仏神の真言を唱えると、その身体から瘴気の渦が舞い上がり、空気を泡立たせた。
陰なる呪力が大気に浸透し、五気の調和を破壊する。
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