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【後日談1】シェフズテーブルで祝福を
1.ソムリエがほしい
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広島から蒼の両親と姉がやってくる日に備えて、父が準備を始めている。
その父が、ある提案をしてきた。
「シェフズテーブルにしようと思っているんだ」
「シェフズテーブル!? 本気ですか!」
「お父さん、なに、それ」
蒼は驚き、葉子はどのようなことかわからずに聞き返していた。
まだフレンチのことはキャリア修行中の葉子に、給仕長の蒼が教えてくれる。
「シェフの顔が見える厨房で、食事を提供するもてなし方なんだ。日本では滅多にないかな。でも本場フランスでは、超特等席とされているんだ」
「厨房で!? そこにテーブルを持ち込んでってことなの?」
「そう。だからシェフが直接もてなすテーブルということ」
すっごいスペシャリティ!! と、葉子は笑顔になる。
「素敵! すっごく距離が近くなるし、お父さんも厨房とホールを行ったり来たりしなくていいもんね」
「そういうことだ、葉子。でもな、ひとりでは限界があるから、スー・シェフとパティシエにも入ってもらうことになるけど、いいかな」
「それはもちろん! うわー、ありがたですぅ。広島実家の家族のために、十和田シェフ直々にそこまで……。泣けてきた~」
ほんとうに涙を浮かべていたので、葉子よりも父がびっくりしている。
「感激しすぎだろ。やることは毎日やっていることと変わらないんだから。あ、でも、ご両親とお姉さんのための特別メニューだけどな」
「それって、俺も食べられるんですよね~。わー、めっちゃ感激ぃー。ここの賄いもうまいけど、毎日シェフのお料理素敵で、俺も食べたい~ってよく思ってたんでっ」
「だから、感激しすぎ。泣くなって」
そういえば、レストランの従業員である自分たちはシェフのフルコースなんて滅多に食べられないんだったと葉子も改めて思った。
なのにお客様たちは『厨房の賄い食事』のほうが特別感があるというから葉子は不思議に思う。
娘の自分もお父さんのシェフとしての渾身の料理を食べられるんだと、葉子もとても楽しみにしている。
その日の仕事も終わって、葉子はロッカールームで着替えて私服になる。
女子ロッカールームを使うのは葉子だけだった。しかも、最近作ってもらえた。それまでは実家で着替えていたからだ。
ロッカールームを出て、葉子は給仕長室を覗く。
「蒼君、着替えたよ。もう帰れそう? お仕事残っているなら実家で待っているけど」
「いや、待っていたよ。帰ろう」
業務用のパソコンを見ていた蒼が画面を閉じて、シャットダウンの準備を始めた。
四月末、まだ夜間は肌寒い。そんな中、蒼の車に一緒に乗り込む。
この店は昼はサンドウィッチやおにぎりなどの軽食が準備されていて、夜も賄いを食べることができる。食べないで帰る従業員もいるが、葉子と蒼はオーナーシェフの家族なので店で食べることがほとんど。
だから帰宅しても夕食をつくることはほとんどない。
小豆島から帰ってきて、蒼と婚約をした。
ちょっと前に蒼が婚約指輪を準備してくれていて、葉子の指にはめてくれた。
こういうところ、抜かりない。女の子が喜ぶことは外さない。
でも葉子は仕事柄それをつけっぱなしにできないので、大事にしまっている。本当は嬉しかった。指輪に夢を持っていたわけでもなく、特に好みもなかったが、蒼が選んでくれたものは、とても素敵なものだった。
そして、いまは蒼の住まいで葉子は生活をするようになっていた。
ときどき実家に帰って過ごすこともある。だけれど、もう……。蒼と一緒にいないと落ち着かないようになってしまっていた。
レストランが22時に閉店、そのあと賄いを食べて、片付けをして帰宅する。
ゆったりとふたりで眠る支度をして、ちょっとだけお酒を嗜むかホットドリンクを楽しんでお喋りをする。
それが葉子の日常になりつつある。
「今日の賄いもうまかったな。俺、作り方教わってきたんだ。今度の休みの夕食に試してみていいかな」
「うん。私も手伝う」
「よーし、買い物もしちゃおうな」
湖畔の夜道を蒼の車が走る。すぐに彼の自宅に到着する。そんなに離れていない一軒家を蒼は借りていた。
築年数は経っているが、こぢんまりとしていても二階建てだった。
なんでアパートじゃなくて、冬は雪かきも必要な一戸建てと思ったが、こういうところも彼の『こだわり』。
キッチンがとてもアンティーク調で素敵で、使い勝手がよさそうだったから。なのだそうだ。
つまり、間取りとキッチンを重点に見て、なおかつ『ポルシェがしまえるシャッター付きのガレージ有り』で、湖畔周辺にある家だったからとのこと。
しかも一階がガレージと物置になっていて、住居は二階三階という北国のつくりで、玄関の雪かきはほぼしなくてよいというのも気に入ったらしい。
ポルシェはなくなったので、いま乗っているSUV車がガレージに入り、キッチンは前の住人だっただろ方がそうしたのか、綺麗なガラスタイルのモザイクがお洒落で、蒼がそこで給仕の勉強を怠らない世界が垣間見えるものを揃えていた。食器にアルコールに調味料。食の世界で生きてきた男が、メートル・ドテルになるまでに通ってきた痕跡を葉子はそこで見たのだ。
「到着っ。さあ風呂にはいってゆっくりしよう。あー、やっとビールが飲めますよ~♬」
「今日もビールがおいしそう~♬だよね」
「葉子ちゃんは? 今日はなににする。ちょっとカクテルでも試してみますか」
「シャーリーテンプルがいいな」
「お、ノンアルなのに、最近の葉子ちゃんのお気に入りだね。任せて~、蒼君が作ってあーげるー」
またいつもの調子の良い声を出したので、葉子も笑いながら助手席を降りた。
彼も運転席から降りてくる。ガレージを出ようとしたそこで、背が高い彼に手を掴まれ、強引にぎゅっと胸の中に引き寄せられる。
「やっと……、葉子に触れた。やっと、葉子ちゃんの匂い」
そんなときになって……。ダラシーノでもない、給仕長の篠田でもない、蒼くんでもない……大人の『蒼』の声になっている。
だからこそ、こうして帰宅すると、蒼はうんと触れようとしてくる。
葉子も恋しいから、彼が触れてきたら、あっという間に溶けていく。
「うん。私も、蒼くんの匂い、やっと。お疲れ様。一緒にお風呂入ろう」
「わー、葉子ちゃんから言うと、えっちだなあっ」
「顔、にやにやしすぎっ。おじさんになってるよ。ダラシーノになってる」
「ダラシーノ=おじさんにするのはやめてっ。俺の大事なハンドルネームなんだから!」
せっかく愛しあう男女のムードになったのに、最後に二人で抱きあいながらも『あはは』と笑っている。
いつもこんなかんじだった。
最後は手を繋いで、二階にある玄関まで一緒に向かう。
レストランでは、給仕長の篠田と、セルヴーズの十和田葉子として割り切っていて、どんなに軽い調子の明るさをふりまいていても、蒼は決して葉子に『男』として触れようとはしない。恋人だから、婚約者だから、影でちょっとだけ――なんていうことも決してやらない。徹底していた。
彼女の父親が目の前にいるのもあると思うが、これからその父親と娘と『一生』働いていくことになるから、今まで以上にケジメを徹底しているのだ。父がさすが篠田だと感心をしているし、葉子もきちんと従っている。周りの従業員も、給仕長とシェフの娘が婚約をしたからとて、特に様子を変えなかった。それは蒼からキッパリとした空気を保っていたからだと思う。
普段、どんなにふざけても、いざというときに男の顔を見せる蒼のそんなところを葉子は愛している。
頼もしい給仕長の姿はこれから、シェフである父と、その娘である葉子と、末永くともに働きたいと思ってくれているからこそだった。
冷たい横顔で『十和田さん』と呼ばれ、給仕長として彼が指示をする声も好きだった。
その時に葉子は、また重ねて思い出している。
給仕長と気を引き締め背筋を伸ばして、見ているのはお客様のことだけ。指先まで神経を尖らせ、柔らかに微笑む。あの日々を思い出す。桐生給仕長のそばでともに働いていた時の誇らしさを、いまは、夫になる篠田給仕長と感じている。
この『誇り』を、二人の尊敬する男を胸に、葉子は邁進する。セルヴーズとして。
私の財産。桐生秀星が生きていけるように遺してくれた仕事だ。その仕事を磨き上げようとそばにいてくれる蒼と生きていく。
❁ ❁ ❁
蒼の手にあるレモンは、季節外れだが広島から送られてきた瀬戸内産のレモン。
彼が器用に皮をくるくるっと螺旋になるようにナイフで剥いている。
「ギャルソンを一名、採用するように、矢嶋社長に言われているんだ」
「そうなんだ。矢嶋シャンテ系列になってから、お客様増えたもんね」
やり手の矢嶋社長が、北海道旅行プランの中に『函館旅行・湖畔でくつろぐ地元フレンチの夜』という企画を売り込みしてくれたので、定期的に観光客の来店が見込めるようになっていた。
その分、テーブルは毎晩予約満席状態で、給仕が足りなくなっているのも問題として浮上。
今度はそこの補強に、きちんと目を付けてくれていたのも、さすが矢嶋社長だと葉子は唸る。
「一人増えるわけだけど、そこでだ。俺がメートル・ドテルと呼ばれるのと同様に、葉子ちゃんや神楽君、江藤君は、コミ・ド・ラン、つまり補助的な仕事をするギャルソンにセルヴースになるわけだけど、その上で指示を出すのが――」
「シェフ・ド・ラン、だよね」
葉子も母からもらったお気に入りのバカラのグラスをだして、蒼の手元に置く。
「そう、そのシェフ・ド・ランは、コミ・ド・ランに指示をだす立場で、なおかつ、メートル・ドテルの補佐ということになる。グランメゾンになるとその役割をはっきりとわけて統率、サービス提供が円滑になるよう組織的になっていく。でも、小さなフレンチレストランでは人手が限られているし、役割も兼任が多い」
いつもの手際でテキパキとカクテルを作ってくれているのに、顔はメートル・ドテルになっている。
なにが言いたいのか、葉子も黙って耳を傾ける。
「そろそろ、フレンチ十和田でも、メートル・ドテル以外の役割を持つギャルソンを置きたいと思うんだ」
葉子はハッとする。新人がひとり増えることで、同僚の神楽君と江藤君との間に役割の差が出てくることになるからだ。
「ごめん、葉子ちゃん。神楽君をシェフ・ド・ランに任命しようと思っているんだ」
「そ、そうなんだ……」
「そんな顔しないでくれるかな。まだ話は終わっていないよ」
神楽君は葉子より後輩なので、キャリアが先に認められたのかと一瞬落ち込んだのさえ、蒼には見抜かれる。
「わかっているよ。キャリアも仕事の出来具合も葉子ちゃんが先輩で実力もあるよ。秀星さんと出会ってから六年、指導を受けていたのは三年。あの人だからこそ、きちんと仕込んでいると俺もすぐにわかった。だから、俺が来てからも教えやすかった。でもね、葉子ちゃん。葉子ちゃんは、シェフの娘なんだよね。あの店にお父さんシェフがいる限りは、そこで働くつもりなんでしょ」
「もちろん。できれば……。でもいまはもう矢嶋シャンテの社員になっちゃったから、矢嶋さんが異動してと言い出したら、そうしなくちゃいけないと思ってる……」
「大丈夫。いまのところは、フレンチ十和田は神戸とは離れた支店のようになっていて、十和田家で維持してほしい方針をとっているから。だからこそ、葉子ちゃんにお願い――」
蒼の手元では、レモンの果汁を搾っている。
大きな男の手が力を込めながら、同時に葉子に伝えてくる。
「葉子ちゃん。シェフ・ド・ランよりも、ソムリエになってほしいんだよね」
その言葉に、葉子は一時硬直する。
その父が、ある提案をしてきた。
「シェフズテーブルにしようと思っているんだ」
「シェフズテーブル!? 本気ですか!」
「お父さん、なに、それ」
蒼は驚き、葉子はどのようなことかわからずに聞き返していた。
まだフレンチのことはキャリア修行中の葉子に、給仕長の蒼が教えてくれる。
「シェフの顔が見える厨房で、食事を提供するもてなし方なんだ。日本では滅多にないかな。でも本場フランスでは、超特等席とされているんだ」
「厨房で!? そこにテーブルを持ち込んでってことなの?」
「そう。だからシェフが直接もてなすテーブルということ」
すっごいスペシャリティ!! と、葉子は笑顔になる。
「素敵! すっごく距離が近くなるし、お父さんも厨房とホールを行ったり来たりしなくていいもんね」
「そういうことだ、葉子。でもな、ひとりでは限界があるから、スー・シェフとパティシエにも入ってもらうことになるけど、いいかな」
「それはもちろん! うわー、ありがたですぅ。広島実家の家族のために、十和田シェフ直々にそこまで……。泣けてきた~」
ほんとうに涙を浮かべていたので、葉子よりも父がびっくりしている。
「感激しすぎだろ。やることは毎日やっていることと変わらないんだから。あ、でも、ご両親とお姉さんのための特別メニューだけどな」
「それって、俺も食べられるんですよね~。わー、めっちゃ感激ぃー。ここの賄いもうまいけど、毎日シェフのお料理素敵で、俺も食べたい~ってよく思ってたんでっ」
「だから、感激しすぎ。泣くなって」
そういえば、レストランの従業員である自分たちはシェフのフルコースなんて滅多に食べられないんだったと葉子も改めて思った。
なのにお客様たちは『厨房の賄い食事』のほうが特別感があるというから葉子は不思議に思う。
娘の自分もお父さんのシェフとしての渾身の料理を食べられるんだと、葉子もとても楽しみにしている。
その日の仕事も終わって、葉子はロッカールームで着替えて私服になる。
女子ロッカールームを使うのは葉子だけだった。しかも、最近作ってもらえた。それまでは実家で着替えていたからだ。
ロッカールームを出て、葉子は給仕長室を覗く。
「蒼君、着替えたよ。もう帰れそう? お仕事残っているなら実家で待っているけど」
「いや、待っていたよ。帰ろう」
業務用のパソコンを見ていた蒼が画面を閉じて、シャットダウンの準備を始めた。
四月末、まだ夜間は肌寒い。そんな中、蒼の車に一緒に乗り込む。
この店は昼はサンドウィッチやおにぎりなどの軽食が準備されていて、夜も賄いを食べることができる。食べないで帰る従業員もいるが、葉子と蒼はオーナーシェフの家族なので店で食べることがほとんど。
だから帰宅しても夕食をつくることはほとんどない。
小豆島から帰ってきて、蒼と婚約をした。
ちょっと前に蒼が婚約指輪を準備してくれていて、葉子の指にはめてくれた。
こういうところ、抜かりない。女の子が喜ぶことは外さない。
でも葉子は仕事柄それをつけっぱなしにできないので、大事にしまっている。本当は嬉しかった。指輪に夢を持っていたわけでもなく、特に好みもなかったが、蒼が選んでくれたものは、とても素敵なものだった。
そして、いまは蒼の住まいで葉子は生活をするようになっていた。
ときどき実家に帰って過ごすこともある。だけれど、もう……。蒼と一緒にいないと落ち着かないようになってしまっていた。
レストランが22時に閉店、そのあと賄いを食べて、片付けをして帰宅する。
ゆったりとふたりで眠る支度をして、ちょっとだけお酒を嗜むかホットドリンクを楽しんでお喋りをする。
それが葉子の日常になりつつある。
「今日の賄いもうまかったな。俺、作り方教わってきたんだ。今度の休みの夕食に試してみていいかな」
「うん。私も手伝う」
「よーし、買い物もしちゃおうな」
湖畔の夜道を蒼の車が走る。すぐに彼の自宅に到着する。そんなに離れていない一軒家を蒼は借りていた。
築年数は経っているが、こぢんまりとしていても二階建てだった。
なんでアパートじゃなくて、冬は雪かきも必要な一戸建てと思ったが、こういうところも彼の『こだわり』。
キッチンがとてもアンティーク調で素敵で、使い勝手がよさそうだったから。なのだそうだ。
つまり、間取りとキッチンを重点に見て、なおかつ『ポルシェがしまえるシャッター付きのガレージ有り』で、湖畔周辺にある家だったからとのこと。
しかも一階がガレージと物置になっていて、住居は二階三階という北国のつくりで、玄関の雪かきはほぼしなくてよいというのも気に入ったらしい。
ポルシェはなくなったので、いま乗っているSUV車がガレージに入り、キッチンは前の住人だっただろ方がそうしたのか、綺麗なガラスタイルのモザイクがお洒落で、蒼がそこで給仕の勉強を怠らない世界が垣間見えるものを揃えていた。食器にアルコールに調味料。食の世界で生きてきた男が、メートル・ドテルになるまでに通ってきた痕跡を葉子はそこで見たのだ。
「到着っ。さあ風呂にはいってゆっくりしよう。あー、やっとビールが飲めますよ~♬」
「今日もビールがおいしそう~♬だよね」
「葉子ちゃんは? 今日はなににする。ちょっとカクテルでも試してみますか」
「シャーリーテンプルがいいな」
「お、ノンアルなのに、最近の葉子ちゃんのお気に入りだね。任せて~、蒼君が作ってあーげるー」
またいつもの調子の良い声を出したので、葉子も笑いながら助手席を降りた。
彼も運転席から降りてくる。ガレージを出ようとしたそこで、背が高い彼に手を掴まれ、強引にぎゅっと胸の中に引き寄せられる。
「やっと……、葉子に触れた。やっと、葉子ちゃんの匂い」
そんなときになって……。ダラシーノでもない、給仕長の篠田でもない、蒼くんでもない……大人の『蒼』の声になっている。
だからこそ、こうして帰宅すると、蒼はうんと触れようとしてくる。
葉子も恋しいから、彼が触れてきたら、あっという間に溶けていく。
「うん。私も、蒼くんの匂い、やっと。お疲れ様。一緒にお風呂入ろう」
「わー、葉子ちゃんから言うと、えっちだなあっ」
「顔、にやにやしすぎっ。おじさんになってるよ。ダラシーノになってる」
「ダラシーノ=おじさんにするのはやめてっ。俺の大事なハンドルネームなんだから!」
せっかく愛しあう男女のムードになったのに、最後に二人で抱きあいながらも『あはは』と笑っている。
いつもこんなかんじだった。
最後は手を繋いで、二階にある玄関まで一緒に向かう。
レストランでは、給仕長の篠田と、セルヴーズの十和田葉子として割り切っていて、どんなに軽い調子の明るさをふりまいていても、蒼は決して葉子に『男』として触れようとはしない。恋人だから、婚約者だから、影でちょっとだけ――なんていうことも決してやらない。徹底していた。
彼女の父親が目の前にいるのもあると思うが、これからその父親と娘と『一生』働いていくことになるから、今まで以上にケジメを徹底しているのだ。父がさすが篠田だと感心をしているし、葉子もきちんと従っている。周りの従業員も、給仕長とシェフの娘が婚約をしたからとて、特に様子を変えなかった。それは蒼からキッパリとした空気を保っていたからだと思う。
普段、どんなにふざけても、いざというときに男の顔を見せる蒼のそんなところを葉子は愛している。
頼もしい給仕長の姿はこれから、シェフである父と、その娘である葉子と、末永くともに働きたいと思ってくれているからこそだった。
冷たい横顔で『十和田さん』と呼ばれ、給仕長として彼が指示をする声も好きだった。
その時に葉子は、また重ねて思い出している。
給仕長と気を引き締め背筋を伸ばして、見ているのはお客様のことだけ。指先まで神経を尖らせ、柔らかに微笑む。あの日々を思い出す。桐生給仕長のそばでともに働いていた時の誇らしさを、いまは、夫になる篠田給仕長と感じている。
この『誇り』を、二人の尊敬する男を胸に、葉子は邁進する。セルヴーズとして。
私の財産。桐生秀星が生きていけるように遺してくれた仕事だ。その仕事を磨き上げようとそばにいてくれる蒼と生きていく。
❁ ❁ ❁
蒼の手にあるレモンは、季節外れだが広島から送られてきた瀬戸内産のレモン。
彼が器用に皮をくるくるっと螺旋になるようにナイフで剥いている。
「ギャルソンを一名、採用するように、矢嶋社長に言われているんだ」
「そうなんだ。矢嶋シャンテ系列になってから、お客様増えたもんね」
やり手の矢嶋社長が、北海道旅行プランの中に『函館旅行・湖畔でくつろぐ地元フレンチの夜』という企画を売り込みしてくれたので、定期的に観光客の来店が見込めるようになっていた。
その分、テーブルは毎晩予約満席状態で、給仕が足りなくなっているのも問題として浮上。
今度はそこの補強に、きちんと目を付けてくれていたのも、さすが矢嶋社長だと葉子は唸る。
「一人増えるわけだけど、そこでだ。俺がメートル・ドテルと呼ばれるのと同様に、葉子ちゃんや神楽君、江藤君は、コミ・ド・ラン、つまり補助的な仕事をするギャルソンにセルヴースになるわけだけど、その上で指示を出すのが――」
「シェフ・ド・ラン、だよね」
葉子も母からもらったお気に入りのバカラのグラスをだして、蒼の手元に置く。
「そう、そのシェフ・ド・ランは、コミ・ド・ランに指示をだす立場で、なおかつ、メートル・ドテルの補佐ということになる。グランメゾンになるとその役割をはっきりとわけて統率、サービス提供が円滑になるよう組織的になっていく。でも、小さなフレンチレストランでは人手が限られているし、役割も兼任が多い」
いつもの手際でテキパキとカクテルを作ってくれているのに、顔はメートル・ドテルになっている。
なにが言いたいのか、葉子も黙って耳を傾ける。
「そろそろ、フレンチ十和田でも、メートル・ドテル以外の役割を持つギャルソンを置きたいと思うんだ」
葉子はハッとする。新人がひとり増えることで、同僚の神楽君と江藤君との間に役割の差が出てくることになるからだ。
「ごめん、葉子ちゃん。神楽君をシェフ・ド・ランに任命しようと思っているんだ」
「そ、そうなんだ……」
「そんな顔しないでくれるかな。まだ話は終わっていないよ」
神楽君は葉子より後輩なので、キャリアが先に認められたのかと一瞬落ち込んだのさえ、蒼には見抜かれる。
「わかっているよ。キャリアも仕事の出来具合も葉子ちゃんが先輩で実力もあるよ。秀星さんと出会ってから六年、指導を受けていたのは三年。あの人だからこそ、きちんと仕込んでいると俺もすぐにわかった。だから、俺が来てからも教えやすかった。でもね、葉子ちゃん。葉子ちゃんは、シェフの娘なんだよね。あの店にお父さんシェフがいる限りは、そこで働くつもりなんでしょ」
「もちろん。できれば……。でもいまはもう矢嶋シャンテの社員になっちゃったから、矢嶋さんが異動してと言い出したら、そうしなくちゃいけないと思ってる……」
「大丈夫。いまのところは、フレンチ十和田は神戸とは離れた支店のようになっていて、十和田家で維持してほしい方針をとっているから。だからこそ、葉子ちゃんにお願い――」
蒼の手元では、レモンの果汁を搾っている。
大きな男の手が力を込めながら、同時に葉子に伝えてくる。
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