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【後日談2】トロワ・メートル
36.心に瞬く星座
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甲斐チーフは、矢嶋社長からの申し出『非常勤での指導役』の仕事を、引き受ける決意をしていた。
葉子も覚悟をしていたから、笑顔を見せることが出来る。
「はい、蒼君から聞いていました。その時……、私、取り乱してしまったんですけれど……」
蒼がそこまでは甲斐チーフに伝えてはいないと知っていたが、それでもチーフはそんな葉子の気持ちは察していたようだった。
「そうだったんですね……。なんとなく、私を見る葉子さんの目が、なにか言いたそうだとは思ってはいましたけれど……。申し訳ない。私も最初は復帰できた嬉しさだけが勝っていて、とにかくフレンチ十和田さんのお役に立ちたい、その気持ちだけであったのに、こんなことになってしまいまして」
心苦しいのか、どうしてこのようなことになったのか申し訳なさそうに、お師匠さんがうつむいている。
「いいえ。チーフにとって、良いことだと思っています。私がソムリエになるまで一緒にいられると思ってはいましたが、いつかは大分のご家族にお返しせねばならぬお父様であって、お祖父様だとも思っていましたから。少し早くなっただけです」
「いいえ。葉子さんをソムリエにするまで、私は離れませんよ」
え? 矢嶋社長の申し出を引き受けたのに? 葉子とどうやってこれからも一緒にいるのかと、訝しんだ。
「これからは、大分を拠点に神戸と大沼を行き来いたします。大沼にも三ヶ月に一度は顔をだす予定です」
「ほ、ほんとうですか!」
「当たり前ではないですか。あなたはもう、私の大事な教え子ですよ。秀星から預かったも同然、放ったりしません。矢嶋社長にも伝えております。葉子さんをまだ育てたいこと、それから……」
それから……と言いながら、まだ完全に喜べずに歓喜を抑えている葉子へと、甲斐チーフが微笑みを見せた。
「大沼の水芭蕉を見るまでは、ここにいさせて欲しいとお願いをしております。それでだいたい、一年。大沼の四季を堪能できるという区切りにしたいと思っています」
「では! すぐに神戸に行ってしまうわけではないのですね」
「はい。ですが……、ずっと一緒でもないですね。でも、お別れではありません。一年に何回かお目にかかれます。オンラインでお話しをすることも、相談に乗ることもできる。そんな方法もあると知りましたしね。遠くにいても、そばにいますよ」
やっと、やっと……、葉子は笑顔を浮かべることができた。
だが、その次に甲斐チーフが思わぬ事を葉子に告げた。
「それにですね。私の後を引き継いでくれるソムリエを、こちらに派遣するとのことです。日々の業務はそちらのソムリエから教えてもらうといいでしょう。矢嶋シャンテ側で、派遣するソムリエの人選もあって、今すぐにではなく春までということになっています」
「え……!? 神戸からソムリエを? こちらのレストランにですか」
「はい。あちらのレストランもソムリエばかり増やすわけもいかず、かといってベテランのソムリエが『シェフ・ソムリエ』というリーダーのポジションにずっと居れば、若いコミ・ソムリエが活躍していく場もなくなってしまいます。おそらく、お若いソムリエが派遣されてくると思いますよ」
新たな人との出会いがあるとわかり、葉子は一気に緊張する。
そのソムリエって、どんな人? もちろん、甲斐チーフの後のことを矢嶋社長がきちんとフォローを忘れずにしてくれたことには安心をしたが、新しく上司になるだろう人と上手くやっていけるのか不安になった。
「大丈夫ですよ。お父様に、ご主人の篠田もいるわけですから。ましてや矢嶋社長も、あなたにはこの大沼のレストランを支えてくれるソムリエになってほしいと願っています。あなたのためになるソムリエを人選してくれることでしょう。私からもそこはお願いしています」
それから――と、甲斐チーフが付け加える。
「年末年始は一度、大分の家族のもとへ帰省します。そこから大沼に戻る時に神戸にも寄ることになっています。そこで矢嶋社長と一緒に、候補のコミ・ソムリエと面談することになっていますから」
だから人選は任せてほしいと、師匠から胸を張って拳で叩き、安心するようにと言ってくれる。
「この大沼のために、そんな面談が?」
大沼のためでもあって、葉子のためでもある面談があると知って驚く。
しかしそこは葉子のためだけでもないらしく、矢嶋シャンテの事情もあるようだった。
「大所帯のグランメゾン的な矢嶋シャンテで、いわゆるソムリエ長となる『シェフ・ソムリエ』の地位を獲得できることは、なかなかないでしょう。あとはコミ・ソムリエのままです。コミ・ソムリエの中でも、新人もいれば、中堅のソムリエもいます。コミという補佐からステップアップしたい者は、他店へと転職をしたり、諦めていく者も多いです。ですから、彼らにはチャンスでもあるのです。矢嶋社長が大沼のレストランを重視しているので、若いコミ・ソムリエには魅力的な経歴を手に入れられると、狙っている者も多いと聞いていますよ」
まさかの父のレストランが、阪神という都市部のレストランで精進している従業員が望む職場となっていて、葉子はさらに吃驚する。
「知りませんでした……。少し前まで、父のこだわりが強いので、ギリギリの経営でしたのに」
「ですが、そのお父様のこだわりに、秀星が惹かれ、秀星が関わっていたから矢嶋さんがこちらのレストランを知ることになった。お父様のこだわりに共感もされたのでしょう。特に北海道という国内でも人気上位にある観光地。そこでならば、『地元産にこだわったコース料理』は、旅行客には願ってもいないご馳走です。私も、初めて戴いた時に非常に感動いたしました。ああ、秀星がここを選んだこと、居着いたわけが通じてくると……。あなたのお父様の料理から思いましたから……」
もう遠い日にも思えてくる、あの夏の夕暮れ。
甲斐チーフが二階堂を持って突然現れた日。
その出会いから、葉子は一気にソムリエになるための気持ちを高めていった。
そんな甲斐チーフを見つめていたら、やっぱり涙が滲んできた。
でも笑顔で葉子は伝える。
「甲斐チーフは、私の三人目の先生です。秀星さんが連れてきてくれた大事な先生です。一生、ご恩は忘れません」
甲斐チーフが仰天した顔になり、いやいやと、葉子へと向けた手を左右に振って恐縮している。
「言い過ぎですよ! 私こそ……。部屋に籠もった引きこもり爺さんに成り果てていたところ、あなたの動画に救われたのです」
その話は、葉子は知らないことになっているので、どう反応してよいか戸惑う。
だが甲斐チーフは『もう知っているでしょ』と、葉子の目の前で軽やかに笑い飛ばした。
「私もいつ葉子さんにお話ししようかと思っていましたが。篠田から少し前に、『夫の自分から葉子に伝えている』と教えていただきまして……。知らないふりを努めてくださっていたんですね。葉子さん。申し訳ない」
「いいえ。チーフの当時の哀しみが幾ばかりか。僭越ながら、同時期に秀星さんを亡くしていたので、私も、同じような哀しみに沈んでいく気持ちわかりましたから」
「本当に、救っていただきました。もう大丈夫ですよ。二度と、あのような生活はいたしません」
それを聞いて、葉子もホッとする。もうお師匠さんは大分に帰っても大丈夫だろうと。
「大沼へと、あなたに会いに来たおかげで、まさかの再就職。お手伝いだけだと思っていたら、もっと役に立ってほしいというオファーが舞い込んできた。新しく人に教えたいこと、もっとたくさんの人に伝えたいこと、伝える方法が、爺さんにもあること。教えてくれたのは、あなた、ハコちゃんですよ」
その次には、お師匠さんが、輝く笑顔で言ってくれる。
「葉子さん。あなたも、私の先生でしたよ」
また、葉子は止めどもなく涙を流していた。
止まらなくて、止まらなくて。ハンカチで押さえても、どんどん湿っていくばかり。
「いつも、そう……。秀星さんが連れてきてくれるんです。いろいろなこと、人を。甲斐チーフもそのお一人でした」
「不思議ですね。私も、秀星がこれだけのものを、大沼に遺している、繋いでいく男になるとは思っていませんでした。実はですね。秀星は、私の元同僚からの紹介でした」
「甲斐チーフのお知り合いからの、ですか……?」
聞いたことがない秀星の生前の話が出てきて、葉子は湿ったハンカチを目元から離していた。
甲斐チーフもそっと頷いて、懐かしそうに話し出す。
「大阪のホテル勤務の時に出会った同世代の同僚でした。彼はやがて関東へと転職しましてね。そこから伊豆の高級ホテルのフレンチホールでメートル・ドテルを勤めていました。それが、秀星が伊豆で勤務していた時の上司です」
「その上司さんからのご紹介で、矢嶋シャンテへ?」
「はい。私が引退を視野に入れ始めたころに、後継になるギャルソンを探していたんです。その時に、大阪時代の元同僚が、いま自分が仕切っているフレンチホールに、いいギャルソンがいると教えてくれてね。矢嶋さんが実際に、秀星の仕事をお客様として確認をして、いい人材だと引き抜いてくれたんです」
そんな経緯を初めて知って、急に葉子の中に奇妙な大空が広がる感覚が起きる。
なんだろう。大沼の湖の上に雄大に広がっている夜空に、星が幾つも幾つも散らばっているのに、そのいくつかの星がどこまでも繋がっているように見える、あの紺碧の夜空だ。
「秀星が神戸へと引き抜かれてきた時、篠田は既に矢嶋シャンテにいました。レストランに元々いるギャルソンから候補があがるのではなく、外からメートル・ドテル候補として引き抜かれてきた。しかも桐生はメートル・ドテルになるには少し若い、さらに社長自ら連れてきた。そんな特別扱いのような空気感が、最初はレストラン内でけっこうな反感をかいましてね。篠田も目の敵にしていましたよ」
「えっ! 蒼君が秀星さんを目の敵、ですか!?」
「ええ、ええ。もう生意気三昧でしたよ。なんだよ、あのいけ好かない男と、罵っていましたしね」
あんなに仲が良い先輩後輩なのに信じられないと、葉子は目を丸くした。
そんな葉子に構わず、甲斐チーフは『在りし日の秀星』の続きを語ってくれる。
「そんな生意気な篠田が食ってかかることも、クールに素っ気なく、ひとつひとつ一蹴していく冷静さが秀星にはありましたね。フレンチに対する揺るがない信念も持っていました。紹介してくれた同僚に感謝していました。これはイケるなと、私も判断をしたほどです。そこから一年ほど、彼にメートル・ドテル研修をいたしまして、引き継ぎました。四年、期待通りの若い給仕長を勤め上げてくれました。彼が大沼へと移転するために、メートル・ドテルを篠田に引き継いだと聞いたときは、ああついにその時が来てしまったのか。四年、保ったほうかなというのが本心でしたね」
秀星が辞めることを驚かなかった、まるでわかっていたような言い方だったので、葉子は首を傾げる。
「秀星さんが矢嶋シャンテを辞めることを、予感されていたのですか?」
「はい。最初から、そんな男だとわかっていましたから」
「そんな男とは?」
「写真が第一の男ということです」
ああ、なるほどと葉子も見えてきた。つまり、写真を優先にして生きている男だから、いつか辞めるという生き方を、矢嶋シャンテでも承知で引き抜いたということらしい。
「伊豆から引き抜くときに、紹介してくれた元同僚にも言われていたんです。『桐生は写真を第一に生きているから。優秀でも目標が出来たらサッと辞めていく。でも仕事は一流、保証する』とね。だから矢嶋さんも、写真活動のための休暇もきちんと与えていたのですよ。それでも、もう神戸にいられない気持ちを持ってしまった。いつ辞めてもいいように、後輩を育て上げてくれていた。そこまでしてくれたから、矢嶋さんも手放す覚悟を、ずっと持っていたのでしょうね。そんな秀星が、この大沼で命を捨ててもよいと思えていたものがなんなのか……。私もわかりました。『尊い』ものだったから、命を捧げられたのでしょう。大沼に。私には帰る家が大分にありますが、きっと、大沼の日々は忘れないでしょう。私の新しい『宝石』です。葉子さん、あなたと過ごした日々のことですよ」
葉子と過ごした短い日々が、新しい『宝石』。
「私もそう思えたのですから、秀星にとっても、葉子さんと過ごした日々は『宝石』だったとことでしょう。それも握りしめていたはずです、きっと」
そこまで言ってくれたから、涙はまた滲むけれど、葉子はもう哀しまない。笑顔を向ける。
「私の『星空』に、甲斐チーフもいます。伊豆からだったんですね。伊豆から矢嶋シャンテへと秀星さんを繋いでくれたのは、甲斐チーフだったんですね……。知らなかった……」
葉子の中に現れた星空の感覚。それがなんであったのか、やっとわかった。
秀星が葉子と出会うまでに、繋がれてきたたくさんの星々が人々がいたのだ。そこに甲斐チーフが既にいた。
秀星と関わっていたから、葉子の元に、甲斐チーフが繋がった。
そして、ソムリエという新しい夢を葉子に、若者の師匠となる新しい夢を甲斐チーフに。秀星のまわりにあった星たちが、彼がいなくなっても繋がっていく。輝いていく。
「私の心にある星空の、新しい星座です」
出会った人のまわりに、いくつもの星がある。その人がいままで繋いできた星座の端に葉子という星が灯り、葉子の中の星空にも、新しい星が瞬く。
「ありがとう。あなたの心に瞬く星のひとつにしてくださって。その言葉も忘れません」
そう、甲斐チーフとはずっと前から繋がっていたのだ。
そしてこれからも、葉子の夜空には師匠という星座が永遠に灯る。秀星と一緒に。
だから残りの日々を、お師匠さんと一緒に、有意義に重ねていこう。そして、笑顔で見送る。
水芭蕉が咲く大沼から、見送ろう。
葉子も覚悟をしていたから、笑顔を見せることが出来る。
「はい、蒼君から聞いていました。その時……、私、取り乱してしまったんですけれど……」
蒼がそこまでは甲斐チーフに伝えてはいないと知っていたが、それでもチーフはそんな葉子の気持ちは察していたようだった。
「そうだったんですね……。なんとなく、私を見る葉子さんの目が、なにか言いたそうだとは思ってはいましたけれど……。申し訳ない。私も最初は復帰できた嬉しさだけが勝っていて、とにかくフレンチ十和田さんのお役に立ちたい、その気持ちだけであったのに、こんなことになってしまいまして」
心苦しいのか、どうしてこのようなことになったのか申し訳なさそうに、お師匠さんがうつむいている。
「いいえ。チーフにとって、良いことだと思っています。私がソムリエになるまで一緒にいられると思ってはいましたが、いつかは大分のご家族にお返しせねばならぬお父様であって、お祖父様だとも思っていましたから。少し早くなっただけです」
「いいえ。葉子さんをソムリエにするまで、私は離れませんよ」
え? 矢嶋社長の申し出を引き受けたのに? 葉子とどうやってこれからも一緒にいるのかと、訝しんだ。
「これからは、大分を拠点に神戸と大沼を行き来いたします。大沼にも三ヶ月に一度は顔をだす予定です」
「ほ、ほんとうですか!」
「当たり前ではないですか。あなたはもう、私の大事な教え子ですよ。秀星から預かったも同然、放ったりしません。矢嶋社長にも伝えております。葉子さんをまだ育てたいこと、それから……」
それから……と言いながら、まだ完全に喜べずに歓喜を抑えている葉子へと、甲斐チーフが微笑みを見せた。
「大沼の水芭蕉を見るまでは、ここにいさせて欲しいとお願いをしております。それでだいたい、一年。大沼の四季を堪能できるという区切りにしたいと思っています」
「では! すぐに神戸に行ってしまうわけではないのですね」
「はい。ですが……、ずっと一緒でもないですね。でも、お別れではありません。一年に何回かお目にかかれます。オンラインでお話しをすることも、相談に乗ることもできる。そんな方法もあると知りましたしね。遠くにいても、そばにいますよ」
やっと、やっと……、葉子は笑顔を浮かべることができた。
だが、その次に甲斐チーフが思わぬ事を葉子に告げた。
「それにですね。私の後を引き継いでくれるソムリエを、こちらに派遣するとのことです。日々の業務はそちらのソムリエから教えてもらうといいでしょう。矢嶋シャンテ側で、派遣するソムリエの人選もあって、今すぐにではなく春までということになっています」
「え……!? 神戸からソムリエを? こちらのレストランにですか」
「はい。あちらのレストランもソムリエばかり増やすわけもいかず、かといってベテランのソムリエが『シェフ・ソムリエ』というリーダーのポジションにずっと居れば、若いコミ・ソムリエが活躍していく場もなくなってしまいます。おそらく、お若いソムリエが派遣されてくると思いますよ」
新たな人との出会いがあるとわかり、葉子は一気に緊張する。
そのソムリエって、どんな人? もちろん、甲斐チーフの後のことを矢嶋社長がきちんとフォローを忘れずにしてくれたことには安心をしたが、新しく上司になるだろう人と上手くやっていけるのか不安になった。
「大丈夫ですよ。お父様に、ご主人の篠田もいるわけですから。ましてや矢嶋社長も、あなたにはこの大沼のレストランを支えてくれるソムリエになってほしいと願っています。あなたのためになるソムリエを人選してくれることでしょう。私からもそこはお願いしています」
それから――と、甲斐チーフが付け加える。
「年末年始は一度、大分の家族のもとへ帰省します。そこから大沼に戻る時に神戸にも寄ることになっています。そこで矢嶋社長と一緒に、候補のコミ・ソムリエと面談することになっていますから」
だから人選は任せてほしいと、師匠から胸を張って拳で叩き、安心するようにと言ってくれる。
「この大沼のために、そんな面談が?」
大沼のためでもあって、葉子のためでもある面談があると知って驚く。
しかしそこは葉子のためだけでもないらしく、矢嶋シャンテの事情もあるようだった。
「大所帯のグランメゾン的な矢嶋シャンテで、いわゆるソムリエ長となる『シェフ・ソムリエ』の地位を獲得できることは、なかなかないでしょう。あとはコミ・ソムリエのままです。コミ・ソムリエの中でも、新人もいれば、中堅のソムリエもいます。コミという補佐からステップアップしたい者は、他店へと転職をしたり、諦めていく者も多いです。ですから、彼らにはチャンスでもあるのです。矢嶋社長が大沼のレストランを重視しているので、若いコミ・ソムリエには魅力的な経歴を手に入れられると、狙っている者も多いと聞いていますよ」
まさかの父のレストランが、阪神という都市部のレストランで精進している従業員が望む職場となっていて、葉子はさらに吃驚する。
「知りませんでした……。少し前まで、父のこだわりが強いので、ギリギリの経営でしたのに」
「ですが、そのお父様のこだわりに、秀星が惹かれ、秀星が関わっていたから矢嶋さんがこちらのレストランを知ることになった。お父様のこだわりに共感もされたのでしょう。特に北海道という国内でも人気上位にある観光地。そこでならば、『地元産にこだわったコース料理』は、旅行客には願ってもいないご馳走です。私も、初めて戴いた時に非常に感動いたしました。ああ、秀星がここを選んだこと、居着いたわけが通じてくると……。あなたのお父様の料理から思いましたから……」
もう遠い日にも思えてくる、あの夏の夕暮れ。
甲斐チーフが二階堂を持って突然現れた日。
その出会いから、葉子は一気にソムリエになるための気持ちを高めていった。
そんな甲斐チーフを見つめていたら、やっぱり涙が滲んできた。
でも笑顔で葉子は伝える。
「甲斐チーフは、私の三人目の先生です。秀星さんが連れてきてくれた大事な先生です。一生、ご恩は忘れません」
甲斐チーフが仰天した顔になり、いやいやと、葉子へと向けた手を左右に振って恐縮している。
「言い過ぎですよ! 私こそ……。部屋に籠もった引きこもり爺さんに成り果てていたところ、あなたの動画に救われたのです」
その話は、葉子は知らないことになっているので、どう反応してよいか戸惑う。
だが甲斐チーフは『もう知っているでしょ』と、葉子の目の前で軽やかに笑い飛ばした。
「私もいつ葉子さんにお話ししようかと思っていましたが。篠田から少し前に、『夫の自分から葉子に伝えている』と教えていただきまして……。知らないふりを努めてくださっていたんですね。葉子さん。申し訳ない」
「いいえ。チーフの当時の哀しみが幾ばかりか。僭越ながら、同時期に秀星さんを亡くしていたので、私も、同じような哀しみに沈んでいく気持ちわかりましたから」
「本当に、救っていただきました。もう大丈夫ですよ。二度と、あのような生活はいたしません」
それを聞いて、葉子もホッとする。もうお師匠さんは大分に帰っても大丈夫だろうと。
「大沼へと、あなたに会いに来たおかげで、まさかの再就職。お手伝いだけだと思っていたら、もっと役に立ってほしいというオファーが舞い込んできた。新しく人に教えたいこと、もっとたくさんの人に伝えたいこと、伝える方法が、爺さんにもあること。教えてくれたのは、あなた、ハコちゃんですよ」
その次には、お師匠さんが、輝く笑顔で言ってくれる。
「葉子さん。あなたも、私の先生でしたよ」
また、葉子は止めどもなく涙を流していた。
止まらなくて、止まらなくて。ハンカチで押さえても、どんどん湿っていくばかり。
「いつも、そう……。秀星さんが連れてきてくれるんです。いろいろなこと、人を。甲斐チーフもそのお一人でした」
「不思議ですね。私も、秀星がこれだけのものを、大沼に遺している、繋いでいく男になるとは思っていませんでした。実はですね。秀星は、私の元同僚からの紹介でした」
「甲斐チーフのお知り合いからの、ですか……?」
聞いたことがない秀星の生前の話が出てきて、葉子は湿ったハンカチを目元から離していた。
甲斐チーフもそっと頷いて、懐かしそうに話し出す。
「大阪のホテル勤務の時に出会った同世代の同僚でした。彼はやがて関東へと転職しましてね。そこから伊豆の高級ホテルのフレンチホールでメートル・ドテルを勤めていました。それが、秀星が伊豆で勤務していた時の上司です」
「その上司さんからのご紹介で、矢嶋シャンテへ?」
「はい。私が引退を視野に入れ始めたころに、後継になるギャルソンを探していたんです。その時に、大阪時代の元同僚が、いま自分が仕切っているフレンチホールに、いいギャルソンがいると教えてくれてね。矢嶋さんが実際に、秀星の仕事をお客様として確認をして、いい人材だと引き抜いてくれたんです」
そんな経緯を初めて知って、急に葉子の中に奇妙な大空が広がる感覚が起きる。
なんだろう。大沼の湖の上に雄大に広がっている夜空に、星が幾つも幾つも散らばっているのに、そのいくつかの星がどこまでも繋がっているように見える、あの紺碧の夜空だ。
「秀星が神戸へと引き抜かれてきた時、篠田は既に矢嶋シャンテにいました。レストランに元々いるギャルソンから候補があがるのではなく、外からメートル・ドテル候補として引き抜かれてきた。しかも桐生はメートル・ドテルになるには少し若い、さらに社長自ら連れてきた。そんな特別扱いのような空気感が、最初はレストラン内でけっこうな反感をかいましてね。篠田も目の敵にしていましたよ」
「えっ! 蒼君が秀星さんを目の敵、ですか!?」
「ええ、ええ。もう生意気三昧でしたよ。なんだよ、あのいけ好かない男と、罵っていましたしね」
あんなに仲が良い先輩後輩なのに信じられないと、葉子は目を丸くした。
そんな葉子に構わず、甲斐チーフは『在りし日の秀星』の続きを語ってくれる。
「そんな生意気な篠田が食ってかかることも、クールに素っ気なく、ひとつひとつ一蹴していく冷静さが秀星にはありましたね。フレンチに対する揺るがない信念も持っていました。紹介してくれた同僚に感謝していました。これはイケるなと、私も判断をしたほどです。そこから一年ほど、彼にメートル・ドテル研修をいたしまして、引き継ぎました。四年、期待通りの若い給仕長を勤め上げてくれました。彼が大沼へと移転するために、メートル・ドテルを篠田に引き継いだと聞いたときは、ああついにその時が来てしまったのか。四年、保ったほうかなというのが本心でしたね」
秀星が辞めることを驚かなかった、まるでわかっていたような言い方だったので、葉子は首を傾げる。
「秀星さんが矢嶋シャンテを辞めることを、予感されていたのですか?」
「はい。最初から、そんな男だとわかっていましたから」
「そんな男とは?」
「写真が第一の男ということです」
ああ、なるほどと葉子も見えてきた。つまり、写真を優先にして生きている男だから、いつか辞めるという生き方を、矢嶋シャンテでも承知で引き抜いたということらしい。
「伊豆から引き抜くときに、紹介してくれた元同僚にも言われていたんです。『桐生は写真を第一に生きているから。優秀でも目標が出来たらサッと辞めていく。でも仕事は一流、保証する』とね。だから矢嶋さんも、写真活動のための休暇もきちんと与えていたのですよ。それでも、もう神戸にいられない気持ちを持ってしまった。いつ辞めてもいいように、後輩を育て上げてくれていた。そこまでしてくれたから、矢嶋さんも手放す覚悟を、ずっと持っていたのでしょうね。そんな秀星が、この大沼で命を捨ててもよいと思えていたものがなんなのか……。私もわかりました。『尊い』ものだったから、命を捧げられたのでしょう。大沼に。私には帰る家が大分にありますが、きっと、大沼の日々は忘れないでしょう。私の新しい『宝石』です。葉子さん、あなたと過ごした日々のことですよ」
葉子と過ごした短い日々が、新しい『宝石』。
「私もそう思えたのですから、秀星にとっても、葉子さんと過ごした日々は『宝石』だったとことでしょう。それも握りしめていたはずです、きっと」
そこまで言ってくれたから、涙はまた滲むけれど、葉子はもう哀しまない。笑顔を向ける。
「私の『星空』に、甲斐チーフもいます。伊豆からだったんですね。伊豆から矢嶋シャンテへと秀星さんを繋いでくれたのは、甲斐チーフだったんですね……。知らなかった……」
葉子の中に現れた星空の感覚。それがなんであったのか、やっとわかった。
秀星が葉子と出会うまでに、繋がれてきたたくさんの星々が人々がいたのだ。そこに甲斐チーフが既にいた。
秀星と関わっていたから、葉子の元に、甲斐チーフが繋がった。
そして、ソムリエという新しい夢を葉子に、若者の師匠となる新しい夢を甲斐チーフに。秀星のまわりにあった星たちが、彼がいなくなっても繋がっていく。輝いていく。
「私の心にある星空の、新しい星座です」
出会った人のまわりに、いくつもの星がある。その人がいままで繋いできた星座の端に葉子という星が灯り、葉子の中の星空にも、新しい星が瞬く。
「ありがとう。あなたの心に瞬く星のひとつにしてくださって。その言葉も忘れません」
そう、甲斐チーフとはずっと前から繋がっていたのだ。
そしてこれからも、葉子の夜空には師匠という星座が永遠に灯る。秀星と一緒に。
だから残りの日々を、お師匠さんと一緒に、有意義に重ねていこう。そして、笑顔で見送る。
水芭蕉が咲く大沼から、見送ろう。
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