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第15話:身分の壁
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翌朝、石畳は薄く白かった。夜のあいだに降った霙が、王宮の角を柔らかくし、音を吸っている。
右手の甲に残った温度は、もう熱ではなく記憶になっていた。羊皮紙の端を指で撫でると、結び目の場所だけ指先が少し確かになる。
――今日は評議だ。
「光の近く」で受け取った口づけのあとで、「光の真ん中」に行く前に、越えなきゃいけない壁がある。
評議室は、冬の空気を真面目に揃えていた。長い机。重い椅子。整った紙束。父上の瞳は、倉の木みたいに落ち着いている。長兄は紙を一枚めくり、視線だけで「砂糖は減らせ」と言った。
宰相代理が咳払いをひとつ。刃を丸くしたような声。
「殿下。巡見の成果、誠に見事。――ただし、近衛との距離感に関して王侯貴族の間に懸念がございます」
距離感。懸念。丸い言葉が刺さる場所を知っている。俺は背筋を立て、口の中で数字を一度だけ整える。三、二、一。
「距離は守っています。礼式に則った古式の礼も、式次第の範囲でした」
「しかし、殿下。王族と近衛の『近さ』は、国の形に触れます。政治の石と、私的な糸は、絡めるべきではない」
石と糸。嫌いじゃない比喩だ。けれど、糸は目に見えなくても結べる。俺は砂糖をひとつまみだけ。
「絡めません。石は石として積みます。だからこそ、近衛は『剣』と『盾』として、正しい距離で置きます」
父上がゆっくり頷く。宰相代理はなおも続ける。
「さらに申し上げれば、侯爵家のご令嬢との縁談に、殿下が距離を置いておられると……」
長兄がそこで、静かに指を上げた。
「巡見の数と堤の高さが、先です」とだけ。
数と堤。数字は嘘をつかない。俺はすぐに報告の続きへ舵を切る。倉の鍵の数、挽き率、渡しの移動。石を先に並べる。私語は後回しだ。王子の歩き方。
報告が終わると、父上が言った。
「息子よ。よく働いた。――距離については、王子としての自覚をさらに深めよ。近衛配置は一時的に輪番を増やす。誤解を生まぬためだ」
増える輪番。礼儀の距離の外側に、もう一枚、透明な鞘がかかる感じ。正しい。正しいほど、胸の内側で名のない熱が水蒸気になる。逃げ場が薄く曇る。
俺は頷き、言葉を選ぶ。砂糖を減らし、塩をひとつまみ。
「父上。――近衛の功は、個ではなく隊の誇りです。輪番の意義は理解します。そのうえで、一つだけ願いがあります」
「申せ」
「古式の礼は『功』に対して行われるもの。これを今後は、私の側からは式次第に明記された場に限る、とここで約することを、評議の記録に残してください」
宰相代理の目がわずかに細くなる。父上は短く考え、頷いた。
「よかろう。第三王子の約束として記す。――その代わり、息子よ。縁談については一年の猶予の中で結論を。視察と同じく、数字を持って戻れ」
「承知しました」
石を積む。糸を鞘に収める。目の前の壁は高い。でも、高い壁は、階段にできる。
―――
評議のあとの廊下は、冬の光で硬かった。長兄が歩調を合わせてくる。紙の匂い。
「言葉は上手かった」
「石を先に置いた」
「よし。だが、弟よ」
「うん」
「壁は、言葉では低くならない。低くするのは、行いだ」
「行い?」
「冬の施米(せまい)だ。倉の運び出し、配分、記録の透明化。――砂糖はいらない。塩を正しく」
「やる」
「もう一つ」
「なに」
「光の近くで、あえて『個』を呼ぶ場をひとつだけ作れ。形式の中で、一度だけだ。『剣』と『盾』の名を、お前の口で」
胸の拍が半拍だけ早くなる。自分の欲と、王子の務めが交差する場所。
「叙任式の補詞で、隊の功に触れたのと同じ調子で?」
「そうだ。砂糖を控え、塩をひとつまみ」
長兄の笑いは短く、筋肉だけで鳴る。俺は頷く。壁の正面に、正式な扉をひとつ開ける方法。好きだ。よくできている。
―――
輪番が増えた日、朝の点呼の列で、ナハトは一つ奥にいた。視線は交わらない。胸の前で、とん――もしない。合図は減らす。影の帯は冬で短い。
午前の稽古。グスタフが言う。
「今日は立って受けろ。崩すな。――壁の前では、刃を叩くと折れる」
刃を叩かない。立って受ける。二十、三十。数字だけを積む。体は嘘をつかない。汗は塩。砂糖はいらない。
休憩の端、壁と柱のあいだの細い影。そこに、彼は来ない。来ないことが合図になる。輪番の規則。影に甘えない約束。
代わりに、遠くの胸甲の縁が、冬の光を一度だけ返した。誰にも意味のない光。俺には十分な光。
―――
施米の準備は、数字が主だ。倉の鍵を開ける順番。印の捺し方。名簿の筆記の癖を矯正する。文官は几帳面で、兵は率直。小さな軋みを油で溶かすみたいに、言葉と手を入れる。
「王子が倉に降りた」と噂は走る。砂糖の匂いが好きな舌が、早口になる。
俺は歩幅を均等に保ち、笑いを減らし、塩の声だけを置く。
配分初日。中庭に簡易の台。石板の前に列。冬の空は重いが、雪は降らない。
俺は台に上がり、短く告げる。
「今季の配分は、記帳を一段増やす。署の人員も増やす。――『誰にどれだけ』を、見えるようにする。見えることは、疑いを減らす」
砂糖のない声。塩をひとつまみ。ざわめきが一度だけ立って、すぐに落ちる。
欄外で、近衛の列が動く。輪番。ナハトは、今日は南側。北風が背中から吹く配置。仕事の配置。好きだ。風を読む背中は、遠くてもわかる。
配分が進むと、列の端で小さな揉め事が起きた。名簿の記録と袋の数が合わない。
俺は自分で前に出て、石板を指で示し、筆者と袋持ちと受取人の順に言葉を置く。
「ここに置け。ここに書け。ここに印を」
短い命令は、刃ではない。線だ。線は道になる。人は道が見えれば歩く。
揉め事は一度で収まった。遠くで、胸甲の縁が光をひとつ返す。
『立て』でも『おいで』でもない。『見ている』の光。
俺は剣帯の金具に触れない。代わりに、台の角を指で叩く。紙の端の代わり。影の楽器は、光のそばでも鳴る。
―――
その日の夕刻、王宮の礼典長が来た。冬至の祝祭の式次第について。
「殿下、開式の辞に続き、配分の件、殿下から『感謝の言葉』を」
砂糖の匂いがする。俺は首を振る。
「感謝は後ろに。先に『責任』を」
礼典長が目を細める。長兄が横から「良い」とだけ言う。
式次第の余白に、俺は短い語を置く。
『剣と盾は、道を空け、人を並べ、疑いを減らした――』
個の名は書かない。書かないことが礼儀だ。だが、隊の背を、光の近くで呼ぶ。
長兄が紙を押さえた指先で、しおりの革紐を一度だけ撫でる。「一度だけだぞ」という合図。
「一度だけ」
俺は頷く。欲張らない欲の持ち方。難しいが、できる。
―――
冬至の朝。空は金属の薄い色。石は冷たい。人の息は白い。
中庭に壇が組まれ、民と貴族と兵が円を作る。父上の声。王妃の笑み。礼典長の合図。
俺は壇に上がり、砂糖を減らした声で、短い言葉を置く。
「数字は嘘をつかない。倉は嘘をつかない。人は、ときどき嘘をつく。だから、見えるようにした。――『疑いを減らす』のは、私たちの責任だ」
ざわめきは立たない。冬の空気は、声の形をきれいに運ぶ。
そこから一拍置いて、ほんの一匙だけ塩。
「そして、今日、道を空け、人を並べ、寒さの前に立った者たちがいる。――剣と盾。近衛と治安の者たちに、王子として礼を言う」
名は呼ばない。けれど、列の奥で、銀の胸甲が光をひとつ返す。
礼儀の距離の中で、光の近くまで寄せた言葉は、壁に正面から触れない。壁の前に、小さな扉を作る。
開く音はしない。けれど、行き来できる隙間ができる。
式が終わり、人の輪が崩れ始めたとき、侯爵家の令嬢が近づいてきた。淡い緑。冬の光を受けて、氷のように整っている。
「殿下のお言葉、胸に沁みましたわ。――近衛の方々にも、私から感謝を伝えてよろしいかしら」
扇の影。砂糖。刺さないように、礼儀の鞘を厚くする。
「ありがとうございます。感謝は、近衛隊長を通じて」
「まあ。殿下はいつも、正しい」
「正しいことしか言えませんから」
軽い冗談に見せて、塩。令嬢は笑って、礼をした。
背後で、ルークがわざとらしく咳払いをひとつ。
「殿下、顔が硬い」
「壁の前だから」
「なら、正しい硬さです」
―――
夜。配分の第二日程の見直しを終え、書斎に戻る。火は小さく、紙は静かに明るい。
輪番の紙を見て、今日も影は短いと知る。合図は最小限。胸は打たない。禁止は生きている。
それでも、扉を叩く音で、体は先に答えた。
「どうぞ」
入ってきたのはナハトだった。礼儀の角度。冬の空気の匂いを少し連れている。
俺は立ち、短く礼を返す。
彼は一歩手前で止まり、低い声で言った。
「殿下。輪番の件、了解しました。それから――私からも願いが一つ」
「願い?」
「一時的に、殿下の『近侍(きんじ)』から外してください」
喉の裏で、何かが硬くなる。三、二、一。数えれば戻れる。でも、戻らなくていいときがある。今は――戻らないまま、正しく聞く。
「理由」
「身分の壁は、殿下の覚悟で開くものです。私の近さで揺らすべきではない」
正しい。痛い。役に立つ痛み。
彼は続ける。
「殿下が今日、光の近くで『剣と盾』を呼んだ。――あの一匙の塩を、甘くしないために、私は一歩引きます」
「俺のため?」
「殿下のため。隊のため。言葉のため」
「……どれくらい」
「施米の終わりまで。民の列が短くなり、帳簿の誤りが消え、噂が仕事に負けるまで」
長い。短い。わからない。数字で測れるようで、測れない時間。
俺は、机の端を指で一度叩き、呼吸を整える。
「承知。――その間、合図は最小限。影は、殿下の、だけど」
「影に甘えない」
同じ言葉。結び目の硬さを確かめるやりとり。
ナハトは胸甲の縁に一度だけ触れ、金を鳴らさずに礼をした。
「殿下。私は離れません。距離を置くだけです」
「距離は道具」
「はい」
「我慢ではなく、準備」
目が合って、同じ言葉を共有する。俺の手帳の隅に書いた小さな行が、光の下に出てきたみたいに。
「――ありがとう」
「承りました」
彼は下がり、扉の前で一度だけ振り返る。
名前を呼ばない。呼んだら甘くなる。呼ばない代わりに、俺はペン先で紙の端を一度叩く。影の楽器。
彼は何も言わず、扉を閉めた。静かな音。
―――
静けさが戻る。火は小さい。紙は静かに明るい。
俺は手帳を開く。しおりの革紐は、指に馴染む。
今日の空欄に、三行。
『壁は高い。石を積む。
言葉は一匙の塩で光に寄せる。
距離は、我慢ではなく準備。』
その下に、小さく付け足す。
『一時的に、隣を空ける。――空けた分、埋める仕事をする。』
窓の外は、雪になるかもしれない空。
もし降れば、世界は一度、同じ色で覆われる。差が消える。線が柔らかくなる。
その上に、また線を引き直す。歩幅で。数字で。言葉で。
胸の前で、とん――は、やっぱり打たない。
代わりに、紙の端をひとつ。
影の楽器は、光の近くでも鳴る。十分。
「――ナハト」
唇だけで名前を呼ぶ。
五歳の頃は甘く、十一の夜は祈りで、十五の今は、選ぶ音。
選んで、置く。置いて、歩く。王子だから。欲張りだから。叶えるために。
身分の壁は、石。
石で、橋を作る。
光の真ん中まで続く橋を。
そこに立てる日まで――俺は前を見て、歩く。
右手の甲に残った温度は、もう熱ではなく記憶になっていた。羊皮紙の端を指で撫でると、結び目の場所だけ指先が少し確かになる。
――今日は評議だ。
「光の近く」で受け取った口づけのあとで、「光の真ん中」に行く前に、越えなきゃいけない壁がある。
評議室は、冬の空気を真面目に揃えていた。長い机。重い椅子。整った紙束。父上の瞳は、倉の木みたいに落ち着いている。長兄は紙を一枚めくり、視線だけで「砂糖は減らせ」と言った。
宰相代理が咳払いをひとつ。刃を丸くしたような声。
「殿下。巡見の成果、誠に見事。――ただし、近衛との距離感に関して王侯貴族の間に懸念がございます」
距離感。懸念。丸い言葉が刺さる場所を知っている。俺は背筋を立て、口の中で数字を一度だけ整える。三、二、一。
「距離は守っています。礼式に則った古式の礼も、式次第の範囲でした」
「しかし、殿下。王族と近衛の『近さ』は、国の形に触れます。政治の石と、私的な糸は、絡めるべきではない」
石と糸。嫌いじゃない比喩だ。けれど、糸は目に見えなくても結べる。俺は砂糖をひとつまみだけ。
「絡めません。石は石として積みます。だからこそ、近衛は『剣』と『盾』として、正しい距離で置きます」
父上がゆっくり頷く。宰相代理はなおも続ける。
「さらに申し上げれば、侯爵家のご令嬢との縁談に、殿下が距離を置いておられると……」
長兄がそこで、静かに指を上げた。
「巡見の数と堤の高さが、先です」とだけ。
数と堤。数字は嘘をつかない。俺はすぐに報告の続きへ舵を切る。倉の鍵の数、挽き率、渡しの移動。石を先に並べる。私語は後回しだ。王子の歩き方。
報告が終わると、父上が言った。
「息子よ。よく働いた。――距離については、王子としての自覚をさらに深めよ。近衛配置は一時的に輪番を増やす。誤解を生まぬためだ」
増える輪番。礼儀の距離の外側に、もう一枚、透明な鞘がかかる感じ。正しい。正しいほど、胸の内側で名のない熱が水蒸気になる。逃げ場が薄く曇る。
俺は頷き、言葉を選ぶ。砂糖を減らし、塩をひとつまみ。
「父上。――近衛の功は、個ではなく隊の誇りです。輪番の意義は理解します。そのうえで、一つだけ願いがあります」
「申せ」
「古式の礼は『功』に対して行われるもの。これを今後は、私の側からは式次第に明記された場に限る、とここで約することを、評議の記録に残してください」
宰相代理の目がわずかに細くなる。父上は短く考え、頷いた。
「よかろう。第三王子の約束として記す。――その代わり、息子よ。縁談については一年の猶予の中で結論を。視察と同じく、数字を持って戻れ」
「承知しました」
石を積む。糸を鞘に収める。目の前の壁は高い。でも、高い壁は、階段にできる。
―――
評議のあとの廊下は、冬の光で硬かった。長兄が歩調を合わせてくる。紙の匂い。
「言葉は上手かった」
「石を先に置いた」
「よし。だが、弟よ」
「うん」
「壁は、言葉では低くならない。低くするのは、行いだ」
「行い?」
「冬の施米(せまい)だ。倉の運び出し、配分、記録の透明化。――砂糖はいらない。塩を正しく」
「やる」
「もう一つ」
「なに」
「光の近くで、あえて『個』を呼ぶ場をひとつだけ作れ。形式の中で、一度だけだ。『剣』と『盾』の名を、お前の口で」
胸の拍が半拍だけ早くなる。自分の欲と、王子の務めが交差する場所。
「叙任式の補詞で、隊の功に触れたのと同じ調子で?」
「そうだ。砂糖を控え、塩をひとつまみ」
長兄の笑いは短く、筋肉だけで鳴る。俺は頷く。壁の正面に、正式な扉をひとつ開ける方法。好きだ。よくできている。
―――
輪番が増えた日、朝の点呼の列で、ナハトは一つ奥にいた。視線は交わらない。胸の前で、とん――もしない。合図は減らす。影の帯は冬で短い。
午前の稽古。グスタフが言う。
「今日は立って受けろ。崩すな。――壁の前では、刃を叩くと折れる」
刃を叩かない。立って受ける。二十、三十。数字だけを積む。体は嘘をつかない。汗は塩。砂糖はいらない。
休憩の端、壁と柱のあいだの細い影。そこに、彼は来ない。来ないことが合図になる。輪番の規則。影に甘えない約束。
代わりに、遠くの胸甲の縁が、冬の光を一度だけ返した。誰にも意味のない光。俺には十分な光。
―――
施米の準備は、数字が主だ。倉の鍵を開ける順番。印の捺し方。名簿の筆記の癖を矯正する。文官は几帳面で、兵は率直。小さな軋みを油で溶かすみたいに、言葉と手を入れる。
「王子が倉に降りた」と噂は走る。砂糖の匂いが好きな舌が、早口になる。
俺は歩幅を均等に保ち、笑いを減らし、塩の声だけを置く。
配分初日。中庭に簡易の台。石板の前に列。冬の空は重いが、雪は降らない。
俺は台に上がり、短く告げる。
「今季の配分は、記帳を一段増やす。署の人員も増やす。――『誰にどれだけ』を、見えるようにする。見えることは、疑いを減らす」
砂糖のない声。塩をひとつまみ。ざわめきが一度だけ立って、すぐに落ちる。
欄外で、近衛の列が動く。輪番。ナハトは、今日は南側。北風が背中から吹く配置。仕事の配置。好きだ。風を読む背中は、遠くてもわかる。
配分が進むと、列の端で小さな揉め事が起きた。名簿の記録と袋の数が合わない。
俺は自分で前に出て、石板を指で示し、筆者と袋持ちと受取人の順に言葉を置く。
「ここに置け。ここに書け。ここに印を」
短い命令は、刃ではない。線だ。線は道になる。人は道が見えれば歩く。
揉め事は一度で収まった。遠くで、胸甲の縁が光をひとつ返す。
『立て』でも『おいで』でもない。『見ている』の光。
俺は剣帯の金具に触れない。代わりに、台の角を指で叩く。紙の端の代わり。影の楽器は、光のそばでも鳴る。
―――
その日の夕刻、王宮の礼典長が来た。冬至の祝祭の式次第について。
「殿下、開式の辞に続き、配分の件、殿下から『感謝の言葉』を」
砂糖の匂いがする。俺は首を振る。
「感謝は後ろに。先に『責任』を」
礼典長が目を細める。長兄が横から「良い」とだけ言う。
式次第の余白に、俺は短い語を置く。
『剣と盾は、道を空け、人を並べ、疑いを減らした――』
個の名は書かない。書かないことが礼儀だ。だが、隊の背を、光の近くで呼ぶ。
長兄が紙を押さえた指先で、しおりの革紐を一度だけ撫でる。「一度だけだぞ」という合図。
「一度だけ」
俺は頷く。欲張らない欲の持ち方。難しいが、できる。
―――
冬至の朝。空は金属の薄い色。石は冷たい。人の息は白い。
中庭に壇が組まれ、民と貴族と兵が円を作る。父上の声。王妃の笑み。礼典長の合図。
俺は壇に上がり、砂糖を減らした声で、短い言葉を置く。
「数字は嘘をつかない。倉は嘘をつかない。人は、ときどき嘘をつく。だから、見えるようにした。――『疑いを減らす』のは、私たちの責任だ」
ざわめきは立たない。冬の空気は、声の形をきれいに運ぶ。
そこから一拍置いて、ほんの一匙だけ塩。
「そして、今日、道を空け、人を並べ、寒さの前に立った者たちがいる。――剣と盾。近衛と治安の者たちに、王子として礼を言う」
名は呼ばない。けれど、列の奥で、銀の胸甲が光をひとつ返す。
礼儀の距離の中で、光の近くまで寄せた言葉は、壁に正面から触れない。壁の前に、小さな扉を作る。
開く音はしない。けれど、行き来できる隙間ができる。
式が終わり、人の輪が崩れ始めたとき、侯爵家の令嬢が近づいてきた。淡い緑。冬の光を受けて、氷のように整っている。
「殿下のお言葉、胸に沁みましたわ。――近衛の方々にも、私から感謝を伝えてよろしいかしら」
扇の影。砂糖。刺さないように、礼儀の鞘を厚くする。
「ありがとうございます。感謝は、近衛隊長を通じて」
「まあ。殿下はいつも、正しい」
「正しいことしか言えませんから」
軽い冗談に見せて、塩。令嬢は笑って、礼をした。
背後で、ルークがわざとらしく咳払いをひとつ。
「殿下、顔が硬い」
「壁の前だから」
「なら、正しい硬さです」
―――
夜。配分の第二日程の見直しを終え、書斎に戻る。火は小さく、紙は静かに明るい。
輪番の紙を見て、今日も影は短いと知る。合図は最小限。胸は打たない。禁止は生きている。
それでも、扉を叩く音で、体は先に答えた。
「どうぞ」
入ってきたのはナハトだった。礼儀の角度。冬の空気の匂いを少し連れている。
俺は立ち、短く礼を返す。
彼は一歩手前で止まり、低い声で言った。
「殿下。輪番の件、了解しました。それから――私からも願いが一つ」
「願い?」
「一時的に、殿下の『近侍(きんじ)』から外してください」
喉の裏で、何かが硬くなる。三、二、一。数えれば戻れる。でも、戻らなくていいときがある。今は――戻らないまま、正しく聞く。
「理由」
「身分の壁は、殿下の覚悟で開くものです。私の近さで揺らすべきではない」
正しい。痛い。役に立つ痛み。
彼は続ける。
「殿下が今日、光の近くで『剣と盾』を呼んだ。――あの一匙の塩を、甘くしないために、私は一歩引きます」
「俺のため?」
「殿下のため。隊のため。言葉のため」
「……どれくらい」
「施米の終わりまで。民の列が短くなり、帳簿の誤りが消え、噂が仕事に負けるまで」
長い。短い。わからない。数字で測れるようで、測れない時間。
俺は、机の端を指で一度叩き、呼吸を整える。
「承知。――その間、合図は最小限。影は、殿下の、だけど」
「影に甘えない」
同じ言葉。結び目の硬さを確かめるやりとり。
ナハトは胸甲の縁に一度だけ触れ、金を鳴らさずに礼をした。
「殿下。私は離れません。距離を置くだけです」
「距離は道具」
「はい」
「我慢ではなく、準備」
目が合って、同じ言葉を共有する。俺の手帳の隅に書いた小さな行が、光の下に出てきたみたいに。
「――ありがとう」
「承りました」
彼は下がり、扉の前で一度だけ振り返る。
名前を呼ばない。呼んだら甘くなる。呼ばない代わりに、俺はペン先で紙の端を一度叩く。影の楽器。
彼は何も言わず、扉を閉めた。静かな音。
―――
静けさが戻る。火は小さい。紙は静かに明るい。
俺は手帳を開く。しおりの革紐は、指に馴染む。
今日の空欄に、三行。
『壁は高い。石を積む。
言葉は一匙の塩で光に寄せる。
距離は、我慢ではなく準備。』
その下に、小さく付け足す。
『一時的に、隣を空ける。――空けた分、埋める仕事をする。』
窓の外は、雪になるかもしれない空。
もし降れば、世界は一度、同じ色で覆われる。差が消える。線が柔らかくなる。
その上に、また線を引き直す。歩幅で。数字で。言葉で。
胸の前で、とん――は、やっぱり打たない。
代わりに、紙の端をひとつ。
影の楽器は、光の近くでも鳴る。十分。
「――ナハト」
唇だけで名前を呼ぶ。
五歳の頃は甘く、十一の夜は祈りで、十五の今は、選ぶ音。
選んで、置く。置いて、歩く。王子だから。欲張りだから。叶えるために。
身分の壁は、石。
石で、橋を作る。
光の真ん中まで続く橋を。
そこに立てる日まで――俺は前を見て、歩く。
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自己肯定感ゼロ×圧倒的王太子───美形スパダリ同士の成長と恋のファンタジーBL。
鎖国国家クルシュの第三王子アースィムは、結婚式目前にして長年の婚約を一方的に破棄される。
ヤケになり、賑やかな幼馴染み達を引き連れ無関係の戦場に乗り込んだ結果───何故か英雄に祭り上げられ、なぜか嫁(男)まで手に入れてしまう。
「自分なんかがこんなどちゃくそ美人(男)を……」と悩むアースィム(攻)と、
「この私に不満があるのか」と詰め寄る王太子セオドア(受)。
互いを想い合う二人が紡ぐ、恋と成長の物語。
他にも幼馴染み達の一抹の寂寥を切り取った短篇や、
両想いなのに攻めの鈍感さで拗れる二人の恋を含む全四篇。
フッと笑えて、ギュッと胸が詰まる。
丁寧に読みたい、大人のためのファンタジーBL。
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侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
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初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
【完結】獣王の番
なの
BL
獣王国の若き王ライオネルは、和平の証として差し出されたΩの少年ユリアンを「番など認めぬ」と冷酷に拒絶する。
虐げられながらも、ユリアンは決してその誇りを失わなかった。
しかし暴走する獣の血を鎮められるのは、そのユリアンただ一人――。
やがて明かされる予言、「真の獣王は唯一の番と結ばれるとき、国を救う」
拒絶から始まった二人の関係は、やがて国を救う愛へと変わっていく。
冷徹な獣王と運命のΩの、拒絶から始まる、運命の溺愛ファンタジー!
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