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その後、流九市にはいつもと同じ日常が訪れる。
とある女性議員が「流九市!? あんな場所にはヤクザと不良外人と失業者とホームレスしか住んでないだろうが!」などと秘書を怒鳴り付けていた音声が流出し、翌日に謝罪会見を開いたことを除けば……流九市が特に話題になるようなこともなく、平穏に時が過ぎていった。
そんな、ある日のこと。
昼間の流九公園は、静かなものだった。
だが例によって、その静寂を乱す者たちが現れる。
「おいコラァ! おめえ、今日は幾ら持ってんだって聞いてんだよ!」
居丈高な態度で怒鳴っているのは、まだ顔に幼さの残る少年たちである。まだ十代の前半であろうか……中学生になったばかり、という雰囲気である。Tシャツにジーパンというラフな服装で、公園の隅に集まっていた。まさに不良の見本のような者たちである。
そんな彼らに睨み付けられているのは、ひときわ体が小さく痩せた学生服姿の少年である。震えながら、自身を取り囲んでいる者たちに頭を下げている。
「す、すみません。もう一円も無いんです」
言いながら、ペコペコ頭を下げる少年。だが、それで許してくれるほど、不良たちは優しい性格ではなかった。
「はあ? 無い? 無いで済まされると思ってんのかよ!?」
不良のうちのひとりが、喚きながら柵に蹴りを入れる。すると、少年はビクリと怯えた表情でうつむく。
「なあ、わかってんの? 俺らはさあ、貴重な時間を削ってお前のボディーガードをやってあげてんだぜ。俺たちのお陰で、お前はよその学校の連中からボコられなくて済んでるんだぜ」
なおも言葉を続ける。そう、彼らはよく分かっているのだ。さっきから、少年の体には指一本も触れていない。怪我の可能性がある直接的な暴力は振るわないのだ。代わりに、壁を蹴飛ばすような間接的な暴力を見せつけ恐怖心を煽り、さらに言葉の暴力で追い詰めていく。それが、彼らの手口である。
少年は何も言えず、黙ったまま下を向いた。その反応を見た不良たちは、さらに高圧的な態度に出る。
「おい! 何とか言えやあぁ!」
少年を睨みながら、怒鳴りつける不良。すると、その言葉に応えた者がいた。
「さっきから騒がしいぞ。まったく昼寝も出来ん」
ぶつくさ言いながら、姿を現した者がいる。年齢は、四十代後半から五十代前半といったところか。作業服に身を包み、禿げ上がった頭を掻きながら、不良たちをじっと見つめている。
「んだとぉ! こらクソオヤジ! 調子こいてっと殺すぞ!」
不良たちは、暴力の矛先をその中年男に向けることにした。ホームレスなら、殴っても問題あるまい。肩をいからせながら、中年男を取り囲む。
だが次の瞬間、不良たちの表情が一変した。
「お、おい……こいつ、黒崎じゃねえのか?」
不良たちのひとりが、怯えた表情で呟くように言った。すると、その怯えは全員に伝染していく──
「黒崎って、あの空手十段のホームレスか?」
「ロシア人マフィアを、十人ぶっ飛ばしたらしいぞ……」
不良たちの輪は、少しずつ広がっていく。彼らが後ずさりを始めたせいだ。
一方、黒崎は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「俺は空手五段だ、十段ではない。それに、ロシア人マフィアも五人しか倒しておらん」
黒崎の言葉に、不良たちは顔を見合わせる。彼らは悟ったのだ。目の前にいる男が、自分たちの手には負えないことに。
そんな彼らの変化を悟った黒崎は、ふうとため息を吐いた。
「お前ら……やる気がなくなったのなら、さっさと帰れ」
「あ、ありがとうございました」
不良たちが去った後、少年は黒崎に何度も頭を下げる。だが、黒崎は相変わらず渋い表情だ。
「俺は、礼を言われるようなことは何もしていない。だから、礼を言う必要もない。気を付けて帰れ」
少年はもう一度頭を下げ、嬉しそうに帰って行った。黒崎の方はというと、仏頂面でベンチに座り込む。
その時、声をかける者がいた。
「よう、おっちゃん。あんた凄いじゃないか。不良どもが逃げてったぜ」
黒崎は顔を上げ、声の主を見る。言うまでもなく、便利屋の田原草太である。
「どこかの馬鹿が、俺の大げさな武勇伝をあちこちに広めたらしくてな。そのせいで、殴られることもなくなった」
「へへへっ、良かったじゃんよ」
言いながら、草太はベンチに座った。持っていたカバンから、一通の封筒を取り出す。
「おっちゃん、ユリアから手紙が来たぞ」
その言葉を聞いた瞬間、黒崎の表情が変化した。
「な、何だと? ユリアからか?」
「ああ、そうだよ。見たい?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべ、草太は聞いてきた。
「あ、ああ。もったいぶらないで、早く見せろ」
「だったら、バレンタインデーに憧れの先輩にチョコレートを渡す女子中学生みたいな顔で、俺に頼んでみな。そしたら見せてやる」
「そうか。お前を気絶させた方が、早く読めそうだな」
そう言うと、黒崎は立ち上がった。その目には闘気がみなぎっている。草太は身の危険を感じ、慌てて手紙を差し出した。
「じょ、冗談だよ。ほら、手紙」
黒崎は封筒をひったくると、ベンチに座った。中には写真が三枚と、便箋が一枚入っている。
写真は、どれも微笑ましいものばかりだった。一枚目には空手着を着て、勇ましい表情で仁王立ちしているユリアの姿が写っている。二枚目には、ランドセルを背負ってはにかむような笑顔を向けているユリア。さらに三枚目は、満面の笑みを浮かべて母の真美とともに写っていた。
「フッ、ユリアの奴……空手を続けていたか」
黒崎は、満足そうに呟いた。その表情は、孫を見て目尻を下げる老人と全く同じである。
次いで黒崎は、便箋に視線を移す。
(そうたん、みおねえちゃん、くろさきのおっちゃん、みんな、ありがとう。らいげつになったら、あそびにいくからね。ユリア)
「ほう、ユリアが遊びに来るのか。それは楽しみだ」
そう言うと、黒崎は顔を上げて草太を見る。だが、草太は浮かない表情をしていた。
「便利屋、どうかしたのか?」
「なあ、おっちゃん。あんたは、この結果をどう思うんだ?」
空を見上げ、逆に聞き返してきた草太。それに対し、黒崎は首を捻る。
「お前は何を言っているんだ? 俺にもわかるように言え」
黒崎に言われ、草太は顔を歪めた。
「結局は、ロシアにいるクズどもの望んだ通りになっちまったってことだよ」
その声は、暗く沈んでいた。黒崎は黙ったまま、彼の顔を見つめる。
ややあって、草太は言葉を続けた。
「ユリアと真美さんを殺させようとした本当に悪い奴らは、今もロシアでのうのうと生きてるんだぜ。ユリアが貰うはずだった遺産を独り占めしてさ。なんか釈然としねえ気分だよ」
言い終わると、下を向き力なく笑う。すると、黒崎が彼の頭を叩いた。
「痛えな。何すんだよ」
「お前は、神さまでもスーパーマンでもないんだ。お前は、自分に出来ることをやった。その結果が、これだ。これのどこに不満がある?」
言いながら、黒崎は写真を見せる。そこには、ユリアと真美が満面の笑みを浮かべて写っていた。
心の底からの、幸せそうな笑顔だった。
「便利屋、お前は自分に出来ることをやり、ユリアを救ったんだ。これは、誇っていいと思うぞ──」
「誇れねえよ」
黒崎の言葉を遮り、草太は首を振った。
「俺は今回、何をした? 何もしてねえよ。おっちゃんや、美桜や、加納たちが力を貸してくれなかったら……ユリアは助かってなかったよ」
草太は、そこで顔を歪めた。
「俺は結局、何も出来なかった。一人でピーピー騒いでただけの、しょうもねえガキだよ。俺は、礼を言われるようなことは何もしてない」
「お前は本気で、そう思っているのか?」
言うと同時に、黒崎はまたしても草太の頭を叩いた。パチン、という音が響き渡る。
「痛えなあ。空手五段の癖に、人の頭パチパチ叩くな。パンチドランカーになったらどうすんだよ」
頭を擦りながら、草太は冗談めいた口調で文句を言った。だが、黒崎の表情は真剣である。
「お前が馬鹿なのは知っていたが、ここまでとはな。おい便利屋、お前は自分の果たした役割が、どれだけ大きいものか分かっていないのか?」
「えっ……」
草太は困惑し、何も言えずに黒崎を見つめる。だが、黒崎は話し続けた。
「いいか。俺、美桜、そして加納。この三人がユリアと知り合えたのは、誰を通じてだ?」
「そ、それは……」
「お前がいなければ、俺も美桜も加納も、ユリアの存在すら知らないままだっただろう。俺たちをこの件に引き入れたのは、お前なんだよ。ユリアを救ったのは、紛れもなくお前だ」
普段、冷めきった静かな口調で話す黒崎。だが、今の黒崎は違っていた。その言葉からは、熱いものが感じられる。その熱気に圧倒され、草太は何も言えずにいた。
黙っている草太に封筒を返すと、黒崎は再び語り続ける。
「あの中田というヤクザが、大事な姪っ子をお前に預けた理由……それは、お前なら確実にユリアを守ってくれると信じたからだ。俺は、中田のことは何も知らん。だが、人を見る目だけは確かだったよ」
「お、おっちゃん……」
「それに、俺はお前に感謝している。お前のお陰で、俺は自分の誇りを取り戻せた。俺の空手に対する誇りを、な」
「誇り?」
「そうだ。俺の空手は、ひとりの少女を救うことが出来たんだ。空手を捨てなくて良かった……俺は、心底からそう思っている。そう思えるのも、お前のお陰だ」
黒崎の言葉を聞いているうちに、草太の顔つきも変わってきた。
「そっか。まあ、そうだよな。これで、良かったんだよな」
「ああ、そうだ。そもそも、ユリアがロシアのクズどもの金など欲しがると思うのか?」
「どうだろうな。まあ、金は幾らあっても困らないしね」
言いながら、草太は立ち上がる。その表情は、明るさを取り戻していた。
「なんか、おっちゃんと話したらスッキリしたよ。ありがとな、おっちゃん」
そう言うと、草太はくるりと振り向き立ち去りかけた。
しかし、すぐに立ち止まる。
「忘れるとこだったよ。おっちゃん、あんたに頼みがある」
「なんだ? 金なら貸さんぞ」
「あんたから金借りるほどバカじゃねえよ」
言いながら、草太は再びベンチに座る。
だが、続いて発せられた言葉は意外なものだった。
「おっちゃん、俺に空手を教えてくれないか?」
想定外の言葉に、黒崎は唖然とした表情のまま硬直した。次いで、目の前にいる男が正気なのかどうか、まじまじと見つめる。
だが、草太の表情は真剣そのものだった。一応、まだ正気は失っていないようにも見える。
少しの間を置き、黒崎は口を開いた。
「お前、正気か? 空手を習いたければ、この町にもちゃんとした道場がある。そこに行けばよかろう」
「いや、俺はおっちゃんから習いたいんだよ。黒崎健剛の空手を、な」
草太の口調もまた、真剣なものだった。いつものような、ふざけた雰囲気が無い。
「何故だ? 俺は破門された身だ。それに、指導には向いていない──」
「あのさ、ロシア人が事務所に来た時……おっちゃん言ったよな。俺の空手は、力なき人を守るためのものだって」
「ああ、そんなことを言ったかもしれんな」
「あの時、俺は本気で感動したんだよ。今の時代、こんなことを真顔で言う奴がいたんだな……ってさ」
草太の言葉に、黒崎は苦笑いした。誉められているようには聞こえない言葉だが、草太は澄みきった瞳を黒崎に向けている。
「おっちゃん、あんたこそ本物の空手家だよ。俺もおっちゃんみたいに、力なき人を守れるようになりたいんだ。だから、俺に空手を教えてくれ。指導料は一回五百円プラス、コンビニの弁当でどうだ?」
その言葉を聞いた黒崎は、すくっと立ち上がった。
「そこまで言うなら仕方ないな。俺が直々にお前を指導してやる。まずは、正拳中段突きと前蹴りだな。教えた技を、毎日千回やるんだぞ」
「えっ、毎日千回!?」
草太は、引きつった表情を向ける。だが、黒崎はお構い無しに喋り続けた。
「そうだ。毎日千回、それが基本だ。さらに拳立て伏せや腹筋、背筋も毎日やるぞ。あと、懸垂も忘れてはいかん……そうだ、組手も毎日やらなくてはな」
「く、組手? 何それ?」
完全に引いている草太。しかし、黒崎は気づいていない。嬉しそうに語り続ける。
「組手とは、お互い自由に技を出し合う練習だ。今風に言うなら、スパーリングだ。俺が、いつでも相手になってやるからな。好きなようにかかって来い」
ニコニコしながら、そんな物騒なセリフを吐く黒崎。草太は、愛想笑いを浮かべた。もっとも、その額からは冷や汗が垂れてきているが……。
「あ、あのさ、ユリアん時と全然違うじゃねえかよ。せめてさ、もうちょい楽な初心者コースで頼むよ」
「遠慮するな。俺が基礎から、きっちり鍛えてやる。こう見えても、かつては鬼の黒崎と呼ばれた俺だ。お前を、一人前の空手家にしてやるからな」
「いや、空手家になりたい訳じゃないから。だいたい、鬼の黒崎って絶対に誉め言葉じゃねえだろ……」
とある女性議員が「流九市!? あんな場所にはヤクザと不良外人と失業者とホームレスしか住んでないだろうが!」などと秘書を怒鳴り付けていた音声が流出し、翌日に謝罪会見を開いたことを除けば……流九市が特に話題になるようなこともなく、平穏に時が過ぎていった。
そんな、ある日のこと。
昼間の流九公園は、静かなものだった。
だが例によって、その静寂を乱す者たちが現れる。
「おいコラァ! おめえ、今日は幾ら持ってんだって聞いてんだよ!」
居丈高な態度で怒鳴っているのは、まだ顔に幼さの残る少年たちである。まだ十代の前半であろうか……中学生になったばかり、という雰囲気である。Tシャツにジーパンというラフな服装で、公園の隅に集まっていた。まさに不良の見本のような者たちである。
そんな彼らに睨み付けられているのは、ひときわ体が小さく痩せた学生服姿の少年である。震えながら、自身を取り囲んでいる者たちに頭を下げている。
「す、すみません。もう一円も無いんです」
言いながら、ペコペコ頭を下げる少年。だが、それで許してくれるほど、不良たちは優しい性格ではなかった。
「はあ? 無い? 無いで済まされると思ってんのかよ!?」
不良のうちのひとりが、喚きながら柵に蹴りを入れる。すると、少年はビクリと怯えた表情でうつむく。
「なあ、わかってんの? 俺らはさあ、貴重な時間を削ってお前のボディーガードをやってあげてんだぜ。俺たちのお陰で、お前はよその学校の連中からボコられなくて済んでるんだぜ」
なおも言葉を続ける。そう、彼らはよく分かっているのだ。さっきから、少年の体には指一本も触れていない。怪我の可能性がある直接的な暴力は振るわないのだ。代わりに、壁を蹴飛ばすような間接的な暴力を見せつけ恐怖心を煽り、さらに言葉の暴力で追い詰めていく。それが、彼らの手口である。
少年は何も言えず、黙ったまま下を向いた。その反応を見た不良たちは、さらに高圧的な態度に出る。
「おい! 何とか言えやあぁ!」
少年を睨みながら、怒鳴りつける不良。すると、その言葉に応えた者がいた。
「さっきから騒がしいぞ。まったく昼寝も出来ん」
ぶつくさ言いながら、姿を現した者がいる。年齢は、四十代後半から五十代前半といったところか。作業服に身を包み、禿げ上がった頭を掻きながら、不良たちをじっと見つめている。
「んだとぉ! こらクソオヤジ! 調子こいてっと殺すぞ!」
不良たちは、暴力の矛先をその中年男に向けることにした。ホームレスなら、殴っても問題あるまい。肩をいからせながら、中年男を取り囲む。
だが次の瞬間、不良たちの表情が一変した。
「お、おい……こいつ、黒崎じゃねえのか?」
不良たちのひとりが、怯えた表情で呟くように言った。すると、その怯えは全員に伝染していく──
「黒崎って、あの空手十段のホームレスか?」
「ロシア人マフィアを、十人ぶっ飛ばしたらしいぞ……」
不良たちの輪は、少しずつ広がっていく。彼らが後ずさりを始めたせいだ。
一方、黒崎は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「俺は空手五段だ、十段ではない。それに、ロシア人マフィアも五人しか倒しておらん」
黒崎の言葉に、不良たちは顔を見合わせる。彼らは悟ったのだ。目の前にいる男が、自分たちの手には負えないことに。
そんな彼らの変化を悟った黒崎は、ふうとため息を吐いた。
「お前ら……やる気がなくなったのなら、さっさと帰れ」
「あ、ありがとうございました」
不良たちが去った後、少年は黒崎に何度も頭を下げる。だが、黒崎は相変わらず渋い表情だ。
「俺は、礼を言われるようなことは何もしていない。だから、礼を言う必要もない。気を付けて帰れ」
少年はもう一度頭を下げ、嬉しそうに帰って行った。黒崎の方はというと、仏頂面でベンチに座り込む。
その時、声をかける者がいた。
「よう、おっちゃん。あんた凄いじゃないか。不良どもが逃げてったぜ」
黒崎は顔を上げ、声の主を見る。言うまでもなく、便利屋の田原草太である。
「どこかの馬鹿が、俺の大げさな武勇伝をあちこちに広めたらしくてな。そのせいで、殴られることもなくなった」
「へへへっ、良かったじゃんよ」
言いながら、草太はベンチに座った。持っていたカバンから、一通の封筒を取り出す。
「おっちゃん、ユリアから手紙が来たぞ」
その言葉を聞いた瞬間、黒崎の表情が変化した。
「な、何だと? ユリアからか?」
「ああ、そうだよ。見たい?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべ、草太は聞いてきた。
「あ、ああ。もったいぶらないで、早く見せろ」
「だったら、バレンタインデーに憧れの先輩にチョコレートを渡す女子中学生みたいな顔で、俺に頼んでみな。そしたら見せてやる」
「そうか。お前を気絶させた方が、早く読めそうだな」
そう言うと、黒崎は立ち上がった。その目には闘気がみなぎっている。草太は身の危険を感じ、慌てて手紙を差し出した。
「じょ、冗談だよ。ほら、手紙」
黒崎は封筒をひったくると、ベンチに座った。中には写真が三枚と、便箋が一枚入っている。
写真は、どれも微笑ましいものばかりだった。一枚目には空手着を着て、勇ましい表情で仁王立ちしているユリアの姿が写っている。二枚目には、ランドセルを背負ってはにかむような笑顔を向けているユリア。さらに三枚目は、満面の笑みを浮かべて母の真美とともに写っていた。
「フッ、ユリアの奴……空手を続けていたか」
黒崎は、満足そうに呟いた。その表情は、孫を見て目尻を下げる老人と全く同じである。
次いで黒崎は、便箋に視線を移す。
(そうたん、みおねえちゃん、くろさきのおっちゃん、みんな、ありがとう。らいげつになったら、あそびにいくからね。ユリア)
「ほう、ユリアが遊びに来るのか。それは楽しみだ」
そう言うと、黒崎は顔を上げて草太を見る。だが、草太は浮かない表情をしていた。
「便利屋、どうかしたのか?」
「なあ、おっちゃん。あんたは、この結果をどう思うんだ?」
空を見上げ、逆に聞き返してきた草太。それに対し、黒崎は首を捻る。
「お前は何を言っているんだ? 俺にもわかるように言え」
黒崎に言われ、草太は顔を歪めた。
「結局は、ロシアにいるクズどもの望んだ通りになっちまったってことだよ」
その声は、暗く沈んでいた。黒崎は黙ったまま、彼の顔を見つめる。
ややあって、草太は言葉を続けた。
「ユリアと真美さんを殺させようとした本当に悪い奴らは、今もロシアでのうのうと生きてるんだぜ。ユリアが貰うはずだった遺産を独り占めしてさ。なんか釈然としねえ気分だよ」
言い終わると、下を向き力なく笑う。すると、黒崎が彼の頭を叩いた。
「痛えな。何すんだよ」
「お前は、神さまでもスーパーマンでもないんだ。お前は、自分に出来ることをやった。その結果が、これだ。これのどこに不満がある?」
言いながら、黒崎は写真を見せる。そこには、ユリアと真美が満面の笑みを浮かべて写っていた。
心の底からの、幸せそうな笑顔だった。
「便利屋、お前は自分に出来ることをやり、ユリアを救ったんだ。これは、誇っていいと思うぞ──」
「誇れねえよ」
黒崎の言葉を遮り、草太は首を振った。
「俺は今回、何をした? 何もしてねえよ。おっちゃんや、美桜や、加納たちが力を貸してくれなかったら……ユリアは助かってなかったよ」
草太は、そこで顔を歪めた。
「俺は結局、何も出来なかった。一人でピーピー騒いでただけの、しょうもねえガキだよ。俺は、礼を言われるようなことは何もしてない」
「お前は本気で、そう思っているのか?」
言うと同時に、黒崎はまたしても草太の頭を叩いた。パチン、という音が響き渡る。
「痛えなあ。空手五段の癖に、人の頭パチパチ叩くな。パンチドランカーになったらどうすんだよ」
頭を擦りながら、草太は冗談めいた口調で文句を言った。だが、黒崎の表情は真剣である。
「お前が馬鹿なのは知っていたが、ここまでとはな。おい便利屋、お前は自分の果たした役割が、どれだけ大きいものか分かっていないのか?」
「えっ……」
草太は困惑し、何も言えずに黒崎を見つめる。だが、黒崎は話し続けた。
「いいか。俺、美桜、そして加納。この三人がユリアと知り合えたのは、誰を通じてだ?」
「そ、それは……」
「お前がいなければ、俺も美桜も加納も、ユリアの存在すら知らないままだっただろう。俺たちをこの件に引き入れたのは、お前なんだよ。ユリアを救ったのは、紛れもなくお前だ」
普段、冷めきった静かな口調で話す黒崎。だが、今の黒崎は違っていた。その言葉からは、熱いものが感じられる。その熱気に圧倒され、草太は何も言えずにいた。
黙っている草太に封筒を返すと、黒崎は再び語り続ける。
「あの中田というヤクザが、大事な姪っ子をお前に預けた理由……それは、お前なら確実にユリアを守ってくれると信じたからだ。俺は、中田のことは何も知らん。だが、人を見る目だけは確かだったよ」
「お、おっちゃん……」
「それに、俺はお前に感謝している。お前のお陰で、俺は自分の誇りを取り戻せた。俺の空手に対する誇りを、な」
「誇り?」
「そうだ。俺の空手は、ひとりの少女を救うことが出来たんだ。空手を捨てなくて良かった……俺は、心底からそう思っている。そう思えるのも、お前のお陰だ」
黒崎の言葉を聞いているうちに、草太の顔つきも変わってきた。
「そっか。まあ、そうだよな。これで、良かったんだよな」
「ああ、そうだ。そもそも、ユリアがロシアのクズどもの金など欲しがると思うのか?」
「どうだろうな。まあ、金は幾らあっても困らないしね」
言いながら、草太は立ち上がる。その表情は、明るさを取り戻していた。
「なんか、おっちゃんと話したらスッキリしたよ。ありがとな、おっちゃん」
そう言うと、草太はくるりと振り向き立ち去りかけた。
しかし、すぐに立ち止まる。
「忘れるとこだったよ。おっちゃん、あんたに頼みがある」
「なんだ? 金なら貸さんぞ」
「あんたから金借りるほどバカじゃねえよ」
言いながら、草太は再びベンチに座る。
だが、続いて発せられた言葉は意外なものだった。
「おっちゃん、俺に空手を教えてくれないか?」
想定外の言葉に、黒崎は唖然とした表情のまま硬直した。次いで、目の前にいる男が正気なのかどうか、まじまじと見つめる。
だが、草太の表情は真剣そのものだった。一応、まだ正気は失っていないようにも見える。
少しの間を置き、黒崎は口を開いた。
「お前、正気か? 空手を習いたければ、この町にもちゃんとした道場がある。そこに行けばよかろう」
「いや、俺はおっちゃんから習いたいんだよ。黒崎健剛の空手を、な」
草太の口調もまた、真剣なものだった。いつものような、ふざけた雰囲気が無い。
「何故だ? 俺は破門された身だ。それに、指導には向いていない──」
「あのさ、ロシア人が事務所に来た時……おっちゃん言ったよな。俺の空手は、力なき人を守るためのものだって」
「ああ、そんなことを言ったかもしれんな」
「あの時、俺は本気で感動したんだよ。今の時代、こんなことを真顔で言う奴がいたんだな……ってさ」
草太の言葉に、黒崎は苦笑いした。誉められているようには聞こえない言葉だが、草太は澄みきった瞳を黒崎に向けている。
「おっちゃん、あんたこそ本物の空手家だよ。俺もおっちゃんみたいに、力なき人を守れるようになりたいんだ。だから、俺に空手を教えてくれ。指導料は一回五百円プラス、コンビニの弁当でどうだ?」
その言葉を聞いた黒崎は、すくっと立ち上がった。
「そこまで言うなら仕方ないな。俺が直々にお前を指導してやる。まずは、正拳中段突きと前蹴りだな。教えた技を、毎日千回やるんだぞ」
「えっ、毎日千回!?」
草太は、引きつった表情を向ける。だが、黒崎はお構い無しに喋り続けた。
「そうだ。毎日千回、それが基本だ。さらに拳立て伏せや腹筋、背筋も毎日やるぞ。あと、懸垂も忘れてはいかん……そうだ、組手も毎日やらなくてはな」
「く、組手? 何それ?」
完全に引いている草太。しかし、黒崎は気づいていない。嬉しそうに語り続ける。
「組手とは、お互い自由に技を出し合う練習だ。今風に言うなら、スパーリングだ。俺が、いつでも相手になってやるからな。好きなようにかかって来い」
ニコニコしながら、そんな物騒なセリフを吐く黒崎。草太は、愛想笑いを浮かべた。もっとも、その額からは冷や汗が垂れてきているが……。
「あ、あのさ、ユリアん時と全然違うじゃねえかよ。せめてさ、もうちょい楽な初心者コースで頼むよ」
「遠慮するな。俺が基礎から、きっちり鍛えてやる。こう見えても、かつては鬼の黒崎と呼ばれた俺だ。お前を、一人前の空手家にしてやるからな」
「いや、空手家になりたい訳じゃないから。だいたい、鬼の黒崎って絶対に誉め言葉じゃねえだろ……」
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
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退会済ユーザのコメントです
ありがとうございます。実は、向こうの作品のテーマのひとつが「黒崎の復活」です(笑)
一気読みしてしまいました。
すっごい好きな作品です!
街の雰囲気と”癖”のある素敵な登場人物に惹かれました。
できればエピローグのあとの閑話で、ラジャ姉さん(?)が、かわいいユリアたんのために、
ロシアの格闘仲間を通じて密かにガシッと〆てくれてた、っというのがある嬉しいです。
★ラジャ姉さん密かに最強説♡
・・・TVでみたい♡
感想ありがとうございます。
楽しんでいただけて嬉しいです。ラジャ姉さんは、ある意味最強ですので……誰も勝てないでしょうね(笑)。最後までお付き合いいただき、感想まで書いてくださって、本当にありがとうございました。