ユキノホタル ~名もなき遊女と芸者のものがたり~

蒼あかり

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「和歌」

 忘れるはずのない声に驚き、覆いかぶさるように身を包むその姿を見上げれば、それは昨日遠目に見た小太郎だった。
 
「小太郎」

 小太郎の腕の中からもがき腕を伸ばすと、その頬に両手を添えまじまじと顔を見つめる。

「痩せたわ」
「ああ。色々と駆けずり回っていたからな。でも大丈夫だ、心配ない」

 初めて会い、この一河に連れて来られたあの頃よりも頬はこけ、随分と顔つきも変わったようだ。こんな仕事をしていれば、自然と顔つきも険しくなっていく。それは仕方がないと思う。でも、和歌を抱いたあの頃の熱の籠った瞳はそのままで、今もじっと彼女の瞳を見つめている。

「私のことなんて忘れたと思っていた」
「そんなわけねえだろう。おめえほどの女を忘れられるはずがねえ。ここに来るたび、会えるんじゃねえかとうろうろしていたが、結局会えず仕舞いだった。
昨日は金を払って人を雇った。俺は一鶴楼には面が割れてるからな。
でも、ちゃんと伝わって良かった」

 小太郎は自分の頬に置かれた和歌の手を上から握った。
 少し冷たく、出会った頃と同じなめらかで艶やかな指。

「綺麗になったな……。
 旦那が付いたと聞いてる。可愛がってもらってるんだな」

 和歌の手を握り自分の頬から下ろすと、小太郎は寂しそうに微笑んだ。
 勘違いをしていることを悟った和歌は、

「あの人は違うの。あの人には指一本触れられていないわ。
 今も私を知っているのは正太郎。あなただけよ」

 潤んだ瞳で和歌は目の前の男を見つめる。和歌の手を握る小太郎の手に力が入るのがわかった。

「そんな、わけ……。そんなことあるはずねえよ」
「本当よ。あの人は私の母を想っているの。亡くなった今でも、ずっと。
 あの人の中には母しか映っていないわ。私は、そう。代わりにもなれないの。
 私にはあなただけ。あなただけが私を見てくれる。
 あなただけが私を女にするの。
 小太郎。小太郎」

 和歌は解かれた小太郎の手から自分の手を引き抜くと、彼の首に両腕を回した。初めて会ったあの夜。汚い安宿で小太郎を誘った時と同じように、彼の首に力を込めてぶら下がる様に抱きついた。

「おめえは、まったく。俺もおめえだけしか欲しくねえ。おめえだけだ」

 小太郎はにやりと顔をゆがめると、和歌の頬を痛いほどに両手で包み、食いつくような接吻をした。
 長い間お互いの存在を確認すらできず、奥底に封印していた想いがあふれ出してくる。互いの熱を抑えるタガが外れたように、二人は夢中で身体を絡ませた。
 人の動きが少ないだけで、決してないわけではない。それなのに、何も考えられなくなっていた二人は、ただ無我夢中でお互いを求めあった。
 和歌のゆるく結い上げ、簪で止めただけの髪に小太郎は指を入れ解く。
 はらりと落ちた長い黒髪が、彼女の真珠のように白く美しい胸元を隠す。
自分しか知らない、誰も触れていない美しいその真珠を、男は黒髪ごと愛するのだった。無骨な男の手は繊細に、愛しそうに優しく女に自分を教え込む。
二度と忘れぬように、忘れられぬように。この体無しでは生きてはいけないと思わせるほどに、愛しくその身体を翻弄する。


 二年という月日が互いを変えて来た。想いも体も、若い二人が変わるには十分すぎる時間。それでもお互いを想う気持ちだけは変わらなかった。
 どんなに周りが変わっても、この想いだけは変わらないと、そう二人は確認しあう。
 忘れようと動きを止めていた心臓が、再び激しく鼓動を立てて動き出す。
 動き始めたそれは、止め方を忘れてしまったように激しく求めあう。
 それなのに、愛する者にも時間は平等に過ぎていく。あまり遅くなっては不審がられてしまうと、小太郎が和歌の手を解く。

「また会いに来る。おめえの身体がうずく前にな」
「もう! でも、約束よ。本当に来てね、待ってるから」

 小太郎は落ちた簪を拾うと自分の着物で汚れをふき取る。そして和歌の髪をくるりとねじると簪で止めた。

「もう、俺がおめえを離せねえんだ。待ってろ、必ず会いに来る」

 もう一度その腕に和歌を優しく包み込むと、

「おめえが先に戻れ。ここで見ていてやるから」

 そう言って和歌の背を押した。和歌自身も早く戻らなければとの思いはあった。後ろ髪を引かれる思いで何度も何度も振り返り、腕を掴まれ引き込まれた角を曲がって行った。
 太陽に照らされ眩しいその姿を、小太郎は優しく見送るのだった。



~・~・~



 時、同じころ。

 いつものように皆よりも早く起きたユキは、井戸で自らの腰巻を洗っていた。
 腰巻も襦袢も、遊女自らが洗う必要はない。以前のユキがそうだったように、下働きの人間がすべてやってくれるのだから。
それでも、働かずにはいられない性分というものは、どんなに立場を変えようと生涯変わらないものなのかもしれない。
 
「ユキ。また洗濯してたんか? そんなもん下働きに任せればいいんだ。おめえは手を荒らしたらいかん」

 背中から声をかけられ、ユキは洗濯の手を止めると後ろを振り返った。

「あ、佐平。おはよう、今日も良い天気だね」
「おい、おめえ。人の話し聞いてたか? 手が荒れるから洗濯はやめろって」

「うん、わかってる。でも、自分に出来る事はしたいから。それに、今日は特に目が冴えちゃって眠れなくて」
「なんだ、悪い夢でも見たんか?」

「ううん、反対。良い夢だった、懐かしい夢。里の夢を見たの。
 お父ちゃんもお母ちゃんも出て来て。うちが里を出る時お母ちゃんのお腹にいた子を抱っこしてて、皆で笑ってた。元気そうだった」
「そうか、無事に産まれているといいな。大丈夫だ」

「うん、そうだね。みんな元気だと思う……」
「なんだ、まだなんかあるのか?」

「ん? うん。皆いるのにね、うちだけいなかったんだ。
 最初はみんな元気そうで良かったって。お腹の子も元気に産まれてきて良かったって思った。でも、目が覚めたらうちが居ないことに気が付いて。皆笑ってるのに、その中にうちは居ないの。うちだけが……。
 誰もうちの事なんか忘れたみたいに笑ってて……」

 洗濯をしていた手が止まり、俯くユキの頬から涙がつたう。それがポトリと洗濯桶に落ちて消えた。
 本当の名も知らぬ男の汗も欲も吸いつくしたその腰巻を、灰汁で薄めた水で洗い清めても、真の汚れが落ちるとは思えない。
 清らかで透明な美しいユキの涙をもってしても、その薄汚く汚れた闇を薄めることは出来そうにない。

「ふぅ……」

 込み上げる涙を止めることなどできずに、ユキは嗚咽を堪え肩を震わせた。
 後ろでそれを見ていた佐平もしゃがみ込み、ユキの背中を優しく包み込んだ。

「ひとりで泣くな。泣きたくなったらいつでも俺を呼べばいい。
 おめえの涙くらい拭ってやるから」

 ユキは背中越しに伝わる佐平の暖かさで心が救われた気がした。
 ここに居る者は皆、何かしらの傷を負っている。親に売られ、仲間に見放され捨てられ流れ着いたのがこの地だ。
 もう、戻ることなど無いと思っても、それでも求めてしまう。
 ユキもまた生まれたばかりの弟妹と同じように、親の愛を求めてしまう子供のなのだ。
 もう家族と呼んではくれないかもしれない者達を思い、ユキは佐平の腕に包まれ名を呼んだ


「佐平さん」

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