私の主治医さん - 二人と一匹物語 -

鏡野ゆう

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本編

第七話 東出先生、猫を飼う side - 東出

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「ここ最近、猫ちゃんは御無沙汰だけど、元気にしているのかい?」

 久し振りに、まともな時間に昼飯を食っていると、後からやって来た西入にしいりが、俺に声をかけながら正面に座ってきた。昨日の夕方に飛び込んできた緊急手術が、ようやく終わったらしい。

 長丁場をずっと手術室ですごしたというのに、なんでこの男は、こうまでも爽やかな顔でいられるのか、不思議でならない。以前、なにか秘密でもあるのかと尋ねたことがあるんだが、それはお互い様だろ?と言われただけだった。俺は、爽やかな顔をしているなんて一度も言われたことは無いんだが、なにがお互い様なのかさっぱり分からん。

「ああ、お蔭様でな。最近じゃ、部屋中あちこちをうろちょろと探索するから、うかつに物が置けなくて困る」

 昨日は置いてあった雑誌をクチャクチャにされたしなとぼやいたら、西入は、そりゃあ猫の見えるところに置いておくお前が悪いと言いやがった。まあそれはそうなんだろう。俺よりも猫の生態に詳しい猫田ねこだも、似たようなことを言っていたし。

「で、人間のほうの猫さんどうなんだい?」

 ブホッと変な咳が出、て口の中の米粒が飛び出しそうになった。

「別に隠し立てすることもないだろう。お前が病人を放って猫だけを預かるなんて、有り得ないことが分かる程度には長い付き合いなんだ。まだ居るんだろ? 猫の飼い主もお前の家に」
「仕方ないだろ。相手は一人暮らしで、生まれたばかりの猫の世話をしながら療養なんて、できないんだから。これは、緊急避難的措置ってやつだ。だが黙っておいてくれよ、バレたら倫理的にどうのこうのって言われそうだからな」

 あの小うるさい事務局長に、これ以上まとわりつかれるのは真っ平ごめんだ。

「だったら猫だけ預かって、飼い主は病院に入院させれば、良かったんじゃないのか?」
「ただの発熱で入院させたら、それこそあの事務局長に、なんて言われると思ってるんだ。だったら、俺の家で安静にさせておいた方が心安らかだ、俺が」

 西入が愉快そうに笑った。こいつ、絶対に俺のとんでもない状況を楽しんでやがる。

「とにかく、黙っておいてくれ」
「分かった分かった、せいぜい楽しんでくれ」
「なにをだ!」
「猫の世話に決まっているじゃないか。楽しいだろ? 猫のいる生活」

 それ以外のなにが?と逆に尋ねられ、言葉に詰まった。まったく、こいつときたら……。

「まあそれはそうと、飼い主さんの容体はどうなんだ? ここに連れてきた時は、随分と具合が悪そうだったが」
「今のところは元気だな。ただ、完全に熱が下がりきらないのが、気になるところだが」

 本人はもう元気だと言い張っているが、経過観察を続ける間は、家に居るようにと言ったことは正しかったかもしれない。咳をするわけでもないし、頭痛や関節痛などの風邪の症状があるわけではないものの、ずっと微熱続きなのは、少しばかり気になるところだ。

「レプトスピラじゃなかったんだよな?」

 西入も少しだけ医者の顔に戻った。彼女が、猫と一緒に川で流されて救急車で運び込まれたことは、こいつも知っている。

「それは、この前の検査ではっきりしている」

 愉快なことに、彼女は俺が翌日病院に連れてきたことを、まったく覚えていない。まさか自分が、熱で朦朧としている時に病院に連れてこられ、採血されていたとは思いもしなかったらしく、念のためにもう一度検査するから、血を採らせろと言ったら、飛び上がらんばかりに驚いていた。

「ニヤニヤして気味が悪いぞ、東出ひがしで。いや、ここ最近のお前はニヤニヤしっぱなしで、忙しすぎて頭がおかしくなったんじゃないかって、密かに噂されているが」
「それで最近じゃ、誰もかれもが、俺に定時で帰れとうるさいのか」
「自宅に患者がいるんだ、ありがたく帰っておけよ。まだ完治していないなら、尚更のことだ」
「まあ、今までが忙しすぎた。山南《やまなみ》達は優秀な研修医だし、俺ももう少し楽をさせてもらっても良いかもな」

 三人の意見は違うかもしれないが。

「贅沢を言えば、南雲なぐも先生に加えて、もう一人ぐらい医師がいても良かったんだかな」
「まだ言うのか、それを」

 俺の呟きに西入が呆れたように笑う。去年までここで研修医をしていた北川《きたがわ》を、俺が救命救急に引っ張ってこようと目論んでいたことは、西入も知っていた。本人は外科医になりたいと希望を出していたらしいし、そっちの腕もなかなか優秀だったから、西入も外科に引っ張るつもりではいたらしいんだが。

「そのうち、海外で色んな経験を積んで、戻ってきてくれるさ」
「その頃には、俺達は定年でいないかもな」
「いや。お前は定年後も、死ぬまでここに住んでそうだぞ?」
「やめろ、シャレにならん」

 ポケットに入れていた携帯電話が振動した。短い振動だったからメールの着信らしい。猫田に何かあったら遠慮なく連絡を入れろと、電話番号とメールアドレスを教えておいたのだが、なにか困ったことでも起きたのか?

「?」

 携帯を開けばメールの着信が一つ。送り主は予想通り猫田ねこだめぐみ

「どうした?」
「……」

 読んでから添付された画像を見て、溜め息が出ると同時に笑いが込み上げてきた。なんとも複雑な気分だ。

「お前も見ておけ」
「良いのか?」
「ああ、問題ないだろ」

 添付されていたのは子猫の写真。一心不乱に白い猫砂を掻き寄せている。そしてメールの内容は『キャラメルが初トイレに成功しました♪』と呑気なものだった。一瞬でも具合が悪くなったのではと思った自分が、馬鹿みたいに思えてくる。やれやれまったく……。

「あの猫ちゃんがトイレに成功したのか。これで随分と楽になるな。その写真こっちに転送してくれ。娘達も見たがるだろうから」
「まさかお前に、猫の写真を転送する日がこようとは」

 そう言いながら、メールを西入に転送する。

「可愛いは正義だからな。そのうち、我が家の姫の写真も送ってやる」
「やめろ、俺の写真フォルダが、猫まみれになるのはごめんだぞ」
「まあまあ遠慮するな。これからはメス友だけじゃなく、猫友にもなるんだからな俺達は」

 イヤがる俺のことなんて、まったくおかまいなしと言ったところだ。まあ猫田の具合が良くなるまで、猫の世話を快く引き受けてくれたんだから、感謝はしているが、それにしてもだな……。

「こういうのも新鮮だろ?」
「なにがだ」
「誰かと一緒に暮らすっていうことだよ。しかも、猫までついてきた」

 たしかに、今まで親兄弟としか暮らしたことのない自分としては、他人と、しかも女性と一つ屋根の下で暮らすと言うのは、なんとも不思議な感覚だった。もちろん猫がいる生活も。

「……新鮮というか不思議な気分だな。家に戻ったら電気がついていて、お帰りなさいって言われるんだぞ。最初は、間違えて他人の家に上がりこんだのかと思ったぐらいだ」
「お前らしい言い草だな」

 西入が笑う。

「体調が万全になるまで、自分のことだけをして他はなにもするなと言ってるのに、一日中家にいるんだからと言って、炊事洗濯掃除をするんだ。どうしたら良いんだ、あれは」
「イヤなのか?」
「イヤなんじゃなくて、まだ微熱が続く人間にそんなことをさせるのは、医者として落ち着かん」

 俺の言葉に、西入は今度こそ堪えきれないといった具合で、馬鹿笑いを始めた。そこまで笑うことか?

「おい、笑うな。これでも、どうやったら彼女を止めることができるのか、真剣に悩んでいるんだからな」
「無理している風には見えないんだろ? 彼女にしたって、一人と一匹の居候代ぐらい払いたいと思っているんだろうし、ここは彼女の好きにさせてやれば良いじゃないか」
「だがなあ……」

 ここは医者としての考えを、棚に一時的にでも上げるしかないのだろうか。

「まさかメシマズとか掃除中に何かを壊したとか、猫が暴れて困るとか、そういう迷惑がともなうのか?」
「いや、それはない。料理に関しては、一人暮らしをするにあたって、母親と祖母からちゃんとした料理の仕方というやつを伝授されたらしい。信じられるか? レシピノートなんてのもあるんだ。しかも十冊もだぞ、信じられん」

 その言葉に、再び西入が笑いの発作に襲われている。だからそこまで、笑うことなのか?

「この年になって新しいことに出会えるなんて、なかなか無いことだぞ、東出。貴重な経験なんだから、じっくり楽しまないと。ところで飼い主さんはいくつだって?」
「保険証からすると、二十一歳だったはずだ」
「ほうほう……そりゃまたお若い」

 急にニヤニヤし始める。

「なんだ」
「愛があれば、年の差なんてなんてことはないんだからな、東出」
「だからなんの話だ」
「うん、なかなか良いんじゃないのか? お前みたい朴念仁《ぼくねんじん》には、もったいないような気はするが」
「だからなんの……」
「彼女と猫との甘い生活なんて、素晴らしいじゃないか、逃がすなよ?」
「おい……」

 西入は、俺は患者さんの様子でも診てくるかと言って席を立つと、トレーを持ってテーブルを離れた。

「おい、よりによってなんてこと言うんだ……」

 せっかく、相手は病人で俺は医者だと言い聞かせてきたというのに。
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