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第一部 人も馬も新入隊員
第十五話 お馬さん以外の時間にもお馬さん
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そんなわけで、次の日は騎馬隊本部ではなく、府警本部が私の出勤先だった。
「丹波、今ごろどうしているかなあ……まさか本当に先輩を困らせていたり?」
いつもだとこの時間は、作業着に着替えて厩舎の掃除をしている時間。着慣れているはずの制服が、やけに窮屈に感じる。
「おはよー、ふみちゃん」
「あ、おはよー、まりちゃん」
「久し振りだね。ちゃんと生きてるのわかって安心したよー」
「お互いにねー」
話しかけてきた相手は、同じ単身者用のアパートに住む、警察学校で同期だった稲葉さん。同じアパートに住んでいるのに、ここ最近は顔を合わせることがほとんどなかった。彼女は今、交通課のおまわりさんとして、先輩警察官と登下校中の通学路に立つ毎日をすごしている。
「騎馬隊はどう?」
「毎日が訓練だよ」
「ふーん。どんなことしてるの? 馬に乗る以外はってことだけど」
「そうだなあ……」
質問をされて考え込んだ。今の私と丹波は訓練中の身で、厩舎のある場所から出たことがない。
「まずは、お馬さんの部屋の掃除とか、お馬さんにご飯やりとか。体が大きいからけっこうな量を食べるんだよ。一日五回ぐらいにわけて食べさせてる」
「へー」
「あとは、あれだね。食べるってことは出すってことで、お馬さんのウンチの処理とか、お馬さんのお手入れとか。どっちもかなりの重労働」
騎馬隊には華やかなイメージがあるかもしれないが、実際はかなりの重労働な職場だ。とくに排せつ物の処理では、かなりの腕力が必要とされる。そんな話を聞かせると、稲葉さんは「へぇぇぇ」と感心したような声をあげた。
「ほんと、勤務時間は馬のことばっかりなんだね」
「そりゃ、騎馬隊だから。あ、そうだ。お馬さんの足の裏って見たことある? そこもお手入の時に見るんだけどね」
「足を見てるとき、蹴られたりしないの?」
「今のところはね。お馬さん、みんな頭のいい子ばかりで協力的だから」
「へえええ……」
稲葉さんが再び声をあげる。
「お馬さんの足の裏、見たくない?」
「特には」
「えー……人生、損してるねえ」
相手の素っ気ない返事にがっかりする。
「そんなことないと思うけどな……」
「お、馬越じゃん。生きてたんだ?」
「てっきり馬に蹴られて病院送りになってると思ってたぞ」
「生きてた生きてた」
にぎやかな男子がやってきた。この三人組男子も、警察学校で同期だった子たちだ。たしかそれぞれ、別々の場所で交番勤務をしているはず。
「あいかわらず三人でつるんでるんだ」
「んなわけないだろ。今日はここにくる前に顔を合わせただけだよ」
「へえ……そうは見えないけど」
そのうちの一人が鼻をひくひくさせた。
「馬くさくないな」
「は?」
「一日中、馬を相手にしてるんだろ? 犬とか馬とか、においつきそうじゃないか」
「あのさあ。そういうこと言うと、警察犬のハンドラーしてる先輩たちにしばかれるよ?」
稲葉さんがあきれたよう言って、三人組を軽くにらむ。だが彼らは、まったく悪びれた風もなく笑うのみ。
「本当の馬くささを知りたいなら、うちの本部においでよ。それよりくさいのが知りたいなら、馬糞をためてるコンテナがあるよ?」
この時の私は、あくまでも善意で提案してあげたのだ。なのに三人ときたら、すごい顔をして私を見ている。
「ん? 馬のにおいとくさいの、知りたいんだよね? いつでも大歓迎だよ? 草食だから、期待どおりのにおいじゃないかもしれないけど」
「三人とも、ふみちゃんは本気で提案してるからね? 私にも馬の足の裏を見せようとしてるし」
「もちろん皆にも、馬の足の裏、見せてあげるよ?」
「ほらね?」
少しの間、妙な空気が流れた。しばらくして三人がそろってため息をつく。
「イヤミも通じねえって、一体どんな馬バカなんだよー、馬越ー」
「なにを失礼な。それに色々と経験しておくのは良いことだよ。小さい子たちも見学に来て、ウンチのにおいをかいでるし。知らないことが多い人生って、ぜったい損してると思うなー」
「いやまあ、そりゃ訓練風景には興味あるけどさあ……」
三人の妙な反応に首をかしげた。
「ならおいでよ。うんちのコンテナも見せてあげるから」
「だから、馬糞のことは冗談だって」
「えー……」
せっかく身につけた知識を披露しようと思っているのに。
「えーってなんだよ、えーって」
「ちゃんと引き取り手があって、喜ばれてるんだけどなあ」
「それとこれとは別だから」
「そうかなあ……」
もしかしたらそのうち、新人警察官向けで騎馬隊の見学研修があるかもしれない。その時に期待しておこう。
「うわー、馬越、絶対になにかたくらんでるよ……」
三人組がイヤそうな顔をした。
「たくらんでないよ。騎馬隊の隊員としての使命をですねえ、皆様にもご披露したいのですよ」
「ご披露しなくてもいいから」
「そういうのは小さい子向けにとっておけって」
「俺たちは遠慮する」
「えー……」
ガッカリしている私を残し、三人は少し離れた場所に落ち着いた。
「もー、あいかわらず向上心ないなあ……」
「いやいや、十分に三人はがんばってるし」
「そおー?」
ため息をつきながら、今日の教官がくるのを待つ。それから少しして、気になってきたので制服に鼻をつけつつ、稲葉さんを見る。
「ねえ。私、馬くさい?」
「そんなことない。ボディーソープのにおいしか感じないよ」
「本当に?」
「うん」
あの環境に慣れてしまうと、他人が気になるにおいも気にならなくなる。もしかして本当に馬のにおいがしてたりして?と心配になってしまった。
「ちなみに、ウンチはともかく、馬のにおいってどんな感じなの?」
「んー? 猫とか犬とかと変わらないかなあ。お日様のにおいがしてると思う」
普段の丹波のにおいを思い出しながら答える。
「毎日のように洗ってお手入れしてるし、訓練で汗をかいたら、そのたびに洗ったりするし」
「家のペットより洗う頻度が高いんだね」
「まあね。そのへんは運動している人間と変わらないと思う。確かめてみたい?」
「それは足の裏を含めて、またの機会にしておく。この一年の研修で行く機会がありそうじゃない?」
部屋に教官が入ってきたので、全員がいっせいに立ち上がった。いくら気乗りがしないからと言っても、これは私が一人前の警察官になるための、大切な時間の一つなのだ。
―― 丹波、ワガママし放題になってなければよいけど ――
万が一の時には、ニンジン人間の成瀬隊長とベテランの土屋さんがいる。きっとだいじょうぶ! そう信じて頭を切り替えた。
そんなわけで、お馬さんのいない一日が始まった。だが昼からの実技研修では、予想外の参加者が加わっていることが判明した。
「あ、脇坂さん! それに愛宕君!」
交通整理の研修に、白バイ隊と騎馬隊の隊員がそれぞれ一名ずつ加わっていたのだ。馬バスから脇坂さんに引かれて出てくる愛宕号を見て、思わず声をかけた。
「おはよう、馬越さん。研修お疲れさん」
「おはようございます! まさか参加されてるとは思いませんでした」
私がこの研修に出ることは知っていたんだから、隊長も教えてくれたらよかったのに、と思わないでもない。
「登下校時の見守りでは所轄の警察官も一緒だろ? ほとんどの警察官は、馬と仕事したことなんてないからね。だからこうやって、馬との距離の取り方とか接し方とか、学んでもらうんだよ」
「なるほど。あ、そう言えば、馬のにおいが気になる同期がいるんですよ。男子が三人ほどなんですが」
私がそう言うと、脇坂さんが珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。
「そりゃ、かがせてあげても良いけど、愛宕は察しのいいヤツでさ。悪意を持って近寄ってくるやつには、とんでもないプレゼントをする時があるんだ。それでも良いならここにつれておいで」
「とんでもないプレゼント」
「うん。農家さんにはすごく喜ばれるプレゼントなんだけどねー」
「あー……」
うなづきながら愛宕の顔を見る。お爺ちゃんで穏やかな性格で子供たちにも人気なのに、そんなこともしちゃうんだ?と意外に思った。
「愛宕君、そんなこともしちゃうんだー……」
愛宕は私を見ると、小さく鼻を鳴らした。まるで「めったにそんなことしませんよ」とでも言いたげだ。
「ここでプレゼントを出したら大変ですよね。だったら厩舎に見学に来てもらったほうが良いかも」
「それは言えてるね。あ、そろそろ実技研修が始まるみたいだよ」
脇坂さんが、集合を始めている他の警察官たちのほうへと目をやった。
「あ、はい! じゃあ、今日もよろしくお願いします! 愛宕君もよろしくね!」
鼻をなでると、愛宕はうなづくように頭を下げた。
「丹波、今ごろどうしているかなあ……まさか本当に先輩を困らせていたり?」
いつもだとこの時間は、作業着に着替えて厩舎の掃除をしている時間。着慣れているはずの制服が、やけに窮屈に感じる。
「おはよー、ふみちゃん」
「あ、おはよー、まりちゃん」
「久し振りだね。ちゃんと生きてるのわかって安心したよー」
「お互いにねー」
話しかけてきた相手は、同じ単身者用のアパートに住む、警察学校で同期だった稲葉さん。同じアパートに住んでいるのに、ここ最近は顔を合わせることがほとんどなかった。彼女は今、交通課のおまわりさんとして、先輩警察官と登下校中の通学路に立つ毎日をすごしている。
「騎馬隊はどう?」
「毎日が訓練だよ」
「ふーん。どんなことしてるの? 馬に乗る以外はってことだけど」
「そうだなあ……」
質問をされて考え込んだ。今の私と丹波は訓練中の身で、厩舎のある場所から出たことがない。
「まずは、お馬さんの部屋の掃除とか、お馬さんにご飯やりとか。体が大きいからけっこうな量を食べるんだよ。一日五回ぐらいにわけて食べさせてる」
「へー」
「あとは、あれだね。食べるってことは出すってことで、お馬さんのウンチの処理とか、お馬さんのお手入れとか。どっちもかなりの重労働」
騎馬隊には華やかなイメージがあるかもしれないが、実際はかなりの重労働な職場だ。とくに排せつ物の処理では、かなりの腕力が必要とされる。そんな話を聞かせると、稲葉さんは「へぇぇぇ」と感心したような声をあげた。
「ほんと、勤務時間は馬のことばっかりなんだね」
「そりゃ、騎馬隊だから。あ、そうだ。お馬さんの足の裏って見たことある? そこもお手入の時に見るんだけどね」
「足を見てるとき、蹴られたりしないの?」
「今のところはね。お馬さん、みんな頭のいい子ばかりで協力的だから」
「へえええ……」
稲葉さんが再び声をあげる。
「お馬さんの足の裏、見たくない?」
「特には」
「えー……人生、損してるねえ」
相手の素っ気ない返事にがっかりする。
「そんなことないと思うけどな……」
「お、馬越じゃん。生きてたんだ?」
「てっきり馬に蹴られて病院送りになってると思ってたぞ」
「生きてた生きてた」
にぎやかな男子がやってきた。この三人組男子も、警察学校で同期だった子たちだ。たしかそれぞれ、別々の場所で交番勤務をしているはず。
「あいかわらず三人でつるんでるんだ」
「んなわけないだろ。今日はここにくる前に顔を合わせただけだよ」
「へえ……そうは見えないけど」
そのうちの一人が鼻をひくひくさせた。
「馬くさくないな」
「は?」
「一日中、馬を相手にしてるんだろ? 犬とか馬とか、においつきそうじゃないか」
「あのさあ。そういうこと言うと、警察犬のハンドラーしてる先輩たちにしばかれるよ?」
稲葉さんがあきれたよう言って、三人組を軽くにらむ。だが彼らは、まったく悪びれた風もなく笑うのみ。
「本当の馬くささを知りたいなら、うちの本部においでよ。それよりくさいのが知りたいなら、馬糞をためてるコンテナがあるよ?」
この時の私は、あくまでも善意で提案してあげたのだ。なのに三人ときたら、すごい顔をして私を見ている。
「ん? 馬のにおいとくさいの、知りたいんだよね? いつでも大歓迎だよ? 草食だから、期待どおりのにおいじゃないかもしれないけど」
「三人とも、ふみちゃんは本気で提案してるからね? 私にも馬の足の裏を見せようとしてるし」
「もちろん皆にも、馬の足の裏、見せてあげるよ?」
「ほらね?」
少しの間、妙な空気が流れた。しばらくして三人がそろってため息をつく。
「イヤミも通じねえって、一体どんな馬バカなんだよー、馬越ー」
「なにを失礼な。それに色々と経験しておくのは良いことだよ。小さい子たちも見学に来て、ウンチのにおいをかいでるし。知らないことが多い人生って、ぜったい損してると思うなー」
「いやまあ、そりゃ訓練風景には興味あるけどさあ……」
三人の妙な反応に首をかしげた。
「ならおいでよ。うんちのコンテナも見せてあげるから」
「だから、馬糞のことは冗談だって」
「えー……」
せっかく身につけた知識を披露しようと思っているのに。
「えーってなんだよ、えーって」
「ちゃんと引き取り手があって、喜ばれてるんだけどなあ」
「それとこれとは別だから」
「そうかなあ……」
もしかしたらそのうち、新人警察官向けで騎馬隊の見学研修があるかもしれない。その時に期待しておこう。
「うわー、馬越、絶対になにかたくらんでるよ……」
三人組がイヤそうな顔をした。
「たくらんでないよ。騎馬隊の隊員としての使命をですねえ、皆様にもご披露したいのですよ」
「ご披露しなくてもいいから」
「そういうのは小さい子向けにとっておけって」
「俺たちは遠慮する」
「えー……」
ガッカリしている私を残し、三人は少し離れた場所に落ち着いた。
「もー、あいかわらず向上心ないなあ……」
「いやいや、十分に三人はがんばってるし」
「そおー?」
ため息をつきながら、今日の教官がくるのを待つ。それから少しして、気になってきたので制服に鼻をつけつつ、稲葉さんを見る。
「ねえ。私、馬くさい?」
「そんなことない。ボディーソープのにおいしか感じないよ」
「本当に?」
「うん」
あの環境に慣れてしまうと、他人が気になるにおいも気にならなくなる。もしかして本当に馬のにおいがしてたりして?と心配になってしまった。
「ちなみに、ウンチはともかく、馬のにおいってどんな感じなの?」
「んー? 猫とか犬とかと変わらないかなあ。お日様のにおいがしてると思う」
普段の丹波のにおいを思い出しながら答える。
「毎日のように洗ってお手入れしてるし、訓練で汗をかいたら、そのたびに洗ったりするし」
「家のペットより洗う頻度が高いんだね」
「まあね。そのへんは運動している人間と変わらないと思う。確かめてみたい?」
「それは足の裏を含めて、またの機会にしておく。この一年の研修で行く機会がありそうじゃない?」
部屋に教官が入ってきたので、全員がいっせいに立ち上がった。いくら気乗りがしないからと言っても、これは私が一人前の警察官になるための、大切な時間の一つなのだ。
―― 丹波、ワガママし放題になってなければよいけど ――
万が一の時には、ニンジン人間の成瀬隊長とベテランの土屋さんがいる。きっとだいじょうぶ! そう信じて頭を切り替えた。
そんなわけで、お馬さんのいない一日が始まった。だが昼からの実技研修では、予想外の参加者が加わっていることが判明した。
「あ、脇坂さん! それに愛宕君!」
交通整理の研修に、白バイ隊と騎馬隊の隊員がそれぞれ一名ずつ加わっていたのだ。馬バスから脇坂さんに引かれて出てくる愛宕号を見て、思わず声をかけた。
「おはよう、馬越さん。研修お疲れさん」
「おはようございます! まさか参加されてるとは思いませんでした」
私がこの研修に出ることは知っていたんだから、隊長も教えてくれたらよかったのに、と思わないでもない。
「登下校時の見守りでは所轄の警察官も一緒だろ? ほとんどの警察官は、馬と仕事したことなんてないからね。だからこうやって、馬との距離の取り方とか接し方とか、学んでもらうんだよ」
「なるほど。あ、そう言えば、馬のにおいが気になる同期がいるんですよ。男子が三人ほどなんですが」
私がそう言うと、脇坂さんが珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。
「そりゃ、かがせてあげても良いけど、愛宕は察しのいいヤツでさ。悪意を持って近寄ってくるやつには、とんでもないプレゼントをする時があるんだ。それでも良いならここにつれておいで」
「とんでもないプレゼント」
「うん。農家さんにはすごく喜ばれるプレゼントなんだけどねー」
「あー……」
うなづきながら愛宕の顔を見る。お爺ちゃんで穏やかな性格で子供たちにも人気なのに、そんなこともしちゃうんだ?と意外に思った。
「愛宕君、そんなこともしちゃうんだー……」
愛宕は私を見ると、小さく鼻を鳴らした。まるで「めったにそんなことしませんよ」とでも言いたげだ。
「ここでプレゼントを出したら大変ですよね。だったら厩舎に見学に来てもらったほうが良いかも」
「それは言えてるね。あ、そろそろ実技研修が始まるみたいだよ」
脇坂さんが、集合を始めている他の警察官たちのほうへと目をやった。
「あ、はい! じゃあ、今日もよろしくお願いします! 愛宕君もよろしくね!」
鼻をなでると、愛宕はうなづくように頭を下げた。
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