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本編
第二十八話 お留守番
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「んー寒い……寒い?」
何で八月のこの時期に寒いなんて言葉が飛び出ちゃったんだろ……そう思いながら片目を開ける。私、真夏でも長袖のパジャマの上下をしっかり着込んで寝る子なんだけどね、ほら、最近は信吾さんのせいで着てないことがあったりするから、それで寒いのかなって思ってた。
だけど今日はちゃんとパジャマ着てる……ズボンははいてないけど。あ、もしかして。
「……冷房ついてる……有り得ない……」
誰がつけたかなんて聞くまでもない。隣で寝ている信吾さんがつけたんだ。もー何でよ、まだ明け方前じゃない、今夜は熱帯夜じゃないよ? それにここ、けっこう風通し良いし。リモコンは……信吾さんの向こう側のサイドテーブルに置いてある。むむむっ。信吾さんを乗り越えるようにして匍匐前進……こんな言葉まで覚えちゃったよ……してリモコンを奪取、冷房を送風に切り替えた。完全に電源を切らなかっただけでも感謝して欲しいぞ?
そんな風には見えないのに暑いの苦手っぽいんだよね、信吾さん。演習中とかは全然平気な顔してるらしいんだけど、自宅ではそのぶん全く我慢してないみたい。でも私は寒いのイヤ。送風にしたけどやっぱり寒いからタオルケットを持って避難することにした。向かったのはリビングのソファ。いつもお昼寝で使っているので寝心地は最高の部類だし、ここで寝ることにする。
そして次に目が覚めればベッドに連れ戻されてた……今度は冷房ついてない、良かった。そのかわりっていうか後ろからしっかりと腕が回されていて身動きが取れない。しかも私の足の間に信吾さんの足が挟まっていて何ともややこしい状態になっている。
簡単に言うと相手に気付かれずに逃げるのは不可能な状態ってやつ? さっき抜け出した時は全く気がつかなかったんだよね、きっと。だから今度はこんなことして私が勝手にベッドから抜け出さないように捕まえてるつもりみたい。暑いの苦手なのにこんなにべったりくっついてたら更に暑いでしょ?って聞きたいよ。壁にかかっている時計を見れば、信吾さんが起きなきゃいけない時間まであと三十分。仕方無いなあ……と心の中で溜め息をつきながらそのまま目を閉じた。
三度目に目が覚めた時には信吾さんはベッドから出てこちらに背中を向けて制服に着替えているところだった。先週末にギプスを小さいものにしたので大概のことは問題なく一人で出来るようになって本人もホッとしているみたいだ。ただ、背中を流すのとシャンプーだけはまだ私がしてあげるんだけどね。
「おはよ……起こしてくれたら良いのに」
「たまにはゆっくり寝てればいいじゃないか。せっかくの夏休みだろ? 別に俺に付き合って起きることはないぞ」
肩越しにこちらを見ながら笑う信吾さん。
「でも朝ご飯一緒に食べれないでしょ、そんなことしたら」
「ポットのお湯がそろそろ沸く頃だな。俺はコーヒーにするつもりで用意しているが奈緒は何がいい?」
「お茶にする。まだ時間あるんだよね、フレンチトースト作ったら食べる? 私、甘いモノが食べたい気分なの」
「普通のトーストでいいよ」
「ふーん。じゃあオムレツ作ってあげるよ」
返事を待たずにベッドから降りると部屋を出た。今日も良いお天気だ、信吾さんが出掛けたら先ずはお布団を干してお洗濯しよう。
「今日から霧島さんところの坊主どもが遊びに来るんだったか?」
「うん。泊まりは叔母さんの実家なんだけどね。せっかくだから東京のおのぼりさんツアーしようって話なの」
「ビルばっかりでクソ暑いのにまた御苦労なことで」
暑がりの信吾さんらしい言葉だ。
「あっちの子供達の間で人気のコミックが東京を舞台にしたものらしくてね。ある意味、聖地巡礼しにくるみたいよ? それ、私も見たことのあるコミックだから面白そうなんで付き合うんだ」
「へえ……チビ共も?」
「ううん。おチビちゃん達は叔母さん達と一緒に直ぐにお家へ直行だって。司君と一緒にくるお友達三人のお供が私。叔母さんからよろしくって軍資金もらっちゃって逆に申し訳ないみたい」
「この時期、都内は人が逆に少ないからいいが、気をつけろよ。よその子供を預かるんだから」
「心配ないって。だいたいさ、中学生だよ? 最近じゃ修学旅行で初めての街で自由行動しちゃえるような年頃なんだから大丈夫だよ。きっと私が皆に連れていってもらう感じになるんだと思う」
ハムとチーズ入りのオムレツ出来上がり。付け合わせにピクルスの瓶を出してみる。あまり酸っぱくなくて美味しく漬かっているから酸っぱいの苦手な信吾さんにも好評だ。レシピを教えてくれた茉莉さんには感謝しなくちゃ。
「今晩、皆で焼き肉パーティーしようかって話になっていて私と信吾さんも招待されているんだけど、帰ってこれそうな感じ?」
「どうかな……ここだけの話、ちょっと色々とあってしばらくは遅くなりそうだ」
「信吾さん個人で困ったこと?」
「いや違う、それは無いから安心していい」
れいのお父さんの元奥さんのことがあるから色々と心配だよ。信吾さんはちょっと考え込むような顔をしてからこちらを見た。
「……多分、近いうちに半月ほど“出張”になると思う」
「そっか……うん、分かった。用意するものとかあるなら言ってね、ちゃんと手伝うから」
「ああ。だから今晩は俺に遠慮せずに行ってきたらいいぞ?」
「うん。じゃあ、そうさせてもらうね」
不安になるけど詳しくは聞かない。今は同じ特作の奥様達ともお知り合いになったから少しましなんだ。同じ気持ちを共有できる人が側にいてくれるって本当に心強いよ。
「ところで話は変わるが。奈緒、お前、いつのまに俺に気づかれることなくベッドを抜け出す技を身につけた?」
「技なんて何もしてないよ?」
焼き上がったフレンチトーストをお皿にのせると軽くお砂糖をふってテーブルについた。これにピクルスは合わないなーと思いつつ、キュウリを瓶から引っ張り出す。
「今日だって出る前にリモコンを取る為に信吾さんの上に乗っかったんだけど、それでも起きなかったよね? 気がついたのはいつ?」
「なんとなく暑くなってきたから目が覚めたら隣にいるはずの奈緒がいなかった、そんな感じだ」
「最初はそんなことなかったよね、なんでだろ。……もしかして信吾さん、怠けてる?」
「んなわけないだろ、日々の訓練はちゃんとこなしているし、成績も上位一割以内キープだぞ?」
物凄く憤慨されてしまった。そうなのか。
「だいたい信吾さん、寝起きが凄くいい筈なのに私が起こしても全然起きないよね。最初の頃はパチッて目を覚ましていたけどさ。あ、もしかして私、一緒に居過ぎて空気扱いされてる?」
「あー……」
「え、本当に空気?」
「いや、空気っていうか自分の腕が顔に当っても起きないのと同じだと思う」
「つまりは私も信吾さんの一部扱いってこと? んー……ん? その理屈で言うと、私でもそのうち信吾さんに不意打ち可能になるってこと?」
あ、なんだか楽しそう。あーんなことや、こーんなことして驚かせたり出来るかな。
「おい、何を考えてる」
「ん? フレンチトーストにピクルスは合わないからどうしようかなって考えてるだけ」
「嘘をつけ嘘を。今、物凄く邪悪な雰囲気になったぞ」
「そーかなあ……フレンチトーストにはフルーツの方が良いかなぁとか考えていたんだけどな」
無邪気な顔をして信吾さんの顔を見詰めてみた。あ、全然信じてない顔されちゃってるよ。ちぇっ、つまんなーい。
「いっつも驚かされてばかりだから、たまには仕返しできたら楽しいかなって考えてるだけだよぉ。別に邪悪なことなんて考えてないもん」
「お前は子供か……」
「いいじゃない、たまには」
ドアチャイムが鳴った。時間ピッタリ、安住さんのお迎えだ。信吾さんは手にしていた新聞をテーブルに置くとご馳走様と言って席を立ち、ソファに置いてあった荷物を手に玄関へと向かう。私がその後ろをついて行こうとしたら、廊下の手前でいきなり振り返ってデコピンしてきた。何その不意打ちはっ!
「い、痛いよ、信吾さんっ」
何するのよっと睨んだら呆れた顔をしている信吾さん。
「奈緒、その格好で安住の前に出てくるつもりか?」
「ん? わあ……」
言われて自分を見下ろして思わず慌てる。エプロンはしてたけどパジャマのズボンはいてなかったよ。また安住さんがとばっちりを食らう羽目になるところだった、危ない危ない。
「ここまででいいから」
「……うん、行ってらっしゃい」
「行ってくる」
リビングから顔を覗かせるだけのお見送りだけど仕方ないよね。だってズボンを急いではいて出て行っても結局は所詮パジャマなんだし。ドアを開ける寸前、信吾さんの手が後ろに回されてきて引っ込めと合図を送ってきた。えー、顔だけしか出してないよー。鍵を開ける音がするまで引っ込んだけど、その後はこっそりと顔を覗かせた。安住さんが空気を読んでくれればバレずにお見送りできるはず。多分ね。
「おはようございます、三佐」
「すまないな、安住」
「いえ」
私がこっそり覗いているのに気がついた安住さんは、信吾さんが背中を向けている隙にちょっとだけ口元に笑みを浮かべるとこちらに軽く頭を下げてきた。だけどきっと何で出てこないんだろうって不思議に思ってるよね、安住さん。
「三佐、奥様は具合でもお悪いんですか?」
「いや、困るぐらい元気だ」
おおぅ、質問を許さないって口調だよ。そのままドアが閉まって二人の姿は見えなくなったけれど大丈夫かな安住さん。変なこと聞いて腕立て伏せ三百回とか四百回とか言われないか心配だよ? ベランダに出てしばらく下を見ていたら信吾さんと安住さんが出てきた。
「行ってらっしゃーい」
声をかけて手を振ったら二人ともこっちを見上げてくれて、信吾さんは手を振ってくれた。だけど顔はさっさと引っ込めだったような気がする。
+++++
叔母さんの実家で夕飯をご馳走になって家に着いたのは十時ちょっと前。郵便受けの中に入っていたダイレクトメールとかもそのままだったから信吾さんはまだ帰宅してないみたい。部屋に入ると熱気でムッとしていたので急いで窓を開けてからエアコンをつけた。夕立がきても大丈夫なようにとベランダの内側に干していた洗濯物もすっかり乾いている。
……だけど最近の中学生って女の子でも発育良いねえ、私と変わらないっていうかもう色々な意味で抜かされてる気がするよ? そして意外と東京近郊に住んでいると、わざわざ行くこともないかって感じで行ったことのない場所が結構多いってこともよーく分かった。特に大学と自宅の往復が殆どだった私なんて知らないところが殆ど。司君のお友達の方が詳しいことが判明した時にはちょっとショックを受けちゃった。
とは言え、お年頃に女の子らしい感覚も持っていて、立ち寄った甘味屋さんでは散々結婚について質問されてしまったよ。どういうきっかけで? どんな人? 毎日どんなふうな生活を? などなど。ちょっとしたプチ芸能リポーターみたいだった。そして一番盛り上がっていたのが年の差のこと。私はあんまり意識してないんだけど意外と彼女達にとってはツボだったみたい。
「そーんなに萌萌言うほどのことかなあ……」
たまたま好きになった人が年上だったってだけなんだけどな。
そんなことを呟きながらお風呂の用意をする。焼肉パーティはお腹いっぱいになったし久し振りに賑やかな雰囲気で食べたので楽しかったけど、服や髪の毛に強烈な焼肉臭がつくのが難点なんだよねえ。服、今晩のうちに洗濯しちゃおう。
先ずはさっさと焼肉臭を落としたくてシャワーで汗を流すと洗顔より前にシャンプーから開始。お気に入りのハーブの匂いに包まれてほっと一息つきながら髪を洗い終えたところでクレンジング。
モコモコの泡でマッサージしながら鼻歌を歌っていた時に何となく玄関で物音がした気がしたんだけど、お隣さんの生活音の時もあるからさして気にしてなかったんだ。だから久し振りの一人で入るお風呂で呑気に鼻歌を続行して泡を洗い流して目を開けたら、鏡の中に信吾さんを見つけたものだから……ちょっとしたホラーだよ? だから女の子らしからぬ“ひぎゃあっ”なんていう悲鳴をあげちゃったのは勘弁して欲しい。しかも尻餅ついちゃったし、結構いろいろとダメージを受けた。
「なんだ酷いな、その反応。俺は化け物じゃないぞ」
「だ、だから気配を消して近付いてこないでって言ってるじゃないっ! 今のは結構なガチホラーだったよ?!」
「まあ確かに映画の中でよくそんな反応してるな。リアルで見たのは初めだが。俺は結構堂々と音を立てながら帰ってきたし、ここにもそうやって入ってきたぞ?」
「うそだあー」
絶対に嘘だ。帰ってきた時はそうだったかもしれないど、お風呂にはいつもみたいに気配消して入ってきたに違いないんだ。わー、もう悔しいっ!!
「テープ……ちゃんと巻けてるじゃない……」
「そりゃ毎日、奈緒がしてくれるのを観察しているからな。利き腕が無事で良かったよ、左ではこう上手くは出来そうにないから」
「合格です。場所、変わってあげる」
「まだ途中だろ?」
「半分は終わってるから、いいよ」
そう言ってお湯を自分の体にかけてから今まで自分が座っていた場所に信吾さんを座らせた。悔しいけど怪我人をそんなところに中腰にさせておくわけにはいかないじゃない、滑って転んでまた折れちゃったら困るし。
「背中、洗ってあげるね」
「なんだ、もう怒ってないのか?」
「それとこれとは別。腰抜かすほど驚かされて腹は立ってるけど、それはまた次の機会に頑張って仕返し考えるもん」
「こわいこわい」
それからお風呂の中で司君のお友達とのことを色々話して聞かせた。女の子だったって分かってあからさまにホッとした顔するのはやめてよね、本当に変なところで子供っぽいんだから。
「幼馴染みって憧れちゃうね。私そういう存在の友達っていないから羨ましかったよ」
「そういうものかな」
「うん……どうしたの?」
お風呂から出ても何だかいつもの乗りと違う信吾さんの雰囲気に首を傾げてしまう。
「何か嫌なことあった?」
「……嫌なことじゃあないな。ただ……」
「ただ?」
「明日から陸自の先遣隊のメンバーとして東南アジアの某国に派遣されることになった」
「ボウコク?」
はっきりしない言い方だなって心の中で首を傾げた。
「そう某国。明日になったら先遣隊が派遣されるというニュースにはなるかもしれないが、それまでは行き先も秘密だ」
「期間はやっぱり半月?」
「一カ月程度としか今のところは俺も聞いていない。それこそ本隊が来てからの情勢次第だな」
「そっかー。暑いのに暑いところに行くなんて大変だね、まあ、砂漠よりかはマシだろうけど」
「どうだろうなあ……五十度と多湿、どちらも嫌だな……」
暑いのが苦手な信吾さんはとっても憂鬱そう。その口ぶりからしてどちらも行ったことがあるみたいだ。
「本体が派遣された時の活動の為には必要なことなんだよね?」
「ああ、具体的に何をするかまでは話すことは出来ないが」
「大丈夫だよ、無理に話さなくても。もう大学生なんだしニュースでだってネットでだって情報は入ってくるんだから、信吾さん達がどんな仕事をしなきゃいけない部署にいるかぐらい想像ついてるし。ただ、そのことと今回の先遣隊の話が上手く繋がらないってだけでね」
私の言葉に、信吾さんはすまなさそうな顔をしてちゃんと説明してやれなくてゴメンなって言ってくれた。だから今はそれで充分なの。その夜は遅くまで愛し合った。朝も早いんだからほどほどにしないと響くよって言ったら、これから先一ヶ月も抱けなくなるんだぞ?だって。本当に元気だよね、信吾さんって。
そして次の日の夕方、陸自がPKOに先駆け東南アジアのある国に何名かの自衛官を先遣隊として派遣したというニュース映像が流れていた。そして同じニュース内で東南アジアを歴訪する為に総理大臣が出発したということも流れていて、その映像の中には重光先生も映っていた。これって偶然?
何で八月のこの時期に寒いなんて言葉が飛び出ちゃったんだろ……そう思いながら片目を開ける。私、真夏でも長袖のパジャマの上下をしっかり着込んで寝る子なんだけどね、ほら、最近は信吾さんのせいで着てないことがあったりするから、それで寒いのかなって思ってた。
だけど今日はちゃんとパジャマ着てる……ズボンははいてないけど。あ、もしかして。
「……冷房ついてる……有り得ない……」
誰がつけたかなんて聞くまでもない。隣で寝ている信吾さんがつけたんだ。もー何でよ、まだ明け方前じゃない、今夜は熱帯夜じゃないよ? それにここ、けっこう風通し良いし。リモコンは……信吾さんの向こう側のサイドテーブルに置いてある。むむむっ。信吾さんを乗り越えるようにして匍匐前進……こんな言葉まで覚えちゃったよ……してリモコンを奪取、冷房を送風に切り替えた。完全に電源を切らなかっただけでも感謝して欲しいぞ?
そんな風には見えないのに暑いの苦手っぽいんだよね、信吾さん。演習中とかは全然平気な顔してるらしいんだけど、自宅ではそのぶん全く我慢してないみたい。でも私は寒いのイヤ。送風にしたけどやっぱり寒いからタオルケットを持って避難することにした。向かったのはリビングのソファ。いつもお昼寝で使っているので寝心地は最高の部類だし、ここで寝ることにする。
そして次に目が覚めればベッドに連れ戻されてた……今度は冷房ついてない、良かった。そのかわりっていうか後ろからしっかりと腕が回されていて身動きが取れない。しかも私の足の間に信吾さんの足が挟まっていて何ともややこしい状態になっている。
簡単に言うと相手に気付かれずに逃げるのは不可能な状態ってやつ? さっき抜け出した時は全く気がつかなかったんだよね、きっと。だから今度はこんなことして私が勝手にベッドから抜け出さないように捕まえてるつもりみたい。暑いの苦手なのにこんなにべったりくっついてたら更に暑いでしょ?って聞きたいよ。壁にかかっている時計を見れば、信吾さんが起きなきゃいけない時間まであと三十分。仕方無いなあ……と心の中で溜め息をつきながらそのまま目を閉じた。
三度目に目が覚めた時には信吾さんはベッドから出てこちらに背中を向けて制服に着替えているところだった。先週末にギプスを小さいものにしたので大概のことは問題なく一人で出来るようになって本人もホッとしているみたいだ。ただ、背中を流すのとシャンプーだけはまだ私がしてあげるんだけどね。
「おはよ……起こしてくれたら良いのに」
「たまにはゆっくり寝てればいいじゃないか。せっかくの夏休みだろ? 別に俺に付き合って起きることはないぞ」
肩越しにこちらを見ながら笑う信吾さん。
「でも朝ご飯一緒に食べれないでしょ、そんなことしたら」
「ポットのお湯がそろそろ沸く頃だな。俺はコーヒーにするつもりで用意しているが奈緒は何がいい?」
「お茶にする。まだ時間あるんだよね、フレンチトースト作ったら食べる? 私、甘いモノが食べたい気分なの」
「普通のトーストでいいよ」
「ふーん。じゃあオムレツ作ってあげるよ」
返事を待たずにベッドから降りると部屋を出た。今日も良いお天気だ、信吾さんが出掛けたら先ずはお布団を干してお洗濯しよう。
「今日から霧島さんところの坊主どもが遊びに来るんだったか?」
「うん。泊まりは叔母さんの実家なんだけどね。せっかくだから東京のおのぼりさんツアーしようって話なの」
「ビルばっかりでクソ暑いのにまた御苦労なことで」
暑がりの信吾さんらしい言葉だ。
「あっちの子供達の間で人気のコミックが東京を舞台にしたものらしくてね。ある意味、聖地巡礼しにくるみたいよ? それ、私も見たことのあるコミックだから面白そうなんで付き合うんだ」
「へえ……チビ共も?」
「ううん。おチビちゃん達は叔母さん達と一緒に直ぐにお家へ直行だって。司君と一緒にくるお友達三人のお供が私。叔母さんからよろしくって軍資金もらっちゃって逆に申し訳ないみたい」
「この時期、都内は人が逆に少ないからいいが、気をつけろよ。よその子供を預かるんだから」
「心配ないって。だいたいさ、中学生だよ? 最近じゃ修学旅行で初めての街で自由行動しちゃえるような年頃なんだから大丈夫だよ。きっと私が皆に連れていってもらう感じになるんだと思う」
ハムとチーズ入りのオムレツ出来上がり。付け合わせにピクルスの瓶を出してみる。あまり酸っぱくなくて美味しく漬かっているから酸っぱいの苦手な信吾さんにも好評だ。レシピを教えてくれた茉莉さんには感謝しなくちゃ。
「今晩、皆で焼き肉パーティーしようかって話になっていて私と信吾さんも招待されているんだけど、帰ってこれそうな感じ?」
「どうかな……ここだけの話、ちょっと色々とあってしばらくは遅くなりそうだ」
「信吾さん個人で困ったこと?」
「いや違う、それは無いから安心していい」
れいのお父さんの元奥さんのことがあるから色々と心配だよ。信吾さんはちょっと考え込むような顔をしてからこちらを見た。
「……多分、近いうちに半月ほど“出張”になると思う」
「そっか……うん、分かった。用意するものとかあるなら言ってね、ちゃんと手伝うから」
「ああ。だから今晩は俺に遠慮せずに行ってきたらいいぞ?」
「うん。じゃあ、そうさせてもらうね」
不安になるけど詳しくは聞かない。今は同じ特作の奥様達ともお知り合いになったから少しましなんだ。同じ気持ちを共有できる人が側にいてくれるって本当に心強いよ。
「ところで話は変わるが。奈緒、お前、いつのまに俺に気づかれることなくベッドを抜け出す技を身につけた?」
「技なんて何もしてないよ?」
焼き上がったフレンチトーストをお皿にのせると軽くお砂糖をふってテーブルについた。これにピクルスは合わないなーと思いつつ、キュウリを瓶から引っ張り出す。
「今日だって出る前にリモコンを取る為に信吾さんの上に乗っかったんだけど、それでも起きなかったよね? 気がついたのはいつ?」
「なんとなく暑くなってきたから目が覚めたら隣にいるはずの奈緒がいなかった、そんな感じだ」
「最初はそんなことなかったよね、なんでだろ。……もしかして信吾さん、怠けてる?」
「んなわけないだろ、日々の訓練はちゃんとこなしているし、成績も上位一割以内キープだぞ?」
物凄く憤慨されてしまった。そうなのか。
「だいたい信吾さん、寝起きが凄くいい筈なのに私が起こしても全然起きないよね。最初の頃はパチッて目を覚ましていたけどさ。あ、もしかして私、一緒に居過ぎて空気扱いされてる?」
「あー……」
「え、本当に空気?」
「いや、空気っていうか自分の腕が顔に当っても起きないのと同じだと思う」
「つまりは私も信吾さんの一部扱いってこと? んー……ん? その理屈で言うと、私でもそのうち信吾さんに不意打ち可能になるってこと?」
あ、なんだか楽しそう。あーんなことや、こーんなことして驚かせたり出来るかな。
「おい、何を考えてる」
「ん? フレンチトーストにピクルスは合わないからどうしようかなって考えてるだけ」
「嘘をつけ嘘を。今、物凄く邪悪な雰囲気になったぞ」
「そーかなあ……フレンチトーストにはフルーツの方が良いかなぁとか考えていたんだけどな」
無邪気な顔をして信吾さんの顔を見詰めてみた。あ、全然信じてない顔されちゃってるよ。ちぇっ、つまんなーい。
「いっつも驚かされてばかりだから、たまには仕返しできたら楽しいかなって考えてるだけだよぉ。別に邪悪なことなんて考えてないもん」
「お前は子供か……」
「いいじゃない、たまには」
ドアチャイムが鳴った。時間ピッタリ、安住さんのお迎えだ。信吾さんは手にしていた新聞をテーブルに置くとご馳走様と言って席を立ち、ソファに置いてあった荷物を手に玄関へと向かう。私がその後ろをついて行こうとしたら、廊下の手前でいきなり振り返ってデコピンしてきた。何その不意打ちはっ!
「い、痛いよ、信吾さんっ」
何するのよっと睨んだら呆れた顔をしている信吾さん。
「奈緒、その格好で安住の前に出てくるつもりか?」
「ん? わあ……」
言われて自分を見下ろして思わず慌てる。エプロンはしてたけどパジャマのズボンはいてなかったよ。また安住さんがとばっちりを食らう羽目になるところだった、危ない危ない。
「ここまででいいから」
「……うん、行ってらっしゃい」
「行ってくる」
リビングから顔を覗かせるだけのお見送りだけど仕方ないよね。だってズボンを急いではいて出て行っても結局は所詮パジャマなんだし。ドアを開ける寸前、信吾さんの手が後ろに回されてきて引っ込めと合図を送ってきた。えー、顔だけしか出してないよー。鍵を開ける音がするまで引っ込んだけど、その後はこっそりと顔を覗かせた。安住さんが空気を読んでくれればバレずにお見送りできるはず。多分ね。
「おはようございます、三佐」
「すまないな、安住」
「いえ」
私がこっそり覗いているのに気がついた安住さんは、信吾さんが背中を向けている隙にちょっとだけ口元に笑みを浮かべるとこちらに軽く頭を下げてきた。だけどきっと何で出てこないんだろうって不思議に思ってるよね、安住さん。
「三佐、奥様は具合でもお悪いんですか?」
「いや、困るぐらい元気だ」
おおぅ、質問を許さないって口調だよ。そのままドアが閉まって二人の姿は見えなくなったけれど大丈夫かな安住さん。変なこと聞いて腕立て伏せ三百回とか四百回とか言われないか心配だよ? ベランダに出てしばらく下を見ていたら信吾さんと安住さんが出てきた。
「行ってらっしゃーい」
声をかけて手を振ったら二人ともこっちを見上げてくれて、信吾さんは手を振ってくれた。だけど顔はさっさと引っ込めだったような気がする。
+++++
叔母さんの実家で夕飯をご馳走になって家に着いたのは十時ちょっと前。郵便受けの中に入っていたダイレクトメールとかもそのままだったから信吾さんはまだ帰宅してないみたい。部屋に入ると熱気でムッとしていたので急いで窓を開けてからエアコンをつけた。夕立がきても大丈夫なようにとベランダの内側に干していた洗濯物もすっかり乾いている。
……だけど最近の中学生って女の子でも発育良いねえ、私と変わらないっていうかもう色々な意味で抜かされてる気がするよ? そして意外と東京近郊に住んでいると、わざわざ行くこともないかって感じで行ったことのない場所が結構多いってこともよーく分かった。特に大学と自宅の往復が殆どだった私なんて知らないところが殆ど。司君のお友達の方が詳しいことが判明した時にはちょっとショックを受けちゃった。
とは言え、お年頃に女の子らしい感覚も持っていて、立ち寄った甘味屋さんでは散々結婚について質問されてしまったよ。どういうきっかけで? どんな人? 毎日どんなふうな生活を? などなど。ちょっとしたプチ芸能リポーターみたいだった。そして一番盛り上がっていたのが年の差のこと。私はあんまり意識してないんだけど意外と彼女達にとってはツボだったみたい。
「そーんなに萌萌言うほどのことかなあ……」
たまたま好きになった人が年上だったってだけなんだけどな。
そんなことを呟きながらお風呂の用意をする。焼肉パーティはお腹いっぱいになったし久し振りに賑やかな雰囲気で食べたので楽しかったけど、服や髪の毛に強烈な焼肉臭がつくのが難点なんだよねえ。服、今晩のうちに洗濯しちゃおう。
先ずはさっさと焼肉臭を落としたくてシャワーで汗を流すと洗顔より前にシャンプーから開始。お気に入りのハーブの匂いに包まれてほっと一息つきながら髪を洗い終えたところでクレンジング。
モコモコの泡でマッサージしながら鼻歌を歌っていた時に何となく玄関で物音がした気がしたんだけど、お隣さんの生活音の時もあるからさして気にしてなかったんだ。だから久し振りの一人で入るお風呂で呑気に鼻歌を続行して泡を洗い流して目を開けたら、鏡の中に信吾さんを見つけたものだから……ちょっとしたホラーだよ? だから女の子らしからぬ“ひぎゃあっ”なんていう悲鳴をあげちゃったのは勘弁して欲しい。しかも尻餅ついちゃったし、結構いろいろとダメージを受けた。
「なんだ酷いな、その反応。俺は化け物じゃないぞ」
「だ、だから気配を消して近付いてこないでって言ってるじゃないっ! 今のは結構なガチホラーだったよ?!」
「まあ確かに映画の中でよくそんな反応してるな。リアルで見たのは初めだが。俺は結構堂々と音を立てながら帰ってきたし、ここにもそうやって入ってきたぞ?」
「うそだあー」
絶対に嘘だ。帰ってきた時はそうだったかもしれないど、お風呂にはいつもみたいに気配消して入ってきたに違いないんだ。わー、もう悔しいっ!!
「テープ……ちゃんと巻けてるじゃない……」
「そりゃ毎日、奈緒がしてくれるのを観察しているからな。利き腕が無事で良かったよ、左ではこう上手くは出来そうにないから」
「合格です。場所、変わってあげる」
「まだ途中だろ?」
「半分は終わってるから、いいよ」
そう言ってお湯を自分の体にかけてから今まで自分が座っていた場所に信吾さんを座らせた。悔しいけど怪我人をそんなところに中腰にさせておくわけにはいかないじゃない、滑って転んでまた折れちゃったら困るし。
「背中、洗ってあげるね」
「なんだ、もう怒ってないのか?」
「それとこれとは別。腰抜かすほど驚かされて腹は立ってるけど、それはまた次の機会に頑張って仕返し考えるもん」
「こわいこわい」
それからお風呂の中で司君のお友達とのことを色々話して聞かせた。女の子だったって分かってあからさまにホッとした顔するのはやめてよね、本当に変なところで子供っぽいんだから。
「幼馴染みって憧れちゃうね。私そういう存在の友達っていないから羨ましかったよ」
「そういうものかな」
「うん……どうしたの?」
お風呂から出ても何だかいつもの乗りと違う信吾さんの雰囲気に首を傾げてしまう。
「何か嫌なことあった?」
「……嫌なことじゃあないな。ただ……」
「ただ?」
「明日から陸自の先遣隊のメンバーとして東南アジアの某国に派遣されることになった」
「ボウコク?」
はっきりしない言い方だなって心の中で首を傾げた。
「そう某国。明日になったら先遣隊が派遣されるというニュースにはなるかもしれないが、それまでは行き先も秘密だ」
「期間はやっぱり半月?」
「一カ月程度としか今のところは俺も聞いていない。それこそ本隊が来てからの情勢次第だな」
「そっかー。暑いのに暑いところに行くなんて大変だね、まあ、砂漠よりかはマシだろうけど」
「どうだろうなあ……五十度と多湿、どちらも嫌だな……」
暑いのが苦手な信吾さんはとっても憂鬱そう。その口ぶりからしてどちらも行ったことがあるみたいだ。
「本体が派遣された時の活動の為には必要なことなんだよね?」
「ああ、具体的に何をするかまでは話すことは出来ないが」
「大丈夫だよ、無理に話さなくても。もう大学生なんだしニュースでだってネットでだって情報は入ってくるんだから、信吾さん達がどんな仕事をしなきゃいけない部署にいるかぐらい想像ついてるし。ただ、そのことと今回の先遣隊の話が上手く繋がらないってだけでね」
私の言葉に、信吾さんはすまなさそうな顔をしてちゃんと説明してやれなくてゴメンなって言ってくれた。だから今はそれで充分なの。その夜は遅くまで愛し合った。朝も早いんだからほどほどにしないと響くよって言ったら、これから先一ヶ月も抱けなくなるんだぞ?だって。本当に元気だよね、信吾さんって。
そして次の日の夕方、陸自がPKOに先駆け東南アジアのある国に何名かの自衛官を先遣隊として派遣したというニュース映像が流れていた。そして同じニュース内で東南アジアを歴訪する為に総理大臣が出発したということも流れていて、その映像の中には重光先生も映っていた。これって偶然?
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