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しおりを挟むまだ二十にもならないその娘は、遠い故郷に思いを馳せていた。
むかし過ごした草はらを、清らに流れる川づらを。
そして、無邪気なままに笑っていたあの頃を。
薄れゆく意識の中で、娘は故郷の夢を見る。
いつか戻ると思っていた。
いつか戻れると信じていた。
そんな幻の玉響の夢を、みる。
~・~・~
維新だ、開化だと騒ぎ立てるのは、政治を行う中心部のこと。
同じ国でありながら、その恩恵を受けることもなく過ごす者がいたこともまた事実。
奥山間部の集落に住まう者達には、そんな事情が耳に入ってきたところで己の暮らしが楽になることもなく、わずかばかりの田畑を耕し家族の命を支えるだけで精一杯だった。
その地は『栗山』と町の者達には呼ばれていた。
良質な栗が実る山を背後に、十もない家が互いを労わり慎ましく生きていた。
畑仕事とわずかばかりの現金収入のために、暇を見ては細工物を作る。
年に数度、行商人が町で売られている商品を背負い、集落を訪れる。
畑仕事に使う農工具や、陶器の椀類、織布や反物などを持ち込む。
他にも煙草や日持ちのする甘味、調味料などを売り歩く。
そして、空になった背にはこの地で取れた山の物や工作品、どぶろくなどを詰めて持ち帰る。物々交換の場合もあるが、それらを売り小銭を稼ぐのだ。
娯楽のないこの地では、意味もなく子供が産まれる。
だが、医者もいないこの山奥で頼れるのは山で取れた薬草のみであり、それにすがりつくしかない命はとても儚い。
夏に生まれた子が冬を越せる確率は低く、生き延びられたとして、その食い扶持を支えることもままならない。
そんな暮らしの中で、長男以下の子どもはある程度の年齢になると町に出て仕事を探すほかはない。
その斡旋もまた、行商人の役目。行く先々の家で子供を見ては目星をつける。
力のある者には肉体労働を。利発な子には商家を。
そして見目の良い娘は……。
冬の間、雪で閉ざされた山間の地にも、ようやく春が訪れた。
それを待っていたかのように背に荷物を背負った行商人が三人、列を作り栗山の里に姿を現した。
一番年配の男が一行の親方であり、他の二人は見習いの荷物持ちだ。
一人は口の良く回る愛想の良い男。そしてもう一人は寡黙だがガタイも良く、腕っぷしの強そうな男だ。
山道は何が起こるかわからない。盗賊も出る。獣も出る。そんな時に用心棒代わりのための男である。
行商人達はそれぞれ分かれ、各々の家に出向くこともあれば、『長』と呼ばれる者の家で一旦店を広げ商いをすることもある。
だがこの春、行商人の親方を呼ぶ家があった。
「信さん」と呼ばれるその親方を呼ぶのは、何か頼みごとをする時だ。
この男を呼んだのは『牛飼い』と呼ばれる家だった。
今はもう死に耐えてしまったが、昔には牛を飼い、田起こしに牛を貸し出していた家だったことからこう呼ばれている。
親方は大体の見当をつけ、他の者とは別れ牛飼いの家に向かった。
牛飼いの家の前では主人が鍬の手入れをしていた。
雪が解ければ田植えの準備が始まる。農具の手入れは男の仕事だ。
「やあ、牛飼い。長の家に行ったら話がある、言われてな。今回はおめぇんとこで世話になろうと思うが、ええか?」
「ああ、信さん。よう来なさった。なんもねえが、ゆっくりしていってくれ」
牛飼いの主人は手入れの手を止め、家の中を指す。何年にも渡り培った信頼がある。信は何の躊躇もなく家の中に入って行った。
引戸を開けるとそこには土間が広がり、右手に釜戸と水瓶を置いた煮炊き場。左手には農道具が置いてあった。
目の前の板敷の間には囲炉裏を前に、女房と長女が藁を編んでいた。
「ああ、信さん。よう起こしなさったね。疲れたろう? 湯でも飲むかね?」
「ああ、すまんな。じゃあ、一杯もらえるか?」
信の言葉を受け、長女のユキが囲炉裏にかけられていた鉄瓶から椀に湯を注ぎ、それを彼に差し出した。
「ありがとうな」
信は板の間に背負っていた荷物を下ろすと、湯の入った椀を受け取った。それを持ち、家の外で仕事をする主人のもとへと向かった。
信の姿を見ると主人はゆっくりと立ち上がり、家の裏手へと回る。
家人に聞かれたくない話しがあるのだろうと、信は主人の後についていく。
湧水が流れるそこには切株がいくつか残り、主人はその一つに腰を下ろした。
信もまた主人の脇の切り株に腰を下ろすと、家から持ち出した椀に口をつけひと口湯を飲み込んだ。
「旨いな」
なんとはなしに口からこぼれた言葉が、二人の間に流れていく。
「信さん。うちの上を見たか?」
「ああ、ひと冬で大人になったな。あれで今年いくつになる?」
「この冬で十四になった」
「なるほど、良い頃合いだな。で、どうするね? 嫁にくれるか?
それとも……」
「うちは食い扶持が多いで、金はあっても困らんからのぉ」
「ほう、なら売りに出すんか? おめえさんとこの次男を丁稚に出して、上を嫁にくれるだけでも食い扶持は減るだろう?」
「いや。実はうちのかかがまた腹がでこうなってしもて。畑仕事の手を無くすわけにはいかんのじゃ」
「ほう。そいつはおめでとうさん。何人じゃ。五人目か?」
「死んだ子入れれば、六人じゃな」
「そうか。なら、早い方が良いんかのぉ? 雪が降る前に連れて行くんが良いんやろうか?」
「そうしてもろたら、有難いんじゃが」
「わかった。下に降りたら女衒に口聞いたるわ。盆明けに来るときに連れてくけ、それでいいか?」
「おねげえします」
「なぁに、寂しくてつれぇのは最初だけだ。若いのはすぐに慣れちまう。
真面目にお勤めすればすぐに抜けられる。そうしたらここに戻るのもできるし、嫁に行くこともできる。上手く行くさ」
「そうだな、皆の為だ。あいつも良い暮らしが出来る。これでいいんだ」
牛飼いの主人は、己に言い聞かせるように繰り返しつぶやく。
「これでいい」「これでいいんだ」と。
こんな暮らしの中で産まれる子を、親は己の身を守るために金に換える。
山奥の辺鄙な地で暮らすよりも、よほど面白い暮らしができると聞かされていた。旨い物を腹いっぱい食べ、綺麗な衣服を身に纏い、日々の暮らしに追われる心配の無い生活だと信じ切って。
腹を痛めて産んだ子を金に換える度に、身請け人のささやきに耳を傾ける。
それが正しいのだと、それこそが子の為なのだと云われ、願われ子を手放す。
子を金に換えるわが身の心をせめて、少しでも軽くするために。
親は悪魔のささやきを信じていく。
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