僕の主治医さん

鏡野ゆう

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僕の主治医さん 第三部

第八話 準備あれこれ

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 その日、帰宅しようと通用口を出たところで、見覚えのある顔の男性が立っているのに遭遇した。下田しもださんだ。どうやら、臼井うすいさんを待っているらしい。

「お久し振りです、下田さん。臼井さんだったら、あと十分ぐらいで出てくると思いますよ」
北川きたがわ先生こんばんは、です……」
「……あの、なにか?」

 下田さんは不思議なくらいに無口なままで、なぜかこっちをチラチラと見ているので、居心地が悪くなってきた。院内では言われなくなったけれど、もしかして顔に残っているあざが、かなり目立っているとか?

「いえね。そのう、なんて言うかあの時の延長で、臼井さんを口説き落としたことに関して、ピヨピヨさんに良く思われてないかもなあって、心配で」

 「あの時」とは、もちろん裕章ひろあきさんが入院していた時のこと。下田さんは毎日のように、つめ所に見張りとして立っていて、その時にかなり、臼井さんの仕事を邪魔してくれていたのだ。

「あの時の下田さん達は、ほめられたもんじゃありませんけど、臼井さんとのことは遊びじゃないんですよね?」
「それはもう!」

 思いっ切り本気ですよという顔をして、こぶしを握っている。

「痛い思いをした南山みなみやまには申し訳ないとは思うんですが、ここの病院に運ばれてくれたことを感謝してます。そうでもしなければ、きっと臼井さんには出会えなかったでしょうからね。今じゃ、付き合う女性は彼女しか考えられません」

 そして、さりげなく惚気のろけけている。

「お付き合いを始めたからには、臼井さんを泣かすようなことをしたら、絶対に許しませんからね。ああ、私だけじゃなくて、なにかあったら他の先生達が、メスを両手に、下田さんを追い掛け回すかもしれませんよ」
「え、臼井さんって、そんなに先生達にもてるんですか?」

 なんだか心配になってきたぞと、下田さんが難しい顔をしてつぶやくので、笑って手を振った。

「ああ、違いますよ。そういう意味でもてるっていうのじゃなくて」

 まあたしかに、臼井さんに好意を持っていた、若い先生やら患者さんがいたけれど、臼井さんは仕事中に、そういう気持ちになるような人じゃない。本人いわく、以前に勤めていた病院で、一度だけそんな気分におちいったことがあったらしい。そしてその一件で、別の患者さんに八つ当たりしてしまい、後で随分と自己嫌悪におちいったそうだ。

「私が言っているのは、優秀な看護師さんなので、頼りにしているスタッフや患者さんが多いってことです。つまり臼井さんファンですね、もしくは崇拝者? まあとにかく、そんな感じです」
「なるほど」

 下田さんはますます厄介ですねえと、困ったように笑っている。

「入院中に白衣の天使様に恋する男は多いとは聞いていましたが、崇拝者がいるとまでは考えていなかったな。……そう考えると南山も、白衣の先生にしてやられたってやつなのかな」
「南山さんはお腹の中をのぞかれてお婿むこに行けないから、責任とってくれって言ってましたよ」

 私の言葉に、下田さんは噴き出した。

「あいつらしいや」
「あ、そうだ。下田さん、パスポートの申請書類は、イブまで待ってくださいね。早く渡すつもりで戸籍抄本も用意したんですけれど、色々と事情が」

 事情というのは、例のカメラを持ち込んだ人のせいで、顔の一部分に変な色をしているところが、まだ残っているってことだ。東出ひがしで先生が出してくれた薬のお蔭で、派手な色にはならなかったものの、よーく見るとあとがまだしっかりと残っていた。

 お化粧で隠せないこともなかったけれど、この先しばらく使うであろうパスポートの写真が、厚化粧の顔というのもイヤだったので、下田さんには申し訳ないけど、もう少し待ってもらうことにする。

「それはかまいませんよ。こうやって顔を合わせることがあって、早めに渡してもらえばラッキー程度だったから、年内で十分です。でも、災難でしたね。不審者に遭遇して殴られるなんて」
「まったくですよ」

 ほんと、東出先生の言葉じゃないけど、普段しないようなことをしたらロクなことが無いって、今回のことで良ーく分かった。もう危ないことには、できるだけ近寄らないようにしておかなくては。

「しかし院内で盗撮だなんて、どんな趣味をしてるんでしようね」
「その手の変態さんの頭の中までは、CTを使っても謎のままでしょうね……」

 実のところ、その人の目的が極秘入院したあの極秘入院した議員先生だってことは、院内のごく限られた人間だけの秘密だ。臼井さんもつめ所にいた看護師の一人だったから、事情を知っている一人ではあったけれど、今のところは下田さんには伝わっていないようだし、理事長先生の箝口令かんこうれいは、うまく機能しているみたい。

「あ、このあざのことは南山さんには伝えてないので、黙ったままでいてくださいね? 下手に心配させちゃうのもアレなので」
「わかってますよ。地球の裏側からじゃ、すぐに駆け付けられませんからね。黙っておきます」

 あざが綺麗に消え去って、二人でゆっくり話せる時が来たら、極秘入院した先生のこと以外は、病院で起きた事件の一つとして話してあげようと思っている。だからそれまでは、こっちに残っている者同士の秘密だ。

 そこへ私服に着替えた臼井さんが出てきたらしく、通用口を見ていた下田さんの顔がパッと明るくなった。

「あ、先生、お疲れ様です」

 臼井さんも下田さんに手を振ってから、恥ずかしそうに私に頭を軽く下げてきた。

「臼井さんもお疲れ様。じゃあ、私はこれで」
「渡せる用意ができたら、彩乃あやのさんに言ってください。俺に連絡が届きますから」
「わかりました。じゃあ」

 軽く会釈えしゃくをして、アパートへの道を歩き始める。

「彩乃さんだって……うふっ」

 そっと後ろを振る帰ると、立ち去る下田さんと臼井さんの背中が見えた。楽しそうに話をしている様子が、ここからでも伝わってくる。そして臼井さんが笑いながら、下田さんと手をつないででブンブンと手を振り回した。

「なるほど。言い寄ったのは下田さんだったけど、今は臼井さん方がリードしているって感じなのね」

 楽しそうな二人の背中をながめていると、お付き合いを始めた頃の私達も、あんな感じだったのかなって少しだけ恥ずかしくなった。

「……もしかしたらあの二人も、ゴールインしちゃうのかな」

 あ、そうなるとまた、外務省に優秀な病院スタッフを引き抜かれちゃうって、理事長先生が嘆くかもしれない。理事長先生のためにも、下田さんが現場第一主義の外交官志望でなくて、臼井さんが病院にとどまることができるように祈るばかりだ。

 そんなことを考えながら、途中のコンビニで明日のクリームパンとコーヒー牛乳を買って、アパートにまっすぐ戻った。帰宅してからもやることがたくさんあって、頭の中できちんと予定を立てているので、のんびりもしていられないのだ。

 ここ最近の私は、自宅に戻ってから裕章さんのところに持っていくもの、実家の自分の部屋に戻すもの、そして不要なものの分別でいそがしい。たった二年しか住んでいないのに、随分と物が増えたものだと、自分で自分の捨てられなさにあきれている最中だ。

 裕章さんが迎えに来てくれるのは四月に入ってからなので、それまでにアパートを引き払っておかなくてはいけないし、旅行じゃない海外滞在なんて初めてのことだから、なにを持って行ったら良いのかさっぱりだ。大抵のものは現地にあるから大丈夫と言われていても、やはり使い慣れたものは手放したくないし。

 ああ、もちろん裕章さんがくれたボールペン達は、持って行くものリストの筆頭で、つれて行くことになっている。

「まずは腹ごしらえよね」

 コートを脱いでハンガーにかけると、キッチンに立った。昨日のうちに作っておいたおでんは、おつゆがしみていい具合になっている。食べたい具をお皿に入れて、電子レンジで温めながらご飯をお茶碗によそう。

「……私、ちゃんとやっていけるのかな」

 お茶碗に盛られたご飯を見つめていたら、なにを今さらな言葉が口から飛び出してしまった。

 一人でいる時なら、なにをするにも適当で良かったけれど、裕章さんと暮らし始めたらそうもいかなくなる。

 もちろん、今までみたいに病院でフルタイム働くことはなくなるんだから、自宅にいる時間は格段に増えて、今までおろそかになっていた家の中のことも、ゆっくりできるようになるだろう。だけどご飯、ちゃんと裕章さんに作ってあげられるかな?

 お母さんが持たせてくれたおかずを、おいしいって喜んで食べてくれていたんだから大丈夫だとは思うけど、もし味覚が合わないってことになったら、一大事じゃない? 母親のレシピという心強い味方はあるけれど、遠く離れた異国の地で、昆布とか鰹節って手に入るんだろうか?

「……怪我の応急処置とかなら自信はあるんだけどなあ」

 温まったちくわをおはしでつまみ、プルンプルンと震えるそれを見つめた。お料理の応急処置なんて、私にできるかな~なんて考え始めたら、色々と心配なことがあれこれと頭に浮かんできた。

 あ、もしかしてこれってマリッジブルーってやつ?

「……味覚の相違もだけど、それより、私が大好きなクリームパンを食べられなくなるほうが一大事じゃない? あっちにこっちのコンビニみたいなお店って、ないのよね?」

 もしかしたら、そっちのほうが深刻かもしれない。コーヒー牛乳はともかく、クリームパンがないなんて。

 行く前に、裕章さんが住んでいる場所周辺のお店事情とか、色々と聞いておかなくちゃ。そんなことを考えながら、ニュースを見ながらちくわをほおばった。

 相変わらず世界では物騒なことが起きている。日本に住んでいると、そこまで深刻だとは受け止められていない宗教や思想の相違、そして生活している人達の経済格差。裕章さんと諸外国を回ることによって、どんな私の知らない世界の現実が見えてくるんだろう。そしてそれが、どんなふうに私達夫婦に影響してくるのかな。

「……夫婦」

 自分でそう考えたくせに急に恥ずかしくなって、その場でキャーとか言いながらひっくり返った。その拍子にテーブルの角でくるぶしを強打して、ひっくり返りながら悶絶もんぜつしてしまう。

「う、うううっ、マリッジブルーより、こっちのほうが私に似合ってる……っ」

 痛みでジタバタしながら、さっさとご飯を食べることにした。まだまだやることはたくさんあるんだから、くるぶし強打ぐらいで、呑気のんき悶絶もんぜつしている場合ではないのだ。

 そしてその日も遅くまで、クローゼットの中に溜め込んだ色々なものの分別をすることになった。
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