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第7話:もう子供じゃない
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十五になった。背がのびて、影の先はナハトの影に届くようになった。並ぶと、ほとんど同じ長さ。ほとんど、が好きだ。全部じゃないから、まだ伸びられる。
革紐は相変わらずしおりだ。端は擦れて柔らかく、指に馴染む。頁を閉じるとき、あの約束の手触りが胸の奥で小さく鳴る。とん。合図の音は、骨の内側で今もきれいに響く。
朝、王宮の石段に陽が落ちる。点呼は遠くから。胸の前で、とん。遅れて、とん。礼儀の距離、影の約束。何年も使って、傷まない結び目。
今日は叙任式だ。下級騎士が三人、準騎士から昇る。式次第と祝辞は頭に入っている。昨夜、七回読み直して、比喩を二つ削った。王子の言葉は、砂糖を入れすぎない。甘さは最後に舌に残ればいい。
近衛の列の奥、黒髪が陽を吸う。銀の胸甲が陽を返す。ナハト。視線が一瞬だけ交わって、すぐ離れる。流れる礼儀の中で、それは十分だった。
式が終われば、午前は稽古。教練場の砂は、夏の手前でまだ白い。グスタフの声は相変わらず短く重い。俺は実剣の鈍刀をとる。木剣より太い、鈍い光。掌の豆は固く、柄に吸いつく。体は嘘をつかない。数は増え、歩幅は広がり、呼吸は深くなった。
「殿下、今日は間合いを見る」
グスタフが言う。対手はルーク。赤毛が陽に火花する。笑っているが、目は笑っていない。仕事の目。好きだ。容赦がないところが、役に立つ。
踏み込む。足。膝。腰。顎。肩。刃。空気が薄く鳴る。小さな音だが、俺には聞こえる。好き。二合、三合。弾かれた力が足に落ちる。崩れない。十五のからだは、十一のときよりも重心を覚えている。数字の蓄えは、こういうところで効く。
「間合い、半歩短い」
低い声が背を撫でた。ナハト。見ている。俺は半歩、刃先を届かせる。ルークの眉がわずかに上がる。四合目、柄で押されても、踵が浮かない。砂の下の石が、足裏にいるみたいだ。気持ちいい。
「――止め」
グスタフの一声。刃を引く。汗が首筋を下る。熱はあるが、息は整う。体は嘘をつかない。
「見違えましたね、殿下」
ルークが笑い、肩を叩く。叩かれても、揺れない。筋肉が叩く場所を知っている。
「かっこよかった?」
「はいはい、たいへんよくできました」
背後で、もう一つの低い息遣い。振り向かない。礼儀の距離。けれど、影に入れば別だ――午後、すこし長めの影が落ちる頃。
―――
昼の食堂。窓の外に庭師のハサミの音。長兄が書類を読みながらパンをちぎって、俺の皿に置く。直らない癖。直さなくていい癖。
「祝辞、良かった」
「比喩は二つ削った」
「賢明だ。……それで、背が伸びたな」
「影が、ナハトのに届く」
「そうか」
長兄の目の奥がやわらかく笑う。彼はなんでも知っている。けれど、なんでも言わない。そこが好きで、悔しい。
「午後は?」
「稽古の続き。それから、文官の報告。城下のパン屋の税の件」
「甘い話だな」
「砂糖を入れすぎない」
「良い心がけだ」
短い対話。大事な合図。兄と俺の合図も、年とともに増えた。結び目がいくつもあると、舵が効く。王子の船は、風に任せすぎてはいけない。
―――
午後の稽古の合間、影が柵の隙間から伸びて、壁に細い帯を作る。そこへ、手袋を片方だけ外した騎士が来る。低い声で、短い言葉。
「殿下」
「影」
「影です」
互いに胸の前で、とん。返ってくる音は、十一のときと同じなのに、体のどこに落ちるかが少し違う。喉ではなく、腹に落ちる。重心が変わった。
近くで見るナハトは、少しだけ変わっていた。こめかみに薄い傷。笑い方は同じ。ただ、笑うまでの間が、ほんのわずか、長い。積み重ねた任務の拍の分だけ。
「殿下。間合いが良くなりました」
「半歩、足りなかった」
「すぐに足した」
「見てた?」
「見ていました」
短い会話。砂糖の欠片。舌で転がす。十五の舌は、甘さを選ぶようになってきた。全部甘いのは、もういらない。最後に残る甘さが、いちばんいい。
「ナハト」
「はい」
「俺、もう子供じゃない」
「ええ」
即答。息が少し詰まった。すぐにほどける。息を吸う。低い声が続く。
「殿下は、私の目に、最初に会った日の殿下とは違います。背丈も、目の高さも、言葉の重さも。――ただ」
「ただ?」
「最初に結んだ結び目は、ほどけていない」
影が、少し濃くなる。胸の中で、革紐の感触がまた鳴る。とん。俺は笑う。十五の笑いは、五歳より静かだ。けど、深い。
「なら、もうひとつ結ぶ」
「何を」
「俺が子供じゃないときにも、合図は同じ、って約束」
「承りました」
「それから」
言いながら、言葉を選ぶ。甘さを足しすぎないように、砂糖を小さじで測るみたいに。十五は、測れる。
「影の外でも、少しだけ。礼儀の鞘に、合図を収める方法」
ナハトの目の色が、光を受けて深くなる。彼は胸甲の縁を、指先で軽く叩いた。とん、ではない。金属が小さく鳴る。人には音にしか聞こえない。けれど、二人には意味がある。
「式典でも、巡行でも、私はここにいます」
「わかった」
俺は自分の剣帯の金具を、人に聞こえないくらいの力で、指で触れる。金属が、返事のようにひそかに鳴る。鞘の中の合図。好きだ。よくできている。
「――殿下」
「なに」
「もう一つだけ」
「うん」
「『お兄ちゃん騎士』は、影の中だけで」
不意打ち。顔が熱くなる。十五の羞恥は、十一よりも、熱の質が違う。鋭いけれど、あとに甘さが残る。
「わかってる。言わない。……影では、たぶん、言う」
「影では、殿下の」
「うん」
短い沈黙が、影の涼しさと同じ温度で立ちのぼる。長くはいられない。影は日ごとに短くなる季節。俺は剣を持ち直し、彼は手袋をはめ直す。礼儀の距離が戻る。戻ったあとにも、結び目は残る。
―――
夕刻、北門の内側で小さな混乱があった。荷馬車の轅が外れ、馬が驚いて足踏みする。兵が二人、手を伸ばすが届かない。瞬間、視界の端で黒い影が動いた。ナハト。人混みを切り裂くみたいに進み、手綱をとり、馬の目を覆い、低い声で鎮める。数拍。馬が呼吸を思い出す。蹄の音が落ち着く。見事。俺は踵を返す。駆けない。王子だから。けれど、早足。王子の早足は、走ると同じくらい速い。たぶん。
「殿下、お下がりを」
門番の制止。正しい。下がる。礼儀の距離。けれど、胸の前で、金具を、かすかに。とんの代わりの金の音。遠くで、胸甲がひそかに答える。生きている合図。
用意していた言葉が、喉に浮かぶ。『よくやった』は軽い。『見事だった』も足りない。十五の言葉。砂糖は控えめで、塩をひとつまみ。
「――ナハト。誇らしい」
それだけ。彼は一拍だけ静止して、深く礼をした。礼の角度が、いつもよりわずかに深い。誰にも気づかれない。俺だけの、印。
―――
夜。書斎。頁に革紐を挟む。今日の空欄に、三行書く。
『同じ合図を、影の外へ。礼儀の鞘に、言葉を仕舞う。誇りは、声を小さくしても伝わる』
窓の外は、薄い三日月。欠けた光は、未来の余白だ。余白がある限り、書ける。王子だから。欲張りだから。全部は今書かない。明日に残す。
胸の前で、とん。返事は来ない。夜の巡回に出ている時間。いい。合図は、返ってこないときにも意味がある。自分に向けて、とん。十五の胸骨は、十一より厚い。音が少し低い。男の声になりつつある。自分で、自分の変化を聴く。
「――ナハト」
声に出さない。名前だけ、口の形で言う。五歳の頃は、甘く舐めるみたいに呼んだ。十一の頃は、祈るみたいに呼んだ。いまは、並ぶために呼ぶ。肩を並べる音を、口の中でつくる。
気が触れたふりなんて、もういらない。ふりを捨てても、俺の中の勇気は残る。増える。体は嘘をつかない。心も、もう、嘘をつかせない。
いつか光の真ん中で言う日のために、今日の約束をもう一つ、静かに結ぶ。
『子供じゃない俺の告白を、用意する』
砂糖は控えめに。言葉は正しく。影の外で届く声で。
――おやすみ。お兄ちゃん騎士。いや、影じゃないから、今日は言わない。
おやすみ、ナハト。
革紐は相変わらずしおりだ。端は擦れて柔らかく、指に馴染む。頁を閉じるとき、あの約束の手触りが胸の奥で小さく鳴る。とん。合図の音は、骨の内側で今もきれいに響く。
朝、王宮の石段に陽が落ちる。点呼は遠くから。胸の前で、とん。遅れて、とん。礼儀の距離、影の約束。何年も使って、傷まない結び目。
今日は叙任式だ。下級騎士が三人、準騎士から昇る。式次第と祝辞は頭に入っている。昨夜、七回読み直して、比喩を二つ削った。王子の言葉は、砂糖を入れすぎない。甘さは最後に舌に残ればいい。
近衛の列の奥、黒髪が陽を吸う。銀の胸甲が陽を返す。ナハト。視線が一瞬だけ交わって、すぐ離れる。流れる礼儀の中で、それは十分だった。
式が終われば、午前は稽古。教練場の砂は、夏の手前でまだ白い。グスタフの声は相変わらず短く重い。俺は実剣の鈍刀をとる。木剣より太い、鈍い光。掌の豆は固く、柄に吸いつく。体は嘘をつかない。数は増え、歩幅は広がり、呼吸は深くなった。
「殿下、今日は間合いを見る」
グスタフが言う。対手はルーク。赤毛が陽に火花する。笑っているが、目は笑っていない。仕事の目。好きだ。容赦がないところが、役に立つ。
踏み込む。足。膝。腰。顎。肩。刃。空気が薄く鳴る。小さな音だが、俺には聞こえる。好き。二合、三合。弾かれた力が足に落ちる。崩れない。十五のからだは、十一のときよりも重心を覚えている。数字の蓄えは、こういうところで効く。
「間合い、半歩短い」
低い声が背を撫でた。ナハト。見ている。俺は半歩、刃先を届かせる。ルークの眉がわずかに上がる。四合目、柄で押されても、踵が浮かない。砂の下の石が、足裏にいるみたいだ。気持ちいい。
「――止め」
グスタフの一声。刃を引く。汗が首筋を下る。熱はあるが、息は整う。体は嘘をつかない。
「見違えましたね、殿下」
ルークが笑い、肩を叩く。叩かれても、揺れない。筋肉が叩く場所を知っている。
「かっこよかった?」
「はいはい、たいへんよくできました」
背後で、もう一つの低い息遣い。振り向かない。礼儀の距離。けれど、影に入れば別だ――午後、すこし長めの影が落ちる頃。
―――
昼の食堂。窓の外に庭師のハサミの音。長兄が書類を読みながらパンをちぎって、俺の皿に置く。直らない癖。直さなくていい癖。
「祝辞、良かった」
「比喩は二つ削った」
「賢明だ。……それで、背が伸びたな」
「影が、ナハトのに届く」
「そうか」
長兄の目の奥がやわらかく笑う。彼はなんでも知っている。けれど、なんでも言わない。そこが好きで、悔しい。
「午後は?」
「稽古の続き。それから、文官の報告。城下のパン屋の税の件」
「甘い話だな」
「砂糖を入れすぎない」
「良い心がけだ」
短い対話。大事な合図。兄と俺の合図も、年とともに増えた。結び目がいくつもあると、舵が効く。王子の船は、風に任せすぎてはいけない。
―――
午後の稽古の合間、影が柵の隙間から伸びて、壁に細い帯を作る。そこへ、手袋を片方だけ外した騎士が来る。低い声で、短い言葉。
「殿下」
「影」
「影です」
互いに胸の前で、とん。返ってくる音は、十一のときと同じなのに、体のどこに落ちるかが少し違う。喉ではなく、腹に落ちる。重心が変わった。
近くで見るナハトは、少しだけ変わっていた。こめかみに薄い傷。笑い方は同じ。ただ、笑うまでの間が、ほんのわずか、長い。積み重ねた任務の拍の分だけ。
「殿下。間合いが良くなりました」
「半歩、足りなかった」
「すぐに足した」
「見てた?」
「見ていました」
短い会話。砂糖の欠片。舌で転がす。十五の舌は、甘さを選ぶようになってきた。全部甘いのは、もういらない。最後に残る甘さが、いちばんいい。
「ナハト」
「はい」
「俺、もう子供じゃない」
「ええ」
即答。息が少し詰まった。すぐにほどける。息を吸う。低い声が続く。
「殿下は、私の目に、最初に会った日の殿下とは違います。背丈も、目の高さも、言葉の重さも。――ただ」
「ただ?」
「最初に結んだ結び目は、ほどけていない」
影が、少し濃くなる。胸の中で、革紐の感触がまた鳴る。とん。俺は笑う。十五の笑いは、五歳より静かだ。けど、深い。
「なら、もうひとつ結ぶ」
「何を」
「俺が子供じゃないときにも、合図は同じ、って約束」
「承りました」
「それから」
言いながら、言葉を選ぶ。甘さを足しすぎないように、砂糖を小さじで測るみたいに。十五は、測れる。
「影の外でも、少しだけ。礼儀の鞘に、合図を収める方法」
ナハトの目の色が、光を受けて深くなる。彼は胸甲の縁を、指先で軽く叩いた。とん、ではない。金属が小さく鳴る。人には音にしか聞こえない。けれど、二人には意味がある。
「式典でも、巡行でも、私はここにいます」
「わかった」
俺は自分の剣帯の金具を、人に聞こえないくらいの力で、指で触れる。金属が、返事のようにひそかに鳴る。鞘の中の合図。好きだ。よくできている。
「――殿下」
「なに」
「もう一つだけ」
「うん」
「『お兄ちゃん騎士』は、影の中だけで」
不意打ち。顔が熱くなる。十五の羞恥は、十一よりも、熱の質が違う。鋭いけれど、あとに甘さが残る。
「わかってる。言わない。……影では、たぶん、言う」
「影では、殿下の」
「うん」
短い沈黙が、影の涼しさと同じ温度で立ちのぼる。長くはいられない。影は日ごとに短くなる季節。俺は剣を持ち直し、彼は手袋をはめ直す。礼儀の距離が戻る。戻ったあとにも、結び目は残る。
―――
夕刻、北門の内側で小さな混乱があった。荷馬車の轅が外れ、馬が驚いて足踏みする。兵が二人、手を伸ばすが届かない。瞬間、視界の端で黒い影が動いた。ナハト。人混みを切り裂くみたいに進み、手綱をとり、馬の目を覆い、低い声で鎮める。数拍。馬が呼吸を思い出す。蹄の音が落ち着く。見事。俺は踵を返す。駆けない。王子だから。けれど、早足。王子の早足は、走ると同じくらい速い。たぶん。
「殿下、お下がりを」
門番の制止。正しい。下がる。礼儀の距離。けれど、胸の前で、金具を、かすかに。とんの代わりの金の音。遠くで、胸甲がひそかに答える。生きている合図。
用意していた言葉が、喉に浮かぶ。『よくやった』は軽い。『見事だった』も足りない。十五の言葉。砂糖は控えめで、塩をひとつまみ。
「――ナハト。誇らしい」
それだけ。彼は一拍だけ静止して、深く礼をした。礼の角度が、いつもよりわずかに深い。誰にも気づかれない。俺だけの、印。
―――
夜。書斎。頁に革紐を挟む。今日の空欄に、三行書く。
『同じ合図を、影の外へ。礼儀の鞘に、言葉を仕舞う。誇りは、声を小さくしても伝わる』
窓の外は、薄い三日月。欠けた光は、未来の余白だ。余白がある限り、書ける。王子だから。欲張りだから。全部は今書かない。明日に残す。
胸の前で、とん。返事は来ない。夜の巡回に出ている時間。いい。合図は、返ってこないときにも意味がある。自分に向けて、とん。十五の胸骨は、十一より厚い。音が少し低い。男の声になりつつある。自分で、自分の変化を聴く。
「――ナハト」
声に出さない。名前だけ、口の形で言う。五歳の頃は、甘く舐めるみたいに呼んだ。十一の頃は、祈るみたいに呼んだ。いまは、並ぶために呼ぶ。肩を並べる音を、口の中でつくる。
気が触れたふりなんて、もういらない。ふりを捨てても、俺の中の勇気は残る。増える。体は嘘をつかない。心も、もう、嘘をつかせない。
いつか光の真ん中で言う日のために、今日の約束をもう一つ、静かに結ぶ。
『子供じゃない俺の告白を、用意する』
砂糖は控えめに。言葉は正しく。影の外で届く声で。
――おやすみ。お兄ちゃん騎士。いや、影じゃないから、今日は言わない。
おやすみ、ナハト。
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