機械仕掛けの夜想曲

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 最後の旋律が余韻を残し、消える。
 瞬間、拍手と歓声が会場中に響き渡った。
 それを聞きながら、フローリアはピアノから手をおろし、気付かれないように息を少しだけ吐いた。
 椅子から立ち上がり、礼をすれば拍手はさらに高く、大きく響き渡る。

「いやあ、見事な演奏でしたよ。なんと素晴らしい!」

 夜会の主催者であるモンレーヴ伯爵が両手を大きく広げて歩み寄って来た。

「本当に、素晴らしいわ。私、感動して涙が……」

 その傍らで夫人が微笑みながら、ハンカチでそっと目頭を押さえている。

「暖かいお言葉感謝いたします。これからも精進いたします」

 フローリアが笑みを浮かべながら丁寧なカーテシーを披露すれば、拍手は割れんばかりに響き渡った。
 次々とかけられる激励の言葉に、彼女は穏やかな笑みのまま答える。

 伯爵令嬢フローリア・ベルクレイン。

 そのピアノの腕は、かつて名ピアニストであった母を受け継ぎ……いや、それ以上だと評される程だ。

 白く細い指先は信じられない程の速度で動き、紡ぎだされる繊細で正確な旋律は、まさに完璧で非の打ちどころが無い。聴く者の心を静かに掴み、感情を揺さぶられるような演奏は評判を呼び、高位貴族の夜会に招かれるだけではなく、演奏会も不定期ではあるが開催される程に。

 惜しみない賞賛を送られるフローリアだったが、彼女は知っていた。


 余りにも完璧すぎる旋律を紡ぎだすが故に。

 
『機械仕掛けの冷たい演奏』


 影でこう言われていることを。



 澄んだ音が、演奏室に響く。
 しなやかな指は迷いなく動き、正確な旋律を紡ぎ出した。

 1日3時間の練習。ピアノを始めてから、毎日欠かしたことはないそれを忠実に守り、フローリアは楽譜の通りに指を動かしていく。

 演奏は順調だ。だが、心は虚ろだと、どこか冷静な自分が囁く。
 それは自身の演奏が『機械』と揶揄されているのと、そして……。

 最後の音が鼓膜を打った後、フローリアは鍵盤から手を下ろした。
 すると。

「お姉様」

 かけられた声に、その方向へ顔を向ける。

「ヴィオラ……。気が付かなくてごめんなさい」

 謝ると、ヴィオラは冷たく目を狭めた。

「いいのよ、いつものことですもの。私よりもピアノの方が大事ですものねぇ、お姉様は」
「そんなことは……」

 ない、と言いかけたが、ヴィオラの突き刺さるような視線に耐えきれず、下を向いてしまう。そんなフローリアの様子に、ヴィオラはフン、と軽く鼻を鳴らした。

「だからルシアン様にも愛想を尽かされるんじゃない」

「『君の一番はピアノなんだろう』って」

 フローリアは膝の上で、ぎゅっと拳を握り込む。そんな姉の様子に、ヴィオラは口角を吊り上げた。

「ルシアン様はとーってもお優しいの。それに話していて楽しいし、手紙も贈り物も沢山くださるし……」

「何故あのように素敵な方をないがしろになさったの? 理解に苦しむわ」

 そう、現在ヴィオラの婚約者であるルシアン・ヴァルモンは、かつてフローリアの婚約者だった。
 自分がピアニストであることを理解してくれる人、を大前提に父が見つけてくれた相手、だった筈なのに。

(ないがしろにしたつもりは……いえ、今となってはそれも言い訳に過ぎないわね)

 手紙や贈り物は丁寧に返事をした。定期的に開かれるお茶会にも参加した。
 しかし外での逢瀬は何故か時間が合わなかった。代替案を出しても、「その日は都合が悪い」と一方的に断られ……その間にルシアンは妹との仲を深めていたらしく、

「フローリアとの婚約を解消し、ヴィオラとの婚約を結びたい」

 と申し出られた。
 父はそれに驚き、難色を示したが、フローリアがあっさりと「承りました」と頷いたこと、そしてヴィオラの強い希望もあり、最終的には認めたのだ。

「君の話はピアノのことばかりでつまらなかった」
「逢瀬すら満足にできないなんて。少しは私に合わせようと思わないのかい?」

 それはそうかもしれないが、夜会や演奏会の日程は事前に決められていることで、フローリアの都合で変更することは出来ない。幾度となく説明して謝罪もしていたが、ルシアンは納得がいかなかったのだろうか、と今考えても仕方がないことを思ってしまう。

「ほーんと、お姉様にはピアノしかないのねぇ?」

 ヴィオラは目を狭め、冷たい視線をフローディアに向けた。それに、さらに膝の上の手に力を込めながら、フローリアは口を開く。

「そうね。私にはその通りかもしれないわ。でも」
「ああ、もう!」

 言葉を遮り、だんっ! とヴィオラは大きく足音を立てた。

「だから言われるんじゃない!」


「心がこもっていない、機械仕掛けの演奏だって!!」


「……っ!」

 フローリアは息を飲む。顔が強張るのが自分でも分かった。

 影でそう言われているのは知っていた。
 だけど。

 妹から、その事実を突きつけられるなんて。

 何も言えないフローリアに苛立ったのか、ヴィオラはキッと睨みつけて叫んだ。

「ルシアン様との結婚が待ち遠しいわ」


「耳障りな演奏を聞かなくても済むから!」


 瞬間、身体の芯が、すう、と冷えたのを感じた。
 そうして、何の音も聞こえなくなる。
 ただただ、色褪せた無音の世界が、胸中をじわじわと満たしていくのを止められなかった。


 どのくらいの間そうしていただろう。
 気が付けば、ヴィオラの姿は無く。

(ヴィオラ……そんなことを言うなんて……)


(あなたは、もうピアノが嫌いになってしまったの?)


 幼い頃、自分と同じ青い眼をきらきらとさせて、

「わたくしも、おねえさまみたいに、ピアノひいてみたい!」

 そうせがんだヴィオラが可愛くて仕方が無かった。
 母に「貴方が教えてあげたらどうかしら」と言われた時は少し驚いたが、ヴィオラも「おねえさまにおしえてほしいの」とお願いされ、「分かったわ」と頷いた。
 それは自分でも拙い教え方だったと思うが、ヴィオラは真剣に聞いて、小さな指を一生懸命に鍵盤へ滑らせた。そうして練習曲を間違えずに弾き終えた時は、ぱあっ、と花が開くような笑顔を浮かべた。「よく頑張ったわね」と頭を撫でると、「おねえさま、ありがとう」とくすぐったそうに笑ってくれた。

 連弾をした時は「お姉様と一緒に弾けるなんて、楽しいわ」と微笑んでくれた。
  二人で紡いだ旋律は、今でも耳に残っている。

 「私もお母様やお姉様のようにピアノを上手に弾けるようになれるかしら?」
 「貴方なら出来るわ、ヴィオラ」

 そう微笑みあった。だけど。

 埋められない壁、というのは確かに存在して。それを察したヴィオラは、何時の日かピアノに触れることをやめてしまった。

 世間からの「あのフローリア嬢の妹」「フローリア嬢はピアノの名手だが、ヴィオラ嬢は……」などという心無い言葉も拍車をかけたのだろう。

 だとすれば、ルシアンを奪ったのも意趣返しのつもりなのだろうか。
 
 影でどう言われても、自分の演奏ができればそれで良かった。
 演奏を聴いた方が喜んでくれればそれで良かった。
 

 その中にはもちろん、家族……ヴィオラも含まれていたのに。


 ぽた、と雫が握り締めた拳の上に落ちる。
 それをそっと指先で拭い取り、フローリアは鍵盤蓋を静かに下ろした。



 あれから数日。
 フローリアはピアノに触れることすらせず、日々を過ごしていた。
 父にしばらく演奏は控えたい、だから夜会や演奏会の誘いは断って欲しい、と告げると、「分かった」と頷いてくれた。

「疲れが出たのだろう。しばらくピアノから離れて、ゆっくりすると良い」

 その言葉は暖かいものだったが、同時に少しの影を落とした。

(しばらく……どのくらい許されるのかしら)

 許すも許さないもないけれど、ピアノが無くては自分が自分でいられなくなるような気がして、つきん、と胸の奥が痛む。

(だけどこのままでは、亡くなったお母様に申し訳ないわ)

 1日でも練習をしないと、取り戻すのに3日はかかってしまう、そう教えたのは母だった。彼女の教えは今もこの胸にあり、この指に少しでも宿っていれば良いと思っていた。

 だが今は、それに背いている……何とも情けないことだ、とフローリアは自嘲する他はなかった。
 ヴィオラは相変わらず、のように見えたが、何か言いたげな表情をしては押し黙るのを繰り返している。それがより責められているような気がして気付かないフリをしているが。

(向き合うこともせず、逃げるだけなんて……これでは見捨てられて当然ね)

 結局のところ、中途半端なのかもしれない。
 人付き合いも、ピアノも……何もかもが。

 とん、とん、とん

「あ……」
 無意識の内に、机を指で鍵盤に見立てて叩いていたことに気が付く。奏でた旋律には、何の意味もない。

(結局、私には……)

 認めてしまうのが癪で、フローリアは机から手を下ろした。



 そうした日々を送ること、しばし。

 バンッ!

 ドアが放たれた音が、やけに大きく響いた。夜の静寂を破ったその主は、つかつかと足早に館の中へと足を踏み入れる。

「突然の訪問、失礼する! フローリア嬢はいらっしゃるだろうか!?」

 よく通る大声に、目が完全に覚めたフローリアは手早く支度を整えた。これはただ事ではない、と足早に廊下へと出て階段を降りると、何名かの使用人、そして父もまたホールへと出ていた。

「娘はおりますが、一体何の御用でしょうか?」
「お父様」

 声をかけると、父は困惑した表情のままこちらを見た。その近くにいる青年もまた、こちらを見て口を開く。
「ああ、フローリア嬢、驚かせてしまって申し訳ない」
「は、はい。フローリア・ベルクレインでございます」

 フローリアが困惑しつつも礼をすれば、青年もまた礼をした。

「私の名は、アルベルト・シュタインヴァルトだ。簡易的な礼で大変申し訳ないが、事は一刻を争う」

 シュタインバルト公爵家といえば、慈善事業に財を惜しみなく投入することで領民からの支持が高いことで有名な家だ。そして彼、アルベルトはシュタインバルト公爵家の次男であり、いずれ家を継ぐ兄のサポートを積極的に行っており、家の名にふさわしく聡明な人格者……ということは、貴族としての知識で知っているし、夜会などで幾度か顔を合わせたこともある。

「貴方のピアノの腕が必要だ。頼む、共に来てくれないだろうか?」
「え……?」

 唐突にそう言われ、頭を下げられ、フローリアはますます困惑をするしか無かった。
 するとそれを見透かしたらしく、アルベルトは顔を上げて真っすぐにこちらを見据える。

「困惑するのは分かっている。だが、こうしている間も惜しい。何故なら」


「人命がかかっている」


「人命、が」

 瞬間、ピン、と空気が張り詰めた。
 迷っている暇などない、と直感が告げる。

「分かりました」

 しっかりと頷けば、アルベルトは少しばかり安堵の表情を浮かべ、そして引き締めて同じように頷いた。

「では、こちらへ。詳しい話は馬車でする」
「はい。……お父様、行って参ります。ヴィオラをよろしくお願いします」

 階段のところで不安そうな顔をするヴィオラに気付いたフローリアは父にそう言い残し、アルベルトの後を追いかけた。



 領地の外れにある古い教会。
 ある時壁の一部が崩れ、内部に眠っていた『もう一つの部屋』が露わになった。そこへ探検と称して潜り込んでいた子ども……名はエリオ……が閉じ込められてしまった。

 石造りの扉には、魔術紋様と奇妙な音階らしき刻印が連なっており、通報により駆け付けた警備隊にはどうしても開けることが出来なかった。さらに呼んだ魔術師が分析した結果、これは特定の旋律を正確に奏でることでのみ開く『音律鍵』だと判明する。

「この鍵は、機械のように正確に弾ける者でなければ開けることが出来ません」

 その条件に当てはまったのが、皮肉にもフローリアだけだった。

「これが音律を書き起こした楽譜だ」

 それらの説明を受けて渡された楽譜。

(これは……!)

 フローリアは息を飲んだ。

 右手主旋律はほぼ常時16分音符。左手もまた8分音符や16分音符で刻みつつ、オクターブ跳躍や和音を同テンポで正確に要求される旋律だった。
 物凄く早い旋律を奏でるが故に高い演奏技術が要求されるそれは、初見で間違えず弾くにはまず不可能。

「プレッシャーを与えるようだが、演奏できるのは一回だけ。一度でもミスをすれば、その時点で音律は消え去りただの壁と化してしまう。そうなれば……」

 言葉を濁し、苦渋の表情を浮かべるアルベルト。
 フローリアは反射的に唇を結んだ。どくどくと心臓が嫌な音をたてる。
 固く握った拳の中が、じっとりと汗ばむのが分かった。

(あれから長くピアノに触っていない……こんな私に出来るの?)

 迷いが、不安が、容赦なく心を揺さぶる。
 呼吸が浅くなりそうなのを堪え、すう、と大きく吸い込み、そして吐き出した。
 かたかたと震えそうになる指先を叱咤して、楽譜を持ち直す。

 そんなフローリアの様子を、アルベルトは気づかわしげな顔をしつつも、見守ることしか出来なかった。


 やがて馬車が到着を知らせ、扉を開ける間も惜しいとばかりに素早く降り、アルベルトに導かれるままに教会の中へ。

「フローリア・ベルクレイン嬢をお連れした!」

 彼がそう言うと、集まっていた人々が騒めいた。
 一斉に集中する視線に軽い礼だけして、「こちらへ」と案内されるがままにピアノへ。

 その少し奥にある、重厚な石造りの扉。アルベルトの言った通り、一面に刻み込まれた音階らしき刻印、そして中央にある複雑な魔術紋様が目を惹いた。それは一種の芸術作品のように精巧な美しさ、そして正確さを兼ね備えており、こんな時だというのに、ほう、と小さく吐息が零れてしまう。

「ああ、ベルクレイン様!!」

 悲痛な声に、フローリアはハッと意識を引き戻した。

「どうか、どうか……息子を、エリオを助けてください!」
「難しいお願いなのは百も承知です。俺たちに出来ることなら、何でもします。だから、どうかお願いします!」

 母親の目からは涙がぽろぽろと溢れ、父親はそんな彼女の肩を優しく抱きながらも、必死に涙を堪えているのが分かった。

「……っ」
 フローリアは少し息を吐いた。
 固く握りしめていた拳を、ふ、とほどいて頷く。

「分かりました」


「『必ず』助けます」


 しっかりとそう答えると、ざわり、と空気が騒めいた。『条件』を知っている警備隊や魔導師は、戸惑ったように、そして不安そうな顔で顔を見合わせている。

 夫婦は「お願いします」と深々と頭を下げるのにフローリアもまた頭を下げ、ピアノの前へと座った。

「調律は?」
「既に済んでおります」

 そう答えた警備隊に頷いたアルベルトは、フローリアに顔を向けた。

「では、フローリア嬢。……自分が良いと思ったタイミングで始めてくれ」

 フローリアは頷くことでそれに答え、楽譜を置いた。埋め尽くさんばかりの音符の群れに、圧倒されそうになる。

(やはり初見で間違えずに弾くことは、まず不可能……けれど)


 私なら、できる。


 しっかりと楽譜を見据え、鍵盤に指を置いた。最初の音符の鍵盤を弾くと、それに呼応して扉の刻印が淡く光った。次の音が鳴る度、順に光が灯っていく。

 ゆったりとした旋律から始まったのも束の間、一気にスピードが速くなった。鍵盤の上を滑る指は、まるで曲芸のような速さで正確に鍵盤を叩く。

 旋律が進むにつれ、光はただの点ではなく、音の余韻を引くように線となり、扉を縦横無尽に、だが音に合わせて規則正しく光り輝いた。
 その美しい光景に、人々は息をするのを忘れたかのようにただ見守ることしか出来なかった。胸の間で、あるいは額に当てて両手を組み、祈るような姿勢で。

 演奏は山場を迎え、フローリアはオクターブ跳躍を連続で、並ぶ16分音符を正確に叩いていく。
 一瞬の油断も許されない。
 隙あらば途切れそうになる意識を、必死に繋ぎとめながら。


(影で、そして表でも言われた)

 心がない、冷たい演奏。

 魂が宿らない、機械仕掛けの演奏。

(だけど今、私はこの演奏で、人を救おうとしている)

 鍵盤を、光が、照らしてくれる。
 まるで、道標のように。

 どうか。
 どうか。

(導いて……!)


 想いを込めて、最後の音を叩く。
 同時に、全ての刻印がふわり、と強く輝き……ふっ、と消えた。
 人々が驚愕と不安に息を飲んだ。

 瞬間。
 
 フォン……!

 音をたてて中央の魔術紋様が淡く輝く。

 ガチャン!
 ゴゴゴゴ……

 魔術紋様が、くるり、と回転し、重い音をたてて扉が開いた。
 差し込んだ教会内の灯りに照らし出されたのは、一人の少年。その姿を見た瞬間、人々から、わあっ、と歓声が弾けた。

「扉を固定しろ!」

 アルベルトの素早い指示を受け、警備隊と魔導師が動いて扉を固定した。、

「ああ、エリオ!」
「エリオ!!」

 夫婦が涙を流しながら駆け寄り、ぎゅうっ、とエリオを抱きしめる。

「お父さん、お母さん……! ごめんなさい、ごめんなさい!!」

 緊張の糸が切れたのか泣きじゃくるエリオを、夫婦はさらに抱きしめ、頭を撫でた。

「いいんだよ、無事で良かった……!」
「もう、危ないことはするなよ。……本当に良かった」

 そう言われ、エリオはしゃくりあげながらこくこくと頷く。
 フローリアは未だ余韻が抜けず、少々ぼんやりとしながらその光景を見つめていた。
 すると。

「フローリア嬢、我が領地の民を……エリオを助けていただき、ありがとうございます」

 アルベルトが胸に手を当て、深々と頭を下げた。

「息子を助けていただいて、ありがとうございます」
「なんとお礼を言ったらいいか……本当にありがとうございます!」

 さらに夫婦に未だ止まらない涙を零しながら礼を言われ、フローリアは徐々に意識がハッキリしていくのを感じる。

「いえ、そんな……私は、ただ……」

 そう言葉を紡ぎだそうとした、その時。

「……お姉ちゃんが、ピアノを弾いていたの?」

 エリオがそう尋ねて来たのに、思わず目を見開く。
「お前……聞こえていたのかい?」

 母親の言葉に、エリオは「うん」と頷いた。

「ドアが光って、ピアノの音が聞こえた」

 どうやら刻印は、扉の内側に音を届ける役目も担っていたらしい。

「あのお方が、ピアノを弾いてお前を助けてくれたんだよ」
「お礼を言いなさい」

 両親にそう促され、エリオは「うん!」と大きく頷いて、にこっと笑った。

「お姉ちゃん、ありがとう」


「お姉ちゃんのピアノ、すっごくきれいだった!」


 瞬間、フローリアは胸の内で、ふっと何かがほどける感覚を覚えた。
 それはじわじわと広がり、身体中を暖かく満たしていく。

 そうだ。
 何故、忘れていたのだろう。

 例え影で何と言われようと。

 自分の演奏で、笑顔になってくれる人がいる。

 それが、嬉しかったことを。

 ほろり、と暖かいものが頬を伝うのを感じた。

「お姉ちゃん……?」

 不思議そうな顔をするエリオに、フローリアは微笑む。

「貴方を笑顔にすることができて、本当に良かった」


「……ありがとう」


 パチ、パチ、パチ……

 どこからか拍手の音が響く。それは徐々に人数を増し、大きくなっていった。
 やがて割れんばかりの音がうねりとなり、教会中を満たしていく。

 歓声を含んだ大きな拍手は、止む気配もなく鳴り響いていた。
 


 あれから数日後。
 あの謎めいた部屋は現在調査中。扉は二度と閉まることがないよう、厳重に魔術と工具によって固定され、立入禁止の処置が取られている……という諸々の報告を受けた現在。

「……」

 フローリアは静かに、ピアノの前に座っていた。
 ここに座るのも久しぶりだ。随分長い間座っていなかったように感じる。
 そんなことを考えていると、静かなノックの音が聞こえた。

「どうぞ」

 答えると、そっとドアが開かれる。

「お姉様……」

 現れたヴィオラは不安そうな顔をしていた。躊躇っているのだろう、足はドアのところで止まったままだ。
 フローリアは微笑んで口を開く。

「入って」

 促すと、ヴィオラは目を伏せて頷き、部屋へと足を踏み入れた。

「ねえ、ヴィオラ」

 彼女が口を開くよりも僅かに早く、フローリアは言葉を紡ぎ出した。

「一緒に連弾しない?」

 楽譜を掲げてみせると、ヴィオラの目が見開かれる。

「覚えてる? この曲……」
「覚えてるわ」

 ヴィオラの目は今度は細められ、今にも泣き出しそうな、そんな表情を浮かべていた。

「初めてお姉様と連弾した曲だもの」

 覚えていてくれた。
 それだけでも、心が震える程に嬉しい。

 ヴィオラはそのままフローリアの隣へと座った。肩が触れ合う程の距離が、久しぶりで、何だか擽ったい。
 フローリアが低音域に手を置き、ヴィオラが高音域へと指を置く。

 最初の一音。
 互いの呼吸を探るかのように、慎重に音が重ねられる。
 ゆったりとしたテンポで曲が進むにつれ、指は迷いを失い、旋律と伴奏が寄り添うように響き渡った。

(ああ……これも忘れていたわ)


 ピアノを弾くことが、こんなにも楽しいということを。


 同じリズムを感じながら鍵盤を弾く度に、2人の音が一つになり、まるで一組の手が奏でているかのような旋律が紡ぎだされ、部屋を満たしていく。

 そして最後の音が余韻を残して消え、フローリアはヴィオラに顔を向けて微笑んだ。

「ヴィオラ」


「とても楽しかったわ。……ありがとう」


 瞬間、ヴィオラは弾かれたようにフローリアの顔を見た。

「ごめんなさい……ごめんなさいっ、お姉様!」

 その瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。

「わ、わたし、お姉様に、酷いことをして、酷いことを言ってしまって、ずっと、ずっと……!」
「うん、うん……」

 フローリアは頷きながら、ヴィオラの背中を優しく撫でた。幼い頃、ヴィオラが泣いた時はいつもこうしていたわね、と思い出しながら。

「私、くやしかったの……。お姉様の演奏を、『機械』なんて言っている人がいるのが。でも、お姉様は何でもないような顔をして、いつも笑顔で受け流して……本当は悲しいはずなのにって、だから……」

 ヴィオラはしゃくりあげながらも、何とか言葉を紡ぎだしていく。

「でも、それが酷いことを言っても良い理由になんてならないの、分かっていたの。分かっていたのに、とめられなく、て、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「ヴィオラ」

 フローリアは謝罪の言葉を繰り返すヴィオラの顔を優しくあげさせて、ハンカチで零れ落ちる涙を押さえた。

「もういいの。私が中途半端な態度をとってしまったせいで、貴方に不安と心配を抱かせてしまったのね。……私の方こそ、ごめんなさい」
「そんな、お姉様は悪くないわ! ただお姉様は」
「ええ」

 フローリアは頷いて、微笑む。


「私はピアノが大好きなだけよ」


 その言葉に、ヴィオラはまた新しい涙を零す。それを優しく拭いながら、フローリアは尋ねた。

「ヴィオラ、貴方は?」

 ヴィオラは涙が残る顔で、答える。


「産まれてから、今でもずっと大好き」


「ピアノも……お姉様のことも」


 ずっと聞きたかった言葉。
 胸を暖かいものが満たし、溢れ出すのが止められなかった。

「ありがとう、ヴィオラ。大好きよ」

 ぎゅっ、と愛しい妹の身体を抱きしめた。

「お姉様……大好き……」

 ヴィオラもまた愛しい姉を抱きしめ返す。
 長く欠けた時を取り戻すかのように、2人は長い間そうしていた。


 その後。
 元婚約者のルシアンから、改めて丁寧な謝罪を受けた。

「不誠実な態度をとり、君の名誉を傷つけてしまったこと、大変申し訳なかった」

 深々と頭を下げるルシアンに、フローリアもまた頭を下げる。

「こちらこそ、貴方に不誠実な対応をしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
「そのようなことは」
「いいえ」

 フローリアはきっぱりとそう言って、言葉を続けた。

「私は貴方に歩み寄る努力を怠りました」
「それは、私の方が」
「これ以上の議論はやめましょう。……私とルシアン様は気が合わなった。それだけです」

 それは今この状況が物語っている、と言わずとも分かったのだろう。ルシアンは目を伏せ、唇を噛みしめた。

「……ですが、約束して欲しいことがあります」
 フローリアの言葉に、ルシアンは顔を上げた。
 その瞳を真っすぐに見据え、こう告げる。

「もう二度と、心変わりをなさらないでください」


「そして……ヴィオラを大切に、幸せにしてください。必ず」


 それは、家族としての心からの願い。
 ルシアンは力強く頷いた。

「……承知した。我が家名にかけて……いや、私の心にかけて誓う」


「ヴィオラを幸せに、大切にすると」


 フローリアは微笑んで、再び頭を下げた。

「私の妹を、よろしくお願いします」
「……必ず」


 ルシアンは胸に手を当てて頭を下げ、心からの誓いを告げた。



 
「失礼いたします。こんにちは」

 教会のドアを開けると、わあっ、と子どもたちの歓声が響いた。

「ピアノのお姉ちゃん!」

 駆け寄って来る子どもたちが微笑ましくて、フローリアの頬は自然と緩んだ。

「ピアノ教えてくれるの!?」
「早く教えて!」

 そうせがむ子どもたちの中には、エリオの姿もある。

 孤児院からの手紙にお礼の言葉と共に、「子どもたちがピアノを弾きたいと言っております。教えていただくことは出来ますでしょうか?」と書かれていたのだ。
 フローリアはもちろん引き受けると返事をし、今この場所にいる。

「慌てないで。まずは音符の読み方から始めましょうね」

 そう言うと、子どもたちは「はーい!」と元気良く返事をした。
 用意された黒板に、楽譜を大きく書いた紙を貼り付ける。

「さあ、始めましょう」
「よろしくおねがいしまーす!」

 綺麗に揃った挨拶が微笑ましい。
 すると。

「……失礼する」

 少し遠慮がちにかけられた声に顔を向ければ、アルベルトだった。

「お兄ちゃん、こんにちは!」
「ああ、こんにちは」

 子どもたちの挨拶に、アルベルトは丁寧に答えた。慕われているのがよく分かるそれに、フローリアは自然と目を細める。

「まあ、シュタインバルト様。お邪魔しております」

 丁寧にカーテシーをすれば、アルベルトもまた胸に手をあてて礼をした。
 子どもたちがひそひそと「お姉ちゃん、きれいだね」「お兄ちゃんもかっこいい」と笑い合う。

「実はフローリア嬢のことは、以前からよく知っていた。名ピアニストであることも、演奏を実際に聞いたことがあるから」
「光栄ですわ」

 微笑むと、アルベルトもまた微笑んだ。

「初めて見た時から思っていた」


「ピアノを弾く君の姿は、誰よりも美しいと」


 それはまるで、触れてはならない禁忌そのものであるかのように、凛々しく、気高くて。
 まるで女神のようだ、と。

「そ、そのようなこと、初めて言われましたわ」

 フローリアは己の頬が、ふわり、と熱くなるのを感じた。

「うん! お姉ちゃんきれいだった!」
「わたしもあんな風にきれいに弾いてみたい!」

 子どもたちからもそう言われ、また頬が熱くなる。
 これからどうなるか分からないけれど。
 まずは。

「……アルベルト様も、ピアノに触れてみませんか?」

 そう提案すれば、アルベルトは微笑んで頷いてくれた。

「是非、お願いする」

 しっかりとした返事が、真っすぐな視線が擽ったい。
 それを隠して、フローリアは答えた。


「まずは、音符の読み方から始めましょう」


 最初はゆっくりと、そして確実に歩いていこう。
 もう、中途半端などと自嘲しないように。

 フローリアはしっかりと前を向き、子どもたちに、そしてアルベルトに向き直った。

(終)
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