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第5話:距離の変化
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十歳の夏が、音を立てずに深くなった。影は日ごとに濃く、砂の色は乾いたパンみたいに白っぽい。剣の稽古は続く。足。膝。腰。顎。肘。木剣の重みは、筋肉の線に沿って静かに沈む。体は嘘をつかない。だから、できることが増えた。
できることが増えるたび、会える時間が、少し減った。
最初に気づいたのは、朝の点呼の並び。ナハトの位置が、一つ奥になっていた。近衛隊の新しい配備表。王城の北回廊の警護と、夜警の責任者。名前の横に、目に見えない重さが付く。
「殿下。点呼は遠くから」
侍従長のバルドが言った。石みたいな声。重くて冷たい。けど、仕事の温度だ。
「邪魔しない」
「邪魔ではありません。ただ、近衛は近衛として、殿下は殿下として、礼儀の距離が必要になります」
礼儀の距離。鞘の別名。わかる。だけど、胸は少しだけぐにゃっとする。
―――
午前の稽古のあと、俺は訓練場の柵にもたれて水を飲む。陽が高い。影は短い。短い影は、隠れる場所が少ない。
「殿下」
ナハトが来た。汗の匂い。少し塩。生きている匂い。好き。けれど、今日は一歩、遠いところで止まった。足の砂が、いつもより一つ多い場所に落ちる。
「配備が変わりました。私の持ち場が増えます」
「ふえる?」
「ええ。夜の巡回と、北回廊の出入り口。日中は、殿下の警護はルークが主になるでしょう」
ルークが後ろから手を上げた。「任せてよ、殿下」
わかってる。ルークは明るいし、腕も立つ。好き。だけど、胸の中の小さな棘が、また一本、生え足した。
「ナハトは、俺の近衛」
「近衛です。変わりません」
「でも、遠い」
言ってから、子供のわがままだって自分でも思う。けど、言葉は出てしまって、戻らない。
ナハトは、ほんの少しだけ目を伏せた。それから、いつもの丁寧な声で、静かに言う。
「殿下。近すぎる距離は、守るべきものを曇らせます。私は仕事を正しく行いたい。殿下にこそ、正しい形でお仕えしたい」
正しい。わかる。わかっている。鞘。礼儀。尊敬。全部、胸の引き出しに入っている。けど、指の先がすこし寂しい。革紐は本のしおり。指にはない。
「じゃあ、影では?」
「影では、今まで通りに」
少しの救い。砂糖の欠片。舌の上で溶ける前に、言葉にして確かめる。
「影は、殿下の」
「うん」
―――
その日の午後、授業の合間に北回廊を通る用事ができた。文官の先生に頼まれた書状を、父上の執務室へ。走らない。王子の足は走らない。早歩き。王子の早歩きは、走ってるのと同じくらい速い。たぶん。
北回廊は、空気が涼しい。石が陰を抱えているせい。足音がよく響く。俺の靴の音と、もう一つ。硬い靴音。
角の先、ナハトがいた。壁にもたれて、視線はまっすぐ。剣の柄に軽く指がかかっている。似合う。いつ見ても、似合いすぎる。
「殿下」
「通る」
「はい」
それだけ。ほんのそれだけ。けれど、俺の背筋は少し伸びる。通り過ぎながら、影の帯に足を一歩入れる。短い影。短い時間。
「ナハト」
「はい」
「今夜、月は出る?」
「雲が薄い。たぶん、出ます」
「じゃあ、窓から見える」
「ええ。殿下の書斎からなら、東の屋根越しに」
それだけ。ふたりの影が一瞬重なって、すぐ離れる。離れたけど、重なった事実は残る。小さな文字で、今日の空欄に書かれる。
書状を渡して戻る途中、ルークに捕まった。
「殿下、剣帯、今度新しいの作りません? 肩に負担が少ないやつ」
「作る」
「革屋にお願いしておきます。測りますね」
肩に布メジャーが乗る。数字が出る。数字は正直。体は嘘をつかない。数字も嘘をつかない。俺は自分の肩の広さに、少しだけ驚く。五歳のときとは違う。増えた。増えた分、持てる重さも増える。
「ナハトにも似合うと思うんだよな、あの色の革」
ルークがぽろっと言って、すぐに「内緒」と笑う。
俺は頷いて、心にしまう。内緒を持つのは、少し楽しい。けど、今日は胸がきゅっとして、楽しいの先に、寂しいの味がする。
―――
夕刻、稽古の終わり。影が伸びる時間。影は長いほど、安心する。隠れる場所が増えるから。俺は訓練場の端、壁と柱のあいだにできる影を選んで、そこに立つ。そこに、来る。足音。知ってるリズム。
「殿下」
「影」
「影です」
ナハトは手袋を一枚だけ外した。右手。俺の手に触れず、空気を撫でるみたいに、指先が近づく。近すぎない距離。過不足のないやさしさ。影の約束。
「日中、少し冷たくした言い方をして、すみません」
「冷たくなかった。正しかった」
「ありがとうございます」
礼儀の言葉。けれど、その裏に薄い熱がある。熱は、触れていなくても伝わる。伝わるから、俺は息が楽になる。
「俺、がんばる。ルークの護衛でも、真面目に歩く。授業もやる。剣もやる。……ナハトに、恥をかかせない」
「殿下は、私に誇りをくださいます」
「誇り?」
「ええ。殿下が前を見て歩くこと。私が守るべきものが、堂々と光の中を歩くこと。それが、私の誇りです」
胸の内側で、ひもがぐっと締まって、ほどけない結び目になる。言葉は、結び目の道具だ。今日はそれを実感する。
「じゃあ、俺も言う。ナハトが正しく立ってること。遠くても、そこにいること。……俺の誇り」
ナハトの目が、少し笑った。薄い影の中でもわかる笑い。ずるい笑い。好きな笑い。
「殿下。もう一つ、お願いが」
「なに」
「影の約束を増やしましょう」
「増やす?」
「合図を決めます。人前で、殿下が不安なとき、ここに手を当ててください」
ナハトは胸甲の上、心臓のあたりを二本の指でとん、と叩いた。
「私も、同じように返します。それで、私は殿下を見ています、と伝えられる」
「ことばじゃなくて?」
「目立ちません」
礼儀の鞘に入った合図。好き。すごく好き。
俺は自分の胸に指を当てて、とん、と真似する。薄い布越しに、鼓動が跳ね返る。内側の太鼓。騒がしい。けど、静かになる。不思議。
「決まり」
「決まりです」
影の中で、ほんの一瞬だけ、指先が触れた。ほんとうに一瞬。触れたかどうか、風のせいにできるくらい。一瞬で、満たされる。小指に巻いていた革紐の記憶が、指先によみがえる。
―――
それから日々は、少しずつ形を変えた。
朝は遠くから点呼を見る。ナハトの名に合わせて、胸の前で小さくとん、と合図をする。彼はほんの遅れで、同じ場所に指を落とす。誰も気づかない。俺だけの印。
昼はルークと歩く。ルークは話が多い。「昨日の猫がさ」「新しい靴がさ」「パン屋の新作がさ」。半分はどうでもいいけど、全部おもしろい。歩く距離が短く感じる。役に立つ話も混ざっている。城の裏口の石が一つ欠けている場所とか。夜目で見ると危ないらしい。そういうのは、ちゃんと父上の執務に伝える。王子の仕事。
午後は稽古。グスタフの声は相変わらず短く、重い。俺は足を動かし続ける。木剣の柄に汗が染みる。手の皮が固くなる。痛いけど、好き。数字は少しずつ増える。走る距離。素振りの回数。できる回数。体は嘘をつかない。
夕刻は影。影の帯の細さで、季節の変わり目がわかるようになってきた。影が短い日は、合図だけで別れる。影が長い日は、もう一言ずつだけ、言葉を結ぶ。
「殿下。水を」
「ありがとう」
「宿題は?」
「半分」
「半分は偉業です」
「全部やる」
「では、二倍偉業です」
そういう小さなやりとり。砂糖の欠片。舌の上でゆっくり溶かす。毎日でも飽きない味。
―――
ある晩、ほんとうに月が出た。窓を開けると、東の屋根の向こうに、黄いろい丸。薄い雲がレースみたいにかかっている。風が涼しい。紙の匂い。しおりの革紐。指に巻けない約束を、頁に挟む。
胸の前で、とん。窓に向かって、とん。遠く、回廊のどこかで、同じ音が返ってきた気がした。風かもしれない。気のせいかもしれない。けど、俺の中では、返ってきた。十分。
「おやすみ、ナハト」
声に出さず、口の形だけで言う。窓枠が静かにそれを飲み込む。
距離は、消えない。距離は、必要だ。鞘の形。礼儀の形。守るための空白。
でも、空欄は怖くない。文字が増えたから。合図が増えたから。影の約束が、増えたから。
俺は眠る前に、明日の自分に一つだけ命じる。
もっと強く。もっと賢く。もっと礼儀正しく。
王子だから。欲張りだから。叶えるために。
そしていつか――影じゃなく、光の中で。
気が触れたふりなんてしないで、まっすぐに。
「ナハト。俺はお前が好きだ」
その日の月は、返事みたいに、雲の切れ間で一度だけ強く光った。
できることが増えるたび、会える時間が、少し減った。
最初に気づいたのは、朝の点呼の並び。ナハトの位置が、一つ奥になっていた。近衛隊の新しい配備表。王城の北回廊の警護と、夜警の責任者。名前の横に、目に見えない重さが付く。
「殿下。点呼は遠くから」
侍従長のバルドが言った。石みたいな声。重くて冷たい。けど、仕事の温度だ。
「邪魔しない」
「邪魔ではありません。ただ、近衛は近衛として、殿下は殿下として、礼儀の距離が必要になります」
礼儀の距離。鞘の別名。わかる。だけど、胸は少しだけぐにゃっとする。
―――
午前の稽古のあと、俺は訓練場の柵にもたれて水を飲む。陽が高い。影は短い。短い影は、隠れる場所が少ない。
「殿下」
ナハトが来た。汗の匂い。少し塩。生きている匂い。好き。けれど、今日は一歩、遠いところで止まった。足の砂が、いつもより一つ多い場所に落ちる。
「配備が変わりました。私の持ち場が増えます」
「ふえる?」
「ええ。夜の巡回と、北回廊の出入り口。日中は、殿下の警護はルークが主になるでしょう」
ルークが後ろから手を上げた。「任せてよ、殿下」
わかってる。ルークは明るいし、腕も立つ。好き。だけど、胸の中の小さな棘が、また一本、生え足した。
「ナハトは、俺の近衛」
「近衛です。変わりません」
「でも、遠い」
言ってから、子供のわがままだって自分でも思う。けど、言葉は出てしまって、戻らない。
ナハトは、ほんの少しだけ目を伏せた。それから、いつもの丁寧な声で、静かに言う。
「殿下。近すぎる距離は、守るべきものを曇らせます。私は仕事を正しく行いたい。殿下にこそ、正しい形でお仕えしたい」
正しい。わかる。わかっている。鞘。礼儀。尊敬。全部、胸の引き出しに入っている。けど、指の先がすこし寂しい。革紐は本のしおり。指にはない。
「じゃあ、影では?」
「影では、今まで通りに」
少しの救い。砂糖の欠片。舌の上で溶ける前に、言葉にして確かめる。
「影は、殿下の」
「うん」
―――
その日の午後、授業の合間に北回廊を通る用事ができた。文官の先生に頼まれた書状を、父上の執務室へ。走らない。王子の足は走らない。早歩き。王子の早歩きは、走ってるのと同じくらい速い。たぶん。
北回廊は、空気が涼しい。石が陰を抱えているせい。足音がよく響く。俺の靴の音と、もう一つ。硬い靴音。
角の先、ナハトがいた。壁にもたれて、視線はまっすぐ。剣の柄に軽く指がかかっている。似合う。いつ見ても、似合いすぎる。
「殿下」
「通る」
「はい」
それだけ。ほんのそれだけ。けれど、俺の背筋は少し伸びる。通り過ぎながら、影の帯に足を一歩入れる。短い影。短い時間。
「ナハト」
「はい」
「今夜、月は出る?」
「雲が薄い。たぶん、出ます」
「じゃあ、窓から見える」
「ええ。殿下の書斎からなら、東の屋根越しに」
それだけ。ふたりの影が一瞬重なって、すぐ離れる。離れたけど、重なった事実は残る。小さな文字で、今日の空欄に書かれる。
書状を渡して戻る途中、ルークに捕まった。
「殿下、剣帯、今度新しいの作りません? 肩に負担が少ないやつ」
「作る」
「革屋にお願いしておきます。測りますね」
肩に布メジャーが乗る。数字が出る。数字は正直。体は嘘をつかない。数字も嘘をつかない。俺は自分の肩の広さに、少しだけ驚く。五歳のときとは違う。増えた。増えた分、持てる重さも増える。
「ナハトにも似合うと思うんだよな、あの色の革」
ルークがぽろっと言って、すぐに「内緒」と笑う。
俺は頷いて、心にしまう。内緒を持つのは、少し楽しい。けど、今日は胸がきゅっとして、楽しいの先に、寂しいの味がする。
―――
夕刻、稽古の終わり。影が伸びる時間。影は長いほど、安心する。隠れる場所が増えるから。俺は訓練場の端、壁と柱のあいだにできる影を選んで、そこに立つ。そこに、来る。足音。知ってるリズム。
「殿下」
「影」
「影です」
ナハトは手袋を一枚だけ外した。右手。俺の手に触れず、空気を撫でるみたいに、指先が近づく。近すぎない距離。過不足のないやさしさ。影の約束。
「日中、少し冷たくした言い方をして、すみません」
「冷たくなかった。正しかった」
「ありがとうございます」
礼儀の言葉。けれど、その裏に薄い熱がある。熱は、触れていなくても伝わる。伝わるから、俺は息が楽になる。
「俺、がんばる。ルークの護衛でも、真面目に歩く。授業もやる。剣もやる。……ナハトに、恥をかかせない」
「殿下は、私に誇りをくださいます」
「誇り?」
「ええ。殿下が前を見て歩くこと。私が守るべきものが、堂々と光の中を歩くこと。それが、私の誇りです」
胸の内側で、ひもがぐっと締まって、ほどけない結び目になる。言葉は、結び目の道具だ。今日はそれを実感する。
「じゃあ、俺も言う。ナハトが正しく立ってること。遠くても、そこにいること。……俺の誇り」
ナハトの目が、少し笑った。薄い影の中でもわかる笑い。ずるい笑い。好きな笑い。
「殿下。もう一つ、お願いが」
「なに」
「影の約束を増やしましょう」
「増やす?」
「合図を決めます。人前で、殿下が不安なとき、ここに手を当ててください」
ナハトは胸甲の上、心臓のあたりを二本の指でとん、と叩いた。
「私も、同じように返します。それで、私は殿下を見ています、と伝えられる」
「ことばじゃなくて?」
「目立ちません」
礼儀の鞘に入った合図。好き。すごく好き。
俺は自分の胸に指を当てて、とん、と真似する。薄い布越しに、鼓動が跳ね返る。内側の太鼓。騒がしい。けど、静かになる。不思議。
「決まり」
「決まりです」
影の中で、ほんの一瞬だけ、指先が触れた。ほんとうに一瞬。触れたかどうか、風のせいにできるくらい。一瞬で、満たされる。小指に巻いていた革紐の記憶が、指先によみがえる。
―――
それから日々は、少しずつ形を変えた。
朝は遠くから点呼を見る。ナハトの名に合わせて、胸の前で小さくとん、と合図をする。彼はほんの遅れで、同じ場所に指を落とす。誰も気づかない。俺だけの印。
昼はルークと歩く。ルークは話が多い。「昨日の猫がさ」「新しい靴がさ」「パン屋の新作がさ」。半分はどうでもいいけど、全部おもしろい。歩く距離が短く感じる。役に立つ話も混ざっている。城の裏口の石が一つ欠けている場所とか。夜目で見ると危ないらしい。そういうのは、ちゃんと父上の執務に伝える。王子の仕事。
午後は稽古。グスタフの声は相変わらず短く、重い。俺は足を動かし続ける。木剣の柄に汗が染みる。手の皮が固くなる。痛いけど、好き。数字は少しずつ増える。走る距離。素振りの回数。できる回数。体は嘘をつかない。
夕刻は影。影の帯の細さで、季節の変わり目がわかるようになってきた。影が短い日は、合図だけで別れる。影が長い日は、もう一言ずつだけ、言葉を結ぶ。
「殿下。水を」
「ありがとう」
「宿題は?」
「半分」
「半分は偉業です」
「全部やる」
「では、二倍偉業です」
そういう小さなやりとり。砂糖の欠片。舌の上でゆっくり溶かす。毎日でも飽きない味。
―――
ある晩、ほんとうに月が出た。窓を開けると、東の屋根の向こうに、黄いろい丸。薄い雲がレースみたいにかかっている。風が涼しい。紙の匂い。しおりの革紐。指に巻けない約束を、頁に挟む。
胸の前で、とん。窓に向かって、とん。遠く、回廊のどこかで、同じ音が返ってきた気がした。風かもしれない。気のせいかもしれない。けど、俺の中では、返ってきた。十分。
「おやすみ、ナハト」
声に出さず、口の形だけで言う。窓枠が静かにそれを飲み込む。
距離は、消えない。距離は、必要だ。鞘の形。礼儀の形。守るための空白。
でも、空欄は怖くない。文字が増えたから。合図が増えたから。影の約束が、増えたから。
俺は眠る前に、明日の自分に一つだけ命じる。
もっと強く。もっと賢く。もっと礼儀正しく。
王子だから。欲張りだから。叶えるために。
そしていつか――影じゃなく、光の中で。
気が触れたふりなんてしないで、まっすぐに。
「ナハト。俺はお前が好きだ」
その日の月は、返事みたいに、雲の切れ間で一度だけ強く光った。
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