ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた

文字の大きさ
5 / 24

第5話:距離の変化

しおりを挟む
十歳の夏が、音を立てずに深くなった。影は日ごとに濃く、砂の色は乾いたパンみたいに白っぽい。剣の稽古は続く。足。膝。腰。顎。肘。木剣の重みは、筋肉の線に沿って静かに沈む。体は嘘をつかない。だから、できることが増えた。

できることが増えるたび、会える時間が、少し減った。

最初に気づいたのは、朝の点呼の並び。ナハトの位置が、一つ奥になっていた。近衛隊の新しい配備表。王城の北回廊の警護と、夜警の責任者。名前の横に、目に見えない重さが付く。

「殿下。点呼は遠くから」

侍従長のバルドが言った。石みたいな声。重くて冷たい。けど、仕事の温度だ。

「邪魔しない」

「邪魔ではありません。ただ、近衛は近衛として、殿下は殿下として、礼儀の距離が必要になります」

礼儀の距離。鞘の別名。わかる。だけど、胸は少しだけぐにゃっとする。

―――

午前の稽古のあと、俺は訓練場の柵にもたれて水を飲む。陽が高い。影は短い。短い影は、隠れる場所が少ない。

「殿下」

ナハトが来た。汗の匂い。少し塩。生きている匂い。好き。けれど、今日は一歩、遠いところで止まった。足の砂が、いつもより一つ多い場所に落ちる。

「配備が変わりました。私の持ち場が増えます」

「ふえる?」

「ええ。夜の巡回と、北回廊の出入り口。日中は、殿下の警護はルークが主になるでしょう」

ルークが後ろから手を上げた。「任せてよ、殿下」

わかってる。ルークは明るいし、腕も立つ。好き。だけど、胸の中の小さな棘が、また一本、生え足した。

「ナハトは、俺の近衛」

「近衛です。変わりません」

「でも、遠い」

言ってから、子供のわがままだって自分でも思う。けど、言葉は出てしまって、戻らない。

ナハトは、ほんの少しだけ目を伏せた。それから、いつもの丁寧な声で、静かに言う。

「殿下。近すぎる距離は、守るべきものを曇らせます。私は仕事を正しく行いたい。殿下にこそ、正しい形でお仕えしたい」

正しい。わかる。わかっている。鞘。礼儀。尊敬。全部、胸の引き出しに入っている。けど、指の先がすこし寂しい。革紐は本のしおり。指にはない。

「じゃあ、影では?」

「影では、今まで通りに」

少しの救い。砂糖の欠片。舌の上で溶ける前に、言葉にして確かめる。

「影は、殿下の」

「うん」

―――

その日の午後、授業の合間に北回廊を通る用事ができた。文官の先生に頼まれた書状を、父上の執務室へ。走らない。王子の足は走らない。早歩き。王子の早歩きは、走ってるのと同じくらい速い。たぶん。

北回廊は、空気が涼しい。石が陰を抱えているせい。足音がよく響く。俺の靴の音と、もう一つ。硬い靴音。

角の先、ナハトがいた。壁にもたれて、視線はまっすぐ。剣の柄に軽く指がかかっている。似合う。いつ見ても、似合いすぎる。

「殿下」

「通る」

「はい」

それだけ。ほんのそれだけ。けれど、俺の背筋は少し伸びる。通り過ぎながら、影の帯に足を一歩入れる。短い影。短い時間。

「ナハト」

「はい」

「今夜、月は出る?」

「雲が薄い。たぶん、出ます」

「じゃあ、窓から見える」

「ええ。殿下の書斎からなら、東の屋根越しに」

それだけ。ふたりの影が一瞬重なって、すぐ離れる。離れたけど、重なった事実は残る。小さな文字で、今日の空欄に書かれる。

書状を渡して戻る途中、ルークに捕まった。

「殿下、剣帯、今度新しいの作りません? 肩に負担が少ないやつ」

「作る」

「革屋にお願いしておきます。測りますね」

肩に布メジャーが乗る。数字が出る。数字は正直。体は嘘をつかない。数字も嘘をつかない。俺は自分の肩の広さに、少しだけ驚く。五歳のときとは違う。増えた。増えた分、持てる重さも増える。

「ナハトにも似合うと思うんだよな、あの色の革」

ルークがぽろっと言って、すぐに「内緒」と笑う。

俺は頷いて、心にしまう。内緒を持つのは、少し楽しい。けど、今日は胸がきゅっとして、楽しいの先に、寂しいの味がする。

―――

夕刻、稽古の終わり。影が伸びる時間。影は長いほど、安心する。隠れる場所が増えるから。俺は訓練場の端、壁と柱のあいだにできる影を選んで、そこに立つ。そこに、来る。足音。知ってるリズム。

「殿下」

「影」

「影です」

ナハトは手袋を一枚だけ外した。右手。俺の手に触れず、空気を撫でるみたいに、指先が近づく。近すぎない距離。過不足のないやさしさ。影の約束。

「日中、少し冷たくした言い方をして、すみません」

「冷たくなかった。正しかった」

「ありがとうございます」

礼儀の言葉。けれど、その裏に薄い熱がある。熱は、触れていなくても伝わる。伝わるから、俺は息が楽になる。

「俺、がんばる。ルークの護衛でも、真面目に歩く。授業もやる。剣もやる。……ナハトに、恥をかかせない」

「殿下は、私に誇りをくださいます」

「誇り?」

「ええ。殿下が前を見て歩くこと。私が守るべきものが、堂々と光の中を歩くこと。それが、私の誇りです」

胸の内側で、ひもがぐっと締まって、ほどけない結び目になる。言葉は、結び目の道具だ。今日はそれを実感する。

「じゃあ、俺も言う。ナハトが正しく立ってること。遠くても、そこにいること。……俺の誇り」

ナハトの目が、少し笑った。薄い影の中でもわかる笑い。ずるい笑い。好きな笑い。

「殿下。もう一つ、お願いが」

「なに」

「影の約束を増やしましょう」

「増やす?」

「合図を決めます。人前で、殿下が不安なとき、ここに手を当ててください」

ナハトは胸甲の上、心臓のあたりを二本の指でとん、と叩いた。

「私も、同じように返します。それで、私は殿下を見ています、と伝えられる」

「ことばじゃなくて?」

「目立ちません」

礼儀の鞘に入った合図。好き。すごく好き。

俺は自分の胸に指を当てて、とん、と真似する。薄い布越しに、鼓動が跳ね返る。内側の太鼓。騒がしい。けど、静かになる。不思議。

「決まり」

「決まりです」

影の中で、ほんの一瞬だけ、指先が触れた。ほんとうに一瞬。触れたかどうか、風のせいにできるくらい。一瞬で、満たされる。小指に巻いていた革紐の記憶が、指先によみがえる。

―――

それから日々は、少しずつ形を変えた。

朝は遠くから点呼を見る。ナハトの名に合わせて、胸の前で小さくとん、と合図をする。彼はほんの遅れで、同じ場所に指を落とす。誰も気づかない。俺だけの印。

昼はルークと歩く。ルークは話が多い。「昨日の猫がさ」「新しい靴がさ」「パン屋の新作がさ」。半分はどうでもいいけど、全部おもしろい。歩く距離が短く感じる。役に立つ話も混ざっている。城の裏口の石が一つ欠けている場所とか。夜目で見ると危ないらしい。そういうのは、ちゃんと父上の執務に伝える。王子の仕事。

午後は稽古。グスタフの声は相変わらず短く、重い。俺は足を動かし続ける。木剣の柄に汗が染みる。手の皮が固くなる。痛いけど、好き。数字は少しずつ増える。走る距離。素振りの回数。できる回数。体は嘘をつかない。

夕刻は影。影の帯の細さで、季節の変わり目がわかるようになってきた。影が短い日は、合図だけで別れる。影が長い日は、もう一言ずつだけ、言葉を結ぶ。

「殿下。水を」

「ありがとう」

「宿題は?」

「半分」

「半分は偉業です」

「全部やる」

「では、二倍偉業です」

そういう小さなやりとり。砂糖の欠片。舌の上でゆっくり溶かす。毎日でも飽きない味。

―――

ある晩、ほんとうに月が出た。窓を開けると、東の屋根の向こうに、黄いろい丸。薄い雲がレースみたいにかかっている。風が涼しい。紙の匂い。しおりの革紐。指に巻けない約束を、頁に挟む。

胸の前で、とん。窓に向かって、とん。遠く、回廊のどこかで、同じ音が返ってきた気がした。風かもしれない。気のせいかもしれない。けど、俺の中では、返ってきた。十分。

「おやすみ、ナハト」

声に出さず、口の形だけで言う。窓枠が静かにそれを飲み込む。

距離は、消えない。距離は、必要だ。鞘の形。礼儀の形。守るための空白。

でも、空欄は怖くない。文字が増えたから。合図が増えたから。影の約束が、増えたから。

俺は眠る前に、明日の自分に一つだけ命じる。

もっと強く。もっと賢く。もっと礼儀正しく。

王子だから。欲張りだから。叶えるために。

そしていつか――影じゃなく、光の中で。

気が触れたふりなんてしないで、まっすぐに。

「ナハト。俺はお前が好きだ」

その日の月は、返事みたいに、雲の切れ間で一度だけ強く光った。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ! あらすじ 「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」 貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。 冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。 彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。 「旦那様は俺に無関心」 そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。 バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!? 「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」 怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。 えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの? 実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった! 「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」 「過保護すぎて冒険になりません!!」 Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。 すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。

【新版】転生悪役モブは溺愛されんでいいので死にたくない!

煮卵
BL
ゲーム会社に勤めていた俺はゲームの世界の『婚約破棄』イベントの混乱で殺されてしまうモブに転生した。 処刑の原因となる婚約破棄を避けるべく王子に友人として接近。 なんか数ヶ月おきに繰り返される「恋人や出会いのためのお祭り」をできる限り第二皇子と過ごし、 婚約破棄の原因となる主人公と出会うきっかけを徹底的に排除する。 最近では監視をつけるまでもなくいつも一緒にいたいと言い出すようになった・・・ やんごとなき血筋のハンサムな王子様を淑女たちから遠ざけ男の俺とばかり過ごすように 仕向けるのはちょっと申し訳ない気もしたが、俺の運命のためだ。仕方あるまい。 クレバーな立ち振る舞いにより、俺の死亡フラグは完全に回避された・・・ と思ったら、婚約の儀の当日、「私には思い人がいるのです」 と言いやがる!一体誰だ!? その日の夜、俺はゲームの告白イベントがある薔薇園に呼び出されて・・・ ーーーーーーーー この作品は以前投稿した「転生悪役モブは溺愛されんで良いので死にたくない!」に 加筆修正を加えたものです。 リュシアンの転生前の設定や主人公二人の出会いのシーンを追加し、 あまり描けていなかったキャラクターのシーンを追加しています。 展開が少し変わっていますので新しい小説として投稿しています。 続編出ました 転生悪役令嬢は溺愛されんでいいので推しカプを見守りたい! https://www.alphapolis.co.jp/novel/687110240/826989668 ーーーー 校正・文体の調整に生成AIを利用しています。

そばかす糸目はのんびりしたい

楢山幕府
BL
由緒ある名家の末っ子として生まれたユージン。 母親が後妻で、眉目秀麗な直系の遺伝を受け継がなかったことから、一族からは空気として扱われていた。 ただ一人、溺愛してくる老いた父親を除いて。 ユージンは、のんびりするのが好きだった。 いつでも、のんびりしたいと思っている。 でも何故か忙しい。 ひとたび出張へ出れば、冒険者に囲まれる始末。 いつになったら、のんびりできるのか。もう開き直って、のんびりしていいのか。 果たして、そばかす糸目はのんびりできるのか。 懐かれ体質が好きな方向けです。

推しのために自分磨きしていたら、いつの間にか婚約者!

木月月
BL
異世界転生したモブが、前世の推し(アプリゲームの攻略対象者)の幼馴染な側近候補に同担拒否されたので、ファンとして自分磨きしたら推しの婚約者にされる話。 この話は小説家になろうにも投稿しています。

婚約破棄されてヤケになって戦に乱入したら、英雄にされた上に美人で可愛い嫁ができました。

零壱
BL
自己肯定感ゼロ×圧倒的王太子───美形スパダリ同士の成長と恋のファンタジーBL。 鎖国国家クルシュの第三王子アースィムは、結婚式目前にして長年の婚約を一方的に破棄される。 ヤケになり、賑やかな幼馴染み達を引き連れ無関係の戦場に乗り込んだ結果───何故か英雄に祭り上げられ、なぜか嫁(男)まで手に入れてしまう。 「自分なんかがこんなどちゃくそ美人(男)を……」と悩むアースィム(攻)と、 「この私に不満があるのか」と詰め寄る王太子セオドア(受)。 互いを想い合う二人が紡ぐ、恋と成長の物語。 他にも幼馴染み達の一抹の寂寥を切り取った短篇や、 両想いなのに攻めの鈍感さで拗れる二人の恋を含む全四篇。 フッと笑えて、ギュッと胸が詰まる。 丁寧に読みたい、大人のためのファンタジーBL。 他サイトでも公開しております。

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

【完結】獣王の番

なの
BL
獣王国の若き王ライオネルは、和平の証として差し出されたΩの少年ユリアンを「番など認めぬ」と冷酷に拒絶する。 虐げられながらも、ユリアンは決してその誇りを失わなかった。 しかし暴走する獣の血を鎮められるのは、そのユリアンただ一人――。 やがて明かされる予言、「真の獣王は唯一の番と結ばれるとき、国を救う」 拒絶から始まった二人の関係は、やがて国を救う愛へと変わっていく。 冷徹な獣王と運命のΩの、拒絶から始まる、運命の溺愛ファンタジー!

処理中です...