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第1話:婚約破棄と初告白
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婚約が壊れる音は、意外と静かだった。
ぱきん、とも、ばきん、とも鳴らない。
テーブルの上の花瓶が揺れて、誰かの咳払いが一つ落ちたくらい。
それだけで、俺の未来は少し形を変えた。
いや、正確には、俺の未来じゃなくて、予定表の一行が空欄になっただけだ。
でも五歳の俺には、その空欄がちょっとだけ広く見えた。
「だって、お義兄様の方がずっと素敵なんですもの!」
小さな姫は小さな胸を張って言い切った。
隣国の王女、同い年、髪は蜂蜜みたいで、目は空の色。
うん、かわいい。とてもかわいい。あと、正直すぎる。
俺は第三王子。彼女の言う「お義兄様」は、もし俺と姫が結婚した場合に義理の兄になる予定であったところの、俺の長兄のことだ。
長兄は完璧で、いつも落ち着いていて、俺にだけはちょっと甘い。たぶん世界基準で見ても素敵だ。認める。悔しいけど。
だから俺は、うん、と頷いた。
「そうか。わかった。応援する」
会議室の空気が一瞬だけ固まる。
父上も母上も、向こうの国王も王妃も、重たい冠の下で目を瞬かせる。
でも、俺は俺だ。
彼女が胸を張って望みを言う勇気、いいなって思った。
だったら俺も胸を張ろう。俺の望みを、言ってみよう。
今が、たぶん、ここぞだ。
会議は大人たちに任せた。
俺は椅子から降りて、つるりとした床を小走りに抜け、廊下の角を二つ曲がる。
近衛の詰所はいつも涼しくて、鉄と革の匂いがする。
そこに、いる。
黒髪、無駄のない体躯、銀の胸甲。
俺の片思いの相手。近衛騎士のナハト。
初めて見たときから、かっこいい。いや、かっこよすぎる。
剣が似合う。馬に乗ってるときの背中が、空よりまっすぐ。
あと、俺の背を撫でる手が、いつも優しい。そこがずるい。
「殿下?」
ナハトが膝を折って視線を合わせてくれる。
目が近い。まつ毛、長い。ずるい。
今から俺は、少しだけ気が触れたふりをする。
だって、五歳の理性ではこの鼓動を説明できない。
それに、気が触れたふりなら、何を言っても許される。たぶん。
うん、たぶん。
「ナハト」
「はい、殿下」
「おれ、いま、とてもふあんていだ」
「……はい?」
「心が、ぐにゃってして、空が、さかさま」
「それは大変ですね」
ナハトの口元が、ほんの少しだけ笑った。
騙されてはいけない。その笑顔は、世界を甘くする。
俺は胸の前で両手をぐっと握る。ここぞ、だから。
深呼吸。ひとつ。ふたつ。
言うぞ。
「ナハト、俺はお前が好きだ。けっこんしてください」
廊下の風が、一瞬だけ止まった気がした。
ナハトの瞳の色が、すこしだけ驚きに揺れる。
次の瞬間、彼は苦笑して、いつもの優しい手つきで俺の頭を撫でた。
撫でるな。いや、撫でてほしい。いや、今は撫でるな。ずるいから。
「殿下。まずは落ち着いて、深呼吸を」
「した。三回した。だから本気」
「本気、ですか」
「本気」
俺は背伸びをして、彼の胸甲に手を置く。
冷たい。けれど、その向こうにある体温は、たしかに温かい。
俺は目を逸らさない。逸らしたら、全部が冗談になってしまう。
「婚約、なくなった。だから、空欄。そこに、ナハト」
「……殿下」
「たぶん、いま言わないと逃げる。俺の勇気。さっき、小さな姫が言った。すきなひとがいるって。だから俺も言う。俺のすきは、ナハト」
五歳の語彙は足りない。だから、足りないまま真っ直ぐ言う。
ナハトは黙っていた。目が、きれいだ。
俺の顔を映して、少し苦しそうで、少しうれしそうで。
長い沈黙。心臓が、ばくばくする。内側で太鼓祭り。賑やかすぎる。
遠くで鐘が鳴った。昼を告げる音。現実はいつも時間通り。
「……殿下」
ようやく、ナハトが息を吐く。
その音に合わせて、俺の肩の力がちょっと抜ける。
「殿下は、お優しい。誰より勇敢です。ですが……結婚というのは、とても遠い約束でして」
「遠い?」
「ええ。殿下がもっと大きくなられて、国を想い、ご自身を想い、それでもなお、同じ言葉をくださるのであれば――そのとき、改めて私に告げてください」
「いまは、だめ?」
「いまは、だめです」
はっきり言われて、胸がきゅっとなる。
でも、ナハトは手を離さない。頭を撫でる手は、そのまま。
拒絶だけじゃない。ちゃんと、待ってくれる形の言葉。
俺は鼻をすする。泣いてはいない。すこし鼻がむずむずしただけだ。たぶん花粉。王宮にも花粉はある。知らんけど。
「じゃあ、約束」
「約束?」
「俺が大きくなっても、同じこと言う。そしたら、ナハト、考える?」
ナハトは少しだけ目を細めた。やっぱりずるい笑い方だ。
「私は、殿下のお側におります。剣として。盾として。それから……」
言い淀んで、彼は言葉を選ぶ。
俺は息を止める。鼓動が大きくなる。大きくなりすぎて廊下にこぼれそう。
「それから、一人の人間として、殿下を尊敬しています」
尊敬。良い言葉。真面目な言葉。好き、とは違うけれど、違うからこそ、ちゃんと心に残る。
俺はこくりと頷いた。
「じゃあ、俺も尊敬する。けど、すきもする。両方する。いっぱいする」
「欲張りですね」
「王子だから」
「……お手上げです」
ナハトは両手を少し上げてみせて、すぐにまた俺の肩にそっと置く。
「さあ、殿下。式次第が変わって、今頃、会議室は少し騒がしい。戻りましょう」
「戻る。けど、その前に、もういっかい言う」
「はい」
「ナハト、俺はお前が好きだ」
「承りました」
うん、と俺は満足して頷く。
今日、婚約はなくなった。
一つの線が消えて、代わりに、細い糸が結ばれた気がする。
誰にも見えない糸。俺と、ナハトの間に、ぴんと張ったやつ。
張りすぎて切れないように、でも、ゆるみすぎて解けないように。
大きくなってから、もう一度、結び直すための糸。
廊下を歩くと、陽が床に四角く落ちている。
俺の影とナハトの影が、長さの違う二本の線で並んだ。
いつか、同じ長さになるだろうか。
いや、する。するに決まってる。
俺は王子だから、欲張りだ。欲張りは、叶えるためにある。
だから――
「ナハト、手、つなぐ」
「殿下は五歳ですから。少しだけ」
「うん」
握った手は、騎士の手だった。固くて、温かい。
俺はその手を、ぎゅっと握った。
約束の形を、掌で覚える。
そして俺は、胸の中で小さく宣言する。
次に告白するときは、気が触れたふりなんてしない。
まっすぐ、堂々と、王子らしく。
――その日まで、よろしくな、俺の近衛騎士。ナハト。
ぱきん、とも、ばきん、とも鳴らない。
テーブルの上の花瓶が揺れて、誰かの咳払いが一つ落ちたくらい。
それだけで、俺の未来は少し形を変えた。
いや、正確には、俺の未来じゃなくて、予定表の一行が空欄になっただけだ。
でも五歳の俺には、その空欄がちょっとだけ広く見えた。
「だって、お義兄様の方がずっと素敵なんですもの!」
小さな姫は小さな胸を張って言い切った。
隣国の王女、同い年、髪は蜂蜜みたいで、目は空の色。
うん、かわいい。とてもかわいい。あと、正直すぎる。
俺は第三王子。彼女の言う「お義兄様」は、もし俺と姫が結婚した場合に義理の兄になる予定であったところの、俺の長兄のことだ。
長兄は完璧で、いつも落ち着いていて、俺にだけはちょっと甘い。たぶん世界基準で見ても素敵だ。認める。悔しいけど。
だから俺は、うん、と頷いた。
「そうか。わかった。応援する」
会議室の空気が一瞬だけ固まる。
父上も母上も、向こうの国王も王妃も、重たい冠の下で目を瞬かせる。
でも、俺は俺だ。
彼女が胸を張って望みを言う勇気、いいなって思った。
だったら俺も胸を張ろう。俺の望みを、言ってみよう。
今が、たぶん、ここぞだ。
会議は大人たちに任せた。
俺は椅子から降りて、つるりとした床を小走りに抜け、廊下の角を二つ曲がる。
近衛の詰所はいつも涼しくて、鉄と革の匂いがする。
そこに、いる。
黒髪、無駄のない体躯、銀の胸甲。
俺の片思いの相手。近衛騎士のナハト。
初めて見たときから、かっこいい。いや、かっこよすぎる。
剣が似合う。馬に乗ってるときの背中が、空よりまっすぐ。
あと、俺の背を撫でる手が、いつも優しい。そこがずるい。
「殿下?」
ナハトが膝を折って視線を合わせてくれる。
目が近い。まつ毛、長い。ずるい。
今から俺は、少しだけ気が触れたふりをする。
だって、五歳の理性ではこの鼓動を説明できない。
それに、気が触れたふりなら、何を言っても許される。たぶん。
うん、たぶん。
「ナハト」
「はい、殿下」
「おれ、いま、とてもふあんていだ」
「……はい?」
「心が、ぐにゃってして、空が、さかさま」
「それは大変ですね」
ナハトの口元が、ほんの少しだけ笑った。
騙されてはいけない。その笑顔は、世界を甘くする。
俺は胸の前で両手をぐっと握る。ここぞ、だから。
深呼吸。ひとつ。ふたつ。
言うぞ。
「ナハト、俺はお前が好きだ。けっこんしてください」
廊下の風が、一瞬だけ止まった気がした。
ナハトの瞳の色が、すこしだけ驚きに揺れる。
次の瞬間、彼は苦笑して、いつもの優しい手つきで俺の頭を撫でた。
撫でるな。いや、撫でてほしい。いや、今は撫でるな。ずるいから。
「殿下。まずは落ち着いて、深呼吸を」
「した。三回した。だから本気」
「本気、ですか」
「本気」
俺は背伸びをして、彼の胸甲に手を置く。
冷たい。けれど、その向こうにある体温は、たしかに温かい。
俺は目を逸らさない。逸らしたら、全部が冗談になってしまう。
「婚約、なくなった。だから、空欄。そこに、ナハト」
「……殿下」
「たぶん、いま言わないと逃げる。俺の勇気。さっき、小さな姫が言った。すきなひとがいるって。だから俺も言う。俺のすきは、ナハト」
五歳の語彙は足りない。だから、足りないまま真っ直ぐ言う。
ナハトは黙っていた。目が、きれいだ。
俺の顔を映して、少し苦しそうで、少しうれしそうで。
長い沈黙。心臓が、ばくばくする。内側で太鼓祭り。賑やかすぎる。
遠くで鐘が鳴った。昼を告げる音。現実はいつも時間通り。
「……殿下」
ようやく、ナハトが息を吐く。
その音に合わせて、俺の肩の力がちょっと抜ける。
「殿下は、お優しい。誰より勇敢です。ですが……結婚というのは、とても遠い約束でして」
「遠い?」
「ええ。殿下がもっと大きくなられて、国を想い、ご自身を想い、それでもなお、同じ言葉をくださるのであれば――そのとき、改めて私に告げてください」
「いまは、だめ?」
「いまは、だめです」
はっきり言われて、胸がきゅっとなる。
でも、ナハトは手を離さない。頭を撫でる手は、そのまま。
拒絶だけじゃない。ちゃんと、待ってくれる形の言葉。
俺は鼻をすする。泣いてはいない。すこし鼻がむずむずしただけだ。たぶん花粉。王宮にも花粉はある。知らんけど。
「じゃあ、約束」
「約束?」
「俺が大きくなっても、同じこと言う。そしたら、ナハト、考える?」
ナハトは少しだけ目を細めた。やっぱりずるい笑い方だ。
「私は、殿下のお側におります。剣として。盾として。それから……」
言い淀んで、彼は言葉を選ぶ。
俺は息を止める。鼓動が大きくなる。大きくなりすぎて廊下にこぼれそう。
「それから、一人の人間として、殿下を尊敬しています」
尊敬。良い言葉。真面目な言葉。好き、とは違うけれど、違うからこそ、ちゃんと心に残る。
俺はこくりと頷いた。
「じゃあ、俺も尊敬する。けど、すきもする。両方する。いっぱいする」
「欲張りですね」
「王子だから」
「……お手上げです」
ナハトは両手を少し上げてみせて、すぐにまた俺の肩にそっと置く。
「さあ、殿下。式次第が変わって、今頃、会議室は少し騒がしい。戻りましょう」
「戻る。けど、その前に、もういっかい言う」
「はい」
「ナハト、俺はお前が好きだ」
「承りました」
うん、と俺は満足して頷く。
今日、婚約はなくなった。
一つの線が消えて、代わりに、細い糸が結ばれた気がする。
誰にも見えない糸。俺と、ナハトの間に、ぴんと張ったやつ。
張りすぎて切れないように、でも、ゆるみすぎて解けないように。
大きくなってから、もう一度、結び直すための糸。
廊下を歩くと、陽が床に四角く落ちている。
俺の影とナハトの影が、長さの違う二本の線で並んだ。
いつか、同じ長さになるだろうか。
いや、する。するに決まってる。
俺は王子だから、欲張りだ。欲張りは、叶えるためにある。
だから――
「ナハト、手、つなぐ」
「殿下は五歳ですから。少しだけ」
「うん」
握った手は、騎士の手だった。固くて、温かい。
俺はその手を、ぎゅっと握った。
約束の形を、掌で覚える。
そして俺は、胸の中で小さく宣言する。
次に告白するときは、気が触れたふりなんてしない。
まっすぐ、堂々と、王子らしく。
――その日まで、よろしくな、俺の近衛騎士。ナハト。
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