◆◆◆浪費家呼ばわりされた宮廷調香師ですが、私の香りを理解してくれる方と歩みます◆◆◆

ささい

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王立調香室の奥深くで、エレーナ・マルティネスは二十種類以上の精油を調合していた。
二十二歳、宮廷調香師として四年目。
希少な花の香料で少し荒れた指先を眺め、彼女は小さく息をこぼした。

婚約者のジュリアン・フォン・ヴェルナーは、二歳年上の二十四歳。
輝く金髪と自信に満ちた灰色の瞳を持つ、子爵家の次男だ。

エレーナは地味な茶色の髪に、集中すると細くなる灰緑色の瞳。
華やかな夜会よりも、静かな調香室を愛する娘だった。

婚約から四年。
彼は彼女の調香師としての腕を、一度も認めようとはしなかった。

「また高価な香料を無駄遣いしているのか、エレーナ」

ジュリアンは実験机に並ぶ小瓶を一瞥し、不快そうに鼻を鳴らした。

「無駄遣いではありません。これは王妃様からご依頼いただいた、新作の試作です。
 先月も隣国の王子殿下がお気に召してくださいました」

「言い訳はいい。君の作る香りはどれも実用的すぎて情緒がない。
 もっと貴族の女性らしい、甘く浮ついたものを作れないのか」

ジュリアンは腕を組み、エレーナを見下ろした。

「それに、君はいつも金のかかる希少な素材ばかり欲しがる。
 まるで浪費家のような女だ。僕の婚約者としての自覚があるのか?」

エレーナは唇を噛んで黙り込んだ。
香料の相場や、調合の緻密さを説明しても、彼は聞いてはくれない。
理解を求めて何度か説明したこともあったがジュリアンは聞く耳を持たなかった。
その過去の経験が理解を求めるという気力を奪っていた。
今だって彼はエレーナのことを理解する気がないことはわかっていた。

「……仕事に戻ります」

「ふん。せいぜい精を出せ。どうせ誰にでも代わりが務まる仕事だろうがね」

ジュリアンは背を向けて立ち去った。
エレーナは震える指で、完成したばかりの香料を握りしめた。



それから数日後、エレーナは社交目的の茶会に同行を求められた。
ジュリアンの隣に立つエレーナに、彼は冷たい視線を向けた。

「エレーナ、何だいそのドレス。また地味な色だね。せっかくの茶会なのに」

ジュリアンはわざとらしく溜息をつき、近くを通りかかった華やかなドレスの令嬢に目を向けた。

「ああ、見てごらん。あそこのロザリンド嬢のドレス。
 あれこそ貴族の令嬢らしい装いだ。君も少しは見習ったらどうだ?」

エレーナは唇を噛んだ。
このドレスは、彼のために選んだ控えめな色合いだった。
「派手すぎる女は好まない」と、以前彼が言っていたから。

「……申し訳ございません」

「それに、君はいつも仕事ばかりだね。最近、グレンフェルト子爵家の令嬢が僕に熱心でね。
 『ジュリアン様のお手伝いができれば』なんて、可愛らしいことを言ってくれるんだ」

ジュリアンはニヤニヤと笑った。

「君ものんびり調香師なんて続けていると、僕の隣を奪われるよ?
 まあ、僕としては別に構わないんだが」

エレーナの胸が締め付けられた。
それでも彼女は、必死に微笑もうとした。

「……ジュリアン様がお望みなら、私はいつでも……」

「冗談だよ、冗談。本気にするなんて、君は本当に余裕がないね。
 この僕の婚約者なんだから、もう少し堂々としたまえよ」

ジュリアンは肩をすくめた。



別の日、エレーナは誕生日のプレゼントとして、特別に調合した香水をジュリアンに贈った。
彼の好みを研究し、何週間もかけて作り上げた、特別な一品だった。

「ジュリアン様、これ……香水なのですが、あなたのために作りました」

ジュリアンは小瓶を受け取ると、蓋も開けずに机に置いた。

「ふーん。ありがとう」

そして、無造作に引き出しから別の箱を取り出した。

「そういえば、先日グレンフェルト子爵令嬢から高級なカフスボタンをもらってね。
 これ、見てくれ。彼女は僕の好みをよく理解している。金の装飾も上品で、さすが子爵令嬢だ」

ジュリアンは得意げにカフスボタンを見せびらかした。

「君の香水も悪くないが……まあ、彼女の贈り物のほうが気が利いていたかな」

エレーナの手が震えた。
何週間もかけて、彼のためだけに作った香水。
それは、引き出しにも入れられず、机の隅に置かれたまま、二度と手に取られることはなかった。



エレーナは、もう何も期待しなくなっていた。
どんなに努力しても、ジュリアンが自分を認めることはない。
婚約から四年経って、それがようやくわかった。

何度やめてほしいと言っても、彼は変わらなかった。
エレーナの努力を認めず、他の女性と比較し、彼女を不安にさせる。

そして「冗談だよ」と笑い、エレーナが必死に彼の機嫌を取ることを楽しんでいた。
自分がどれだけ価値のある男か、彼女がどれだけ自分に依存しているかを確認したくて。
彼は幼い頃から母に「あなたは美しくて特別」と言われ続けていたそうだ。
取り巻きにチヤホヤされて育ったジュリアン。
婚約者すらも「自分を賞賛する道具」としか見ていなかった。

そして、エレーナの心は少しずつ冷えていった。
彼女の中で何かが壊れ始めていた。




その日の午後、調香室に一人の青年が訪ねてきた。

「失礼します。宮廷薬師隊のリアム・ハートフィールドです。
 先日お願いしていた、止血薬用の香料調整の件でお伺いしました」

顔を上げると、そこには温和な表情の青年が立っていた。
癖のある明るい茶髪に、穏やかな琥珀色の瞳。
薬草の香りが染みついた、清潔感のある佇まいだ。

「ああ、ハートフィールド様。お待ちしておりました。こちらが調整を終えた試作品です」

エレーナは小瓶を手渡した。

「薬効を損なわず、独特の苦い匂いを抑えてあります」

リアムは小瓶の蓋を開け、驚いたように目を見開いた。

「……素晴らしい! マルティネスさん、これは魔法のようです。
 あんなに鼻をつく匂いだったものが、こんなに穏やかになるなんて」

感動したあと、真剣な顔でリアムは瓶を見つめた。

「これなら、怪我をした兵士たちも、顔をしかめずに薬を使えます。本当にありがとうございます」

エレーナはその言葉が嬉しかった。
調香の仕事は理解されにくく、ジュリアンのように下げて見る人間は少なくない。
リアムの言葉には、社交辞令ではない、心からの敬意が感じられた。

「ありがとうございます。香りって人の心に強く作用するものですから。
 まだまだ、力は及んでないかもしれませんが」

「いいえ」

リアムは真剣な眼差しで、エレーナを見つめた。

「俺たち薬師は効能を追求しますが、使う人の気持ちまでは手が回りません。
 マルティネスさんの作る香りは、傷ついた人の心を癒やす力がある。
 俺は、体だけが治ればいいとは思わないんです。
 心も救われないと完全な回復とは言えないでしょう?
 だから心を救ってくれる、あなたの仕事は胸を張ってもいいものだと思います」

目が熱くなった。
自分の仕事が、誰かの役に立っている。
それを、これほどまでに真っ直ぐに肯定されたのは初めてだった。
リアムが去った後、エレーナは彼が置いていったメモの隅に、小さく名前を書き込んだ。
薬師の仕事は立派だ。医者だって、薬がなければ患者を回復には導けない。
そして完全な回復とは、心の回復も含まれる。
応援したい、素晴らしい技術者に出会えた。

それは、凍りついていた彼女の心に、小さな灯をともすような出来事だった。



一ヶ月後。

王宮では隣国の使節団を歓迎する大夜会が開かれていた。
エレーナは、自ら調合した「静寂の森」をイメージした控えめな香りを纏い、ジュリアンの隣に立っていた。

しかし、ジュリアンは彼女を連れ歩くことを恥じているかのように、友人たちの輪の中でわざとらしく溜息をついた。

「ああ、エレーナとの婚約か? まあ、親が決めたことだからね」

周囲の貴族たちが、品定めをするような視線をエレーナに送る。

「正直なところ、彼女の香料への執着には困っているんだ。
 宮廷調香師などという小難しい肩書きに固執して、社交もおざなりだ」

ジュリアンは肩をすくめた。

「結婚したらすぐにでも辞めさせ、家政に専念させるつもりだよ。
 僕の妻が、実験室で鼻をつくような匂いにまみれているなど、子爵家の面汚しだからね」

ジュリアンは、エレーナが背後にいることを知りながら、あざ笑うように言葉を続けた。

「婚約だって解消してもいいんだ。
 僕としては、もっと華やかで、僕の地位に相応しい女性の方が、家のためにはなるだろう」

周囲から失笑が漏れる。
エレーナの心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
彼女は静かに一歩前に出た。

「ジュリアン様」

「おっと、聞いていたのか。だが本当のことだろう?」

「ええ、本当のことですわ」

エレーナの声は、騒がしい会場の中で不思議なほどはっきりと響いた。

「あなたが私の仕事を、そして私自身を、その程度にしか思っていらっしゃらないということは」

エレーナは真っ直ぐにジュリアンを見据えた。

「婚約して以来、あなたは何度も、私の仕事を蔑みました。
 私がまるで浪費家であるように周りに吹聴もしておられました。
 私に『婚約を解消してもいい』ともおっしゃいました。
 私の調香室で。私の父の前でも一度そうおっしゃいましたね。
 そして今、この大勢の方々の前で」

ジュリアンの顔から余裕の笑みが消える。

「エレーナ、何を……」

「では、お望み通りにいたしましょう。
 ジュリアン・フォン・ヴェルナー様。
 あなたの期待に応えられず、申し訳ありませんでした。
 どうぞ、あなたにお似合いの華やかなご令嬢とお幸せになってください」

エレーナは深く息を吸い、宣言した。

「私、エレーナ・マルティネスは、今この瞬間をもって、あなたとの婚約を解消させていただきます」

会場が静まり返る。
ジュリアンは呆然と口を開けた。

「待て、本気か? 没落寸前の男爵家が、子爵家との縁を切って、どうやって生きていくというんだ!」

「私は調香師です」

エレーナは毅然と答えた。

「私の香りを必要としてくださる方々がたくさんいます。
 あなたに値踏みされ、否定され続ける日々は、もう終わりにいたします」

エレーナは深く一礼すると、一度も振り返ることなく夜会の会場を後にした。



エレーナとジュリアンの婚約解消の報は、すぐに周囲に広まった。
ジュリアンの父であるヴェルナー子爵は激怒した。

エレーナへの不敬もさることながら、何より彼女が持つ
「王室御用達の調香技術」とのコネクションを失ったことによる損失を重く見たのだ。

王妃陛下は、エレーナを侮辱したジュリアンの行為を「王室に仕える者への侮辱」として厳しく非難。
ヴェルナー家への不興を示した。



エレーナは王宮の一角にある小さな調香室にいた。

正式に王室直属の「首席調香師」として任命され、以前よりもずっと晴れやかな表情で瓶を並べている。
コンコン、と扉が叩かれた。

「失礼します。薬師のリアムです。新作の香草茶のブレンド、相談に乗っていただけますか?」

扉の向こうには、あの日と変わらない、陽だまりのような微笑みを浮かべたリアムが立っていた。

「ハートフィールド様。ええ、もちろんですわ」

「……あ、そういえば。マルティネスさん、いえ、エレーナ様とお呼びすべきでしょうか」

「いいえ。エレーナで結構です。私は、ただの調香師ですから」

リアムは少し照れたように笑い、彼女に一束の珍しい薬草を差し出した。

「これ、遠征先で見つけたんです。あなたの香りに加えたら、きっともっと素敵になると思って。
 ……俺、これからもあなたの仕事、一番近くで応援したいです」

その真っ直ぐな言葉に、エレーナの頬が微かに染まる。
誰かに認められ、尊重されることが、これほどまでに心を強く自由にしてくれる。

「ありがとうございます。……リアムさん。一緒に、新しい香りを探しましょう」

「あ、俺の名前……。はい!エレーナさんのおすすめはありますか?」

窓から差し込む朝日は、二人の手元を明るく照らしていた。
エレーナは今、自分の足で、望んだ道を歩き始めたのだ。





エレーナとの婚約が解消されてからすぐ。
ジュリアンは父であるヴェルナー子爵の執務室に呼び出された。

そこで突きつけられたのは、王妃陛下からの厳しい抗議状と、王宮調香師ギルドからの連名による告発状。
そして、家からの破門を告げる冷酷な宣告だった。

父は怒りに震えながら、ジュリアンの全てを奪った。

家督継承権の剥奪。
爵位の剥奪。
ヴェルナー家からの追放。

そして、北の果てにある『沈黙の修道院』への送致。

「貴様が婚約者を侮辱したせいで、我が家は王室との繋がりも、社交界での地位も失った。もはや貴様は、我が息子ではない」

父の言葉は、一片の温情もなく、ジュリアンの未来を閉ざした。



ジュリアンは執務室を追い出され、廊下で膝をついた。

(なぜだ……なぜ、誰も教えてくれなかったんだ……)

エレーナが王妃陛下の寵愛を受けていること。
彼女の技術が他国からも評価されていること。
彼女との縁故が、ヴェルナー家の繁栄を支えていたこと。
そのすべてを、ジュリアンは知らなかった。

いや、違う。

知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。
婚約者の仕事に興味を持つこともなく、彼女の話に耳を傾けることもなく、ただ一方的に蔑み続けた。
周囲の人間は、きっと気づいていたはずだ。

使用人たちが、友人たちが、社交界の人々が、エレーナの価値を。
けれど、誰もジュリアンには教えてくれなかった。
なぜなら、彼は聞く耳を持たなかったから。

「高価な香料を無駄遣いしている」と非難するジュリアンに、
誰が「それは王妃陛下のご依頼です」と説明できただろう。

「誰にでも代わりが務まる仕事」と嘲笑うジュリアンに、
誰が「彼女は王国の至宝です」と諭せただろう。

自分の傲慢さが、すべての真実を遠ざけていたのだ。

そして今、その代償を払う時が来た。

ジュリアンは幼い頃から、母に溺愛されて育った。
「あなたは美しくて特別な子」と言われ続け、父が諌めようとしても母が庇った。
次男という立場も幸いした。長男のように厳しく育てられることもなく、自由に、甘やかされて育ったのだ。

その結果が、これだ。

今、父に見捨てられ、友人に嘲笑され、婚約者には逃げられた。

母だけが、きっとまだ自分を庇ってくれるだろう。

そう思いたかった。




翌日、ジュリアンは王宮儀典局に出勤した。

式典記録官補という役職は、子爵家の次男という立場を考えれば、まずまずのものだった。
華やかな式典に立ち会えるし、実務はさほど忙しくない。

だが、この日は様子が違った。

「おはようございます」

ジュリアンが挨拶をしても、同僚たちは目を合わせようとしない。

「……ああ」

素っ気ない返事だけが返ってきた。

「ジュリアン、悪いが今日の午後の式典記録、お前は外れてくれ」

上司が冷たく言い放った。

「しかし、それは私の担当では……」

「王妃陛下のご臨席がある。エレーナ様を侮辱した者を、陛下の目に触れる場所に置くわけにはいかん」

周囲の同僚たちが、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえた。

「あいつ、エレーナ様に何て言ったか知ってる?『香料の匂いが染みついた女』だって」

「最低だな。エレーナ様がどれだけ王室に貢献してるか知らないのか」

「子爵家の次男の分際で、調子に乗ってたんだろ」

ジュリアンは歯を食いしばった。

昼休み、彼は普段集まる友人たちのもとへ向かった。

しかし、そこで待っていたのは、さらに残酷な現実だった。

「ああ、ジュリアン。君、もう修道院行きが決まったんだって?」

かつての友人は、嘲笑するような視線を向けてきた。

「エレーナ嬢を馬鹿にしていたよね。まさか彼女があれほどの大物だったとは。
 王妃陛下の寵愛を受けている調香師を敵に回すなんて、君も大胆だったね」

「それは……俺は知らなかったんだ……」

「知らなかった? 君の婚約者だったんだろう?
 彼女がどれだけ凄い人か、調べようともしなかったのか?」

別の友人が鼻で笑った。

「それに、君、夜会で『香料の匂いが染みついた女』って言ったんだって? 最低だね。
 あれだけ献身的に尽くしてくれていた婚約者に対して、よくそんなことが言えたものだ」

「僕たち、実はエレーナ嬢のファンだったんだよ。
 彼女が作る香りは本当に素晴らしくて、母がいつも愛用していたんだ」

友人の一人がニヤニヤしながら続けた。

「君が彼女を蔑んでいるのを知って、内心軽蔑していたよ。
 でも、まさか君がここまで愚かだとは思わなかった」

ジュリアンは愕然とした。
自分が馬鹿にしていた婚約者は、実は周囲から深く尊敬されていたのだ。

「ああ、そうだ。グレンフェルト子爵令嬢に会ったよ」

友人の一人が、追い打ちをかけるように言った。

「君、彼女を使ってエレーナ嬢を嫉妬させようとしてたよね? あれ、彼女にバレてたよ」

「……え?」

「彼女、こう言ってた。『ジュリアン様? ああ、戯れに少しお相手しただけですわ。
 本気で次男坊と付き合うつもりなんてありませんもの。
 それに、エレーナ様を侮辱するような方とは、関わりたくもありませんわ』ってね」

友人たちが笑い声を上げる。

「つまり、君はエレーナ嬢を試すつもりで他の女性をチラつかせていたけど、
 その女性からも鼻で笑われていたってわけだ。滑稽だね」

ジュリアンの顔から血の気が引いた。
自分が優位に立っていると思っていた全てが、幻想だったのだ。

「ああ、それからね。エレーナ嬢、今は宮廷薬師隊のリアム・ハートフィールドと親しくしているらしいよ」

友人の一人がニヤニヤしながら言った。

「リアムは誠実で優しくて、エレーナ嬢の仕事を心から尊敬しているんだって。
 お似合いだよね。君みたいに彼女を貶める男より、よっぽどいい」

「それじゃあね、ジュリアン。修道院での生活、頑張ってね」

友人たちは笑いながら去っていった。
ジュリアンは、自分が完全に孤立したことを理解した。



その日の夕方、ジュリアンは荷物をまとめるため自室に戻った。
すると、使用人たちの態度が明らかに変わっていた。

「ジュリアン様、お荷物をお手伝いいたします」

かつては「ジュリアン坊ちゃま」と慕ってくれていた老執事が、よそよそしい口調で声をかけてきた。

「……ああ、頼む」

「エレーナ様は本当に素晴らしいお嬢様でした。
 私たち使用人にも優しく、いつも『ありがとう』と声をかけてくださいました」

老執事は淡々と続けた。

「それなのに、坊ちゃまは彼女を蔑んでばかりいらっしゃった。私たちは心を痛めておりました」

「どうして言ってくれなかったんだ!」

ジュリアンは声を荒げた。

「エレーナがそんなに重要な人物だったなら、どうして教えてくれなかった!
 お前たちが注意してくれていたら、俺だってちゃんとエレーナを大切に出来たはずだ!」

老執事は静かに、しかし冷ややかにジュリアンを見つめた。

「……申し上げなかったとでも?」

「え?」

「坊ちゃま。私どもは何度も申し上げました。
 『エレーナ様は王妃陛下のご依頼で調香をされています』
 『今日も遅くまで王室のお仕事をされていました』
 『エレーナ様のおかげで、ヴェルナー家は王宮との繋がりを保てています』と」

老執事は静かに続けた。

「しかし、坊ちゃまは何とおっしゃいましたか?
 『使用人の分際で余計な口を挟むな』
 『俺の婚約者をどう扱おうと俺の勝手だ』と」

ジュリアンの顔が青ざめる。

「旦那様は何度もエレーナ様を大切になさるようにと仰っていました。
 『彼女は我が家の宝だ』と。
 ですが、坊ちゃまは『父上は大げさだ』『俺の方が彼女の価値を知っている』と聞く耳をお持ちにならなかった」

「それは……」

「兄君様も、エレーナ様を尊敬し、大切にするよう助言されていました。
 しかし坊ちゃまは『兄上は堅物だ』『彼女を甘やかすな』とお笑いになった」

老執事の声には、静かな怒りが滲んでいた。

「お二方とも、あなた様を想い、子爵家のことを考え、常々言い聞かせてらっしゃったではありませんか。
 主家の人間を諌めるのも執事の仕事。私どもも散々申し上げました。何度も、何度も。
 ですが、聞く耳をお持ちにならなかったのは、坊ちゃま、あなたご自身です。
 今さら『教えてくれなかった』とは、虫が良すぎるのではありませんか」

老執事は深々と一礼した。

「では、お荷物の準備、失礼いたします」

老執事は背を向けた。その背中には、もう二度と仕えることはないという決意が滲んでいた。
ジュリアンは何も言い返せなかった。
全身から力が抜けていくのを感じた。

「今では彼女は首席調香師として王宮で大活躍されているとか。
 本当に良かった。
 彼女のような方には、幸せになっていただきたいものです」

その言葉の裏には、明らかに「あなたのような人ではなく」という意味が込められていた。


ジュリアンは部屋を出て、母の私室へ向かった。
母だけは、きっと自分を庇ってくれる。そう信じて扉を叩いた。

「母上……!」

「……ジュリアン」

母の声は冷たく、いつもの優しさを失っていた。
部屋に入ると、母は窓辺に座り、疲れ果てた様子で俯いていた。

「母上、父上があまりにも……」

「お黙りなさい」

母の言葉に、ジュリアンは絶句した。
母がこんな口調で自分を叱ったことは、一度もなかった。

「ああ…ジュリアン。どうしてこんなことに……。
 あなたを甘やかしたのは、私ね。
 あなたは美しくて特別だと言い続けてしまった。
 厳しさなんてなくてもちゃんと育つと思ってしまった私の過ちでした。
 旦那様が諌めてくださっても庇い続けた。
 次男だからと厳しい教育を避けさせた。
 結果、あなたは人の価値を見極める目も、感謝の心も持たない大人になってしまった。
 エレーナさんは、あんなに献身的で優しい方だったのに……」

「母上……」

「旦那様に叱責されました。
 『お前が甘やかしたせいで、ジュリアンは人の心を踏みにじる人間になった。
 当分社交界への出席を控え、自室で反省するように』と」

母は震える声で続けた。

「私も、あなたの教育失敗の責任を取らされるのです。ヴェルナー家の恥として。
 もう、貴族社会で以前のように振る舞うこともできません」

ジュリアンから顔を背けて母は言葉を続けた。

「もう、庇いません。あなたは自分の過ちと向き合い、償いなさい。
 それが、母としてあなたにできる最後の愛情です」

ジュリアンは、最後の砦を失った。
母にすら、見放されたのだ。



一ヶ月後。

ジュリアンは泥にまみれて荒れ地を耕していた。
北の果ての『沈黙の修道院』は、その名の通り、厳しい戒律と沈黙の中での労働を強いる場所だった。

「おい、手が止まっているぞ。もっと腰を入れろ」

かつてなら「不敬だ」と一喝していたような年配の修道士に、ジュリアンは厳しく叱咤された。

「はい……申し訳ございません……」

背中は痛み、手には豆ができ、全身が悲鳴をあげていた。
かつて貴族として優雅に過ごしていた日々が、遠い夢のように感じられた。

そこには彼を崇める取り巻きも、香りを褒めてくれる者も、豪華な食事もなかった。

彼が纏っていた洗練された香水の香りは消え失せ、今は家畜の匂いと泥の臭い、
そして自身の流す脂汗の不快な感触だけが彼を包んでいた。



ある日、修道院に王宮からの荷物が届いた。

「おお、王宮からの寄贈品だ。ありがたい」

修道院長が箱を開けると、中には薬や包帯、そして美しい小瓶に入った薬油が入っていた。

「これは……なんと良い香りだ」

「心が安らぐ……こんな香り、初めてだ」

「怪我の手当てをするのが楽しみになるな」

修道士たちが口々に称賛している。
ジュリアンは恐る恐るその瓶を手に取った。
そこには、見覚えのある紋章が刻まれていた。

エレーナの紋章だ。

「これは、首席調香師エレーナ・マルティネス様が作られたものだそうだ」

修道院長が嬉しそうに言った。

「彼女は、王国中の人々のために、惜しみなく最高の香りを作ってくださる。本当に素晴らしい方だ」

「ああ、聞いたことがある。元は没落男爵家の娘だったが、努力と才能で王妃陛下に認められた方だと」

「しかも、婚約者に蔑まれ続けたにもかかわらず、決して腐らず、ひたむきに技術を磨き続けたそうだ」

「その婚約者というのが、またひどい男でね。彼女を『浪費家』呼ばわりして、大勢の前で侮辱したんだそうだ」

「なんと愚かな……」

修道士たちの会話を聞きながら、ジュリアンは小瓶を握りしめた。
かつて自分が「情緒がない」「誰でも代わりが務まる」と断じた、彼女が丹精込めて作り上げた香り。
その香りは、こんなにも多くの人々を癒やし、幸せにしていたのだ。

「なあ、ジュリアン。お前、確か元貴族だったな」

年配の修道士が話しかけてきた。

「ああ……はい」

「お前のような者が、なぜここに送られてきたのか聞いてもいいか?」

ジュリアンは震える声で答えた。

「……婚約者を、蔑み続けたからです」

「ほう。どんな婚約者だったんだ?」

「……調香師で、とても真面目で、優しくて……でも、俺は彼女の価値を理解できなかった。
 彼女を馬鹿にし続けた」

修道士は小瓶を見つめた。

「まさか、その婚約者というのは……」

「……エレーナ・マルティネスです」

修道院が静まり返った。
修道士たちが一斉にジュリアンを見た。その視線は、軽蔑と憐れみに満ちていた。

「貴様……あの素晴らしいエレーナ様を蔑んだのか……」

「なんと愚かな……」

「自業自得だな。一生ここで償うがいい」

修道士たちは冷たく言い放ち、その場を去っていった。



その夜、ジュリアンは粗末な寝台の上で、エレーナの香りを纏った包帯を見つめていた。
作業中に負った傷の手当てに使われたその包帯からは、優しく、心が安らぐ香りが漂っていた。

(これが……エレーナの作った香りか……)

彼女が「高価な香料を無駄遣いしている」と非難していた、あの調合の結果がこれだったのだ。
無駄遣いなどではなかった。
彼女は、傷ついた人々を癒やすために、最高の材料を使って、最高の香りを作り出していたのだ。

そして、その価値を理解できなかったのは、自分だけだった。

翌日、作業中に近くの村人が修道院を訪れた。

「いつもありがとうございます。エレーナ様の薬油のおかげで、父の床ずれがずいぶん良くなりました」

「本当に、彼女は王国の宝ですね。貧しい私たちのことも考えてくださって……」

村人たちは、心からの感謝を口にしていた。
ジュリアンは耕作の手を止め、その会話に聞き入った。
エレーナは、王宮だけでなく、貧しい人々のためにも香りを作っていたのだ。

彼女が「浪費家」だと?
違う。彼女は誰よりも心優しく、誰よりも多くの人々を助けていた。

そして、その素晴らしさを理解できなかった自分は、本当の意味で「貧しい」人間だったのだ。



数ヶ月後、修道院に王都からの手紙が届いた。
修道院長が皆に読み聞かせた。

「王妃陛下より。『首席調香師エレーナ・マルティネスと、宮廷薬師隊長リアム・ハートフィールドの婚約を発表する。
 二人の結婚式は、春に特別に王宮で執り行われる』……だそうだ」

修道士たちが祝福の声をあげる。

「素晴らしい! お似合いのお二人だ!」

「リアム様はエレーナ様の仕事を心から尊敬していると聞く。きっと幸せになられるだろう」

ジュリアンは、その場に膝をついた。

(ああ……終わったんだ……)

彼女は、自分の価値を理解し、尊重してくれる人と、新しい人生を歩み始めた。
一方で自分は、彼女が作った香りに癒やされながら、荒れ地を耕す日々を送っている。
自分の手元には、もう何もない。
彼が軽んじ、蔑んでいた女性は、今や国中の人々に愛され、尊敬される存在となり、幸せな未来を掴んだ。

一方で自分は、彼女が慈しんだ香りの欠片にすら、本当の意味では触れる資格のない惨めな存在に成り下がったのだ。

「……ああ、俺は、なんてことを……」

ジュリアンの慟哭は、誰にも届かなかった。
彼はこれから一生、自分が捨て去ったものの大きさを、慣れない労働の痛みと共に思い知らされることになる。



その頃、王都の調香室では。
エレーナとリアムが並んで新しい香りの調合に励んでいた。

「この配合、素晴らしいですね、エレーナ」

「リアムさんの薬草の知識があってこそです」

リアムは優しく微笑み、エレーナの手を取った。

「あなたと出会えて、本当に良かった。これから先も、ずっと一緒に歩んでいきたい」

「私もです、リアムさん」

二人の間には、互いを尊重し合う温かな空気が流れていた。
窓の外では、春の陽光が降り注いでいた。
エレーナは今、自分の価値を理解してくれる人々と共に、自由に、そして幸せに生きている。

これが、彼女が選んだ新しい人生。
そして、彼女が手に入れた、本当の幸福だった。
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